―鬼の居ぬ間に洗濯を―

                                こひま 様


「痛…っ」
 戦いの最中に作った傷に、粗悪で格安な洗剤が沁み、思わず眉を寄せる。
 この船では、洗濯は基本的に女達の仕事だから、こんなことはよくあることだ。料理や皿洗いをしないだけ、世間でいうところの「主婦」という職よりは楽なのだろうとも思う。とはいえ、手荒れがない代わりに戦いで作った傷跡が幾筋も目立つ両手を見て、やるせない思いになることも、なくはない。泡にまみれた両手のひらをくるりと返し、手の表にも裏にもある治りかけの細かい傷を眺めた。
「痛むのか」
 いつの間にか私の隣に座り込み、私と同じ場所に視線を注いでいたゾロが、唐突に声を発した。突然の低い声に、肩が一度跳ねた。
「びっくりさせないでよ」
「…悪い」
 ゾロは素直に謝ると、そのまま私の隣に胡坐をかき、改めて言葉を発する。
「手、傷だらけじゃねぇか」
 彼の声にはわずかながら労りの色が伴っていた。
しかし私にとっては、このくらいの傷は幼少の頃から慣れ親しんだものだし、比喩的な意味でもたくさん手を汚してきたのだから、今更まっさらで綺麗な手に戻れないことくらいは分かっていた。
「異常に傷の治りが早いあんたたちと一緒にしないでよ」
そう言うと、ゾロは「なるほど」と納得したように呟き、自分の手や腕の傷を、というより傷のあったであろう箇所を軽く触りながら点検した。
彼の腕は、傷一つなかったかのように綺麗ですべらかだった。
「不条理なもんだな」
ゾロは申し訳なさそうにそう言ったが、どういうことを指して言った言葉なのか、理解するには言葉が足りなさ過ぎた。




 太陽が西に傾き始めた午後の始まり。よく晴れた空、青々とした芝生、人が洗濯しているのを尻目に水遊びをしようと目論む連中、たらいの中に入った大量の洗濯物。
なんだかここが、あの悪評轟く新世界の海だとは、到底思えないほど平和な光景だった。ずっとこんな日常が続けば良いのに、と暗黙の了解のうちに皆が口に出さないことを、やはり私も考えてしまう。それぞれが、自分の夢のために、平和な日常を犠牲にしているのだと思う。そういう生き方を、私たちは選んでしまったのかもしれない。
 そんな他愛もないことを考えながら、もう一度たらいの泡の中に手を浸けようとすると、ゾロがおもむろに私の腕を制して、言った。
 「それくらい、俺にもできる」
そうして、大きなたらいを(それも洗濯物と水とが大量に入っている)、片手で軽々と持ち上げ、胡坐をかいた自分の目の前に置き直した。たらいの中の水面が揺れて、飛び出した大きな水滴が、横座りをした私の膝に撥ねた。
おそらく、私の手の傷が沁みるのを気遣ってくれたのだろう。やってやるよ、と素直に言えないのが彼らしい。
「ありがと」
傷が沁みるのは今に始まったことではないけれど、やってもらえるに越したことはないので、遠慮なく手伝ってもらうことにした。こんないい天気の中、この男が居眠りもせずに何か手伝いをするなどということも、珍しかったから。
ゾロは泡の中にある洗濯物を手に取り、力強く洗濯板にこすりつけた。そんな風にしたら生地が傷んでしまう、とも思ったけれど、今まさにこすりつけられている布は、私のものではないので見過ごすことにする。あいつらのことだから、多少ボロボロになっても気に留めないだろう。
乱雑に汚れを落としたものを、これまた力任せにぎりぎりと絞って、ゾロは私に手渡した。干すのは私の役目ということなのだろうか。私はありがたくそれを受け取り、立ち上がってあらかじめ吊るしておいたロープに、洗濯ばさみでとめた。強く絞りすぎて、いつもより少しだけ皺の多いタオルが、風を纏って宙を泳ぐ。さながら鯉のぼりでも見ているような色とりどりな布きれ達に、心なしか目を癒された。
その後もゾロは、特に言葉を発することもなく、固く絞り上げた洗濯物を手渡した。私はそれを無言で受け取り、ばさりと一度しわを伸ばしてからロープにかける。そんな作業を黙々と続けた。


