『今年の夏は、島に帰るから』
そうメッセージを送ると、ナミはスマートフォンをテーブルに置き、窓の外を見た。
梅雨まっただ中の空は、ねずみ色の重そうな雲で覆われている。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島、雨が少なく温暖な気候の故郷の空とつい比べてしまう。
抜けるような青空に映える、鮮やかなみかんの色。そして、みかん畑から眺める海が大好きだった。
海の向こうにはどんな世界が広がっているのだろう、と−−
早速スマートフォンがブルル、と震えた。
『ナミが帰省するの久しぶりだな。せっかくだからみんなで集まろうぜ!』
返事は、幼なじみのウソップからだった。大阪の専門学校に通っている彼は、仲間の中ではもっとも頻繁に帰省している。
『オレも帰るぞ!』
次に返事を送ってきたのは、こちらも幼なじみのルフィ。高校を卒業した後、二人の兄たちの仕事を手伝っている。仲間内でいち早く社会人になったのがルフィだったことが、ナミにとってここ最近で一番の衝撃だった。
仕事については詳しくわからないが、しょっちゅう海外に出かけているらしいということだけは知っている。
愛媛の小さな島で小さい頃からずっと一緒だった仲間たち。
中学を卒業し、初めて松山の高校へ進んだ時は、ひどく心細かったのを覚えている。フェリーに乗ってほんの20分ほどの距離は、15歳のナミにとっては大冒険のように思えた。
ひとつ年下のルフィとウソップが高校に入学するまでの一年間、毎日ひとりで海を渡った。
本当なら、一緒に通学する相手がいたはずなのに、ひとつ年上の彼はナミの期待を見事に裏切って、広島の高校へ越境入学した。もちろん下宿生活となるため、中学卒業と同時に島を出ていった。きっとそれも、ナミの不安を増幅させていたのかもしれない。
『オレも帰る』
少し時間を置いて届いたメッセージを見て、ナミは思わず息を飲んだ。まさにその「彼」からの返事だった。
急いで返事を打ち込む。
『いつ帰る? なんなら一緒に帰ってもいいけど』
勝手に速くなる動悸を抑えながら、送信ボタンを押す。じっと画面を見つめていた時間はおそらくほんの一分にも満たないほどだったはず。けれど、ナミにとっては果てしなく長い時間に思えた。
既読の表示がつくと、ふたたび動悸が速くなった。返事を期待しつつも、心のどこかで冷静な自分が呼びかけてくる。
あいつのことだから、絶対こっちの期待通りにはならないんだから、と−−
『道場』
思いの外早く返ってきたメッセージに、ナミはスマートフォンを落としそうになった。そして、内容を確認すると、がっくりと肩を落とし、荒々しくスマートフォンをバッグに放り投げて早足で歩き出した。
<7月3日、この場所で>
ぞの 様
「なんでわざわざあんたの返事を聞きに道場まで来なくちゃいけないのよ!」
古い門構えの道場の前で、ナミは思わず大きな声を上げた。防具を担いだ大柄な男たちがちらちらと彼女の方に視線を送るも、ナミはただ一点を睨みつけて腕組みをしている。視線の先には短髪の緑頭−−例の「彼」がいた。
「どうせ通り道なんだからいいだろうが」
「そういう問題じゃない!」
「あァ? どういう問題なんだよ」
「携帯で返事すればいいでしょってこと」
「文字打つの面倒くせェ」
「……!」
緑頭をわしわしと掻きながら、けだるそうに近づいて来たのは、これもまたナミの幼なじみ、ゾロ。
だけど、一緒に過ごしたのは彼が高校へ上がるまで。剣道が強かったゾロは、広島の強豪校へ推薦で入っていった。
一緒にフェリーに乗って高校に通うというナミのささやかな楽しみを裏切った張本人だ。
