ジュ・トゥ・ヴ ーあなたがほしいー

                                せん松 様



 おれの誕生日は四月一日。初耳だ? 覚えておけ! このウソップ様が産まれた日だ!

 少し気の早い桜が例年より一足早く満開になった、そんな日の昼日中におれは産まれたのだと、いまだに母ちゃんはその時の風景に母となった感動を混ぜてうっとりと微笑む。が、おれにしてみりゃどうしてあと一日、母ちゃんの腹の中で眠っていなかったのかと言いたくなることもある。

 知ってるか?
 一年は一月一日から十二月三十一日までが「一年」だけど、年度制がはびこるこの日本じゃなぜか四月から翌年の三月までが一年という単位に数えられちまう。そういう決まりならそれでいい。だけどよなんで、一年の始まりが四月の一日じゃないのか。この年度制ってやつは一日単位で数えると、なぜだか四月二日から翌年の四月一日までが「一年」なのだ。
 そのため結果としておれは、四月一日なんて字面だけならめちゃくちゃキリのいい生まれというのに、その年度の「末日」生まれの扱いになってしまうのだ。いわゆる究極の「早生まれ」なわけだこれが!

 最初の悲劇は幼稚園の入園式だった。
 ほんの三日前に三歳になったばかりのおれは、「きょうからようちえん!」と親に言われた台詞をそのまま喜んで復唱し、小さな制服に頭からはみ出そうなベレー帽、身体の半分を隠してしまいそうな大きなリュックを背負って、いざ初めての幼稚園へ足を踏み入れた。
 お友達ができるよ、とか、みんなで一緒に遊ぶんだよ、と、両手を繋いだ両親に変わる変わる言われおれも笑顔の初登園だったが、いざその両親が入園式の会場である講堂に赴き、初めての教室で一人にさせられた時、おれは他の園児達の真ん中で大泣きに泣いてしまったのだ。

 一人っ子のおれは、まだこの時「子供社会」を知らなかった。「大人」なら父ちゃんや母ちゃんで慣れたものだが、外遊びにあまり興味が無く、テレビの幼児用工作番組を見るほかはお絵かきばかりしてたおれにとって、身体も声も大きく力も強い同級生達は、はっきり言って恐怖の対象でしか無かった。
 ほとんどが「もうすぐ四歳」な中での「三歳になったばかり」のおれ。それくらい、と思うだろ? 馬鹿言うな馬鹿言うな。三歳児にとって一年ってのは人生の三分の一だぞ。四歳にも三歳にも、その差は大きい!

 すっかりパニックになったおれは、結局入園式も先生に抱っこされての入場だったし、お偉いさんの挨拶を泣き声で消し飛ばして、おれのそんな姿にああもうどうしようどうしようと後ろの保護者席でおれに負けずにパニックになった母ちゃんの声が、今でも父ちゃんが撮った動画として残っている。

 これがきっかけで、おれはすっかり幼稚園生活に萎縮してしまった。

 通園バスに乗せられれば泣き、見送る母ちゃんの姿が見えなくなっては泣き、園に着いては泣き、先生に「おはようございます」と言われても泣き、折り紙を見ても、絵本の読み聞かせ時間も、お弁当すらもろくに食べられずに泣き続け、帰りのバスの中では真っ赤に腫れあがった瞼のせいで視界は半分くらいになり、泣きつかれてうとうとしながらも、迎えに来た母ちゃんの姿を見てはまた泣く、という生活を一ヶ月近く続けた、らしい。

 そんなおれの姿に、さすがに親も幼稚園側も困り果て、年少クラスから入れるのは早かったのかもしれない、いったん退園して来年の年中クラスからまたやり直そうかという話も出ていたそうだ。
 しかしその決断できぬまま、まあしばらく様子見しようということで、おれはそれから毎日泣きながらも、父ちゃん母ちゃんに言われるままに登園を続けていた。



