夏の夜の、夢
のおや 様
風のない夜だった。
熱と湿気を含んだ空気が、じんわりと肌を包んで。
ゆったりとおおきな波が、船をゆらゆらゆらせて。
月は水面に、映っては砕けて。
私の心も、焦れて、揺れてた。
まるでなにかに、せき立てられているみたい――いいえ、でもほんとうに、そんな気持ちだった。
きっとあの空と海が、臆病な私の思いを察して、そっとあと押ししてくれてたに違いない。
チアーズ!
黙ったまま、カチンと触れ合わせたふたつのグラスの中で、琥珀の液体が揺れた。
今夜、何度目の乾杯だろう。
何に対する乾杯かなんて、どっちも気にしたりしない。
踊るような手つきでグラスを掲げ、そのまま一気に唇に寄せる。くいっと傾けると、濃い酒が喉を焼いて流れ落ちた。
すぐ横で、もうひとつのグラスが同じように干されるのが見える。
空になったグラスが目の前の甲板にカタンと置かれ、ふうっ、と満足そうな息が、細い唇の間から吐き出された。
頬がすこしほてる。
ふわりふわりと揺れる身体が、いい感じ。
ちょっとおぼつかない気がするから、甲板にのばしていた脚を引き寄せた。曲げた膝に頭をことりと乗せる。
ひんやりした膝が頬に触れて、気持ちいい。おしりの下の甲板が揺れてるのか、私の体が揺れてるのか、よくわからない。
さっきからこの調子で、ずっと飲んでる。
だけど、頭はすっきり冴えてた。
頭をかしげたまま、酒の相手を見た。
空のグラスを前に、どっかりと座り込んで、つぎの酒が注がれるのをうれしげに待ってる男。あんまり嬉しそうなので、ちょっとイラ ついた。
ちぇっ、なあによ、そんなに酒が飲みたきゃ、いくらでもくれてやるわよ。
腕を伸ばし、瓶を掴んで勢いよく持ち上げると、それはもう軽かった。
「ああ――なくなっちゃった」
見回せばそこらじゅうに、空の酒瓶が、死屍累々と転がっている。
「次を開けろよ」
そうしたいのはやまやまなんだけど――と、ちょっと肩をすくめてみせた。
「これで最後なのよ」
瓶を掲げて、振ってみせる。残っている酒を瓶を逆さにして、最後の一滴まで念入りに注いだ。
グラスに半分ほどの最後の液体に、ふたりの視線があつまる。
まじわった視線はそのまま、ゆっくりと絡みあった――たく、なんて顔してんのかしら、笑っちゃいそう。
あんまりもの欲しそうでしかたなくて、だからあっさりとグラスを譲った。
「いいのか」
ちょっと驚いたように、受け取る。
「後で、目玉の飛び出るような請求書が来るんじゃねえか」
にっこり微笑んで言ってやる。
「心配しないで、どうせ最初の1杯めから、ちゃんと加算されてっから」
「ちっ、そっちが誘ったんじゃねえか」
そうだと思っていたけどいちおう言ってみた、ってふうに、男はもごもごつぶやいて、それでもグラスはしっかり離そうとしない。
まったく、せつないって、こういう気分をいうものかしら。
「遠慮しなくていいわよ――これっぽっちのお酒の方が、欲しいんでしょ」
「私よりも、」という言葉は、口をつぐんで胸にしまっておく。
男はちょっと考えて、
「じゃ、貰っとく――酒に、罪はねえし」
そう言って、ひとくちでグラスの中身を飲み込んだ。その唇が、満足げに歪んだ。
「だけど、おまえが言うほどでもねえぜ、実際――」
悪びれず笑う唇から、目が離せない。
ゆらゆら揺れる身体を支えるみたいに、腕が、ゆっくりと伸びてくる。
「なに」
思わず出た言葉に、伸びてきた手が、目の前で一度止まった――ごつごつした、大きな手だ。
「だから、なによ」
「なにって、そりゃ、」
ナンだよとかなんとか、あとは口を濁して、私の手首を軽く握った。そのまま、なんの力を込めた様子もないのに、するっと引き寄 せられた。
あまりにもあっという間で、あっけにとられるほどだ。
だけどこんな、お酒のついでみたいなのは、ちょっといただけない。
「なによ」
軽くもがいたら、ようやくこっちをちゃんと見た。かたっぽ上がった眉が、ものすごく近くにあって、その意味することに気づくと、あらためて胸が跳ねる。
「止めるか?」
いかにも不思議そうに尋ねるのも、ムカつくったらない。
「そうじゃなくて」
「じゃあ、なんだよ」