作業を続けている間、私は彼への特別な好意を改めて感じていた。
自分の想いに気付いたのは、いつ頃だろう。出会ってからそう時間も経っていない頃だったような気がする。最初は、こんな感情を抱いたことを自嘲したり、責めたりもしたが、今となってはそういうこともひっくるめて自分なのだと認め、受け入れることにしている。共に航海をしていく中で、その思いは強くなる一方であったということも、そうさせた理由の一つだけれど。
ただ、一つ心に決めているのは、その思いが航海において支障をきたすようなら、すぐにでも船を降りなければならないということ。私のこの感情のせいで、船員たちの夢に向かう気持ちをぶれさせたくないし、関係性のバランスを壊したくもないから。
だから、伝える気もないし、彼とクルー以上の関係になることも望まない。ただこうして、時折やってくる擬似的な平和の中で、ゆったりとした時間の流れを一緒に感じることができれば、何も言うことはない。世に言う恋愛というものは、私たちが前に進むうえで犠牲にしているものの一つなのだから。
想いの対象がどうしてゾロなのか、とは幾度も考えた。しかし理由は散漫としていて、まとまりをつけることは難しい。考えてみるとたくさん理由がある気もするし、理由もなく惹かれてしまっているようにも思える。けれど、もしかしたら、彼が無意識のうちに頭のすみに持ち合わせているフェミニズムのせいなのかもしれない。彼はどこかのコックのように明白に目に見える形ではないが、「女を大切に」というか、「女は弱い生き物」と思っている節があり、どこか「男」だとか「女」だとかにこだわりを持っているように思えてしまう。
彼の過去に何があったのか詳しくは知らないが、もしかするとそれは、彼の故郷では幼い頃から当然のように教わってきたことなのかもしれない。
だからこそ、自分が女であるということが変に意識されてしまうのだ。おまけに、彼の筋肉質な体とか、低く錆のある声だとか、そういう彼のいかにも「男らしい」部分にも、その原因はあるのだろうか。明らかに他のクルーとは違った男の気配を醸し出しているのは、確かである。今日みたいに、時折見せる優しさにも、私を惑わす原因があるに違いない。






