彼からの贈り物




智弥 様


 ふと荷造りをしていた手を止め、私は窓際に目を向けた。
 そこにあるのは、シルバーのフレームで真ん中から縦に二つ折りになる縦長のフォトスタンド。中には、写真が六枚入ってる。
 私は立ち上がりそのフォトスタンドを手に取ると、懐かしい思い出が蘇る。
「おい、終わったか・・・、って、何してる」
「ん、これ見てる」
 部屋の入口から顔を覗かせた彼に、私は手にしたものを見せる。彼は得心したように頷くと、私に近づき手元を覗き込んでくる。
「懐かしいっちゃあ、懐かしいよな」
「うん、もう五年になるのよね」
「そうだな」
 なんとなく感慨深くなって、二人で写真を見つめてしまった。

 写真に写ってるのは、笑顔の私と、一頭の茶色い中型犬―――





 その犬を飼い始めたのは、私が小学一年生の時だった。
 犬を飼いたいと、姉と一緒になって騒いでる私に両親が根負けして、母の知り合いの人から仔犬をもらうことになった。
 その人の家に仔犬を見に行くと、産まれたばかりの黒い仔犬が四匹、白い仔犬が二匹、ダンボールの中で互いに身を寄せ合うように、きゅうきゅう鳴きながらひしめき合っていた。
「かわいい〜!」
 姉と二人で覗き込んでいると、奥の部屋から母犬が不安そうにこちらを窺っていたけど、飼い主に止められているらしく、こちらには来なかった。
 どれにしようかと悩んでいると、ある一匹だけ必ず、ほかの仔犬たちの下敷きになることに気づいた。下から救い出しても、しばらくするとまた下敷きになる。姉も私もそれには笑ってしまった。両親の「どれにする?」という問いかけに、私たちは迷わず、その一番情けない仔犬を指差した。
 それから一ヶ月以上経って離乳が済んだ頃、仔犬は我が家にやって来た。
 久しぶりに見た仔犬はずいぶん大きくなっていて、初めて見た時の手のひらに乗るくらいの大きさから、大人が腕に抱っこできる大きさに成長していた。
 産まれたばかりの時に真っ黒だった体毛は、全身茶色に背中から尻尾にかけた上側が黒、といった配色になっていた。
 おとなしく母に抱っこされている仔犬は落ち着きがなくて、オドオドキョロキョロと辺りを見回していた。その時の、目尻が下がって不安いっぱいの顔をした姿は、いまでも鮮明に思い出せる。
 慣れるまでは玄関にダンボールを入れて、その中で様子を見ていた。家族の靴を噛んだりして遊んだり、父の靴の中に顔を突っ込んで寝ていたり。一度、父が発したカミナリの音に、ビクゥッ!て大袈裟なまでに体が竦んだのを見たときは爆笑しちゃった。
 そんな殊勝な態度は環境に慣れるにつれてなくなり、一気に仔犬特有のやんちゃ振りを発揮するようになった。
 最初は学校に行く私と姉の後を追いかけようと、キャンキャン鳴いていた。それでも一ヶ月経つ頃には学習したらしく、追いかけるそぶりは鳴りを潜め、その代わりに、帰宅した私たちにじゃれつくようになった。どうやら『どこかに行く→帰ってくる=遊んでもらえる』と覚えたようだった。たしかに、学校から帰るなり宿題そっちのけで散歩に出かけたり遊んだりと、構い倒していたんだけど。
 環境に完全に慣れた頃、首輪を着けることにした。最初は嫌がって首輪抜けを何度も繰り返し、時には失敗して首と首輪の隙間に前脚を挟んだままの姿で「助けてー」と言わんばかりに、キャンキャン鳴いていた姿が私たちの笑いを誘った。
 初めて飼う犬だったから、躾なんてよくわからなかった。でも、噛まれた時や悪いことをした時はちゃんと叱って、言うことをきいた時は褒める、というのはしっかりと実践した。そのせいか、セールスマンや宗教の勧誘などの「吠えて良い人」と郵便や宅配便や近所の「吠えて悪い人」を区別するようになった。
 だから、元々頭は悪くはない、はずなのに。
「な〜んで、こんなにおバカかなぁ」
 ついついため息を吐いてしまう私の足元では、父のいたずらにより口の中に小さめの煎餅を縦に入れられ、取り出そうと四苦八苦している成犬に成長した飼い犬の姿。雑種とは聞いていたから、べつに賢くなくてもかまわないのだけど。この姿はちょっとなぁ、と苦笑してしまう。
 あの時見た母犬は柴犬だった。予防注射をしてくれた獣医さんからはシェパードの血が入ってるみたいだね、と言われた。そう言われてみれば、柴犬よりもちょっとだけ体は大きいし細身だし尻尾は巻いてないし顔も耳も長いし、体毛の配色もほぼシェパードと同じだ。違うのはあちらは大型犬で、こちらは中型犬ということだけ。だから、どちらに転んでも頭はいいはずなのに。
「やっぱり、躾に失敗したのかなぁ」
 一人愚痴る私の足元では、ようやく煎餅にありつけたおバカさんが、尻尾をフリフリ私を見上げていた。なにやら期待した感のあるその眸の輝きに、私はあきらめ半分のため息をつき、笑った。
「でもまあ、馬鹿な子ほどかわいいって言うし。ま、これはこれでいっか!」


