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キッチンに軽快な音が響いている。
美味しい香りと饒舌な語り、彼と一緒に過ごしている実感が其処にはあった。
時折洩れ聞こえる鼻唄も、素敵なディナーを待つ身には、決して欠かせない食卓のエッセンス。

「もうすぐ出来るからね〜」

鳴ったお腹の音が聞こえたのかと思う程タイミング良く、キッチンの主から声が掛る。
何時でもそう。
彼はナミの心の全てが読めるのか?と不思議に思う。痒い所に手が届き過ぎるくらいに、ナミの望む事全部その痩身で受け止めてくれた。

本当に優しい、愛で溢れた男……

こんなに大切にされると、自分は価値ある人間なんだと思えてくる。勿論、自分に自信が無い訳じゃない。けれど、毎日暖かい愛に包まれていると自然に他人にも優しくなれたりする。

「ん、ありがと…」

感謝の言葉が簡単に口を吐く。
彼はナミだけでなく、触れ合う人々皆に愛を配達する名人なのかもしれない。
この人と共にあるのは究極の幸福なのだ。


だが、この幸せが彼の忍耐や努力の上に成り立つものならば……
ただの女であるナミに、彼の力になってやる事が出来るのだろうか?
彼の為にしてあげられる事は何か?
彼の愛に応える方法は…

「手伝おうか?」
「嬉しいけど、いいよ。ナミさんは其処で笑って待っててくれれば、俺はそれで幸せなんだから…」
「で、でも、私…」


永遠の命題なのかもしれない。



「ほおら、出来たっ。」



振り返った金髪は、慈愛に満ちた蒼い瞳でナミを見つめていた。




ムースショコラにオレンジピールをひとつ


                            CAO 様



「本当に素敵なお店だわ〜」
「でしょう?お店の雰囲気も勿論だけど、この料理の美味しさといったら…」
「ええ、すっごく美味しいわ〜気取ってないのに、どこか品があって。なんだか故郷の南仏が恋しくなるみたいな…」
「って、ナミさんフランス人じゃないじゃないですかっ!」
「アハハ…でも冗談抜きで、本当美味しい。会社の歓迎会に使うのは勿体ないようなお店よ!ビビが見付けてきたんでしょ?流石、お嬢様、舌が肥えていらっしゃる〜」
「も、ナミさん止めて下さいっ!それに、ここ、教えてくれたのはルフィさんなんですよ。」
「ルフィが?あの大食らいの?質より量の?あのルフィ…」
「そんなに言わなくてもいいじゃないですかぁ〜」
「ごめん、ごめん。アンタの大切な彼氏だったわね。」
「はいっ、あんなのでも、彼氏なんですぅ〜だ。結構素敵なトコもあるんですから…」

季節外れの新入社員歓迎会。総務担当の後輩ビビが、引き抜きで入社してきた長鼻のADの為に選んだビストロは、彼女達が勤務するデザイン事務所から一駅隣、閑静な住宅が建ち並ぶ、業界人の隠れ家が点在すると言われる一角にあった。
話に因れば、オープンしたのは一年程前らしいが、何かの雑誌やTVの取材を受けた訳でもないのに、口コミで広がった噂で上客が集まり、中々予約が取れない店だという。
お店に入った途端、その素晴らしさがわかった。
古い戸建てを改造し、天然木を使ったフロアが柔らかな間接照明に包まれて、暖かな輝きを放っていた。中央に構えた大きな一本木のテーブルは使い込まれていて、フロアの壁に沿うように配置されたいくつかのボックス席は多少広めの二人掛け。それを見渡す位置に対面式の厨房がある。
沢山の人で歓談できるスペースと少人数でじっくり語らう場所の両方を兼ね備え、互いの邪魔にならないようとの配慮からか客席同士の距離もある。勿論、席に着けば、厨房を窺う視線からは一段低くなり、シェフが立ち働く姿も気にならなくなるだろう。
客各々の楽しみ方を汲んで、細心の注意を払った作りに、この店のオーナーの思いが伝わってくるようだ。
そして店の雰囲気はと言うと、欧州の古びた田舎家に迷い込んだかと錯覚する。
何処か垢抜けない、それでいて洒落た匂いに満ちて、けれど心休まる空気が漂っている。
微に細に至る心遣いは建物だけではない。このビストロの本分である料理が、絶品なのだ。食材、ソース、調理法、果ては器やフォークナイフといった各々の素材にまでこだわり、厳選されている。いや、それさえ些細な事と思える程、料理が旨いのだ。味だけではない。口に運んだ瞬間、胸の中が暖かくなり幸せで満たされる。お腹がいっぱいになるのと同様に疲れた心が癒される。