ナミの住むアパートから最寄り駅へ向かう途中にある道場は、剣道界のレジェンドと呼ばれる男が開いていて、全国トップクラスの剣士たちが集まってくる。ゾロもまた例に漏れず、全日本の選抜選手としてここで特訓を受けていた。
「帰る日はお前に合わせる。高速バスの予約取っておいてくれ」
「えっ? ……いいけど、7月入ってすぐでもいいの?」
「別に構わねェ」
「……7月3日でも?」
少し口ごもりながらナミが言うと、ゾロは数歩先まで歩いてからゆっくりと振り返った。
街頭の光に照らされると、彼の目鼻立ちに沿ってくっきりとした陰影が現れる。
「その日、なんかあんのか?」
「……」
ほら、こうやってあっさりと人の期待を裏切るのよね、あんたは。
ナミは心の中で大きなため息をついてから、「別に」と言って歩き出した。
いつの間にか好きになっていた、というのがぴったりな表現だと思う。
小さい頃からいつもみんな一緒に遊んでいて、だけどナミとゾロはいつもケンカばかりで。小さな島の小さなコミュニティの中では、ナミがゾロに想いを寄せているということは絶対に知られてはいけないと思っていた。この恋愛感情によって、二人の関係やみんなの関係が変わってしまうことが怖かった。
だから、ゾロが広島の高校へ進学を決めた時も、ナミはただ手を叩いて祝福することしかできなかった。
ケンカ相手がいなくなって寂しくなるわね、と姉に言われた時も「むしろせいせいするわ」などと強がりを言った。
ゾロが乗ったフェリーをみんなで見送った後、みかん畑でひとり静かに泣いたのは、もう五年も前の話。
気がつけば、ナミは海を渡り、さらに故郷から遠く離れた東京の空の下にいた。
そして、そこにはゾロもいた。
高校三年間のうち、ゾロが島に帰ってきたのはたった一度だった。
彼が高校三年の秋、みかん畑の手伝いをしていたナミの元へふらりと現れ、まだ青いみかんの実をひとつ取ってゾロは言った。
「お前、大学は東京に行くのか?」
突然の訪問に、思考回路が追いつかないまま、ナミは言葉もなくうなずいた。すると、ゾロは口元だけで満足そうに笑った。
「そうか……がんばれよ」
そう言ってひらひらと手を振って去っていった。わずか数分の再会は、まるで夢の中の出来事に思えた。去り際にゾロがナミに「これやるよ」と渡してくれた厳島神社のお守りだけが、それが現実に起こったのだと教えてくれた。
それからしばらくして、ゾロが東京の体育大学に推薦入学を決めたらしいという噂が流れてきた。隣近所の家庭の事情が筒抜けなのは、小さな島に限ったことではないが、この時、ナミもまた東京の大学へ進学する意志を固めたのだった。
「じゃあな」
「うん、おやすみ」
アパートに着くと、ナミはゾロに軽く手を振った。ゾロが住むアパートは、ここからさらに歩いて十分ほどの場所にある。
ゾロにとっては道場と大学のちょうど中間地点だが、ナミは最寄り駅から電車に乗って大学へ通っている。
本当は、大学に近いアパートに住みたかったが、母や姉が強引にこの場所に決めてしまった。理由は、「知り合いが近くにいる方がいいから」とのこと。何かあったらゾロを頼りなさい、剣道も強いし用心棒になるわよと言われ、そのおせっかいが嬉しかったのと同時に、ひどく困惑したのを覚えている。
四年間まともに会っていなかったのに、また昔のような関係に戻れるだろうか−−だけど、それは杞憂に過ぎなかった。
ゾロは何年経ってもゾロのままで、久しぶりに顔を合わせた瞬間から、四年越しの口ゲンカが始まったのだから。
「……」
暗がりに消えていく緑頭をぼんやりと見つめながら、ナミはきゅっと唇を噛んだ。
二人の関係は、このままずっと変わらないのかもしれない。瀬戸内の小さな島の、ただの幼なじみ−−