 私たちが大量の洗濯物を洗ったり干したりしているうちに、水遊びを目論んでいた連中が、与えられた掃除という仕事をそっちのけにして、その計画を実行し始めた。口笛を吹きながらデッキブラシを懸命に動かすサンジ君の背後にルフィが忍び寄り、バケツの中の水を彼の頭めがけて一気にぶちまける。水を浴びせられたサンジ君はそのバケツを被ったまま、犯人のルフィとチョッパーを追いかける。まるで子供のような遊びだけど、その遊びに本気になれることこそが彼らの魅力でもあるのだと思うと、止める気もなくなってしまう。
 ゾロを見ると、彼らの大騒ぎする姿を見て、大男に似合わず子供のような屈託のない笑顔をこぼしていた。それを見るとなんだか私も頬がゆるみ、自然と笑みが漏れる。
 無愛想な割に子どもっぽく笑ったり、いざ戦いになると真剣な表情をしたり、時には不敵に笑んでみたり。クールな印象だけれど、案外色々な表情をするものだ、と何故か感心してしまった。
 ゾロは、最後の洗濯物を絞り終わると、今度は私に手渡さずに、自分でそれをばさばさと広げ、私の隣に立った。並んで立ってみると改めて実感する彼の身長の高さに、鼓動が早まる。掃除からすっかり水遊びに切り替えたクルーたちが生み出す喧騒が遠くに聞こえ、2本のロープに吊るされた洗濯物たちがちょうどパーテーションのように私たちを囲み、なんだか二人だけが現実の世界から切り取られた知らない場所にいるみたいだった。
 「案外悪くねぇな」
 何の脈絡もなく、ゾロは独り言のように言葉を発したが、私にはその意味がよくわからなくて、返事をすべきかどうかも判断がつかなかったので、とりあえず黙っていることにした。
 ゾロはその後に言葉を紡ぐことなく、持っていた最後の洗濯物をロープにかけた。
 「ありがと」
 ゾロの動作を見守った後、私は素直にそう声をかけた。ゾロはそれに対して返事もせず、短く一つ息を吐いて、前髪をかき上げた。すると、彼の腕についていた泡がちょうど彼の額にぽとりと落ちた。
 「あ、泡が」
 私が自分の額を指さして泡のついていることを指摘すると、「ん?」と短く声を発し、ゾロは泡のついている側とは反対側を探った。
 「そこじゃなくて…、あ、目に、」
 水分を多分に含んだ泡が額から流れて目に入りそうだったので(しかも彼の開いている方の目であったので)、私は慌てて自分の手でゾロの額をぬぐった。私の手には、ゾロの額から拭い取った泡と、日に焼けてしっかりとしたゾロの肌の感触が残った。
 「悪ぃな」
 ゾロはにこりともせず、私の目をまっすぐに見て礼を述べる。その、人の心まで見透かしてしまいそうな視線は、やはりどうも苦手だ。私がゾロのことを特別な想いで見ていることさえも、見抜かれてしまいそうで。
 「そういえば、」
 ゾロの目を見て、ふと先ほどの会話を思い出す。
 「あんたでもさすがにこの傷は治らないのね」
 泡を拭ったついでというわけではないが、私の手は自然にゾロの左目の傷に触れていた。左目を両断する長い傷を辿ると、その細いラインだけ少しつるりとしていて、新しい細胞が作られていることが実感できた。
 傷を辿っていた指を離すと、思った以上に自分がゾロに近い距離にいることに気付き、また少し鼓動が高まってしまった。これでは自分で墓穴を掘りに行っているようなものだ。私は内心慌てながらも、平静を装ってその場からすぐに離れようとした。
 けれど、何かによってそれが阻まれてしまった。
 「…えっ」
 見ると、ゾロの両手が私の腰辺りに回され、離れようとする私を許さなかった。私がそれに気づくと、ゾロはさらに両手に力を込め、私の腰を自分の方に引き寄せ、体を密着させた。
 「な、に…?」
 驚き、放心状態になる私に、ゾロは小さい子を叱るように言った。
 「お前は男に近づきすぎなんだよ」
 初めて見るゾロの切なげな表情に、私は逃げようとするのも忘れ、見入ってしまった。ゾロも、決して私の目から視線を離そうとはせず、まるで何かの答えを私の目の奥に求めるように、探った。
 腰に回されたゾロの手の片方が、腰から背中、背中から肩へとなぞるように動いた。肌の露出している部分をゾロの手がなぞると、くすぐったくて声が出そうになる。ゾロの手は、続けて私の肩甲骨をしばらくなでると、私の今着ているワンピースの肩紐を外すように、さらに肩をするりとなぞった。我慢できずに漏れた吐息に気付かれたくなくて、自分の手で口元を隠した。
 「今更、遅ぇよ」
 ゾロはそう言って、私の肩紐を外した方の手で、口元を隠そうとする私の手をつかんだ。そのまま、顔を至近距離まで近づけるので、私は溜まらず目を閉じた。
 鼻先が触れ合う。
 今まで、気持ちを伝えないようにとか、彼との深い関係を望まないようにとか、そういう努力はしてきたけれども、相手の方から迫ってきた場合の対処方法は、考えたこともなかったので、こういう時にどうしたら良いのか分からなかった。
 素直に身を任せたい自分がいる一方で、一線を越えてしまったらいけないと戒める自分もいて、この状況に流されるべきか否か、迷っているうちに、唇の先が触れ合ってしまった。
 「良いのかよ?」
 その状態でもなお、ゾロは私に確認するような、責めるような口調で言った。
 「分からないの」
 正直に今の葛藤を口に出すやいなや、そのままゾロは唇を押しつけた。口では分からないと言っていながら、されるがままの私は、体ではOKを出したようなものなので、今更言い逃れはできなかった。
 もしも嫌なら、どうにでも逃れるすべはあったのに、私はそれをしなかった。頭ではいけないとわかっていても、やはり私は私の欲望を我慢できなかった。と同時に、私の欲望とゾロの欲望が、今この時点では一致していたので、その流れになることは何ら不思議ではなかった。
 そして意外なことに、ゾロのキスは、想像以上に上手かった。一体何人の女とこういうことをしてきたのだろう。怖くて聞く気にもなれない。彼にとってのこういう行為は、そんなに特別なことでもないのかもしれない。私が彼を特別に想い、隠し通そうとしてきたことは、無駄だったのだろうか。そんなことを考えて悲しくなったり、けれど一方でゾロの行為を素直に嬉しいと思ったり、私の頭の中は様々な感情のせめぎ合いとなって、まともにものを考えることすら難しかった。