思わずむうっとため息をついて、唇をとがらせた。ずっと欲しかった腕の中で、手首をまるで羽交い締めみたいに掴まれて、息がかかりそうなほど引き寄せられて。
そんな姿勢でまだ抵抗するのって、ホント難しいし。
「――ゾロ、あんたね、」
その名を呼ぶと、胸がきゅんとする。知らず知らず、口ごもる。
「――すこしは、躊躇とか、」
触れあったところが熱い。
「――遠慮とか、」
うわずりそうな声を抑える。
「お酒も私も、あわよくばどっちも、って――」
ダメ、せつなくて、泣いちゃいそう。
「そんな、その辺で間に合わせた、みたいなのは、ヤなのよ」
一気に言い切って、思いきりつきだしてみせたあごを、ゾロは抑えるように、指で軽く触れた。じんとした痺れが走る。胸がどきどきして、苦しいぐらい。
こんなにすぐそばで見つめあったことが、今まであったかしら。
絡みあった視線の向こうで、ゾロは眉をひそめ、困ったような顔をしている。ちょっといい気味、と思っていたら、頬に触れられどきっとする。
ゾロは、よく自分にしてるみたいに、私の頬をぽりりと掻いた。
「別に、間に合わせたんじゃねえよ」
ゾロの声は、静か。
「じゃあ、なによ」
対する私の声は、つぶやくようにちいさかった。
軽く掴まれたままの手首が、痺れるように痛む。
みつめる瞳の奥を、どうしても覗けなくて、深くしわの刻まれた眉根を見ていた。するとその眉が、ゆっくりとひらいていった。
「あのな」
ゾロがいったん言葉を切る。のどが、ごくりと動く。
「たまたまその辺にいた女が、特別な女だった、っていうんじゃダメなのか」
――え?
思わず空をあおいだ私の顔を、うかがうゾロの表情は、いたって普通。
「ダメ」
首を振ると、触れたままの指先が頬を撫でる。触れあった場所から、水紋のように痺れが走る。
「ダメ。たまたまって、だってそんな――偶然みたいなの」
「ダメか」
ゾロがもういちど、私の頬を掻いた。そしてふたたび、口を開いた。
「違う」
ちがう?
「偶然、っていうのとは、ちょっと違う」
「奇跡、かなんか、じゃねえのか」
「奇跡?」
そのセリフが胸にしみこむのに、ちょっと時間がかかった。
なに言ってんのよバカ。
バカみたい。ほんと――酔っぱらいの戯れ言にも、ほどがある。
私がほしいあまりひねり出した、くさい口説き文句。
バーカ、と口に出した顔を、ゾロがかぶさるようにのぞき込む。
まっすぐ仰ぎみたゾロの瞳は、静かな欲求に光ってる。
「それじゃあ――」
鼻で笑うつもりが、その瞳に囚われる。
「それじゃあ仮に、そのイイ女があんたに惚れていたとして、それも奇跡、なの?」
みつめる瞳が、かすかに光った。
「いや、それは」
瞳の光に、熱がうつり。
「――必然」
「しょってる」
頬を包む手に、力がこもる。
もういいだろ、いい加減キスさせろ。
ゾロの声は、焦れている。
そっちもそろそろ、手を離して。
乾いたのどから、掠れた声が出た。
放たれた手をゾロの首に回すと、ようやく唇が触れあった。
何度もなんどもくりかえす。
触れ合わせた唇の感触に、せつなくて涙がにじむ。
熱っぽい腕にからめ捕られて、波のようにゆらゆらと揺れる。
潮の香りとまじった汗の匂いが、甘く鼻をついた。
頬にかかる風も湿った熱をはらんで、くりかえす短いゾロの息遣いが、すぐ耳元でしたと思ったら、いつかしだいに、遠くなっていった。
あれはイーストブルーの、夏の夜のことだったか――それとも、グランドラインの夏島?
いずれにしろすでにはるか、遠い場所での出来事。
優しくゆれる波は、ふんわりとした雲のベッドに。
暖かい腕は、やわらかな毛布に変わり、
甘い夜の記憶が、次第に薄れて消えて、
そっと目を開いた私は、明るい雲の上にいた。
カーテンの向こうから差し込む、朝の日ざしがまぶしい。
身体を起こすと、目を擦った。
頬を濡らす涙のあとは、もう乾いている。
この、途方もなく広い世界で、出会って惹かれあった奇跡。
夢のなかの甘い記憶は、胸にせつなく沁みるけれど、
目をさましたなら、起き上がって前に進もう。
私たちはいままで、いくつもの奇跡を起こしてきたけど、
いつかふたたびめぐり逢うことは、奇跡でもなんでもない。
だって私たちの歩く道は、ひとつながりなのだから。
ふわふわした雲でできた道を、しっかり踏みしめて、歩き出す。
FIN