―幸せの音―
こひま 様
あれだけ激しく降った雨が、今はどこに行ってしまったのだろう、西の空の雲間からは、代わりに橙色の光が降り注いだ。じめじめとした湿気に辟易した体も、その光を受けていくらか慰められる。雨も嫌いではないけれど、空が見えると心も晴れるような気になるのは私だけではないはずだ。
遠くで車の通りすぎる音が聞こえる。濡れた道路を走っているせいか、タイヤが水を跳ねる音がはっきりと分かった。この家は道路に面していないのでそれ自体の姿は見えないが、だいたいどれくらいの大きさの車が走っているのかが音で分かってしまうのが不思議だ。普段意識はしていないけれど、人間はこうした生活音を体に馴染ませて生きているのだろう。耳を澄ませば、雨上がりで人もそんなに歩いていないこの閑静な住宅街でも、そこら中から様々な音が聞こえる。食器の擦れる音、子どもの泣く声、自転車の独特な車輪の音、雨のせいでかなり控え目になった虫の声。なんだか妙に寂しい気分になる。
私はベランダの手すりに頬杖をついた。ビールでも飲もうかと思ったが、なんとなく今はアルコールを摂取したい気分ではない。昼間の暑さからすれば、随分と涼しくなったこの空気と、この静けさと、少しの寂しさは、酔ってしまっては味わえないと思ったから。目を閉じて、もう少しだけ夜風に当っていようと思った。
「どこにいるのかと思った」
私の背後で網戸の開く音がした。振り向くと、首の後ろを撫でるように右手で押さえながら、ゾロがベランダに足を踏み出すのが見えた。
「帰ったかと思った?」
ゾロの部屋のベッドは頭が南側を向いていて、丁度ベランダのある窓を背にする位置にあるので、私の姿は見えなかったのだろう。起きた時に隣にいるはずの人間の姿が見えないと不安になるのは、何事にも淡白なゾロもきっと同じだ。
「そのサンダルの音がしなかったら、気付かなかった」
ベランダに出る時用に一つだけ用意してあるサンダルは、底が木でできていて、プラスチック製の床板と擦れると下駄のような音を響かせた。夏の音だ、と思う。そういえばこの地域の夏祭りも、もう来月にせまったのだと思い出すと、時の流れの早さを感じざるを得なかった。今年ももう半分以上が過ぎてしまった。そして今日、私はまた一つ歳をとる。
「何か飲むか?」
一度ベランダに出たゾロが、思いついたようにまた部屋に引き返しながら訊いた。
「じゃあ、麦茶」
私も起きたばかりで、喉が渇いているということに今更気付いた。
低血圧のゾロは、一度寝ると起きてもしばらくぼーっとしていることが多いが、今日は珍しく寝ざめが良いようだった。
ゾロが食器棚を開けたり、冷蔵庫を開けたりするのを待ちながら、私は日曜日が終わってしまう寂しさを感じていた。
「明日からまた仕事かー」
この急に現実に引き戻される感じが堪らない。不思議と、買い物や食事に行ったり遠くに出かけたりする日曜日よりも、朝からだらだらと過ごす日曜日の方が、次の日が来るのが憂鬱だ。
カラン、と音をさせて、ゾロが戻ってきた。両手に氷の入った麦茶のコップを持っているので、網戸を開けるのは必然的に足しかなかった。器用に片足で網戸をパシリと閉めると、片方のコップを私に差し出した。
一つしか用意されていないサンダルを私が履いてしまっているので、ゾロは少し汚れた床の上を裸足でぺたぺたと歩いた。
「ありがと」
渡された麦茶を手にして、私はそれを一気に飲み干した。風呂上がりのビールよりも、実は喉の渇いた時の麦茶の方が好きだ。最後の一滴まで飲み干そうと限界までコップを傾けると、氷が唇に当たったので、そのまま氷を一つ口に含んだ。口の中がひんやりと冷えて心地が良い。二、三回口の中で転がした後、奥歯でそれを噛み砕いた。
ゾロも私の隣で手すりに手をつき、麦茶を飲み干した。それを見届けてから、私が空になったコップを渡すと、素直にそのコップを片づけにまた部屋に戻った。
ゾロは昔より随分と優しくなったと思う。付き合い始めの頃はもっとつんけんしていて、私が「麦茶」なんて言おうものなら「自分で取って来いよ」と言い放つような男だった。しかし、それに屈さず私がわがままを突き通すうちに、だんだんと私の言うことに逆らわなくなった。というより、私のわがままを溜め息を吐きながらも許すすべを身につけたのだと思う。思えば、ここ最近喧嘩も減ったような気がする。一番最近で喧嘩をしたのはいつだったか。それすらも思い出せない。
それが少しつまらなくもあり、愛しくもあった。私が二十歳の頃から付き合い始めて、もうすぐ5年目になる。その歳月で積み重ねた目に見えない何かを、今じんわりと感じた。