『幸福な食卓』

そんな陳腐な言葉が、急に重みを増したような気にさせる。贅を尽している訳でもないのに、リーズナブルな価格に見合うどころか、オートキュイジーヌを堪能した満足感さえ覚えた。
料理を食べたと言うよりも、幸せを食べたとでも言うのか?

初めて食した筈なのに、不思議とナミはこの味に懐かしさを覚えていた。

「デザートは何になさいますか?」
「え?あ、あ…」

味覚を反芻していたお陰で、掛けられた声に反応するのが遅れた。
その間を縫って飛び付いたのはビビだった。

「もう終りなんですかぁ〜?私もっともっと食べてたいわ。スッゴク美味しいんですもの。もう、太る事なんて気にしないわ、ずっと食べていられるなら。」

デザートメニューを片手に現れた背の高い黒髪の美人が、柔らかく幸福そうな笑みを口許に佩き、嘆くビビに声を掛けた。

「そんな風に仰有って頂けると、シェフも喜びますわ。お伝えしておきます。」
「こんなに美味しい料理を作れるなんて、とても素敵な方なんでしょうね?お会いしてみたいわ…」
「フフッ…それは、どうかしら?でも、腕は一流。どうぞ最後のデザートまで味わってやって下さい。」
「ええ、そうします。ねぇ、ナミさんどれにする?」
「そうね、私は…」

ビビの手元にあるメニューを覗き込んだ途端、ナミは黒髪の女性に肩を叩かれた。
隣に佇む彼女を見上げれば、慈愛に溢れた暖かな黒い瞳とかち合った。
彼女はスッとナミの耳元に唇を寄せ、ナミにだけ聞こえる小さな囁きを落とした。

「貴方は選ばなくていいのよ。」
「え?」
「特別なのを準備してあるの。」

再び離れた彼女の顔には、整った顔に削ぐわない、悪戯っ子の表情が宿っていた。









「別れましょう…」

そう言えたのは、彼が本当に好きだったからだ。

「ナミさん!何言って…」

彼が与えてくれた愛に、自分なりの恩返しをしたかったからだ。

「行きたいんでしょ、フランス?」

ナミが変な男に引っ掛かって、自分に自信が持てなくなっていた、あの日。

「ずっと、行きたいって言ってたじゃない?」

君以上に素敵な女性はいないと言って、優しく包んで惜しみない愛を与えてくれた。

「夢を追わなきゃ…」

失いかけた自分への自信を取り戻させてくれた。

「自分の夢でしょ…」

愛される価値ある人間だと、身をもって教えてくれた。

「後悔して欲しくない…」

ナミの所為で、自分を抑えるのは止めて欲しかった。

「ジジィが喋りやがったんだろ?あの野郎…」
「ゼフさんは何も言ってないわよ。」
「じゃあ、何で急にそんな…」

非難とも不安とも焦燥とも悲哀とも取れる蒼い瞳を見据え、ナミは彼に初めて怒りを宿した視線を送り、何時もの如く繰り出されるであろう饒舌な口を圧し止めた。

「甘やかされるのはもう沢山よ。」

嘘ではない、正直な気持ちだった。
愛される喜びに浸り、愛される幸せに守られ、愛される自分に酔いしれて…

「私が駄目になっちゃう。」

受け取るだけで、何もしてあげられないもどかしさ。好きになればなるだけ、自分の不甲斐なさに酷く悲しくなる。

「俺と一緒にいるのが嫌やになった?」

嫌やになるはずがない。
そんな要素は何処にもない。

「……そうよ。」

心地良い愛情に浸って、体の芯まで温められて、この幸福の泉から一歩も動けないでいる。

そんな自分も、そうさせる彼も…嫌や。

「ナミさん…」
「自分の夢を私がいる所為で諦めようとする人なんて、だいっきらい!」
「君の所為なんかじゃないよ!ここに居たって勉強はできるし、何よりナミさんと会えるのが、俺にとっては一番の幸せ…」
「嘘っ!…私、嘘つきが一番嫌い。」
「嘘じゃないよ!」
「それが嘘!」

