蝉時雨の季節


                                sazanka 様



その日はいつも、天から蝉の声が降っていた。かんかんと照りつける日の光に、地面から蒸気が出ているように見える。熱気でくらりと歪む視界に眉を寄せて、ナミは頸の汗を拭った。つるりと背中を水滴が流れ落ちる感覚に、不快感が募る。下駄を鳴らして坂を登りきると、やっと目的地が目に入ってほっと息を吐く。ちらりと見遣った腕の中の菊の花が、心なしかしんなりしているように見えた。花屋から買って半刻ほど、渇いてきてしまっても不思議ではない。かくいうナミも、顔から身体から噴き出る汗で干からびそうだ。この季節はいつもこうだ。

年に一度、あの世から馬に乗って亡くなった人が帰ってくるという。儀式としては知っていても、実際に最愛の人が目の前に現れることはないと、大人になったナミは知っている。養母が事故で亡くなって、もう十年が経っていた。

日照りの強いこの日は毎年、ナミが営む飯処風車は店を閉め、ナミは一人墓参りに向かう。いつもはあれこれ理由をつけて、ナミの側を離れないサンジも、この日だけは一人にしてくれる。母が事故で亡くなったのは、もう十年も昔の話だ。慌ただしい日常に、もうすっかり哀しみも薄れているのだけれど、ゆっくりと母と言葉を交わす時間を作ってくれているのかもしれなかった。普段は、賑やかな連中に囲まれてゆっくり故人を偲ぶ時間もない。それは、あえて周りがそうしてくれているのだともいえたけれど。

唾を飲み込むと、喉の渇きでちりっと焼けるような感覚があった。今日は、いつに増して暑い。ナミの前方には、古びてところどころ欠けた墓石がいくつか並んでおり、周りを鬱蒼と生い茂った雑草が囲んでいた。蝉時雨が、耳を劈くように降ってくる。墓石の後ろで鮮やかな緑の葉を揺らす巨木が、墓石に影を落としていた。一年ぶりに目にするその姿に、ナミの目も緩み、久しぶりだね、と独りごちる。そうすると、賑やかだったかの人が笑いかけてきているような気がして、ナミは笑みを深めた。

やがて、墓石の近くにぞんざいに捨て置かれていた桶を手に取り、ナミは近くの井戸から適当に水を汲みあげる。ぽちゃん、という水音で、まだ何も飲まない内から喉が潤うような心地がした。それに口元を緩め、行儀はあまりよくなかったが手で直接掬って水を飲めば、忽ち生き返るようだった。熱気に揺らいでいた景色も、鮮明さを取り戻したように思える。

そして、さて、と桶と花を抱え直して顔を上げると、視界の隅で何かが動くのを捉える。猫か何かだろうか、と目を凝らしていると、雑草に埋もれるように転がっていた緑色の頭がむくりと起き上がるのが見えた。それはそのまま網代傘を被り直し、大きく伸びをした。その緑頭は、いつかの生臭坊主のようだ。


「お坊さま?」


ぽかん、と口を開いてナミが言うと、雑草の中で寝転がっていた坊主が、こちらに顔を向ける。そして、まだ半分眠りの中にいるらしい、のってりとした目付きでぼんやりとナミを見上げたあと、小さく、ああ、と呟いた。次第に光を取り戻してくる薄茶色の瞳が、ナミの姿をはっきりと捉える。飯屋のおんなか、と呟いてから、大きく欠伸をした。坊主の近くには、徳利が二つ転がっている。


「なにしてるの、こんなところで」


大方また彷徨っているのだろう、数日前に、もう次の町へ行くようなことを言っていた気がしたけれど。やっと町の端に辿り着いたところと見える。もっとも、ナミたちの飯処からここまでは半刻で着くが。諦めて一人酒盛りでもしていたのだろうか。

一応、といった体で聞いてみると、あー、と言葉を濁しながら坊主が頸の後ろを掻くのが見えた。


「酒に付き合えとうるさい奴がいてな」


そう言って、坊主はふい、と顔を逸らす。こんな山奥で酒に付き合うも何もないだろう、現にここにいるのは坊主とナミだけだ。変な奴、と思いながら改めて身なりをみまわすと、相変わらず着た切り雀らしい、墨色の僧衣はところどころ土埃で煤けていて、ナミが近づいたと同時に、腹の虫が盛大に鳴るのが聞こえた。それに耐えきれずにぷっと吹き出すと、坊主が咄嗟に睨む。切れ長の三白眼の睨みは鋭いが、どうにも格好がつかない。坊主は、腹を押さえて舌打ちをした。


