明けの白
ソイ 様
目が、覚めた。
いや、眠っていなかった気もする。体はシーツのはるか下にある眠りの世界に落ちかけていたけど、意識はその合間を漂って、時間の流れを追っていたような。ナミは半分だけ開いた瞳で、ちらりとベッドサイドに置いてある小さな時計に視線をやった。
午前、3時52分。
2時くらいまでは覚えているから、やはり眠っていたらしい。もぞりと身を起こそうとすると、横向きの自分を背中から抱きかかえるようにして眠っているゾロの太い腕が、ナミの細い腰にまわされていた。
「ゾロ、ね」
首の後ろから寝息が聞こえる。自分が枕にしていた腕からもぴたりと背中にくっついていた体からも、規則正しいゆっくりとした鼓動と触れている部分が汗ばむくらいの温かさが伝わってきた。
「ね、ちょっと。……トイレ」
少し、腕を持ち上げた。自分の力だけではわずかにずらすだけでも一苦労な重さだったが、そう声をかけると目は覚まさないまでも、のそりと動いて体を離してくれる。体と体の間に隙間があいて、そこに流れる空気の風がナミの汗を少し冷やした。ゾロの腕をするりと抜けると、その感触になにやら言葉にならぬ寝言を呟いたゾロの顔を、少しの間見つめていた。
この男にしては気が利いている──今夜の見張り役がロビンなのを見越したらしい、キッチンから拝借してきたらしいラム酒片手の、深夜日付が変わってすぐのの誕生日祝い。もうベッドにもつれこんで、だいぶ気持が高揚していたそんなタイミングで耳元に「おめでとう」と囁かれ、胸の奥がじわりと溶けてしまいそうな嬉しさに包まれた、そんな誕生日の始まり。
口に浮かんだ笑みをそのまま直に伝えたいかのように、もう一度ゾロの額に口づけた。
ナミはそのままゾロを起こさぬようにベッドから静かに下り、枕元に投げていた下着とワンピースをはおると、机の上の小箱を持ってそっと女部屋の扉を開けた。
キイ、という音は、静かに打ち寄せる波音にそのままかき消された。
夜明け前の、一番闇の深い夜空。その分、星のまたたきは鮮烈で、降るような光がサニーの甲板を照らしている。
ナミはコツコツとサンダルのヒールを鳴らして女部屋前の階段を下りた。そのまま芝生甲板を横切って無人のキッチンに入り奥壁の梯子を登り始め、天井の蓋扉を跳ね上げてメインマスト下のデッキに出る。湿った潮風が心地よい。その風にみかんの木の葉がわずかに音を立てていた。
そのまま無言で、上を見やる。夜は帆をすべて畳んでしまうので、メインマストの真下からでも星はよく見えた。小脇に抱えていた小箱を降ろして蓋を開け、ひとつ、ふたつと小さな計測器具を取り出しそのまま夜空の星に向けた。
右を向き、真上を向き、左を向き後方を振りかえる。その器具からはじき出したいくつかの数字をメモし、それを器具と一緒に箱に納めていた数枚の海図に照らし合わせる。ログポースもグランドラインでは役に立たない磁石も使わず、原始的な方法で方位やら距離やら何やらを測り終えると、ナミは一点、そこが目指す方向だという風に船の後方からやや東よりの方角を見据え、そちら側の手すりに寄った。
東の空は、水平線から薄く白み始めている。
ナミはしばし、島影も何も見えない、そちらの海の方角を見やっていた。
何かを見出そうとするような、しかし何も見えないのが分かっているような視線で、しばらくそのまま立ち尽くしていた。
「……ここにいたか」
不意に、コトリ、と梯子の蓋扉が静かに上げられた。
同時に背後からの声。
ナミがその音に静かに振り返ると、蓋扉の下からゾロが半身を覗かせていて、そのままのそりとデッキに上がってくる。
暑いのか、それとも脱ぎ捨てたシャツを見つけられなかったのか、ゾロは上半身裸で下にズボンを履いているだけだった。胸元のナミが吸った赤い跡を隠そうとする気配もない。