小さな古ぼけたアパート。
小さなテーブルを囲んで、二人っきりの夕食。
小さな幸せが、何時もそこにあった。
笑顔と彼の作る美味しい料理が、その場所を飾っていたから。


だが、今日は…


向かいに座る金髪の男は、少しうなだれ、悔しさを蒼い瞳に宿し、ナミを見つめていた。
スクッと席を立ち、唇を噛む男の背に回ったナミは、その細くしなやかな腕を彼の前に回し、幼子を勇気付けるようにしっかりと抱き締めた。

「私、知ってるよ。貴方が料理を愛してる事。厨房に立ってる時の生き生きした顔。美味しいって言われた時の嬉しそうな顔。」

回された掌に小さくくちづける男がいる。

「私、その顔がだぁ〜い好き。」
「………」
「だから、修業に行って…もっと、もっと、素敵な顔になって欲しい。」
「でも、俺はナミさんを…」
「それも知ってる。私が好きで堪らないんでしょ?仕方ないわ、だって、私、イイ女だもん。」
「スッゲェ、イイ女だ。」
「料理よりも……ね?」
「ああ…」
「だから、別れてあげる。大好きだから…」

出来るだけおどけた振りをして、彼の顔を覗き込み、口角を形良く上に上げ、愉しそうに笑ってみせた。

「私がいると気持ちが残っちゃうでしょ?だから、居なくなってあ・げ・る。待っててなんてあげないワ。料理だけを愛せるように。」

軽く片目を閉じてから、労りを胸に頬を寄せた。震える彼の振動を、その熱で止める為に。

「師匠のゼフさんも、私も沢山愛を貰った。今度は私達があげる番よ。」

回していた掌を彼の艶やかな金髪に這わせ、そおっとそおっと撫でると、ストレートの髪に指が絡まって、柔らかいだけでない腰のある糸が、まるで彼そのもののような気がして、愛しさが募った。

「私を本当に愛してくれるなら、行って…お願い。」

伏せられた蒼い瞳に唇を寄せて、瞼に優しくくちづければ、ナミの瞳から涙が一筋頬を流れた。

「お願いよ、サ…」









「ナミさん、何注文したの?」
「内緒。」
「え〜教えて下さいよぉ〜」
「きてからのオタノシミ…」

教えてあげられない。
何故なら、自分も知らないからだ。

「直ぐにくるから…先に食べてていいわよ、ビビ。待ってられないって顔してるもの?」
「でも…じゃ、私の一口食べます?」
「いいから、食べなさい…大丈夫よ。私のも後で一口あげるから。」
「そういう意味で言ったんじゃないんですよ!」
「分かってるって。ホラ、食べて。」
「じゃ、お先に頂きます………はぁ〜美味しっ!」

オズオズと目の前にあるデザートに口をつけた途端、ビビは満面の笑みを可愛らしい口許に湛え、感嘆の声を洩らしていた。
その表情を見ていると、隣に座るナミまで幸せな気持ちになってくる。きっと自分に出されるデザートも期待していいだろう。
それにしても何故、自分だけ特別なモノが用意してあるのか?もしかしたら、何人目かの来店記念などという恩恵に預かったのだろうか?それならば、こんな嬉しい事はない。それとも何か…

「ナ、ナミさん!これ、すっごく美味しいの!一口食べてみない?ううん、食べて欲しいわ。」
「もう、興奮しないで、ビビったら。でも、そんなに言うなら…」

デザートスプーンに乗せられた、小さく切ったケーキの欠片がナミの眼前にある。
余りに綺麗なその欠片に、つい口が勝手に引き寄せられる。
惹き付けられるまま身を乗り出した時、背中に優しげな声が響いた。