「お腹空いてるのね?いつから食べてないの?」


くすくす笑いながら聞くと、生真面目に右手で指を何本か折っては折り直す。どうやら、道だけでなく日付の感覚も怪しいらしい。けれど、おそらく数日は食べていないのだろう。蝉の鳴き声に負けじと腹の虫が鳴っている。


「よかったら、うちの店に来ます?お坊さま」


その言葉に一瞬顔を輝かせた坊主が、すぐに顔を曇らせてふいと目を逸らした。いわく、持ち合わせがねえ、という。そういえば、一体どうやって食いつないでいるのだろう、何度かルフィの絡みで顔を合わせたことはあるものの、この男のことはよく知らない。名前すら、まだ。
例えばサンジなら、腹を空かせた者を放ってはおけないだろうから、金のある無しは別にして飯を用意してしまうのだろう。それは彼のいいところだが、いかんせんそれでは商売が成り立たない。ふむ、と顎に手をやって考えてから、ナミはぱっと顔を明るくした。


「ねえ、あんたそんな格好してるんだから、お経くらい読めるのよね?」


「は?ああ、そりゃあ」


物騒な刀を三本腰に挿してはいるが、一応坊主なのだ、それくらいできるだろう。ならば、丁度よい。いちいち坊主を呼んで供養する余裕はなかったから、いつも墓の前で手を合わせることしかなかったが、たまにはこういうこともいいだろう。

戸惑ったように目を瞬かせる坊主に向かって、ナミはにっこりと微笑んだ。






時折吹く風に乗って、低く紡がれる経典が耳に心地よく届く。蝉時雨が、いつの間にか遠く聞こえた。先ほどまで、暑さで溶けてしまいそうだったのに、その声を聞いている間は、なぜかすっと頭が冴えて背筋が伸びるようだった。坊主は伊達ではなかったらしい、生臭だけれど。
やがて、ナミの前で膝を折り手を合わせていた坊主が息を吐く音が聞こえ、ナミも瞼を開く。日に焼けた墓石の前で、線香の煙が天高く昇っていくのが見えた。それがまるで、亡き母の魂のように見えて、思わずナミはその行方を目で追う。もう物言わぬかの人が、少しでも喜んでくれたような気がして、ナミは頬を緩めた。


「ありがとう。あんた、本当にお坊さまだったのね」


「なんだと思って頼んだんだよ」


けっ、と顔を顰める様は、どうにも徳を積んだ坊主とはかけ離れているけれど、何やら彼の声には不思議な力を感じた。それをそのまま伝えると、真面目な顔をして彼が立ち上がる。そして、ばさばさと土埃を払いながら言った。


「別に俺は経を読んだだけだ、別にそれで死んだ奴がどうこうなるわけじゃねえ」


全くもって身も蓋もないことを言う男にナミが目を丸くしていると、ちらりとナミを見下ろした彼が、にやりと口の端を引き上げた。


「でもまあ、生きてる奴の気が晴れたんならいいんじゃねえか」


そう言って差し出された右手をぽかんと見ていると、不思議そうに首を傾げられる。坊主には似合わない剣だこがいくつか見えた。つられるように握ったその掌は硬い。そうして引き上げられるように立たされると、じゃあ飯だ飯、ついでに酒も、と坊主が子供のようににかりと笑った。酒って、あんた一応坊主でしょ、とナミが漏らした言葉は一笑に付される。墓の後ろに立つ巨木の木の葉と同じ緑色の髪が、日の光を浴びて鮮やかに光った。


「あんたって、全然坊主っぽくないわよね。仏様とか信じてなさそうだし」


苦笑いしてナミが言うと、ぱちりと瞬きをした坊主が、ああ、と唸った。


「まあな、俺は神とか仏は信じちゃいねえが。坊主やってんのも、成り行きみてぇなもんだしな」


あっけらかんと仏を信じていない、とのたまう坊主に、ナミは一瞬目を剥いて、それから、まあそうだろうな、と息を吐いた。今更、信仰心を説かれたところで信じ難い。そのわりに、読経は真面目にやってくれたようだが。それに、随分いい声をしていた、低く耳に優しく語りかけるような。先ほどの坊主の声を思い出してナミがこっそり頬を染めている間に、坊主は網代傘を被り直していた。


「おい、行くぞ女」


「ナミよ」


肩越しに振り返った坊主に短く返すと、眉をぐっと寄せて、あン?と唸った。顔だけなら、どこぞのかぶき者と言われても違和感のない人相の悪さだ。名前よ、私の名前、と言ってやると、ああ、と大して興味もなさそうに頷く。