 そんな、ある日だ。

 幼稚園では朝、通園バスが敷地内に到着すると、園児達は誰に言われたわけでもなく全速力で走って教室に飛び込んでいく。毎日出席簿代わりの手帳をリュックの中に持参しており、教室に到着した順に並んで、その手帳の今日の日付欄にシールを一枚貼っていくのだ。
 別に一番になったからって何か特典があるわけじゃない。しかしここで一番になる、というのがまだまだ世界の狭い幼稚園児にとっては、天から与えられた至上の命題にも等しいものだったわけだ。
 
 おれも泣きじゃくっていたわりには、いつのまにかこの入室競争には参加していた。
 回りが走り出すのにつられて腕をふりふり全力疾走するのだが、ここでも一年の差は大きかった。
 あっという間に回りの子達に置いて行かれて、そのうえ足をもつれさせて転びそのまま地面に突っ伏して大声で泣きじゃくる。そして後ろから追いかけてきた先生に優しく起こしてもらって、手を引かれグズグズ泣きながら教室に入る——というのがいつものパターンだったのだが。
 
 その日も転んだ後に鼻の奥からこみ上げる涙を目からこぼしそうになっていた、その時。
 突然かん高い声が頭の上から響いてきた。

「泣かないの! もう、赤ちゃん、じゃない、でしょ!」

 クラス担任のマキノ先生や、聞き慣れた母ちゃんの優しい声とは違う、その布を引き裂いたような高い声に、おれは涙をうっかり引っ込めて顔を上げていた。

 するとそこには、おれと同じ制服を着て、同じベレーを被り、おれのもじゃもじゃとした髪の毛には負けるが、柔らかい猫っ毛の毛先が刎ねた女の子が、仁王立ちに立っている。

 おれは何を言われたのか理解できぬまま呆けたように口を開けていたが、その子はおれの腕を手に取り、ぐいっと力任せに引っ張り上げようとした。が、同じ幼児の力だ。そのままバランスを崩したその子はすてんと後ろに尻餅をついてしまい、おれも引きずられるように、身体を捩りながらまた転んでしまった。
 おれは再び涙目になったが、その子は顔色を変えずにすくっと立ったかと思うと、またおれの腕を取って立たせようとする。さすがに二度目はおれもそのまま立ち上がると、女の子はうん、とむっつりした顔で頷き、そのままおれの腕を引いて教室へ駆け足をはじめた。

「はやく! はやく!」
 他の園児達はすでに皆教室に入り、シールの棚の前で自分の手帳に貼る順番を待っている。その列を見た女の子があーと残念そうな声を上げた。
「わたし、きのう一番だったのに!」
 そしてぷくっとほっぺを膨らませて、振り返る。
「あんたのせい!」
 怒られる! と思わず頭を抱えたおれに、しかしその子は脈絡もなくおれの顔を覗き込んだ。

「あんた、名前、なに?」
「え?」
「わたし、ナミ!」
「……」
 何を聞かれ、どう答えたものか分からず顔だけを青くさせると、ナミと名乗ったその子は、んーと顔を近づけて怒っているのか困っているのか分からぬ表情を浮かべた。
「名前ないなら、『泣き虫ながいはな』って呼ぶわよ」
「えぇ!」
 目を見開いたおれに、ナミは指を伸ばして鼻の先っぽを遠慮なくぐいぐい押してくる。痛い痛い、とおれは暴れた。おれの鼻は少しいびつな形をしていて、他の子と比べると先っぽが妙に長いのだ。
 おれが逃げようとすると、ナミは今度は笑って追いかけてくる。
「まてー! 泣き虫ながいはな!」
「や、やめてえ……!」
 半泣きの状態でナミに捕まる。また鼻先を押されそうになって、今度は渾身の力でおれはその手を振り払った。
「……ウ、ウソップ!」
「え?」
「なまえ……」
「……ふうん、あんた、ウソップ、なのね!」
 分かった、とばかりに大きくナミは頷く。その顔を怯えつつもそっと見やると、ナミは目を細め、ぱかっと大きな口を開いて、これ以上ないという笑顔を浮かべていた。

「ほら、はやく!」
 ナミがおれの腕を取る。強引に引いて、教室まで駆け出す。
「ま、まって! ナミちゃん……」
 おれはそれに付いていくのがやっとで、もう、泣き出すような余裕もなかった。ひっひっと声だけを震わせて、ナミに連れられるままシール棚前の列に並ぶ。シールは花や動物、乗り物などいろんな種類があったが、日替わりでいつも一種類が棚の前の机に出されている。今日のシールを見やったナミが、うふふと笑いながら後ろのおれを振り返った。