「……ううん、変わってる」
ゾロは、昔よりもずっとずっと大人になっている。厚い胸板やごつい指先、精悍な顔つき。十五歳の頃の彼とは比べ物にならないくらい、大きな存在感。
きっと、変わらないのは、変われないのは私だけ。
いつまでも、やり場のない淡い恋心を抱えているわけにはいかない。
だから、そんな自分に決別したくて、二十歳の誕生日に島へ帰ることにした。
*
7月2日の夜、新宿のバスターミナルを出発したバスは、ゆるやかに高速道路に乗った。これから半日かけて愛媛へと向かう車内は、帰省する学生たちで埋まっている。
ナミの隣に座ったゾロは、バスが走りだすなり大いびきをかいて眠りに落ちた。あまりにいびきがうるさいので、何度か小突くとようやく静かになったが、それでも彼は熟睡しているようだった。
「……」
せっかく二人で故郷に帰るというのに−−思わずナミは唇を尖らせる。
もしかしたら、何か浮ついた事件が起きるかもしれない、なんて期待するだけ無駄だということもわかってはいたけれど。
ゾロにとっては、自分はしょせんその程度の存在。ただの幼なじみ以外の何者でもないのだと思い知らされる。
筆で殴り書きしたように、街頭の光が窓の外を流れていく。消灯した車内で、ナミはカーテンの隙間から外を眺め、ひとり静かに想いを巡らせていた。
誰にも明かしたことのない気持ちだから、誰にも言わずに封印するのもきっと簡単なはず。
だから、故郷のみかん畑で思い切り泣いて、この気持ちを置いてこよう。
ふと見ると、バスのフロントガラスの上にある、デジタル時計がちょうど午前0時に変わった。
7月3日、ナミの二十歳の誕生日。
東京から故郷の愛媛に向かうバスの中で、ずっと想いを寄せていた幼なじみのゾロが隣にいるという状況がおかしくて、ナミは声に出さず唇だけを動かして「おめでとう」と笑った。
いつの間にか眠りに落ち、次に目覚めた時、バスは停車しているようだった。時計は深夜2時を過ぎていて、暗い車内を歩く人影がぼんやりと見えた。どこかのサービスエリアに立ち寄っているらしい。
そこまで理解して、ナミは一度目を閉じた。ほどよい眠気で、体は気だるい。次に目が覚めた時には松山駅に到着しているのだろう−−そう思いながら意識が途切れそうになったその時。
「……おい、ナミ」
低い声が背後で聞こえ、ナミは眠りの淵からゆるやかに戻ってきた。声の方を見ると、薄暗い中でもゾロがこちらを見ているのがわかった。
「……いつから起きてたの?」
「さっき、バスが停まった時から」
のそりと体を起こし、ゾロに向き合うと、ナミは髪をかきあげて何度かまばたきをした。ナミの思考が完全に動き始める前に、ゾロはガサガサと音を立て、袋の中から缶ビールを取り出し、ナミに差し出した。
「飲むか?」
「え?」
差し出されたビールを条件反射で受け取るも、ナミはきょとんと目を丸くして首を傾げた。
「酒、今日から解禁なんだろ?」
「……私の誕生日、知ってたの?」
「まァ……ウソップから聞いた」
少し歯切れの悪い言葉でそう言って、ゾロは自分の缶ビールのプルタブを勢いよく開けた。プシュ、という乾いた音が静かな車内に響き渡る。つられてナミも缶を開けた。
「……」
こつん、と缶をぶつけると、ゾロはごくごくと喉を鳴らして一気にビールを飲み干した。
「普通、おめでとうとか言わない?」
苦笑しながらも、ナミの心は嬉しさでいっぱいで、初めてにも関わらずゾロを真似てごくごくと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。
「ふは、おいしい」
「初めて飲むヤツの飲み方じゃねェな」
