この作品は『夏陽炎』の続編にあたります。
女の顔 −1−
びょり 様
「ラーメン屋で『冷やし中華始めました』の貼り紙を見ると、夏の到来を感じるわ」
「そうだな」
蕎麦屋で冷麺をすするナミの言葉に相槌をつく。
4人座れるテーブル席より1段上の畳席にはTVが置いてあって、愛してる愛してない憎い殺してやるといった、聞いてるだけで欝になる台詞を延々流していた。
学校の帰り道に寄ると、決まってこの愛憎ドラマだ。
TVの前を陣取ってる大仏パーマのおばさん2人組は店の常連で、何時来ても居るし俺達より先に帰る事は無い。
店主と親しく喋る身分を笠に着て、店のチャンネル権を掌握していた。
「はァ…あっつい!」
正面に座るナミが制服のブラウスのボタンを2つ外し、襟でパタパタと扇ぐ。
白い胸が露に覗け、俺は店名の入った丼の底に、慌てて目を落とした。
「気になるゥ?」
下から、にいっと音が出るよな、底意地の悪い顔が覗いた。
「別に」
ぶっきらぼうに返事をして、壁を向いた。
身を起したナミが、勝ち誇った笑い声を上げる。
「にらめっこは目を逸らしたら負けよ!悔しかったら逃げずに前向いてみたんさい!」
そこまで言われちゃ黙ってらんねェ。
正面向き直った俺は、敢えて余裕を気取り、頬杖をついた。
対抗してナミが益々谷間を見せつけるように挑発する。
こうなると意地の張り合いだ。
2人して暫く無言のまま、不敵に笑いつつ睨み合っていた。
「…てめェに慎む心は無ェのか?」
「ゾロは私に慎んで欲しいの?そうしないと理性を保って傍に居られる自信が無いわけね?」
「人を獣みたいに言うな!他人が見てる前で恥ずかしいと思わねェのかって訊いてんだ!」
「見てるのはゾロだけだもん。恥ずかしくないわ」
ナミが言う通り、畳席に居るおばさん2人も店主も、ドラマを肴に喋るのに夢中で、後ろのテーブル席の俺達なんか見向きもしない。
TVの中の男女は俺達以上に激しく言い争っていた。
「俺だって見ちゃいねェよ!てめェが見せるから、目に入るだけだろが!」
「そっちこそ人を露出狂みたいに言って失礼ね!暑かったから襟を肌蹴ただけ、思春期だからって、あんたが意識し過ぎてるだけでしょ!」
「誰が意識してる!?暑いくらいで肌蹴んな!我慢しろ!」
「あんただってシャツ肌蹴てるくせに、他人には我慢を強いるの!?理不尽だわ!」
「男は許されんだ!けど女は駄目だ!プールや海で男は海パン一丁でもOKだが、女は許されねェだろうが!」
「何それセクハラ!?イスラム国家じゃあるまいし、女にだって自由な服装を許すべきよ!」
「大体なァ、暑い日に辛い冷麺なんて食うから、余計に暑くなんだよ!」
「だって辛いの好きなんだもん!ゾロだって暑い日に熱いラーメン食ったじゃない!」
「煩ェな今時メンマと海苔とチャーシューしか載ってない此処のラーメンが好きなんだよ!人の食うもんにケチ付けんな!」
「あんたねェ〜、言ってる事矛盾してるのに気が付かないの?」
店内は厨房から漏れる湯気で蒸し暑かった。
それも俺達を熱くさせる原因になっていたかもしれない。
TVの横には瓶ビールや瓶ジュースの入った冷蔵庫が置いてあり、その上の小型扇風機が休み無く首を振って涼風を送り込んではくれるものの、俺達のテーブルには吹流しすら持ち上がりそうもない微風しか届かない。
俺もナミも汗だくで、メニューを団扇代わりに扇いでいた。
「そんなに、てめェは俺に胸を見て欲しいのか?」
「誰が何時只で見せるって言ったのよ?」
「金を払えば見せてくれんのか?」
「金を払ってでも見たいわけね?」
「誰が何時見たいと言った!?」
堂々巡りで切が無ェ。