ナミはその姿に小さくほほ笑んだ。
「起こしちゃった?」
その問いにゾロは少々眉間に皺を寄せる。それは目覚めた時に抱き枕が消えていた事への不満の表れだろう。
「むしろ起こせよ。……こんなとこで、何やってんだ?」
ナミの方は、すぐには答えなかった。微笑みを浮かべたままもたれていたデッキの手すりへ、後ろ向きにお尻から飛び乗り、くるりと身体を反転させて足をぶらりと海側に出す。足下に広がるサニーの側面に打ち付ける白いさざ波をちらりと見て、また水平線の方に視線をやった。
ゾロがその背中に向ってゆっくり近づいてくるのを肌で感じながら、視線は逸らさずに問いかけた。
「こっちの方向、分かる?」
まっすぐ真正面、何もない海原の方向に向ってナミの指が伸びる。 ゾロは目をこらしたが、明け始めのまだ暗い海には島影一つ、船影一つも見あたらない。
「……何かあるのか?」
「見える範囲には何もないわ。方角的には東の海」
「へえ」
「そこの、本当にここから一直線のところに、小さな島があるの」
「島?」
「そこ、私が産まれた場所」
ゾロはもう一度目をこらし、その指の先をたどってみたが、かすんだ水平線しか映らなかった。
記憶を揺さぶってみる。たしかナミの故郷は。
「ココヤシ……つったか。その村がある島か?」
「ううん」
ナミはすっと指を降ろす。ぶらりと一度大きく足を動かした。
「ノジコから、聞いたんでしょ? 私、赤ん坊のころに戦災で親を亡くして、海兵だった母に拾われたんだって」
後ろを振り返り、ゾロの顔を見つめる。
「その、戦争があった島」
まだ残る夜の闇に、長い睫が瞬くのをゾロは見た。
「多分……私を産んだ人が、今も眠っている、島よ」
まだあんたは歩けもしない赤ん坊だったんだよとベルメールから聞いていた。本人からはただ「拾った」としか教えてもらわなかったが、10歳の頃に話を聞いていたゲンゾウに詳しく聞かされてから、ベルメールへの思慕が増すのと同時にその裏で、それは心のどこかにいつも燻り続けていた気がする。
『ナミ? 帰ってるの? ……ってあんた何見てんの? それベルメールさんの軍務記録?』
『! ……なんでもない。どこ行ってたのよ、ノジコ』
『そんな怖い顔して。別に怒ったりしないよ。見ちゃったんだろ? それに書いてあるんだよね、ベルメールさんの最後の駐屯地』
『知らない――そんなの。私、戻るわね。アーロンがまた煩く言うから』
『いい機会だから、あんたも覚えておきなよ。ここだよ。あんたと私が、ベルメールさんに拾われた国は。私のと、多分、あんたの両親も亡くなった場所。ほら、場所も教えてやるから海図出してみな』
『……いい! 別にどうでもいいわそんなの!』
そして、ノジコが無理矢理丸を描いた東の海の海図。
それが今、サニー号のデッキの上に、小箱で隅に重しをされて広げられている。
「――行ったことは、あんのか?」
ゾロが手すりに手をかけて、ナミの横に立った。
ナミはしばし黙って、ゾロからまた東の水平線へ視線を戻した。
「ないわ。東の海って言ってもかなり距離があるところで、あんまり遠出するとアーロンに変に詮索されるし」
当時はそれよりも大事なことが多かった。ココヤシ村のこと。村を救うための一億ベリーを稼ぐこと。その取引のための魚人達とのつきあい。より仕事の成果を上げるために航海術、気象学、そして戦闘術を学ぶこと。どんな環境にあっても生き残ること。
そして残してきた村の人、姉。
自分を目の前で逝ってしまった、母の面影。
「……私のお母さんは、ベルメールさん一人だけだっていう気持ちもあったし」