「ほんっと、おバカだったわねぇ」
「俺が知る限り、学習能力はあったはずなんだがなぁ」
「うん、それは大丈夫だったわね」
「だよなぁ。んじゃ、あれか。性格か」
「・・・そうかも」


 そう、たしかにおバカではあったけど、学習能力はちゃんとあった。
 発進直後の車に前脚を轢かれれば動いている車には近づかなくなったし、父から粘着力が落ちたガムテープを口に巻かれれば以後警戒するようになったし、空になったポテトチップスの袋を被せられれば以後被せられる前に逃げるようになったし、煎餅を縦に入れようとすれば顔を横にして食べるようになったし、冬の散歩で凍った道路で走って滑れば気をつけて歩くようになったしと、ちゃんと原因・行動・結果を結び付けて学習することはできてるのだ。
 なのに、どうしてもおバカが先にきて目立ってしまう。犬も個々で性格が違うというから、うちの犬はそういう愛嬌のある性格なんだと、あきらめ半分で納得させた。
 でも今考えれば、学習能力が発揮されるのは「自分の行動=痛い目または嫌な目をみる」がすぐに結び付いた時のみだった。
 だから、なかなか治らなかったのが『脱走癖』だった。
 脱走したあとに帰ってきたり、私たちが連れ帰ったりしたあと叱っても、なぜ叱られているのかわかってなかったからだと思う。
 いつだったかも、油断したスキに散歩紐ごと脱走されたことがあった。
 でもそのおかげで、いまの彼と逢えたんだけど。
 短大から帰ってきた私は、母から話を聞いて探しに行ったのよね。そして、その先で出会ったのが、彼だった。


「あん時は驚いたがな」
「しかたないでしょ!心配して捜してたのに、知らない人と一緒に散歩しているうえに、のんきな顔で振り返るんだもの」
「だからってなぁ、他人がいる前でいきなりぶん殴るかよ、フツー」
「・・・ふんっ。どうせ暴力女ですよ〜だ」
「まあ、そんだけ心配してたってことだろ」
「・・・うん」


 初めて会った彼の前で、思いっきり醜態をさらした私を、彼は豪快に笑い飛ばしてくれたっけ。嫌みを感じさせないその笑顔につられて、私も一緒に笑っていた。
 彼との付き合いは、それからだった。
 当時大学三年生だった彼と短大二年生だった私は、夕方や休日に犬の散歩という名のデートを重ねた。時にはちゃんとしたデートもしたけど、やっぱり落ち着けるのは何気ない散歩デートだった。あの子も、私と違って全力で遊んでくれる彼に懐きまくってたしね。
 そんな風にして、私と彼と飼い犬との二年という月日は過ぎていった。その二年の間に、私はひと足先に社会人になり、彼も無事に大学を卒業して就職し、休日が合ったときには、仕事の息抜きを兼ねた散歩デートを重ねていった。