町一番の美人を相手にこの態度というのは、修行を積んだ坊主だからか、単なる阿保なのかどちらだろう。多分、いや確実に後者だろう、と決めつけて、ナミは肩を竦めた。


「で、お坊さまは?」


「......ゾロだ」


面倒くさそうに顔を顰めながらもきちんと答える辺りが、なんだかおかしい。ナミが思わずぷっと噴き出すと、眉間の皺が一本増えた。


「あのな、人の名前聞いて笑う奴が」


「あーごめんね、つい。お坊さま、見かけによらず真面目なのね?」


くすくすと笑いながら顔の前で手を振ると、すっかり不貞腐れた風情のゾロが下唇を突き出して黙り込む。まるで子供だ。ツボに入ってしまって笑い続けるナミを、ゾロがやがて呆れたように見下ろして、小さく笑った。


「そんだけ笑ってりゃあ、なんの心配もないよな」


「は?なんの話?」


別に、と首を振ったゾロは、ちらりと墓に目をやった。そうして、こっちの話だ、と呟く。含みのある笑みが引っかかるが、どうにも口を開きそうな気配はなく、面白くない。仕方ない、と腕を組んだナミが、言わないとご馳走しないわよ、とにやりと笑うと、ゾロは目を剥いてこちらを振り返った。


「お前それ約束が違うだろう!」


「えー?そうだったかしらー?」


頬に手を当てて可愛らしく小首を傾げて見せれば、ゾロが苦虫を噛み潰したような顔をして唸った。さらさらと、風に揺られて墓に供えた菊の花が揺れる。何故か、それが笑い声のように聞こえて気を取られていると、全く、とゾロが舌打ちをするのが聞こえた。


「そういうところは、本当にそっくりなんだな」


何がよ、と意味がわからずナミが瞬いていると、急に手を取られた。力任せにぐいと引っ張られて転びそうになるのを、すんでのところで堪える。何すんの、と怒鳴ろうと口を開いて顔を上げると、渋い表情のゾロの顔が間近にあって、ナミはきゅっと口を閉じた。眉間には、相変わらず皺が刻まれている。


「外野がうるせえ、さっさと行くぞ」


「あんたさっきから何言ってんの?」


「こっちの話だ」


「あんたねえ、さっきから意味わかんないのよ。頭大丈夫?」


まるで話にならない。ナミが頬を引きつらせながら眉を寄せれば、ゾロが苛立った様子でため息を吐く。負けじと睨み上げて見せれば、舌打ちをしたゾロが身体ごとナミの方へ寄った。すると、なぜか先程より顔が近くなり、睫毛が触れ合うのがわかる。いや、どうして睫毛が触れたりなんかするのか、とぼんやり思っているのもつかの間、熱い息が唇に触れた。続いて感じたのは、日照りの日の土のような乾いた感触だ。口付けされたのだ、気づいたのは何拍か経ってからだった。

え、と息を飲んでいると、薄茶色の瞳が目の前で細まるのがよく見えた。静かになったな、と満足そうに上体を起こすゾロを呆然と見上げていると、二人の間を強い風が吹き抜ける。突然の風に驚いてると、何故か愉快そうにゾロが笑った。意味が、わからない。暑さと空腹で頭でもやられたのかしら、大体私の貴重な唇を奪っておいてなんて不遜なの、とナミが胡乱な目で声を立てて笑う男を見上げていると、掴んだままの手首をぐいと乱暴に引かれた。


「おら、早く行くぞ。ナミ」


網代傘が落とす影の下で、ゾロがにやりと笑って、あの独特の低い声でナミの名を呼んだ。すると、不完全燃焼の疑問符や、それにまつわる苛立ちも急になりを潜めてしまって、ナミは一瞬おし黙る。なんだ、反則じゃないのかこの声は。暑さとは別の熱を感じて、掴まれた方の掌に汗が滲んだ。この私を捕まえて、声だけで黙らせるなんて、冗談じゃない。声が喉の奥に張り付いたようだった。

しかしそう思ったのもつかの間、次にゾロが踏み出した先の方角を目にして、ナミは声を荒げた。

「そっちじゃなくて、左よ!馬鹿!」





年に一度、亡き人が帰ってくると言われる日。毎年変わらぬ蝉時雨の中を怒鳴り合いながら歩く二つの人影の先で、菊の花がまた優しく揺れた。




end.




<管理人のつぶやき>
年に一度、普段は元気な娘が養母に向き合う姿が健気です。そして予想外のところでゾロ登場。そらもうナミでなくてもびっくりですよ(笑)。ゾロの読経はぜひ聞いてみたい。イイ声なんですね!一人で来たナミが、帰りにはゾロと二人に。この縁がどうか続きますように^^。

Pixivで活動されている、sazanka様の投稿作品です。心に言染み入るお話をどうもありがとうございましたー!!



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