そのベルメールのことを、今でも想わない日はない。故郷から持ち出したベルメールが大事に大事に育てていた三本のみかんの木の、その香りに、葉陰に、いまでも彼女の笑顔が見え隠れする。
「だけど、ね」
まだ海賊専門の泥棒だった時分の誕生日。深夜ココヤシ村にこっそりと帰還し、ノジコと二人でのバースディパーティ。甘い蜜柑酒を酌み交わしながら、少し酔い気味のノジコが語り始めた。
『あんたの本当の誕生日は、今日じゃないって知ってるだろ?』
『……うん』
『私はあの時もう3歳だったから、名前も年も、親の名前も誕生日も言えたんだけど、あんたはそういうのが分かる物が一切なかった。それでだいたいの体格を見て月齢を逆算して、誕生日をベルメールさんが決めてね。んで、そこから名前を取ったの』
『……ちょっと、安直よね。7と3で、ナミ、って』
『ベルメールさん、そういうところあったから』
そっくりな表情で、二人して笑う。その笑いが自然に治まった後、ノジコがぽつりと呟いた。
『その時ベルメールさんが言ってたの、私覚えてる。こういうことを勝手に決めて、本当のお母さんには申し訳ないけど……って』
その時は、あいまいに頷いただけだった。
頭の中に、ノジコが印をつけた海図がかすかに意識を掠めて、消えた。
「――ノジコは、『今日』はそういう日であってもいいってことを、教えてくれたんだと思う」
その日以外、けして同じ話題を口にはしなかった、姉の気持ち。
「私はその人の名前も知らないし、顔も分からない」
自分の全ては、ベルメールが命を賭して未来に繋いでくれたものだと、それだけだと、思っていた。
「でも、確かに十ヶ月間、私をお腹の中で育ててくれて、死ぬほど痛い思いをしてこの世界に送り出してくれた人が、いたのよね。そんな日が確かに存在して、その人が呼んでくれた名前も、ちゃんとあったんだって。たとえ、一緒にいられたのは本当に少しの間だけだったとしても」
みなが自分の『誕生』を心を込めて祝ってくれる、そんな日の今日。
愛しい恋人が肌を合わせながら自分の存在を祝福してくれた、そんな夜の明けた朝。
たとえ、確かに命が産まれたその日ではなくとも。
「……だから年に一回、こういう日くらいは、こうしてその人のことを想ってもいいかなって……」
その人のかけらだけでも眠っている、その島の方角を見やりながら。
ナミはそのまま押し黙って、ぶらりと足を揺らしていた。
ゾロはそんなナミの隣に立ったまま、なにも言わなかった。
ただ近くに寄った暖かな体温が、朝の冷ややかな潮風からナミの肌を守っていた。
ふと、ナミがゾロを振り返る。こちらを見つめている男の視線に問いかけた。
「ねえ、……その人がさ、今の私見たら、どう思うかしら」
「ああ?」
急な質問にゾロは眉間に皺を寄せた。しばらく黙っていると、ナミが指先でその皺を撫で、その顔で固まっちゃうわよと笑い出す。
「綺麗な娘に育って良かった、とか? こんなに頭がいいなんて、きっと私に似たのね、とか?」
「自分で言うか」
首を傾けてそれから逃れつつ、やや思案したあとゾロはぽつりと答えた。
「まあそんなことより、まずは海賊なんかになっちまって、って言うと思うぜ」
一瞬、ナミは目を丸くした。が、すぐににやりと口の端を上げる。
「あら、いいじゃない海賊。自分の長所をまんべんなく生かせる最高の環境よ。お宝もいっぱい。悪くないわ」
見慣れたナミの魔女の顔に、ゾロは苦笑をこぼした。また少し思案するうち、いたずら心も沸いてくる。
「なんでそんなにがめつく育っちまったんだろう、とか」
「そこは金銭感覚と生存本能が人より優れたしっかりもの、てことよ。いいことじゃない」
しゃあしゃあと言い抜ける様子に、頬をかるくつねってやる。