今度はゾロが苦笑して、二本目のビールを開ける。
「家系かしら? ベルメールさんもノジコも強いから」
「だろうな、お前んちはなァ」
そこで二人で同時に笑うと、バスは静かに走りだした。よく冷えたビールはナミの体に心地よく浸透していく。
横目にゾロを見ると、彼はすでに三本目のビールを飲んでいた。すると、なぜだかじわりと目に涙が浮かぶのがわかった。
ああ、今日は一生忘れられない誕生日になりそうだな。
おめでとうの言葉はなかったけど、プレゼントとも呼べない缶ビールひとつだけど、一番最初に二十歳の誕生日を祝ってくれたのがゾロだったということだけで、それだけでもう満足だった。
これで、気持ちの整理もつけられるかもしれない。そんなふうにナミは思った。
「……お前、就職のこととかもう考えてんのか?」
小声でも、ゾロの低い声は存在感を持ってナミの耳に入ってくる。
「ゾロは……どうするの? やっぱり警察官になるの?」
「まァな」
「愛媛県警……なわけないわよね。やっぱり警視庁? 剣道の強いところに行くんでしょ?」
「まァ、それも含めて迷ってる」
全日本代表になるほどの実力の持ち主であるゾロが、すでに警視庁の剣道部の練習に参加していることは、ナミも知っていた。
まさにナミのアパートにほど近いあの道場で、ゾロは剣道界のレジェンド「鷹の目」と呼ばれる剣士に指導を受けているのだから。
「私は……気象に関する仕事がしたいから、国家公務員試験を受けて気象庁か、民間の気象会社に入れたらいいなって思ってる」
「そうか」
「気象大学校っていうのがあってね。気象庁の採用者の中から15人くらいしか選ばれないらしいんだけど、そこでは専門技術が学べるんだって。国際機関での勤務もあるかもしれないって」
少し興奮気味に話すと、ゾロはもう一度そうかと言って、ビールをごくごくと飲み干した。
「昔から言ってたもんな、お前は」
暗がりの中でも、ゾロが優しい目をしているのがわかって、ナミは思わずうつむいた。小さな頃から、海の向こうを見てみたい、海を越えて広い世界を見てみたいと言っていたナミの言葉を、ゾロが覚えていてくれたことが意外すぎて、そしてどうしようもなく嬉しくて。
「……でも」
ナミもビールの残りを飲み干して、ふうと冷えた息を吐いた。
「どんどんあの島から離れていくのが、ちょっと寂しいなあ……」
家族と離れて、仲間と離れて、自分の世界はどんどん広がっていくけれど、何か大切なものを忘れていくような気がして。
「いつでも戻れんだろうが。消えてなくなるわけじゃねェ」
「……」
ゾロが何気なく言ったその一言で、ナミは心の奥に詰まっていた何かがすうっと消えていくのを感じた。
抜けるような青空に映える、鮮やかなみかんの色。そして、みかん畑から眺める海は、いつも、いつでも変わらずそこにある−−
「なんか、ちょっとホッとした」
「あァ? なにが」
四本目のビールが底をつくと、ゾロはもっと買えばよかったと言って頭をわしわしと掻いた。
「ゾロは……なんていうか、何の迷いもなく島を出て行ったから、故郷のことを考えたりとかしないんだろうなって思ってた」
ナミの言葉の意味がよくわからず、ゾロは首を傾げてしばらく黙ったままだった。
「いいの、気にしないで。私の問題だから」
ビールごちそうさまと言って、ナミはブランケットを口元まで引き上げ、静かに目を閉じた。
バスの振動が心地よく、すぐに睡魔が襲ってきた。気だるい眠気に身を委ねようとした時、ナミの心の奥で、何かひとつの結論めいたものが生まれていた。
*