 そして、雪の降る二月のあの日。
 前日までは、普通にご飯を食べてたあの子の様子がおかしいことに気づいた私は、ちょうど休みだった彼に頼んで動物病院に付き合ってもらった。さすがに中型犬とはいえ、私の力じゃ連れて行くことができなかったから。
 ひとまず動物病院にあの子をあずけ、私たちは帰ってきた。獣医さんの軽い言葉に、すぐに良くなるものだと信じていた。夜にかかってきた、あの電話があるまでは。
 獣医さんの話では、ケージの中でぐったりとしていたあの子は、夕方に一度立ち上がったという。だから獣医さんも大丈夫だと油断していたみたいで、しばらくしてから診た時には、亡くなっていたという。
 その電話があった時、家には私しかいなかったから、震える指で彼に電話した。たぶん、私の声音から察したんだと思う、彼はすぐに来てくれた。そして二人であの子を迎えに行ったんだ。
 老衰に加え、寒さによる低体温。それが原因だった。私たちが気をつけてさえいれば、死なせずにすんだのに。それが、いまでも悔やまれる。
 診察台に横たわるあの子を見て、獣医さんから「立ち上がったのは、家に帰ろうとしたんだろう」と聞かされた瞬間、私は泣き出してしまった。それからはもう、ただあの子の体を抱きしめて、私は車の中で泣いていた。
 その後のことは全部、彼がしてくれた。診察代を支払うのも、家族に連絡するのも、私たちを家に連れて帰ってくれたのも、家族が帰ってくるまでの間、私たちに付き添ってくれたのも。
「食い意地のはった、こいつらしいよな。飯をしっかり食ってから死んだあたりは」
「・・・ぅん」
「うちに帰ろうとしたんだな・・・。あんだけ脱走しまくってたのにな」
「ん・・・」
「まだ、こんなにあったかいのにな・・・」
「・・・ぅん」
「老衰だとよ。十四年生きたんだ、犬にしちゃあ、長生きしたほうだな」
「・・・でも、やっぱり、もっと・・・、長生き、して、ほしかったの・・・!」
「ああ、わかってる」
 ――だから、好きなだけ泣いとけ。
 そう言われたような気がした。
 ただ事実だけを言ってくる彼のぶっきらぼうな言葉に、私やあの子を撫でる優しい手つきに、だんだん冷たくなる固くなる体に、私はただ涙を流し続けて、頷くことしかできなかった。
 それからしばらくは、明けても暮れても泣き通している私に、彼は時間を割いては傍にいてくれた。哀しみを堪えて仕事を終え、私の会社帰りに無理を言って、私が落ち着くまで彼を付き合わせたこともあった。
 彼だって仕事をして疲れてただろうに、文句のひとつも言わずに、いつまでも傍にいてくれた。あの時は、本当に、彼という存在に助けられた。
 なんでここまでペットのために泣けるのって、訊かれたら困るけど、私たちにとっては家族だった、としか言えない。多かれ少なかれ程度の差はあるだろうけど、ペットを飼ってる人はそう思ってる人が多いはず。だから、泣くんだ、としか私には言えない。

 そして二ヶ月ほど経ったある日、あの子の夢を見た。
 最期にと思い、埋葬する時につけてあげた赤い首輪をしたあの子が、窓の外でワンワン鳴いていた。私が窓から顔を出すとじっと私を見つめていたけど、しばらくするとくるりと向きを変え、家のすぐ近くにある電信柱へと走っていった。本当なら私がいる部屋の窓からは見えるはずのない電信柱のはずなのに、私には見えていた。それを不思議にも思わず、受け入れている私がいた。
 電信柱の下には、真っ白な毛の長いグレートピレニーズのような大型犬が、あの子を待っていた。そして二匹が並んで私を見た瞬間――。
「ああ、もう行くのね」
 なぜか、そう思った。そして、私は笑顔であの子を見送ったんだ。


