あの日のあの子へ
sazanka 様
「大きくなったら、お姉ちゃんたちみたいなかっこいい海賊になるよ!」
きらきらと輝く瞳に真っ直ぐ見下ろされて、ナミはそっと眉を下げた。
ないようである島、と称された不可解なこの島は、地図にも姿はなく、ログすらその存在を示さない。しかしこの島は確かにあって、この大きな子どもたちの戦いが、先ほどひとつの区切りをつけたのだ。サンジにもらったスープを大事に両手で持ってナミの横に腰掛けているモチャは、えへへ、と照れたように笑った。霜焼けのせいだけではない、ひどく泣いたせいで赤く腫れた目の下が痛々しい。少し力をこめれば、簡単にナミの体も弾き飛ばせる大きな体に宿るのは、どこにでもいる小さな子どもだ。けれど、理不尽に体を歪められ、騙されてなお、友達を救おうと命を懸けられる勇気を持った子である。チョッパーにその話を聞いたときは心臓が芯から冷えたが、いま朗らかに笑うモチャを見上げると、小さな子どもとはいえ、尊敬の念を抱く。あんたはよくやったわ、充分かっこいいわよ、と頭を撫でようとして、届かないことに気づいて苦笑いし、ナミは代わりにその大きな掌を優しく叩いた。
「でもね、海賊ってフダツキよ」
「フダツキ?」
きょとん、と目を瞬かせるモチャを見上げて、ナミは頷いてみせる。そうつまり罪人の証よ、と言いかけて、やめた。
もちろん、いつだったかルフィが言ったように、海賊はヒーローではないし、そんなものを名乗ろうものなら恥で死にそうになる。なら海軍ならヒーローと言えるかと言えば、それも首を傾げてしまう。
ナミにとって、海賊は養母を奪い故郷を焼いた憎き存在であり、何にも囚われず海を渡る自由の象徴でもある。一方で海軍は、亡き養母が誇りをもって貫いた生き方であり、巨大な世界と繋がる陰鬱として腐敗した組織でもある。海軍が掲げるのは絶対正義だが、そんなものはどこにもないし誰も持っていないものだ。本当のことは、自分の目で見なければ分からないことは多い。
純真な丸い目をナミに不思議そうに向けるモチャも、その幼い目で多くのものを見ただろう。見過ぎた、といってもいいかもしれない。その全てをいまは理解していなくとも、いつかそれらを心の内で整理する日が来るはずだ。それはモチャだけのもので、その邪魔になるようなことを言うのは野暮だと、思った。
「ううん、なんでもない。あんたが大人になった時に、なりたいものになったらいいわ」
それは、数時間前までこの子どもたちには許されなかったことだ。覚醒剤の治療は長く厳しいとローは言った。そう、全て、この島にこの子達が攫われてくる前に戻ることはできない。
おとなになったら。そうおうむ返ししてみせたモチャの声は、どこか夢見るようにふわふわと甘ったるく、目はきらきらと輝いていた。
おとなになったら。ナミが幼い頃思い描いていたのは、船に乗り自分の航海術で世界を旅し、その目で見た世界地図を描くこと。そして時折故郷に戻り、口うるさい駐在にやかましく世話を焼かれ、ヤブ医者の軽口に付き合い、義姉と養母のいるぼろくて小さな、村はずれの家に顔を出す。ナミが旅の最中にくすねて持ち帰る宝は、あっという間にナミや駐在たちへのご馳走に消えてしまって、きっと家はボロのままだろうけれど、きっとあの養母は楽しそうに笑うのだ。そんな日々が当たり前に来ると信じていたし、疑いなど芽生えるはずもなかった。けれどそれは叶わなかった。その理不尽さを何度も呪ったし、時間を巻き戻す悪魔の実でもあったら、どんなことをしてでも手に入れたい、なんて幻想すら持った。けれど今は、たとえ大事な人を取り戻せるとわかっていても、その実を食べたいとは思わない。
顔を上げると、海軍と海賊が入り乱れての宴会が眼に映る。フランキー将軍に群がるのは子どもたちだけではなく、一味の男たちも含まれているし、妙に興奮しているのはガラの悪い海軍たちも一緒だ。その横では、ウソップが宴会ではお決まりの演説を繰り広げて観客を集めているし、ブルックの奏でる音楽に合わせて海賊たちが踊っている。宴会の中心では、サンジが大きな鍋をかきまわしながら鼻歌を歌い、ロビンが列をなす子どもたちにスープを渡していた。輪から外れた場所で寛いでいるのはゾロや海軍の将校たちで、決して互いの間合いには入らないながらも、静かに宴を眺めている。全くもって、わけのわからない空間だ。血と硝煙とガスの臭いがまだ残る瓦礫の中、誰もが笑っていた。