「きょうのシールは、あんたといっしょね! ながいはな!」

 意味が分からずきょとんとしてると、ナミはシールを一枚ぴっと台紙から剥がすと、指の上に載せておれに突き出す。シールの柄は、動物のゾウだった。

 ——後からマキノ先生に教わった。
 その日は、おれははじめて泣かずに教室の中に入ることが出来た、記念すべき日だったらしい。



 言うなれば、おれの初めての「お友達」はそのナミだ。
 
 だがおれはこの後も、特別ナミに懐いたり、後追いするようなことはなかったと思う。
 ナミはおれより身体も声も大きく、後から知ったが七月生まれだという。まさに「もうすぐ四歳」の、一つ年上の子とも言っていい存在だ。回りの怖い同級生たちと何ら変わることがなかった。
 
 かたやナミの方はそんな差をまったく感じていないようで、おれが教室の隅っこで折り紙をしたり、塗り絵を楽しんでいると、どたどたと走って寄ってきて、
「ウソップ、なにしてるの?」
 と、問う。
 入園当初から泣いてばかりで、先生の後ろに隠れてばかりのおれに、そんな風に話しかけてきた同級生はナミが初めてだった。

 最初、おれは返答すらろくに出来なかったが、同席していたマキノ先生に促され、
「おりがみ……」
 とか細く答える。その「が」や「み」を発音する前に、ナミは声をかぶせて会話を進めてくる。
「なに? なに折ってるの?」
「これは……きつねのかお」
「きつね? きつねなの、これ?」
 いくつか折っていた完成品を取り上げて、ふーんとナミは見つめた。納得していないようなので、側にあったペンで線を引いて目と、黒丸を描いて鼻を付けると、やっとナミは「ああ!」と理解してくれた。
「きつね! きつねだ! ねえ、他は?」
 その他、幾つか作った鳥や車などを渡してやると、どれもきゃっきゃと喜び、上に掲げてじーっと見ている。しかしその様子に先生が「ナミちゃんも作る?」と声をかけると、ううんと首を横に振る。そして堂々と言い切るのだ。

「これ、もらうからいいの!」

 え? そうなの? とおれが目を丸くすると、ナミは手渡した完成品をためらいなく自分のポケットに入れ、そのままどこかに行ってしまった。
「あら、ナミちゃんダメよ。それはウソップくんが作ったものだから……」
 そう言い、先生はナミの後を追いかけた。そして押し問答の末に、ナミから取り返したのであろう折り紙を持って戻ってくる。先生はまたおれが泣き出しているのではないかと案じていたらしいが、気にした様子もなく再び折り紙をはじめていたおれの次の言葉に、また驚いたらしい。

「これも……ナミちゃんにあげる」

 覚えたばかりの、ネコとゾウの折り紙を、そう言って先生に差し出した。

 おれは間違いなく、おれの折り紙を喜んで持っていたナミの姿を、嬉しく思っていたのだ。


 
 親や先生に退園すら考えさせたおれの泣き癖は、しばらくするうちに徐々に治まっていった。
 相変わらずちょっとしたことで目を潤ませるが、さすがに一日中泣きわめいていることは少なくなり、園内のお遊戯にも下手くそながら参加し、晴れた日は園庭に出て外遊びを経験したりもした。

 ナミは時々思い出したようにおれにちょっかいを出してきては、きまぐれにふいとどこかに行ってしまう。元気で賑やかなナミは同級生の中でも人気者で、おれにばかり構っている暇は無かったのだ。
 だが、おれが作った折り紙や工作した品を見つけては珍しげに目を細め、必ず「これちょうだい」とせがむ。そのたびに先生がたしなめるが、おれはいつも気前よく渡していた。ナミに喜んでもらおうと、綺麗な色を付けたり顔を描いたり、もっともっと作品に手をかけるようにもなった。