「それからなのよね、悲しくなくなったのは」
「最後の挨拶ってやつか?」
「ん、私はそう思ってる。誰にも話してないのよ、夢のこと」
「俺には、いいのか?」
「あんたはいいのよ」
「そりゃあ光栄だがな、なんでだ?」
 ――だって、あんたはあの子が選んだやつなんだから。
 なんてことは、調子に乗りそうだから、絶対に言ってやらない。だから私は曖昧に笑ってみせる。
「ん〜・・・、ヒ・ミ・ツ」
 私が言葉を濁すと、彼は肩を竦めて部屋を見回した。
「まあ、いいがな。それよりも、荷物積み込むぞ」
「あ、うん。お願いね」
 彼は頷くと、荷造りが出来上がっている箱から運び始めた。私も荷造りを再開する。
「あ、ねぇ」
「なんだ?」
 荷物を運ぶ手をいったん休め、彼は私を振り返った。
 あの子のことを思い出せば、まだ悲しくもなるし涙も溢れてくるけど、それ以上に楽しかったりおもしろかった思い出もたくさんあるから。
 だからね――。
「もし出来たらね、犬を飼いましょう。あの子みたいな雑種でおバカな子」
「ああ、そりゃいいな。だが、当分はアパート暮らしだぞ」
「うん、出来たらでいいの。だから、いつか、ね?」
「んじゃ、それを目標にがんばりますか」
「うん」
 笑顔でそう言ってくれる彼に、私も笑顔で頷いた。
「あ、ゾロ」
 荷物を持って部屋を出かけた彼を再度呼び止める。なんだ、と顔だけで応える彼に、私はとびっきりの笑顔で言ってみる。
「ゾロ、愛してる」
「はっ・・・!?」
 一瞬、虚をつかれたような顔をした彼だったけど、すぐにニヤリと笑うと、
「俺も愛してるぜ、ナミ」
そう言って、足早に部屋を出ていった。珍しくらしくないことを言われて、私はポカンと見送ってしまったけど、彼の耳がほんのり朱くなっていたのに気づいて、クスリと笑ってしまった。強面なくせに妙に照れ屋な彼のそういうところが、
私は好きだったりする。
 だからこそ、こんな他愛ないやり取りでも、こんなにも幸せになれるんだろうな。
 私は写真の中の飼い犬に、話しかける。
「私ね、結婚するのよ。相手はもちろん、あんたが選んで引き合わせてくれた彼よ」
 付き合い始めてから、早六年。あの子がいなくなっても、彼が異動になって遠距離恋愛になっても付き合いは続き、今年になって彼の親が勤める会社に転職することになったのをきっかけに、初夏のある日、私たちは婚約した。それからは、あれよあれよいう間に話が進み、私たちは彼の実家のすぐ近くにアパートを借りて生活することになった。そして、秋には家族だけで結婚式を挙げて、冬に披露宴を行うことになってる。忙しい一年になりそうだけど、それすらも幸せで。面倒なはずのアパートへの引っ越し作業も、彼が手伝ってくれるというだけでなんだか嬉しい。

「あんたが選んだやつなんだから、ちゃんと見守っててね、ルフィ。私たちがいつまでも笑っていられるように」


 爽やかな風が吹き抜ける中、空を見上げてそう呟けば、ワンッと鳴く声が聴こえた気がして、私は微笑んだ。




FIN



 

<管理人のつぶやき>
ナミが小1の時にやってきた犬の名前はルフィ。語られるエピソードの楽しさから、ルフィがいかに愛されていたか分かります。そんなルフィの脱走癖で引き合わされたのが現在の婚約者のゾロ。ルフィもこの男ならとゾロに懐いていたんでしょうね^^。ルフィが亡くなったときのエピソードは胸がつまりましたが、ちゃんと夢の中で別れの挨拶をしにきてくれたんですね;。それでとても救われた気持ちになりました(私も)。

【投稿部屋】で投稿してくださってる智弥様が、ナミ誕にも投稿してくださいました^^。
智弥様、ステキなお話をどうもありがとうございました!