予告通り、ウソップは大阪から、ルフィも海外から帰ってきていた。まさかのゾロまでが帰省して、ナミの誕生日は隣近所が集まって、それはそれは盛大な宴となった。夜通し飲み続ける中で、ひとり脱落し、またひとりと、酔い潰れたり睡魔に負けたりして倒れていったが、アルコールが解禁になったとはいえ、ナミはまさか自分が最後まで残るとは思わなかった。
「どうする? どっちかが潰れるまで飲むか?」
新しいビール瓶をいくつか持って近づいてきたのは、ゾロだった。彼もまた、酒には相当強い。
「んー、外も明るくなってきたし、もういいわ」
縁側には薄青い朝の色が漂っていて、少し湿気を含んだ空気の中で、雀の鳴き声が不思議な響きを持って聞こえてくる。
ナミはふいに立ち上がり、サンダルを履いて外へ出た。
「ちょっと散歩しようかな」
家の裏手に広がるみかん畑はしんと静まり返っている。みかんの木々は朝露をまとい、ひんやりとした空気があたりに漂う。
視界の先には海が見え、ちょうど水平線から漏れだすように朝日が登り始めていた。
まぶしい光に目を細めながら、ナミはみかん畑の間をゆっくりと歩く。そして数歩遅れて、ゾロも眠そうにあくびをしながらついて来ていた。
「やっぱり変わんねェな、ここは」
良くも悪くも田舎だ、と言ってゾロは笑っていた。
「最後に帰ってきたのは、いつだったの?」
「ん? あァ、確か大学入る前だな」
「……もしかして、私にお守りくれた、あの時?」
その問いかけにゾロが小さくうなずくと、ナミの心臓がとくん、と軽く跳ねるのが分かった。
「あの時って……なんで帰って来たの?」
大学は東京に行くのか。そう聞いただけの、ほんのひとときの再会。
するとゾロは眉間にしわを寄せ、気難しい表情に変わった。わしわしと頭を掻きながら、海の上に昇った太陽を目を細めて見つめる。
「……あん時は、ちょっと進路で迷ってたんだよ」
スポーツ推薦で引く手あまただったゾロは、九州の大学と東京の体育大学のどちらに進むか決めかねていたのだという。
「でも、お前に会ったら心決まったっつうか」
「……え?」
期待してはだめ、とナミの頭の奥で警鐘が鳴る。これまでに何度もゾロには期待を裏切られたのだから。
だけど、どうしても聞いてみたくなった。
「それって……私が東京の大学に行くって言ったから、ゾロも東京に行くことに決めた、ってこと?」
そんなわけねェだろうが。そう彼は言うはずだ。それがわかっていれば、裏切られた気分になることもない。
ゾロはうなずくわけでもなく、否定するわけでもなく、ただ黙ってナミを見つめていた。小さく脈打っていた心臓が、どくんどくんと大きく音を立て始める。
「まァ……これ以上離れたら、きっとお前はオレのことなんか忘れちまうんだろうなとは思ってた」
広島で過ごした高校時代、ふとした時に思い出すのは、故郷の青い空と風になびくみかんの木々。そして、みかんと同じ髪の色をした、幼なじみの姿だった。
急に会いたくなって、広島から愛媛に向かった。手土産もなにもなかったけど、たまたま部屋にあった厳島神社のお守りを握りしめていた。確か、ゾロが高校に入る時に一度だけ家族で行ったことがある。その時に買ったものだったのだろう。
「だからって訳じゃねェけど……なんつうか、確かめたかったんだろうな」
「確かめたかったって……なにを?」
期待してはいけないとわかっているのに、ゾロの言葉の続きを早く聞きたくて。
ふいに海風が流れてきて、みかんの木々をざわざわと揺らす。まるでナミの心模様を代弁するかのように。
ゾロはもう一度頭をわしわしと掻いて、大きくため息をついた。
「まァ、いろいろな」
再び海風がふき、みかんの木々が一斉にざわめいた。
「……ずるい」
そうやって、人の心を浮つかせておいて、あっさりと期待を裏切る。積年の、怒りにも似た想いがナミの心の奥から堰を切って溢れ出してくるのがわかった。
