breaking tide ─潮騒─
のお 様
真っ黒な雲が、空の一角から、こぼれ出すようにわき上がってくる。
ここから見るとゆっくりと吹き上げるように、スローモーションで動いているように見えるそれは、実際には気流に乗ってごうごうと、ハイスピードで近づいていた。
むくむくと沸き立ち、次第に空を覆いはじめる分厚い雲のうず。その固まりのずっと奥には、ぽかりと広がった空間があって、それを中心に風を吹き出し、巻きあげ、海も島も、波も木々もなにもかもさらえながら、まっすぐにこちらに向かってくる。
嵐が、そこまで来ていた。
昼間だというのに、空は真っ黒だ。
風が次第に強くなっている。ときおりびゅっと吹きつける風が、服の裾を勢いよくはためかせる。石造りの防波堤の中は、波は比較的穏やかだが、入り江の崖にぶつかる風は、渦を巻いて吹き上がり、ナミの髪をめちゃめちゃに乱した。
防波堤の向こうでしぶきを上げる波が、だんだん高くなる。
気圧はどんどん下がっている──皮膚がピリピリするような、危うい感覚。
雨はまだ降っていないが、妙にあたたかく湿った空気の匂いがして、じきに降りはじめるのだとわかった。じきに──そう、もう小半時もすれば、大粒のシャワーがあたり一帯を覆い尽くすだろう。
メリー号は入り江の奥にしっかりともやわれている。ウソップとチョッパーがすでに、差し当たり必要な補強をすませ、メインマストも帆をたたみ、クルーたちは一旦港の宿屋に避難していた。
ナミだけがひとり、大きな嵐の予感に胸をざわつかせ、空を見上げている。
打ちつける波のざわめきに呼ばれるように、ひとりでに足は海へ向かった。
石を組んで作った、素朴で頑丈な防波堤に立つと、足元で白い波が泡立っていた。
真っ黒な空の色を映すような、鈍く暗い海が、沖の方から押し寄せてくる。そして、入り江で逆巻いてねじれ、突堤にぶつかって弾け、砕けて激しく泡立つ。
泡だった波は、不思議なほど白くきよらかで、繊細な細工のように複雑な模様を描き、再び暗い海に落ちるや、すぐさま再び白い波がしらとなって、防波堤の上に高く舞った。
その繰りかえしに、心を奪われる。
潮のざわめき──
ちっぽけな無数の泡が、生まれては消え消えては生まれ、数え切れないほどぶつかりあい、破れてはこぼれ、こぼれては弾け、泡立ちながら空へ舞う。
泡は空気に溶け、こまかでしょっぱい水滴となって、ナミの頭上から降りかかり、すでにしっとりと湿っていた髪を濡らし、また海へ帰る。
はかない泡の一瞬がいくつもいくつも重なって、全体はおおきな波のうねりとなって、こうしてナミの足元を洗う高波となって押し寄せる。
泡が、波の一部なのか──波が、泡の意思なのか。
一瞬で砕けるちっぽけ泡が、愛しいと思う。
生まれてはぶつかりあい、壊れては消える、はかない夢。
大切に胸に抱いた願い。
誰にも言わない、ちいさな希望。
胸に泡立つもの同士がぶつかって、砕けて、お互いに消えてしまい、そして大きなうねりに飲み込まれる。
──ねえ、ベルメールさん。
胸の中にあるその人の顔は、いつもおおらかに笑っている。二度とその腕に抱かれることはできないのに。
ともすれば砕けて消える、無数のはかない夢のもくず。
吹きつける風に煽られて、空に舞い上がり、海に飲み込まれ、すぐに消える。
その果てもない繰りかえしが、切なくて。
ごうごうと鳴る風の中で、ひととき、時を忘れた。
ふいに押し寄せた波しぶきが脛を濡らした。
ほんのわずか目を離したすきに、荒れ狂う波がしらが高さを増していた。迫り来る波が防波堤をざぶざぶと洗い、ナミの足首に絡まり、泡と砕けて海へ引き込もうとする。
いけない、ついぼうっとしてしまった。私らしくもない。早く帰らなきゃときびすを返し。
気配を感じて振り仰ぐと。
目の前にひときわ大きな高波が迫っていた。
波は、目の前で崩れて砕け、そのまま白い泡となって、ナミを飲み込もうとして──
──吐きだした。
びしょぬれのナミの身体は勢いよく宙を飛んで、吹きつける風にキリキリ舞いをして、しゅん、と音を立て着地した。
メリー号の、マストの上に。
見張り台の上に引き上げられ、なにがなんだかわからないまま、息を切らせ呼吸を整える。だけど、自分をうねる波間から引き上げたものの正体は、もちろんわかっている。
──ルフィ。
びっくりさせないで。
なんだ?、助けねえ方がよかったか?
ううん、そうじゃないけど、死ぬかと思ったわ。
んとに危ねえな、ナミは。
あんたに言われたくはないけどね──ともかくありがと。
濡れた服の裾を絞ると、ざあと音を立てて海水がこぼれる。
でも気をつけてよ。あんたが落ちたらお話にならないわ。
わかってる。
まったく無茶するんだから。
おまえも人のこと言えねえぞ──ナミ。
軽口を叩きながら、大きく左右に揺れるマストの上で暗い空を振り仰ぐと、すでに雲は空のなかばを覆い尽くし、海に降りそそぐ豪雨の音が、今にも聞こえそうな気がした。
そろそろ帰りましょ、服も着替えたいし。
ああ。
言うなり無造作に腕に抱えられ、反射的にしがみつく。そのまま勢いをつけて空へ飛び出し、宿屋の煙突に巻きついて、しゅるんと扉の前に降りた。
風は一段と強くなっている。
波が逆巻く音が、ごうごうと耳を塞ぐ。
振り返ると波はすでに防波堤を乗りこえ、どーんと低い海鳴りを響かせながら、白いしぶきを打ち上げていた。
船つき場を濡らす波に、やがてぽつぽつと大粒の真水が混じりはじめると、すぐにどしゃぶりの雨が来た。雨は、わずかに塩がまじっていて、舐めると舌に微かにしょっぱかった。
ルフィの腕を掴んだまま、宿屋の扉を開く。
はかない泡を追いかけて、ここまでやってきた。
ぶつかりあい、砕けてこぼれるたくさんの泡を見た。
泡は波の一部で、波は泡の意思。
波は潮をつくり、潮はおおきく海を浚う。
海は空へ昇り、世界をあまねく覆い、そして再び降りそそぐ。
だから、これでいいんだよね──ベルメールさん。
迫り来る黒い雲のはるか向こうに、明るく差し込むひとすじの光が、見えるような気がする。
嵐がやがて去り、波立つ海が静まっても、胸の中の白い泡はけして消えないと、ナミはひとり笑った。
FIN
<管理人のつぶやき>
うねり狂う波が迫ってくるのがホントに目の前に見えるよう。とても迫力のある情景描写に息を呑みました。
嵐に魅せられて、防波堤に一人たたずむナミ。その姿を想像するだけで心惹かれます。
ルフィはナミの危機一髪を劇的に救出!でもルフィは大したことしてなさそうにしてるし、ナミも当然のように受け止めてる。二人の固く結ばれた絆を感じます。
人の夢や希望を波や泡に喩えてるのがなるほどなぁと。それらは生まれては消えて実に儚げだけれど、途切れることも決してないのだと思いました^^。
【時間の澱】ののおさんが投稿してくださいました。
昨年に続いてのご投稿です。お忙しい中ホントにホントにありがとうございました><。
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