「お待たせしました。」

見上げれば、先刻の黒髪が揺れていた。

「…どうぞ、こちらを。」

黒い瞳が悪戯っぽく笑い、左手に乗せた皿を右手でサーブする。
ナミのテーブルにデザートが出現した。

「これは…」

皿の上には、黒く光るチョコレートにコーティングされた、小振りの丸いケーキがある。

「ムースショコラ…です。」

ピカピか光るケーキの天辺に、頭を上げたオレンジピールがちょこんと座っていた。

ナミは思わず厨房を振り返った。

そこには……………










「お誕生日おめでとう。」

彼の働く仏料理店から仕事を終えて、ナミと暮らすアパートに帰り着いた彼は、ドアを開けるなりナミに飛び付いた。
そして、ただいまとも言わず、開口一番告げた言葉がこれだった。


「憶えていてくれたの?」
「当たり前じゃないか〜。俺の愛するナミさんが、この世に生を受けた記念すべき日だよ〜忘れるもんか〜」
「もう、大袈裟なんだから。」

今日は店で貸しきりパーティがあって、昨夜から帰っていなかった彼と会うのは、丸一日振りだった。
普段から大仰な人で煩いくらいだから、一日会えないだけでアパートに一人っきりになるとこんなに静かなものなのか?と、ナミは少し気の抜けた気分に浸っていた。少し、ホッとしたような…

「ジジィのお陰でこんな遅くなっちまった。ごめんよ。寂しかったでしょ?」

だが、こうして顔を見ると、やっぱり嬉しい。幸せだ。

「折角二人でパーティしようと思ってたんだけど…プレゼント買う暇もなかった。本当にごめん。」

しかも、ナミの事を一番に考えてくれている。

「いいのよ。こうして、おめでとうって言って貰えただけで…」
「いや、そうはいかないっ!」

ナミをテーブルの席に押しやりながら、彼はキッパリ断言した。
そうしてナミが席に着くいなや、徐に背中に隠していた15cm四方の小振りの箱を取り出し、蒼い瞳を細めてにっこり微笑む。

「こんなものしかないけど…」
「なあに、これ?私に…開けていい?」
「勿論さ〜」

掛けられたオレンジ色のリボンをそっと引いて、蓋になっている箱を持ち上げた。

「うわっ〜」


キラキラ光るチョコレート
円筒状の周りに薄い板チョコ
天井部分に金箔が散らされ
中央には可愛いオレンジピールがひとつ


「ムースショコラだよ。」

声のする方へ顔を向ければ、少し照れ臭そうに微笑む金髪の男。

「素敵…作ってくれたの?」
「愛を込めて、貴方の為に…」
「ありがと。嬉しいわ…」
「いえ、いえ、どーいたしまして。さ、どうぞ、食べてやって下さい。」
「何だか、食べるのが勿体ないわ。」
「そんな事言わず、食べてよ。ナミさんをイメージして、腕によりを掛けて作ったンだよ?」
「私を?」
「そ。固めチョコの殻に覆われてても、中身は柔らか〜い甘いムース。でも、ちょっとウィットに富んだ苦味もある…そんなナミさんをオレンジピールで表現してみました。」
「…バカね。」
「食べて、感想を聞かせて欲しいんだけど?」
「うん。」

手渡された銀のフォークでチョコの円筒を切った。表面はカッチリ固まっていたけれども、中はふわりと柔らかく、すんなりとフォークの通りが良い。三角に切り取ったそれを、フォークで刺して口へ運んだ。

瞬間、口の中に心地良い甘味が広がった。

しつこくなく、甘過ぎず、柔らかで、何処か大人の風味。仄かなブランデーとビターカカオの香りが口中を満たす。
余りの幸福感に、ほぅ…と溜め息が出た。

「…美味しいワ…」

その味、食感、香り、ケーキの持つ魅力に全身が覆われ、感嘆を表現する言葉が見付からない。

「お誕生日おめでとう、ナミさん。」

甘い声音で囁かれると、とても悲しくなった。
この感激を上手く表現出来ない自分の不甲斐なさに。
そして、ナミを表現したというケーキの優しげな味わいが、とても自分の存在とは駆け離れているようで。

少し涙が零れた。

「ど、どうしたの?不味かっ…」
「そうじゃないの!」

彼が私を想う気持ちに、応えられていない。愛される気持ちに精一杯愛を返しても、それ以上の愛情を注がれて行くだけ。
幾ら差し出してても、足りない、足りていないと感じてしまう。