 ゾロはゆっくりと確認するように唇を合わせて、おそらく、私がいつでも逃げられるように隙を作ってくれていた。けれどもそれは、私がゾロのことを愛しいと思う感情を増幅させるのに十分で、逆に私は逃れる理由をなくしてしまった。
 私は結局、どうしようもなくゾロのことが好きなのだ。
 果たしてこの男に恋愛感情というものが存在するのかは分からないが、動物本来の子孫繁栄の本能だけは少なからずあるらしい(それは主に下半身の方からはっきりと伝わってくる)。その事実だけで私は十分幸せに思えた。今、この行為が、今後どのように影響してくるのかは、考えるだけで寒気がするので、私も本能に任せて後先を考えないようにするのが賢明だと感じた。
 洗濯物に囲まれた、狭い空間の外からは、他の連中が子どものようにはしゃぐ声が絶えず響いていた。外界と内界のギャップにまた、私の脳の興奮神経は刺激されているのかもしれなかった。
 「やべェ…本気になりそう」
 ゾロは私の耳元で吐息とともに低くそう呟いて、ついでに私の耳たぶを噛んだ。私は声を出さないように強く唇を噛みしめたけれども、体はぴくりと敏感に反応してしまう。
ゾロの低い声も、押しつけられる厚い胸板も、私の体をなぞる骨ばった手も、今は色気を感じる以外の何物でもなかった。
 ゾロの手が、私のワンピースの裾をめくって太ももをまさぐり始めた時、突然頭の上から大量の水が降ってきて、私たちにばしゃりとかかった。と同時に、文字通り、一瞬にして頭を冷やされ、お互いに顔を見合わせ、はっとした。
 私たちが慌てて体を離すと、洗濯物の間からひょっこりとルフィの顔が出てきて、「悪い、水かかったか?」と聞くので、焦りをなんとか隠して、二人の間には何事も無かったかのように「ご覧の通りよ」とだけ返すと、いたずらな笑いを残してまた去ってしまった。もしかしたら見られていたのかも、とも一瞬考えたが、屈託のないあの笑みからは何の邪気も読み取れなかったので、それだけは違うと確信できた。ただ、あまりに夢中になりすぎて、周りが見えていなかった自分には少しだけ反省した。
 「ナミ」
 ルフィが去った後もぼうっとしていた私の横からゾロの声が聞こえた。振り向くと、ばつの悪そうな顔をしているゾロがいて、しかも心なしか顔が赤いので、私もつられて顔の温度が上がってしまう。
 「その…、すまん」
 ゾロが素直に謝るので、私は返す言葉も見つからず、ただ首を横に振った。
 「ただ、お前があまりにも無防備だから、脅かそうと思っただけで」
 ゾロは言葉を選びながら、続けて言った。
 「でもお前の顔見てたら、余裕なくなった」
 私はゾロの顔が見ていられなくて、視線を床に落とした。それと、ワンピースの肩紐がずれていたのを思い出し、慌てて直す。
 次第に冷静に物が考えられるようになると、自分の、自分たちの犯してしまった出来事が肩に重くのしかかってくるような気がした。他のクルーにどういう顔をして会ったらいいのか、見当もつかない。
 「せっかく我慢してたのにな」
 思わず言葉と一緒にため息がこぼれた。
 私だって、海賊とはいえ、二十歳の女だ。想い人がすぐ近くにいるとなれば、その想いを伝えたいとか、恋人がするようなことをしてみたいとか、思わないわけがない。しかし、それを何とか制御して、これまでも、これからも、一線を越えないように努力をしてきたというのに。ゾロはその一線を軽々と越えてきてしまった。
 「責任、取ってよね」
 もう、どうにでもなれ、という思いもあって、そんな言葉がぽろっと口からこぼれた。第一、今回のことは私のせいではないから。多分。私がどうにかしようと頑張るのは筋違いというものである。今後のことを考えるのは、全てゾロに任せようと思った。任せてしまえばいいと思うと、随分気が楽になった。だいたい、私はこれまでに考えに考えを尽くしたのだから、少しくらいゾロに気持ちを分かち合ってもらってもいいのではないか、そんな気さえしてきた。
 「そのつもりだ」
 ゾロは、諦めにも似た笑顔を見せ、もう一度私を抱きしめた。
 本当は、私も、ずっとこうなることを望んでいたのだった。この男と出会ったのは3年前くらいだろうか。2年間会わない期間が続いた中でも、思いは募るばかりだった。これが、恋というものなのだろうか。だとしたら、恐ろしく力を秘めた感情であることには違いない。こんなに胸を焼く思いをしたり、喜んだり、傷ついたり、悲しんだり。精神攻撃としては他に類を見ないほどのものである。だからこそ、人間の力ではコントロールできないのかもしれない。コントロールしようとする方が間違っているのではないか。考えれば考えるほど、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。
 「なあ、責任取るから、もう一回していいか?」
 瑞々しく透き通った匂いのする風が、私の首筋を優しく通り過ぎ、洗濯物をはためかせた。
 もうそろそろ、外の世界に戻らなくてはならない。おそらく、他の連中も水遊びにはそろそろ飽きる頃だろう。そしたら私たちも、この空間を出て、日常に戻らなくてはいけないから。だから、もう少しだけなら良いか、という気がして、「いいわ」という返事の代わりに、「ばか」とだけ言って、今度は自分から、唇を押し当てた。




FIN




<管理人のつぶやき>
つかの間の平和な船上で洗濯するゾロとナミ。密かにゾロへの気持ちを募らせるナミの心情が切ないです;;。クルー達が騒ぐ喧騒の中、洗濯物に囲われた世界でゾロが一線を越えてくれた!絶妙のタイミングで邪魔してくれたルフィはお約束でしょうか(笑)。

【蜜柑の樹】のこひま様が投稿してくださいました。
こひま様、素敵なお話をどうもありがとうございましたーー!!




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