「あんたたち、大人になったらどんなふうになってるかな。楽しみね」
馬鹿騒ぎをする大人たちを見渡してから、再びモチャを見上げると、ナミはふわりと微笑みかけた。
おそらくこの子どもたちも、大人になるにつれ、今日まで理不尽に受けた暴力を、人の恐ろしさを憎む日が来るだろう。けれどその先の未来で、この子どもたちが笑う日が来ることを、心から祈る。
「うん!頑張って大人になるから、私たちのこと忘れないでね」
ぎゅっと両拳を握って見つめて来る真っ直ぐな目に、当たり前じゃない、と笑いかけて、ナミはうんと背伸びをしてその頰に触れた。サンジのスープが効いたのだろう、ほんのり熱を取り戻したその頰は柔らかい。
大好き。そう言って逝った愛しい人の顔を、久しぶりに思い出した。
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タンカー使うんじゃなかったか、そう言ってのっそりと現れたのはゾロだ。フランキーが暴れた跡らしい、研究所の柱の残骸にかかるガラスの破片を払って、よっこらせ、と腰掛ける。なんだオヤジくせえ、と鼻で笑うサンジに噛みつこうとしたゾロは、サンジの隣で肉を貪っていたルフィに遮られた。
「んー、なんか、そうなったんだよ」
「なんかってなんだ、つうか食ってから話せ汚ねェ」
ルフィに飛ばされた食いカスを払いながら、ゾロが顔をしかめた。これは全くその通りなので、サンジも空になった鍋に蓋をしながら、ごんとルフィの頭を叩いてやった。あい、とお利口に返事をしたルフィがまた肉を飛ばしかけたが、それはもったいねェ、と本人の両手に受け止められた。まあ食べ物を大事にするのはいいことだが、もっと落ち着いて食べれないものだろうか、いやそんな要求は高度すぎるか、うんぬん。
やれやれとゾロとルフィを挟むようにサンジがジョッキを傾けていると、ご丁寧に骨つき肉を綺麗に食べ尽くしたルフィが、ごくんと喉を鳴らして顔を上げた。
「ナミとチョッパーがよ、子どもたちが出航するのを見てからじゃねェと、船出さないって言うからな」
「あ?うちに乗せてくって言い張ってなかったか」
順序よく話すことに不向きな船長に、ゾロが怪訝そうに眉を寄せる。いやそれが、海賊が連れて帰ってもって話で、海軍に頼むことになったんだよ、とサンジが親切にも付け加えてやると、なるほど道理だ、とゾロは頷いてみせた。しかしその後、空になったジョッキを掲げて中を覗きこむようにしながら、とはいっても、と声を低くした。ぽたり、と最後の一滴がゾロの舌に落ちる。その様子を、飲み足りないならまた倉庫を開けりゃあいいだろう、と呆れながらサンジはやはり空になったジョッキを地面に置いて眺める。
「あいつらが出航した途端、援軍呼んで攻め込んで来る可能性だってあるぜ。よくわからんが、あのガス野郎も連れていくんだろう。面倒なことにならねェか?」
「んやー、まあ、そん時はそん時だよ。大丈夫だって」
なははは、と能天気に笑うルフィにため息をついて、ゾロがジョッキを下ろした。それを横目に、サンジは胸ポケットから食後の一服をと、煙草を取り出して咥える。ナミの身体に精神が宿る感触は、それはもう素晴らしいものだったが、やはり自分の身体のほうがしっくりと馴染む。掌で風を遮るようにしながら火をつけるサンジの隣で、ルフィが頰をぽりぽりと掻いた。
「ナミもチョッパーも、何かあったら戦うって言ってるしさー」
「んなの当たり前だ」
未だ渋面のゾロに向かって、咥えたままの骨をぶらぶらと行儀悪く揺らしながら、ルフィが笑った。じゃあいいじゃん、と。
ふぅ、と吸い込んだ煙を天に向かって吐き出すサンジの耳に、船長のどこまでも明るい声が届く。
「あいつらがそうしたいってんだから、俺も付き合おうと思って。別に大したことじゃねェだろ?」
大したことじゃない、そう言い切って寝そべったルフィを見下ろして、ゾロが片眉をぴくりと上げた。そうして、ちらりと視線を斜めに投げてから、まあいい、と肩を竦めた。