今更ながら口喧嘩を買ったのを後悔した。
「終いにゃ、手ェ突っ込むぞ…」
「そんな勇気無いくせに!」
脅かすように言ってもみたが、鼻で笑われた。
だが多少は効果有ったのか、ナミは開けっ広げていた胸を仕舞うと、ブラウスのボタンを留めた。
漸く目の毒が収められ、心からホッとする。
そんな俺の様子を見て、ナミはニヤニヤと性悪な笑みを浮かべた。
「あんたもルフィも色気にゃ無縁のタイプに思えたけど、ちゃんとノーマルな男子に育ってたのねv去年の夏から私を意識して避けてるでしょ?気付いてんだから!」
「ルフィ」ってのは俺と同じアパートの真下に住んでる幼馴染みだ。
そして目の前に居るナミも同じアパートで、ルフィの左隣に住んでる幼馴染みだ。
高校2年の現在まで、ずっと同級の腐れ縁。
揃って親が共稼ぎで遅くまで帰らないもんで、高1までは鍵を3つ持たされ、家3軒を自由に行き来していた。
今でも3人一緒には、よくつるむ。
けれど2人だけでは稀だ。
今日はルフィは腹痛で学校を休み、俺は逃げ切れずに捕まった。
それでも家に来て夕飯を作るというナミの申し出は断り、帰り道途中の蕎麦屋で食ってく折衷案に落ち着いた。
ナミの言う通り、俺もルフィもナミと2人きりになる事を避けていた、怖れていた。
「気付いてんなら気持ち汲んで遠慮してくれよ。…おめェだって何時までも俺達とつるんで楽しく思う年頃じゃねェだろ?」
「ゾロもルフィも、私と居るのは楽しくないんだ…」
しょんぼりと俯く、目が少し潤んでいる。
捨てられた仔猫の様で、謂れの無い罪悪感に苛まれた。
「楽しくねェとかそういうんじゃなくって…!うがあぁぁぁ!!どう言や解るんだよ!!めんどくせェェェ!!」
上手く言葉に出来ないもどかしさに、抱えた頭をガリガリと掻く。
離れていて好き合ってるなら、一緒になればいい。
嫌いだったら離れたままで居るからいい。
元から近くに居る分、どうしていいか判らなかった。
「――もういい!食い終わったんだろ?帰るぞ!」
これ以上蒸し暑い中で悩んでたら、脳味噌沸騰して味噌汁になっちまう。
「あ、待ってよ!まだ食べ切ってないんだから!」
早々と立ち上がって入口側のレジに向った俺を、ナミの声が引き止めた。
振り返った俺の前で、氷水に沈んでたサクランボを箸で抓む。
てっきり嫌いで残したのかと思ってたが違ったらしい。
しかし何で冷麺の上には、甘いシロップ缶のサクランボが載せられてんだ?
辛い麺に甘い果物を混入するセンスは、俺には全く理解出来ねェ。
けれどナミは嬉しそうにそれを含み、ティッシュで口元を押さえながら種を吐き出した。
常連との話に夢中になってた筈の店主は、俺達が帰り支度をしてるのを鋭く捉えると、レジに入って待ち構えていた。
店主の営業スマイルに送られて、引き戸をガラガラと開ける。
夏至間近の空は、18時を過ぎても夕方の様に明るかった。
「もう1箇所、寄りたい所が有るんだけど」
「何だ?まだ食い足りねェのかよ?」
坂を下ろうとした所で、袖を引っ張られた。
返事を聞くのも待たずに、ナミはアパートが在る方向とは逆の、線路沿いの脇道に入ろうとする。
「店じゃないの。ちょっと…ちょっとだけだから付き合って!ね?」
甘える声で引っ張る手を振り払おうとして、逡巡した。
そんな事をすればナミは傷付く、一緒に居るのが嫌なわけじゃない。
夏至間近の空は日暮れまで時間がかかる。
暗くなるまで帰ればいいと考えた俺は、大人しく袖を引っ張られて歩いてった。
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