「美味しい過ぎて、言葉に出来ないの…ごめんね。」
「謝らないで。俺はそれで十分だから…」
「それに私、このケーキみたいに素敵じゃないワ…」
「んな馬鹿なっ!何言ってンのナミさん?君の素晴らしさは、こんなショコラじゃ表現し切れないよっ!ナミさんに較べれば、甘味も足りないし、高貴さも、柔かさだって…」

ほら、また…直ぐにナミを気持ち良くさせる。
何処からその愛は湧いてくるのだろう。その泉は渇れる事を知らないのだろうか?
この想いに応えたい。
全身全霊が叫んでいるのに、その方法が見付からない。

オレンジピールを摘んだ。
口に運んで、ショコラと溶け合った。
優しい甘味に僅かな苦味が混じり、軽い酸味が舌を刺激した。

(これは、私だわ…)

彼という柔らかで甘いショコラの上で、そおっと守られ小さなプライドを誇示している。
庇護され甘やかされ、自分を癒し続けている。
愛しても愛しても、彼は大きなショコラで、自分は小さなオレンジピールで、その器に見合う程の大きさを得られはしない。

「私、まだ、こんな素敵なショコラになれないけど、頑張ってなれるようにするわ。」
「そんな事ないってぇ〜ナミさんのが素敵だよぉ〜」
「ん、ん!真面目に話してるんですけどっ?」
「俺も真面目に…」

潤んだ瞳で一睨みし、再度咳払いをしてやると、彼は饒舌な口をつぐんで申し訳無さそうに肩を潜ませた。
一息吐いた後で彼は、少し唇を尖らせてスネた振りをしながら、更に甘い囁きをその口から紡ぐ。

「これ以上ナミさんが素敵になると、俺としては心配で堪らなくなるんだけど…ナミさんがそう言うなら、甘くて柔らかくて苦味走ったイイ女になって下さい。お願いします。」
「ハイッ、そうさせて頂きマス!」

目尻に溜った滴を自分の手で拭うと、テーブルの向こう側から腕が伸びてきて、その手を取り唇を降ろされた。
「姫、デザートの続きを」と呟いて、優しく笑ってくれた。

「ねぇ、オレンジピールの作り方教えてくれない?」

その笑顔を見て思いついた。この人の作るものを自分も作ってみたいと。その作り方を知れば、その愛の作り方も分かるような気がした。
この人の想いの源を知りたいと、そう願ったから。

「お願い?」
「いいよ。」
「ありがとう………」










(…………サンジくんっ!)

厨房から半身を乗り出した真っ白なコック服に身を包んだ痩身で金髪の男が、その蒼い瞳でナミを見つめて懐かしそうに微笑んでいた。

声にならない言葉が、ナミの胸に去来する。


私を憶えていてくれた…
こっちへ帰っていたの…
夢は叶ったの…
あの時はありがとう…
私はイイ女になった?


溢れそうになる想いの全てを琥珀の瞳に託し、じっと視線を送れば、コック服の男は優しく頷き、音のない呟きで唇に言の葉を乗せた。


『ど・う・ぞ。』


耳に甘い声が響いた。
ナミはあの頃のように、無垢な笑顔をひとつ彼に送ると、姿勢を戻しテーブルに向かう。
置かれたショコラを前に、もう一度微笑み、フォークを手に取る。
一口大に切り分け、口へ運んだ。


懐かしい甘味が口いっぱいに広がって行く。


飲み込むと胸の中が暖かくなって行った。


変わらぬ深い愛情がナミを包んだ。


大きな愛を食べていた。


「いかがですか?」

黒髪の女性が暖かく声をかけた。

「幸せの味……です。」
「まぁ…」
「一口でイイ女になれたような気持ちになりました。」
「それは良かった…シェフから伝言があります。」
「なんでしょうか?」
「『貴方はとても素敵だ。』と。それから…」
「それから?」
「『今、幸福ですか?』…これは、もうお返事を頂きましたね?そのお顔を拝見する限り、私にはそう見えます。違ったかしら?」