 幼稚園生活の中の、ある一日を覚えている。
 おれはいつもバス通園だったが、なぜか母ちゃんに連れられて登園した日があった。後から知ったが早朝にバスが故障し、全園児がそのような登園になったらしい。
 
 日中はともかく、まだバスに乗る時は泣いて行きたくないと騒いでいたような時期で、それは園の門まで母ちゃんが一緒のこの時も同じだった。「母ちゃんはここまでね」と言って帰ろうとする母ちゃんに縋って大声でわんわん泣いていた時に、ふと、おれの視界にナミの姿が飛び込んできた。
 
 ナミはおれの姿をちらりと見て、しかし何も言うことなくそのままふいっと園内に入っていく。
 その後ろから、赤いランドセルを背負った小学生が手を振りながら呼びかけた。
「じゃあね、ナミ! いってらっしゃい!」
「うん、いってきます!」
 ナミは一瞬振り返ってその小学生にバイバイすると、そのまま毎朝のシールの争奪戦と同じくたたっと走って教室へ向かった。その小学生は、他の園児の保護者の間をすり抜けるようにしてそのまま去って行く。その際、顔見知りらしい保護者に呼び止められてハキハキと挨拶をしていた。
「あら、ノジコちゃん。ナミちゃんのお見送り? お母さんは?」
「お母さんは、もうお仕事なんで!」
「そうなの。お姉ちゃん偉いわね。ノジコちゃんも気をつけて行ってらっしゃい」
 はーいと元気よく、ノジコと呼ばれた「お姉ちゃん」は駆けていく。

 その光景をぼんやりと眺めているうち、おれはいつしか迎えに出てきていた先生に手を引かれていて、母ちゃんはもう園の外に消えてしまっていた。



「また、『かあちゃーん』って泣いてる」
 そう、ナミに笑われたことを思い出す。
 砂場で遊んでいる時だ。何かのきっかけでまた泣き出したおれは先生に抱っこされるように外に連れ出され、ナミが熱心に砂山を作っている隣に座らされたのだ。

 ぐずぐずと鼻を垂らすおれを見て、ナミは幼児特有のいきなりさで大声を上げた。
「わたしのおかあさんはね! おまわりさんなの!」
「おまわりさん!?」
 思わず、おれは大きな声で聞き返した。おかあさんが、おまわりさん?
 それまで、おれの中の「おまわりさん」は、制服を着て交番に立ったりパトカーに乗ったりしている「男性」の姿だったからだ。婦警さんという存在をまだ知らなかったおれは、思わず、
「……すごいね!」
 と叫んでしまった。

 三歳だったおれのボキャブラリーでは、「すごい」というのは「不思議」とか「はじめて知った」とか、とにかく驚いたときに何もかも一緒くたに発していた言葉だったが、ナミは純粋に称賛と受け取ったらしく、ふふふんと鼻高々に微笑んだ。
「そうなの! かっこいいの! 怒るとこわいけど!」
 しかし、そう言った後に急に声を落として、作ったばかりの砂山をペチペチと叩いた。

「でもね。おしごと忙しいからね。あまり遊べないけど。……ウソップも、泣いちゃダメよ。かあちゃん、忙しいのよ」
 
 ……そんな会話を、何度かした気がする。
 毎日のように母ちゃん、母ちゃんと泣くおれに、ナミが何を思っていたのかは分からない。
 だが、ナミにそう諭されるたび、おれの泣き出す回数は劇的に減っていったように思う。



 幼稚園生活は、その後も順調に流れていった。
 おれは相変わらず一人遊びが好きだったが、園内でナミの姿を見つけると駆け寄っていくようになり、ナミがいれば、他の子の集団にも臆せずに入れるようになった。
 
 そしてそれは、朝からしとしとと雨が降り続いた薄暗い日だった。

 おれはいつものように教室の隅で、すっかりおれの定位置となった折り紙が仕舞われた棚の前に陣取って、覚えたばかりのセミやウサギやキンギョを折っていた時のことだ。
 教室と園庭の間の廊下から、ナミのキンキン声が響いてきた。