この能天気な船長と、いつも仏頂面の愛想のかけらもない男は、正反対に見えて意外と、人にも自分にも厳しいという点では似た者同士だ。その対象は女だろうが子どもだろうが同じ。けれど相手を認めれば己の状況は二の次三の次で手を貸す、ああ結局厳しいのか甘いのかわからないか。
ゾロが投げたその視線の先を追えば、応急措置を終えられた子どもたちが、ナミやチョッパーを囲んでいるのが見えた。それだけ見れば平和な光景だ。優しい美女と、変幻自在な子ダヌキと子ども。子どもに優しいナミさんも素敵だなァ、と頰を緩めていると、こちらに気づいた数人の子どもが手を振って来る。ぐるぐるのお兄ちゃん、とセンスのないあだ名を大声で呼ばれたが、中には少女も混じっていたので、仕方なく片手だけ上げてやることにする。はは、と笑った口の端で、煙草がぐにゃりと折れて垂れた。
「はッ、人気者だなぐるぐる兄ちゃん」
「あンだともう一回言ってみろ」
鼻で笑うゾロの憎たらしい顔をつまみ上げようと腰を浮かすと、同じ方向から、あっ迷子のお兄ちゃんもいる、と無邪気な声が聞こえるものだから力が抜けた。膝からかくりと落ちて肩を震わせるサンジの横で、迷子兄ちゃんだって、とルフィが腹を抱えて笑い出す。それをいつになく真っ赤になって怒鳴っているゾロを(いや実際はサンジたち三人だろうがそんな細かいことはいい)子どもたちの側でナミが呆れた様子で見ていた。
ー子どもに泣いて助けてって言われたら!もう背中向けられないじゃない!
助ける理由などない、と言ったサンジに対して、一瞬困ったような顔をしてから、次には拳を握りしめて言い放った彼女の凛々しい顔をよく覚えている。本来なら、海賊など似合わない優しい女性なのだ。彼女の夢は世界地図を描くこと。危険な海賊稼業よりよほど、海軍の測量部隊にでも入った方がよさそうな夢だ。亡くなったという養母も、元海軍だと彼女の美しい義姉に聞いた。けれどそうはならなかった。
あの日、アーロンパークでルフィと魚人の激しい戦闘で降り注ぐ瓦礫を見上げながら、ナミが涙を流したとき。あの時にはもう、きっと心を決めてしまったのだろう。何を信じて生きていくか、その先を。
むかしもいまも、美しい航海士の壮絶な過去に興味がないと切り捨てる男二人は、あいつが命はってでもやりたいなら仕方ない、と笑う。サンジにしてみれば、彼女が命をかけてまで会ったばかりの子どもたちを助けることに、本当のところは賛成しかねる。冷たいと言われようが、サンジにとってはナミのほうが大切だ。しかし、彼女は優しい女神でありつつ、自由を愛する、やはり海賊なのだ。自分の道も信じるものも、自分で決められる。
あの子どもたちがいた研究室で、ナミを制して無理やり引っ張っていくことは簡単なことだった。けれどそれをしなかったのは、その凛々しい顔に見惚れたからでもあるし、もしかしたら幼い日の自分ごと、ナミがその背に守ってくれたかのように感じたせいかもしれなかった。いや、これは余計な感傷だ。一瞬よぎった記憶を消しさるように、サンジは煙草の火を地面に擦り付けて消した。じゅ、と靴底で火が潰える。
そうして立ち上がり埃を払うサンジを、むさ苦しい男二人が揃って見上げる。それににやりと笑いかけてから、子どもたちの中心にいるナミに向かって、サンジは大きく手を振った。
「ナミすわーんっ、デザートいるー?」
「いるぞーっ!いるいるっ」
「それよか酒よこせ」
後ろの二人の呑気な台詞は無視することにして、サンジはナミのもとへ駆け出す。まァこの呑気さや無頓着さに、救われることもあることは知っている、ナミもきっとそうだろう。お互い、そんなことは死んでも口にはしないが。
駆け寄るサンジを、子どもたちに手を引かれながらナミが肩をすくめて待っている。その穏やかな顔を見ながら、サンジはことさら大きな声で彼女の名を呼んだ。
泣いて助けてと、言えなかっただろう幼き日の彼女を、おとなになった彼女が抱きしめられるように。
いまはただ。祈る。
end
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