ふと、バイクの通りすぎる音が聞こえた。改造してあるのか、やけに大きく響く音だった。そのせいで、バイクの通りすぎた後の辺りの静けさが一層際立つ。大きな音の後に残る静けさは、むしろ、しんと耳に響いた。耳を塞いでも遮ることのできない静かな音。耳鳴りがしそうだった。
その時、チリン、という高い音がしたと思うと、後ろから温かいものが覆いかぶさった。その聞き慣れた高い音は、いつも私を安心させる。歩いている時、風の吹いた時、振り向いたとき、キスをする時、私を抱く時、必ず聞こえるピアスの音。多分私は、もうこの音なしでは生きていけないと思った。
「誕生日が嬉しくない歳に、私もなっちゃった」
今日から、四捨五入すれば30歳になってしまう。
私は、後ろから抱きつくゾロの腕にそっと自分の手を重ねながら言った。
「まだ25じゃねェか」
一つ年上のゾロはそう言ったが、私にとっては、もう25なのだった。無条件に誕生日を喜ぶことができた少女の頃が懐かしい。
あの頃、誕生日が嬉しかったのは、歳をとること自体が理由ではなかったと思う。プレゼントが貰える嬉しさと、周りの人が祝ってくれる喜びに大半の理由があった。それが今は、欲しい物さえ思い浮かばない。今朝ゾロに、何が欲しいかと訊かれた時、考えた挙句に口から出たのは「掃除機」という何とも生活感溢れる物だった。情けない、と思った。財布やバッグやアクセサリー、そういったある種無駄な物を欲しがる若い気持ちが今の私には足りていない。
もしかしたらゾロにしたって、掃除機なんかを買い与えるよりそういった装飾品を買う方が嬉しかったのかもしれない。
ふいに、ゾロの二本の人差し指が、私の口角に突き刺さるのを感じた。そして頬肉ごと思い切り上に吊り上げられる。
「にゃにすんのよ」
ゾロに無理矢理唇の形を変えられているせいで、上手くしゃべれない。
「口がへの字になってたぞ」
言いながら、ぐにぐにと私の頬を好き勝手にこねる。
私はそんなにも顔に出していただろうか。人の顔で遊びながら、ゾロが呆れたように私の顔を覗き込んでいた。
「歳をとるのは顔や体じゃねェ。気持ちだよ」
ゾロは私の心を見透かしたように言った。言われた言葉を自分の中でもう一度繰り返す。駄目だ、いけない、と思った。そういえばここ最近、美容院にトリートメントしてもらいに行っていない。そういうところから気持ちの方が見た目や身体機能に先行して歳を取っていくのだ。そんなことに、ゾロに言われて気がついた。
「来週の休みに美容院行ってこよう」
独り言のようにつぶやいたつもりだったが、ゾロが咄嗟に反応を返した。いつの間にかゾロの両手はまた私のお腹の前で組まれていた。
「髪切るのか?」
その声には、分かりやすい程の焦りが含まれていた。ゾロは、口には出さなかったけれど、私の伸びた髪を気に入っていたから。思わず笑ってしまった。
「トリートメントするだけよ」
そう答えると、なんだ、とゾロはそっけなく答えた。それには多少の強がりが入っていることも私には分かっていたけれど。本当は安心したくせに。
夜の風がびゅうと私達の耳元を吹き抜けた。ゾロのピアスがちりちりと鳴る。
ゾロが私の髪を梳きながら私の顔を振り向かせるのにまかせて、首をひねってゾロを見た。瞬間、ゾロの唇が私の唇に優しく当たった。
艶めかしい音を立てて唇を離すと、ゾロの腕の力も抜けたので、私はそのまま体をゾロの方に向き合わせて、背中に手を回した。雨のせいで黙っていた虫達も、徐々に鳴き声を強めている。ゾロの胸に耳を当てると一定したゾロの心臓の音も聞こえて。
幸せな音だった。
私は今まさに、幸せに満たされていた。
「ナミ」
ゾロが私の髪を撫でる。
「結婚しようか」
ゾロの声は驚くほど穏やかだった。きっとこんな時、猫だったら喉をごろごろと鳴らすのだろう。
ゾロは私の手を取って、どこから出したのか、いつの間にか握っていたシルバーの指輪を、私の薬指にはめた。主張しすぎない程度にきらりと光るオレンジ色の石がはめこまれたその指輪は、元々そこにあったかのように私の薬指に何の違和感もなく収まっていた。
不覚にも、鼻の奥がつんと痛くなったので、私は再びゾロの胸に顔を埋めた。
「してあげてもいいわ」
くぐもった声で私がそう言うと、ゾロは「そりゃあ光栄だ」と言って笑った。
25にもなって、少女のように無邪気に誕生日を喜ぶなんて、私もまだまだ若いわね、などと、声に出さない心の声で、一人ごちた。
風の通りすぎる音とか、遠くの人の話し声とか、車やバイクの通る音、ゾロの心音にピアスの音。幸せだと思えるのはやっぱりゾロがいるからで。こんな穏やかな誕生日を、これからずっと過ごしていくのも悪くないと思った。
――HAPPY BIRTHDAY, NAMI!
―fin―