「なによ! いいもん! いいもん! もう、やめる!!」

 おれの泣き声にも負けないその大きな声には、溢れそうな涙の気配が込められていた。

 ——ナミが泣いている。
 そんな初めて聞いた声に、おれは無意識に教室から飛び出していた。


 
 走って行った先は、廊下の奥のウッドテラスだった。
 屋根は付いているが外と仕切る壁は無く、壁一面はコンクリート製の手洗い場になっており、園児でも届く低い位置に蛇口が幾つも据え付けられている。外遊びから戻ってきたときにここで手や足を洗うため、園児達が順番待ちしても大丈夫なようにデッキ自体に教室程度の広さがある。そのため外に出られない今日みたいな雨の日は、ここで遊ぶ園児も多い。
 だが、その時は無人に見えた。少し前に、教室に入りなさいという合図のチャイムが聞こえていたのを思い出す。全クラスが一度外遊びを止めて、教室でお弁当の準備をする時間なのだ。おれは廊下と仕切るガラス戸を覗き込んで、ナミの姿を探すため、思い切ってその引き戸をカラカラと引いた。

 しんと静かなウッドデッキの隅に、ナミはいた。
 手洗い場の影に隠れてうずくまって、その側にはマキノ先生が困ったように微笑みながら座っている。
「ナミちゃん、お弁当の時間よ。一度戻ろうか」
 そう諭されてながら、ナミは体育座りの膝に顔を埋めたまま、いやいやと首を横に振っていた。
「……泣いちゃったことが、恥ずかしいのかな?」
「ちがう! ちがうもん!」
 しかし、反射的に出たそのナミの声が潤んでいるのは、三歳のおれにも分かった。

「みんなが、わるいの! ひどいの!」
「悪くないわよ。ルール通りに、みんなやってたでしょう?」
「でも! でも、みんな、ナミのこと『いらない』って……!」
「『いらない』わけじゃないわよ。あれは、順番に『だれだれちゃんが欲しい』って言ってジャンケンで取り合いをする——はないちもんめ、って、そういうゲームなの」
 ナミの頭を撫でながら、マキノ先生は優しく囁いた。
「ね。最後までナミちゃんが残って一人になっちゃったけど、あれからもまだ続けられるのよ」
「いや! いや! もう、あんなのやらないの!」 
 ついに顔を上げたナミは、涙をぐいっと袖で拭いたが、自分を見つめる先生の顔を見て、顔を歪めてもう一度泣き始めた。マキノ先生はあらあらと、よくおれが泣き出した時に呟く言葉を口にして、ナミがしばらく泣き続けるのに任せていた。

 はないちもんめ、は、おれも時々混ぜて貰うゲームだ。
 二手に分かれて歌い合いながら、相手チームから貰う人を選んでジャンケンで勝敗を決める。勝てば選んだ人を貰えて、負ければ奪われる。負け続ければどんどんとチームから人が減っていき……。

「——あら、ウソップくん」
 突然名を呼ばれ、おれは文字通り身を跳ねさせた。
 ナミも一瞬涙を引っ込めて、扉の所にいたおれに視線を向ける。が、真っ赤な目はすぐにぷいと背けられた。

 見つかってしまったが、どうしていいか、何を言うべきか分からず、しかし逃げ帰るタイミングも見失って表情も身体も硬くさせていると、そうだ!っと少々大げさな風を装ってマキノ先生が両手を叩く。
「ウソップくんも一緒に、『はないちもんめ』やりましょう」
「えっ」
「ほらほら、おいで」
 マキノ先生はゆっくりとおれに近づいてきた。そしておれの手を取り、ナミの所へ連れて行く。

 ナミのむっつりとした顔に、頬の涙の後がくっきりと浮かんでいた。おれが先生に肩を押されてその真っ正面に立つと、ナミは首を振ってかん高い声を上げた。
「できない……! ひとりじゃできないもん!」
「できなくないわ。ナミちゃんと、ウソップくん。二人いるでしょう? 二手に分かれて、ね」
 口調は優しいが、マキノ先生の言葉にはこれ以上逆らえないと思わせるような強さがあった。
 先生はナミとおれを向き合わせて、自分はその真ん中の、さらに横に少しずれて、腰を落としておれ達の目線に合わせる。にこりと微笑んでまずおれを見た。
「ウソップくんからよ。歌える?」
「う、うたうの?」
「そうよ。最初は『勝ってうれしい……』から。さんはい、って言ったらね」
 そして軽く手を叩いて、リズムを取り始めた。
 パンパンというゆっくり目のリズムに、だがおれは正直緊張で目を回しそうになった。はないちもんめの歌詞は分かっていたが、その時まで一人で歌を歌ったことなどなかったのだ。そもそも、なんでこんなことになっているのかも疑問に思う余裕もなく、ナミがなんで泣いているのかもきちんと理解はしてなかっただろう。