真理を見据える黒い瞳に射抜かれ、ナミはほんのり頬を染めた。
コクリと頷き自信に溢れた笑顔を返すと、自然に言葉が口を吐いた。

「いいえ、違わないワ。とても幸せです…それに、このショコラのお陰で、もっと幸せになりました。」

背中に受ける温かな視線を感じて、勇気が湧いてくる思いがした。

「ありがとう。そう、シェフに伝えて下さい。」

黒髪の女性は本当に嬉しそうに頷くと、「後程、お土産を」と言い残し去って行く。
ナミはもう一度欠けたショコラを見つめ、ニッコリ笑いフォークを進める。
一口一口思い出を味わい、満たされていく心を味わい、今の自分をショコラに重ねて。

「ねぇ、ナミさん〜。一口…」

懐かしく優しく温かいその視線に応える様に、背筋を伸ばして食べていった。

「やっぱ……あ・げ・な・いっ!」
「えー、そんなぁ………」










「今日は皆、どーもありがとうっ!この様な歓迎を受けて、俺は非常に感謝をしているっ!何より、俺を引き抜いた諸君達に後悔はさせないっ!それだけの仕事を俺はやってみせる!この場で誓おうではないか…」

宴席が終わりを告げても、多少酔っ払っている本日の主役は、店の出入口付近に陣取り、大袈裟な演説を打っていた。20人弱の会社ではあるが、一人一人握手を求め、信頼を勝ち獲ようとする姿は、微笑ましくもあり、帰宅を急ぐ者にとっては多少煩わしいモノでもあった。
社員の一人が思ん計ったのか彼を店外へ連れ出し、三々五々社員達が帰宅の途に着いた頃に、ビビが領収書を受け取って出入口近くの席に座るナミの元にやってきた。

「お待たせ、ナミさん。」
「ううん、全然。」

ビビに手を取られ立ち上がり店を後にしようとした時、二人の背後に先程の黒髪の女性が近付いてきた。

「お会計をすっかりお待たせしてしまって、ごめんなさい?これ、お二人に…お詫びの印です。」
「お詫びだなんてそんな……わぁこれ。さっきの…」
「ええ、オレンジピールです。」

小さな透明のガラス瓶に、オレンジ色がギッシリ詰まって淡く光っていた。
二人の掌の上にそっと乗せ、優しく微笑む黒髪の向こうに、忙しそうに立ち働く白いコック服が見え隠れしていた。

「頂いていいんですか?」
「勿論。素敵なお二人に感謝を込めて、シェフからのプレゼントです。」
「私達だけ?何で…」
「お二人はとてもお幸せそうに見えますから。その幸せをここへ運んで来て下さったお礼と…本音は女性が大好きなシェフとして、何かしたくなったんでしょう。多分ね?」

可愛いウィンクで黒い瞳を片方閉じた女性は、その落ち着いた外見からは信じられない様な茶目っ気を垣間見せた。

「喜んで受け取らせて頂きます。」

遠慮気味に戸惑うビビの横で、ナミはキッパリと言ってのけた。

「本当にありがとうございます。シェフに宜しくお伝え下さい。」
「お礼なら直接…」
「いえ、お忙しそうですので。」
「そうですか。なら、また、是非お越し下さい。今度はお二人の大切な方とご一緒に。」
「はい、そうさせて頂きます。」

二人は軽く会釈をして、店を後にした。
外にはもう社員達の姿は殆んどなく、静かな住宅街の夜は更けていた。街灯もまばらなその場所は、ビストロから洩れた明かりが一番明く道を照らしていた。

「ねぇ、ナミさん。私も貰っちゃって良かったのかしら?」
「二人にって、言ってくれてたんだから、問題ないでしょ?」

ビストロからゆっくり歩を進めながら、ビビが歯切れの悪い口調で語り掛ける。

「だって…ナミさんは兎も角、私が幸せって?何でそう思うのか不思議で。」
「なーに言ってンの?ビビにこのお店紹介したのは誰?ルフィでしょ!気に入ったら誰とでも友達になっちゃう、あのルフィでしょ?なら、ベタ惚れしてる彼女の話を、お店の人に自慢してないはずが無いンじゃない?」
「ナ、ナミさ〜ん……ありえそう…」