「忘れられるものなら、忘れたかったわよ!」
その言葉に、ゾロは少し目を見開いて、じっとナミを見つめた。
「島に帰ってきたのだって、あんたのこと今度こそ諦めようと思ったからなのに……」
ナミがやっとの思いで手放そうと思った感情を、ゾロは手を伸ばして軽々と引き戻そうとする。
ナミの告白に、ゾロはしばらくの間言葉を失っていた。いくら鈍いゾロにだって、今がどんな状況なのかくらいわかる。葉擦れの音が鳴り止んでようやく、ゾロはばつが悪そうに頭を掻き、水面にキラキラと反射する朝日の光に目を細めた。
「……まだ、何も約束できねェから、オレは」
この先、自分がどこへ行くのか、どうなっていくのか、何もわからないから。そう言ってゾロはゆっくりとナミに向き合った。
「だから、いつ戻ってもこの島が変わらないように、お前もそうであって欲しいって……そう願うことくらいしかできねェ」
「……」
それは、今のゾロが言える精一杯の言葉なのだろうということは、ナミにもよくわかっている。だけど、この言葉にまた気持ちが縛られてしまうのではないかという漠然とした不安が湧き上がってきた。
「そんなの……勝手だわ」
ぐっと手を握り、ナミは強い視線をゾロに向ける。
「私はね! 変わりたいの! 変わりたくて二十歳の誕生日にわざわざこの島に帰ってきたの! それなのに、変わらないで欲しいなんて勝手すぎるわよ!」
ナミの声は風に乗って、海へと流れていく。ゾロはそれが見えているかのように、風を目で追う。
「……決めた」
大きく息を吸ってから、ナミは自分に言い聞かせるようにはっきりと声を出した。
「毎年、誕生日には島に帰ってくるって決めた」
「……は?」
少し間の抜けたトーンで、ゾロはナミの言葉の意味を尋ねる。
「言葉の通りよ。私は毎年7月3日、必ずここにいる」
「……?」
ますます意味がわからず、ゾロは眉間に深い皺を刻んでナミを見つめていた。その表情を見て、ナミはふふっと笑い、満足そうにうなずいてくるりとゾロに背中を向けた。
「だから、あんたも確かめたくなったらここに来ればいいじゃない」
私が変わったかどうか。そうつぶやいて、ナミはすたすたと元来た道を歩いて行く。その足取りはどこか軽やかで。
大きく伸びをして、朝の澄み切った空気を吸い込むと、体に染みこんでいくような感覚があった。
「……そうだな」
背後から、笑いを含んだゾロの声が聞こえた。
「とりあえず、7月3日を覚えておけばいいんだな」
「そういうこと」
ナミは振り返らずに返事をして、まだ青々とした小さなみかんの実を指先でそっと撫でた。
「なァ、戻ってまた飲み直さねェか?」
「いいけど、先にゾロが潰れてもしらないから」
「あァ? オレがお前に負けるわけねェだろうが」
「わかんないわよ。うちの家系、強いから」
瀬戸内海に浮かぶ小さな島。
抜けるような青空に映える、鮮やかなみかんの色。そして、みかん畑から眺める海の向こうには、広い広い世界が広がっていた。
それをこの目で確かめてから、再びここへ戻ってきた時、そこから始まる物語があるはずだから。
肩の荷物を下ろすように、気持ちはあのみかん畑に置いてきた。決別したわけでも、捨てたわけでもなく、ただ「置いて」きた。
もう一度、拾い上げて心に戻す日が、いつか来るかもしれない。その時まで、少しの間眠らせておくことにした。
7月3日のみかん畑。それは何かの暗号のよう。
それが二人の間で特別な意味を持つのは、まだずっとずっと先の話。
【おわり】
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