此。
mariko 様
「………あ」
どんより曇った夜空の下で、日課の素振りをしながらゾロは思わず声を漏らした。
周りには誰もおらずその呟きに対する反応は何もなかったが、「三千」とキリの良いカウントを終えると、木の枝に引っ掛けていたタオルを引っ張り、乱暴に顔の汗を拭ってから肩にかける。
素振りに使っていた刀を鞘に戻し、他の二本も掴み脱ぎ捨てたシャツも拾って屋敷の中へと足を進める。
ミホークの住処であるこの城に居座ってどれだけ経ったか正確には把握していないが、先日屋敷内のキッチンで見かけたカレンダーは七月のものだった。
確信はなかったが、少なくとも今こうして思い出したのだから『あれ』が近いことは間違いない。
まさか過ぎている、なんてことはないだろうが、ゾロは自分の直感を信じることにした。
「お前! またそんな恰好でウロウロして!」
唐突な喧しい声に振り返ると、ヒラヒラの服を着た女が宙に浮いていた。
ゾロと同じくこの場所に飛ばされていたペローナは、これまた同じようにここに居座っている。
修行している訳ではないようだが、去る予定もないらしい。
ミホークもそれに文句を言ってはこず、「勝手にしろ」という放任主義のようで今のところ二人とも追い出されてはいない。
衣食住、加えてゾロは稽古まで全て世話になっている状況だが、ペローナはそれなりに家事を手伝っているようだった。
「服を着ろ、服を!!」
傘を持った状態でフワフワと浮きながら、ペローナはゾロへビシリと指を突き付ける。
トレーニング中は汗をかくので、ゾロはいつも上半身裸で行っていた。
ミホークに稽古をつけてもらっているときは着ているが、一人の鍛練では体裁など関係無い。
だがその姿を見かけるたびにペローナは文句を言ってくる。
いい加減慣れろ、と思いながらゾロは顔をしかめ、「今から着るよ、うるせぇな」と渋々答えると手に持っていたシャツを羽織った。
食事の準備をしてもらっている以上、あまり強情に逆らうこともできないのだった。
「あぁそうだ」
「何だよ」
「お前、今日何日か分かるか? 七月だよな?」
ゾロは自室として借りている部屋へと向かいながら、同じ方角に用でもあるらしく隣に付いてくるペローナへと声をかけた。
その質問にペローナはきょとんとして首をかしげる。
「新聞読んでないのか」
「最近はな。暇が無ぇ」
「でも修行以外は寝てばっかりじゃないか、お前」
「うるせぇな、いいから何日だ」
睨みながらそう言うと、どうやら気分を害したらしいペローナにネガティブホロウを飛ばされ、直後ゾロは床に四つん這いになり肩を落とすことになった。
「甲斐性無しでごめんなさい……」
その姿に気が晴れたのか、ペローナは笑いながらすぃーっとゾロの前に移動する。
我に帰ったゾロが、自分への怒りと恥ずかしさで顔を赤くしているのにもまた満足したらしい。
楽しげに微笑みながらクルクルと傘を回している。
「優しい私は教えてやるよ。今日は七月の二日だ。でもそろそろ日は変わるぞ」
「……そうか」
「何か予定があるのか?」
「……いや、別に」
「ふぅん。まぁ私には関係ないけど」
ペローナはそのままフワフワと飛び去った。
残されたゾロは立ち止まってしばらく考えて、それからキッチンへと足を向けた。
二年離れるというのは、つまりこういうことでもあるんだな、とゾロは思った。
同じ船に乗っている間は、一緒にいるのが当たり前だった。
だから誕生日には前の晩から酒を酌み交わし、そして日付が変われば祝福の言葉を贈っていた。
元々はゾロの誕生日が始まりで、ゾロ自身は自分からそんなことをするような性格ではなかった。
だが、ナミが喜ぶのだ。
自分がされたことをそのままナミの誕生日にやってみたら、ナミは目を潤ませて笑っていた。
そのときにはロクなプレゼントも用意しておらず、いつもよりほんの少しだけ高めの酒を一本準備できただけだった。
それなのにナミは嬉しそうにそれを飲んで、抱きついてきて、お礼を言ってきた。
えらく素直で、おかげで釣られて素直になったゾロも随分とらしくない言葉を口走っていた。
あんな風な笑顔が見られるのなら、いくらでも言ってやる。
来年も再来年も、もういいと言われても、いくらでも、いつまでも。
本当にそう思っていたのに、今現在、離ればなれだ。
ゾロはキッチンに入ると、ごそごそと棚を漁って酒を取り出す。
屋敷内の酒を勝手に飲んでも、やはりミホークは特に文句は言わない。
さすがに船に居た頃のように好き勝手には飲まないようにしているが、とは言え食事時の量でも常人よりはるかに大量に飲んでしまう。
そうして減っていってもいつの間にか買い足されているそれを、今日は有難く頂戴する。
いつも選ぶ酒よりも、ほんの少し高いものにした。
それから別の棚からグラスを二つ取り出し、テーブルに置く。
酒の蓋を開けて両方に注ぎ、椅子に腰かけた。
深夜のキッチンにガタガタと音が響いて、それからすぐにしんと静まる。
今頃ナミはどこにいるのだろうか。
生きていることは間違いない。
そう簡単にくたばるような女ではないからだ。
飛ばされた先できっと上手いこと立ち回り、そうして自分の能力を伸ばしていることだろう。
ふいに廊下の方から、時計の鐘の音が遠く聞こえてくる。
ゾロはそれを聞いて、自分の前に置いたグラスを手に取った。
「……七月三日だとよ」
自分以外に誰もいないキッチンで、小さくそう言って微笑んだ。
ナミは今日が自分の誕生日だと思い出しているだろうか?
それを祝ってくれる誰かと一緒にいるだろうか?
その『誰か』が男だったら、とふと自分の想像に自分でムカついて、ゾロは小さく舌打ちする。
出来るなら今年も共に祝ってやりたかった。
日付が変わって一番最初に祝福とキスを贈って、そうしてあの笑顔を一番に見るのは自分でありたかった。
「……ま、しょうがねぇよな」
集合はあの日から二年後だ。
つまり今日と来年、二回分の誕生日は一緒に祝えない。
それでもこの想いは、この言葉は届くだろう。
此処とつながるどこかの場所で、お前が笑っているようにと願っている。
グラスを持ち上げ、テーブルに置いたもう一つのグラスに近づけカチリと音を鳴らす。
向かいの椅子には誰も座ってはいないが、それでも眩しいほどに鮮やかに思い出せる愛しい女の笑顔に、ゾロは優しく微笑み返した。
「誕生日おめでとう、ナミ」
翌日以降、『誰もいないキッチンでぶつぶつ独り言を言って乾杯していた怪しい男』として、ゾロはしばらくの間ペローナから不審者に対する眼差しを向けられることになった。
(了)