ジタバタしながら赤面するビビが可愛いくて、そっと抱き締めてやった。
お酒も入っていないのに、彼女の仕草が余りに愛しくなって、頬まで擦り付けていた。

「女同士で何やってンだよっ!」

前方に駐車する車の運転席のドアが開き、でっかい図体の男が不機嫌そうな声を掛けてきた。

「ゾ、ゾロッ!何でアンタ此処に?」
「迎えにきたに決まってンだろっ!」
「え?アンタ今日残業で遅くなるって…」
「済ませてきたよ、ンなもん。」
「もしかして、心配だったとか?」
「ったりめーだろっ!んな体で夜遅くまでフラフラしやがって。さっさと乗れ…あ、ビビも送ってやるから、一緒に乗ってけ!」
「でも、お邪魔じゃ…」
「馬鹿ね〜。遠慮する仲でもないでしょ?乗りなさい。」

少し背中を押してやると、嬉しそうに頷き、ビビは後部座席に乗り込んだ。

「お前は…」

車に乗り込むビビを見遣った後で、溜め息混じりに呟くと、ゾロはナミの手荷物の一切合切を奪い取った。

「持てるわよっ!」
「結構重いじゃねぇか?アホが…」
「アホは余計でしょ?」
「余計じゃねぇよ。ンな体で平気な顔して荷物なんか持ちやがって…何かあったらどーすんだっ!」

真剣な面持ちでにらまれると、普段の悪人顔が更に凶悪さを増し、ゾロの表情が鬼の形相へと変わる。とても暗がりでは恐ろしく、真正面からは見たくない。
案の定、二人の様子を窺っていたビビは視線を外し、貰った小瓶に目を移している。

「これくらいで、何もある訳ないでしょ?全くアンタは何時からそんな心配性になったのよ…」

ナミは自然に笑えてくるのを必死に堪え、出来るだけ真剣な口調でゾロに言い及んだ。

「付き合ってる時は私が何をしようと煩く言わなかったクセに!デキたって分かった途端、あーだこーだ煩いったらありゃしない!良い機会だから言っておきますけど…」
「わーったから!もう何も言うなっ!」
「まだ、言ってないけど?」
「俺が悪りぃ、全部俺が悪かった。も、言うな…胎教に悪りぃ…」

荷物を持って無い手を立てて、拝むようにナミを見る深い翠色の瞳が、とんでもなく可愛く見える。

不思議なものだ、こんなに愛情表現が下手糞な男と、人生を共に歩む決意を自分がするなど、あの頃は考えてもみなかった。

サンジくんが無償の愛を与えてくれていた、あの頃。
暇さえあれば「好きだ」「可愛い」「綺麗だ」「愛してる」と、際限ない言葉と行動で愛を伝え続けられた日々。愛を返す術を知らずに苦悩し続けながら、幸福に溺れてもいた、若かりし頃。
彼が去って独り寂しさに涙したのも、今は遠い昔。