 だが、おどおどと視線を彷徨わせている内に、真っ正面のナミの顔が目に入った。
 ナミは頬をぷうと膨らませて、口はへの字。しかもうつむき加減で、だらりと下がった両手はぎゅっと握りしめられている。たまにその握り拳の甲で、目元や鼻をぐいとこすって涙を隠そうとしていた。それでもその視線は、赤く腫れた瞼の下からじっとおれを見やっている。
 その視線に、ぎゅうっとおれは何かを掴まれたように、身動きが取れなくなった。
 思っていたのは、
 ——泣いてる。ナミちゃんが泣いてる。
 そのことだけだった。

 マキノ先生は、歌うようにおれに囁いた。手拍子の、リズムに乗って。
「……じゃあ行くわよ」
 おれは大きく息を吸い込んだ。
「せーの、さんはい!」

「かあって、うれしい、はないちもんめ!」
 
 先生とナミが、揃って目を見開いた。こんな大声が出るのかと、おれ自身も驚いていた。
 歌に合わせて一歩、二歩と出て三歩目を勢いよく蹴り上げる。足を上げすぎて転びそうになったが、なんとか踏ん張って持ちこたえた。
 先生の手のリズムが心なしか少し早くなり、今度はナミに向けられる。
 ナミは二拍ほど遅れたが、それでも低い声を出し、三歩進んで足を上げる。
「……まけて、くやしい、はないちもんめ」
 マキノ先生が、嬉しそうに微笑んだ。

 手拍子は続く。おれとナミは互いに押しあいするかのように三歩進み三歩下がり、足を蹴り上げる。
「ふ、ふるさとまとめて、はないちもんめ!」
「……たーんす、ながもち、あの子がほしい」
「あのこじゃ、わからん!」
「そうだん、しましょ」
「そーしましょ!」
 テンションにかなり差があるものの互いに歌い合いながら、しかしそこではたと気付いたように二人顔を見合わせた。

「そうだんする人いない……」
 と、ナミがマキノ先生に小さく呟く。思わずといった風に先生はぷっと吹き出した。
「そ、そうね。二人とも一人だから。相談しなくても決まるわね!」
 はい、じゃあ続けて! と、手拍子のリズムが再開した。今度は先生の声も合わせて、三人で同時に発声する。

「……きーまった!」

 二人の視線が、おれに集中する。
 台詞は、決まっているのだ。だが、それを声に出すのに、なぜだか分からぬほど身体の芯が震えた。
 息を吸い、吐く。そしてもう一度、大きく吸った。

「ナ、ナミちゃんが、ほーしい!!」
 
 リズムも音程もへったくれもない、その日一番の大声。
 おれの視界のナミの顔が、ぎゅうっと縮まった様に見えた。目と口に力が入りすぎて、皺を寄せて瞑ってしまったような顔。あるいは、緊張でおれの見え方がおかしくなっていたのかもしれないが。
 ナミは数拍の後、しかし、声を張って続きを歌った。

「ウソップが、欲しい!」

 今度がおれが、目と口元をあり得ないほど瞑る番だった。

 気付くとナミもおれも先生に手を取られ、
「はい、ジャーンケン」
 とリズムに乗って振らされる。
 とっさに出した手は。

「あっ……」
「あー」

 ナミはしばらく、おれのパーと自分のグーを見つめていた。

 が、その手を一回ぶんと振り回すと、たたっと駆け足でおれの隣に寄り、おれの手と自分の手を繋ぐ。
「わたし、とられちゃった」
 そして、泣きはらした瞼を思いっきり見開いて、にっこりとおれに向かって笑ったのだ。