「あとは、どうしてまた、こんな男にひっかかって、って」
「まあそれは言われても仕方ないわね」
「そこは否定しねえのかよ!」
うっかり上げた声に、ナミのけらけらという笑い声が重なった。
次第に姿を現し始める白い朝日の光がナミの肌を照らす。オレンジの髪が濃い金色に煌めいた。
鋭さを持った朝の光。肌を冷やしていく朝の潮風。生まれたばかりの新鮮な空気と色が、ナミの形を縁取っていた。
その姿を、ゾロはじっと見つめ、ややあって呟いた。
「でも、一番には、こう思うんじゃねえのか。……親なら」
親、という一語にナミが一瞬、瞼をふるわせた。
「あの小さな赤ん坊が、こんな大きくなって。って」
ゾロはその瞳をじっと見つめていた。朝日に光り輝くナミの姿を、情欲というには暗いくすぶりがなく、慈愛というには熱がこもりすぎた、まっすぐすぎる程のぶれの無い視線で。
「もうそれだけで、お前が今どんなだろうと、十分だろうよ」
ゾロの手のひらが、ナミの頬にそっと添えられる。その手のひらの大きさに、どきりとしてわずかに首をすくめる。
大きな手。包まれるだけで、自分が子供に戻ってしまったような錯覚を覚えるほどの。
その暖かさが引き金となって、身体の中に涙に似た熱いものを沸いてくるのを、ナミは感じた。
東の朝日に顔を向け、眩しがるように、二、三、瞬きをする。
そして小さく口元をゆがめて、困ったように――それでも笑顔でゾロに向き直った。
「……あんたって、そういうとこ、カッコつけよね」
「ああ?」
「の割にはジジくさいし……。19とか言って、ホントはサバよんでんじゃないの?」
「てめえなあ!」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜてくるゾロから、ナミは声を上げて笑いつつ逃げ回った。瞬間、ぐらりとバランスを崩して海側に身体が浮く。とっさに伸びてきたゾロの腕を慌てて掴むと、そのまますくい上げられるように再びデッキの上に乗せられた。
危うく呼吸も忘れそうになった二人だったが、目を合わせたその次の瞬間、さらなる笑いが沸き起こった。
明けの白い空が徐々に青みを増していき、銀色に鈍く光っていた雲が白く柔らかな色に変わっていく。
いつしか、デッキに据えられたキッチンの煙突の先からは朝食のパンを焼く香ばしい香りが漂い始めていた。
サンジくんもう起きてるのねと、ナミはデッキの手すりの上でくるりとまた半回転し、差し出されたゾロの手を取って身軽にデッキに飛び降りる。
誕生日の、朝。
ナミは目をぎゅっと一度瞬かせ、生まれたての新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。
キッチンへ続く梯子の蓋扉に手をかけた際、ふと気になって後ろに続くゾロを振り返る。
「ところで、なんであんた上、裸なのよ。置いておくから一緒に洗濯しといてくれとか言う気じゃないでしょうね」
「なんだ、もう男部屋に帰れとか言う気かよ。――続きだ、続き」
ひどく心外だという風な芝居がかったにやりとした笑顔。今度はナミが眉間に皺を寄せる番だった。
「……もう、朝よ」
「まだ、朝飯の時間じゃねえよ」
いつも上手に立つような自信満々なその表情をしばし睨み、ナミは無言で梯子を降りた。降り先はキッチン。
「てめえ朝から何ナミさんの後つけ回してやがんだ!!」
「あぁ!? てめえに関係あることか!!」
必然的に起こった二人の男の騒動を尻目に、女部屋に逃げ込んで。
中から鍵をかけて、ほとんど眠っていない昨夜の代償に朝食までの一眠り。
脱ぎ捨てたシャツに残る男の匂いを抱きしめながら、暖かい夢を見ることにしよう。
< fin >