「……7年か…」

奪い取られなかった片手の小瓶を見つめそっと呟くと、拝んでいた大きな掌がナミに伸びてきた。

「何の話だ?」

ナミの小瓶をその手で取り上げ、不思議そうに呟きながら、断りもなく蓋を開けようとする。

「何でもな…ちょっと!」
「お、食いモンじゃねーか…頂きます。」
「駄目っ!返しなさいって!それ、私のなんだから…」

制止する隙もなく、ゾロの指は小瓶の中身を摘み、あっという間に口の中に消してしまった。
途端に甘さの所為か、眉間に皺を寄せて顔が歪んだ。

「甘っ…」
「ほうらご覧なさい。バチが当たったのよ。」
「煩っせぇ!残業終わって速攻来たから、何にも食ってねぇんだよ、俺は。腹減って……けど、うめぇな?」

咀嚼を繰り返す内に何が気に入ったのか、少し相好を崩し嬉しそうに鬼が微笑んでいる。

「そりゃそうよ!私の師匠の作品なんだから。美味しいに決まってるわ。」

そう、ナミに料理の作り方と、愛し方を教えてくれた、サンジくん。
その人が更に腕を上げて、心を込めて作った、オレンジピール。
不味い筈がない。
それどころか……


「けどよ、俺は、お前の作ったやつのがいい…」


ぶっきらぼうに呟き、それでも続けて小瓶に指を差し込むゾロ。
ナミはそれを手で制し、シロップの付いたゾロの指を持ち上げ、ペロリと舐めてやった。

甘くて切ない味が舌の上に広がる。






「…私も同じレシピで作ってるのに、サンジくんのはどうしてこんなに美味しくなるの?」

「愛だよ〜愛!俺のナミさんに対する愛が隠し味になってるからさぁ〜」

「も、フザケないでっ!」

「本気だよぉ〜ナミさ〜ん。信じてぇ〜…」






今なら分かる。本気で言ってたんだと。
食べさせて上げたいと思う気持ちが、美味しいと思わせて上げたい気持ちが、料理に伝わって、素敵な調味料に変化する。

『隠し味は愛』

酷く陳腐で凄く気障で、でもそれは真実で。
月日を経て、また、サンジくんに教えられていた。
なんて深くて大きな愛なのだろう。
彼から学んだモノは、時が経っても色あせない。それどころか、ナミの中で更に色を濃くしている。





「お前、人前で何やって…」

急激に頬を赤く染めたゾロは、まるで赤鬼。嬉しいのか恥ずかしいのか、それとも本気で怒っているのか?

「ま、いい。帰るぞっ!早く乗れ…」

いろんな荷物で手一杯のくせに、懸命に助手席のドアを開けて、ナミを促すゾロがいる。

「よいしょ…」

腰を屈めて乗り込めば、少し重くなり始めた体が、勝手に言葉を紡ぎ出す。
「ったく…」頭上の飽きれ声に、睨みを効かせて見つめれば、小瓶だけ手渡された。
ニッコリ笑って受け取った。


あれから、オレンジピールを作り続けている。勿論その為に、態々オレンジを買ってきて作る訳ではない。買った蜜柑や貰い物で、中身を味わった後に、ほんの手慰みのようなものだ。
だから、そんなに美味しいモノは作れない。
それでも、今、ナミの隣にいる男は、それが好きだと言ってくれる。

この小さな瓶に詰まった、オレンジピール。

この味には到底及ばないけれど、少しは愛情の調理法が上手くなったのかもしれない。
サンジくんが教えてくれた愛のレシピは、ナミを通じて、ゾロの体内に吸収されている。
素晴らしいシェフだ。触れ合う人全てに愛を届け、また、届けた人から次の人へその愛を配達し続けている。延々と繋がって行く想いがある。
なのに、泉を渇らさない。以前よりその容量は増しているようにも思える。

だって………


「何だ、あのアホ?」

閉店の為だろう看板をしまいに来たのか、ビストロの入り口に真っ白なコック服に身を包んだ金髪の男が立っている。
両手を高々と挙げブンブン振り回わし、合間に情熱的な投げキッスを送っている。確にバカっぽい。今にもステップ踏んで踊り始めるのではないかと疑うくらい、ノリノリだった。

「フフッ…」

幸福な笑みが溢れてきた。


サンジくん?
貴方がくれたレシピ、活用してるわよ。
そして、これからもずっと使ってくわ。
私の隣でハンドル握るバカ男に、上手な愛し方を教えてやるわ。
だって、今度はコイツが私のお腹に宿る小さな命に、伝えていく大仕事が待っているンだから。
貴方が私に教えてくれた事全てを。
……ありがとう、サンジくん。


「ね、ゾロ?今度一緒に来ようね、ココ。」
「あぁ〜ん?先の話はいいっ!俺は今腹減って…」


馬鹿な男だらけね…


「帰ろっ!」




私は、甘〜いショコラになれたかしら?






Fin







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<管理人のつぶやき>
サンジくんの惜しみない愛を受けて立ち直っていったナミ。その愛に応えたくて、サンジくんを旅立たせてあげた。ナミが促さなければ、優しい彼のこと、ずっとナミやゼフのそばから去れなかったことでしょう。
愛は受け継がれていく。ナミからゾロへ、そして新しい命へと^^。

【投稿部屋】でたくさん投稿してくださってるCAOさんの投稿作品でした。
ショコラのように甘く、オレンジピールのようにほろ苦いお話をどうもありがとうございましたvvv

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