「——はい。一方のチームが誰もいなくなったから、これで本当にゲーム終了ね」
 マキノ先生が、よしっと声を出して立ち上がる。そしておれとナミの肩に両手を添え廊下の方に向かせた。
「さあ、お弁当の準備しなきゃ。教室に戻るわよ」
 軽くとん、と肩を押された勢いでおれ達は駆け足になった。

 おれと比べて脚の速いナミは、すぐにスピードを上げて走り始める。おれは置いて行かれまいと必死に足を動かす。はやく、とぐいぐい手を引かれ、何度も転びそうになる。
 が。

 ナミはおれの手を離さなかった。おれも、ナミの手を離さなかった。
 



 ☆




「あめ、やまないねえ」
 
 店の奥の畳敷きの小上がりの奥から、そんな小さな呟きが聞こえてきた。
 調整し終わったブレーキを確認し、軽くタイヤを滑らせて効き具合を確かめる。きゅっと小気味いい音を立ててタイヤが停止したのを確認し、おれはふうと立ち上がって、腰を伸ばして一息ついた。
 手にしていた六角レンチを油汚れの染みが広がるポケットに戻しながら小上がりを見やると、幼稚園の制服を着たままのその子が、窓辺に手をついて外を眺めている。
 さっきまで塗り絵を楽しんでいたはずだ、と思ってそこのちゃぶ台を見れば、線画だけのイラストと色鉛筆が散乱した状態だ。もう飽きてしまったらしい。

「そうだなあ。すこしだけ、小降りになった気もするが」
「ママ、まだかえってこない?」
 振り返られて、おれは店のガラス戸の方から外を見やった。いつもは外に展示してある自転車は、この雨のせいで台数を減らし、さらに庇の下にぎゅうぎゅうに詰めて置いてある。その向こう側は雨で煙っていて、歩行者の姿は随分前から見ていない。
「だな。まあ、もう少し待ってろよ。すぐにナミ、帰ってくるって」
 母親の名を出すと、少しだけ安心したかのように、もう一度ちゃぶ台に戻って塗り絵を再開し始めた。
 おれは手の汚れを手拭きでぬぐって小上がりに上がり、冷蔵庫を開けて麦茶とオレンジジュースをコップに注いだ。

 ジュースを手渡す際に、軽く猫っ毛の頭を撫でてやる。幼稚園の制服が三十年近くたった今も同じなこともあって、こうしてみると母親——幼稚園時代のナミがそのまま現れたかのようだ。

 この子の姿と、この雨が重なってだろう。今日のおれはナミとの思い出に耽ってばかりだ。



「おきゃくさんもこないね」
 親父から家業を継いではや十年。当時からある「自転車販売」の看板の文字も降り続く雨に濡れている。
 麦茶を飲み干して再び作業に戻ったおれは、昼間から増えてない伝票のホルダーにちらりと目をやった。
「この雨じゃな。こんな日に自転車買いに来る人もなかなか……」
「しょうばいあがったり、だね」
「おいおいどこで覚えたんだ、そんな言葉」
 呆れたように呟くと、小上がりから段差をぴょんと飛ぶようにして、店内に降りてきた。

「ねえねえ、それ、お兄ちゃんのじてんしゃ?」
 工具やばらした自転車の部品には危ないから触るなよといつも言い聞かせているが、この子はその辺はしっかりわきまえて、こちらがひやりとするようなことはしたことがない。四歳という年齢のわりに聡いのは多分母親似なんだろう。
 今整備していた22インチの子供用の自転車の脇に寄って、おれの隣に腰を下ろす。
「いつもこわれちゃうやつ」
「壊れちゃう、じゃねえ。お兄ちゃんが、壊してるんだ。今度は土手をそのまま横滑りで落っこちたっていうじゃねえか。そりゃフレームだって曲がっちまう。まったく、幾ら修理しても追いつかねえよ」
 そうぼやいてみるが、一年前の誕生日に用意してやったぴかぴかの新車を、この店でじゃーんと披露してやったときのあいつの感動振りは思い出すだけでにやけてしまう。
「もっと大事に乗れって、今度こそ言い聞かせねえと」
「わたしも、じてんしゃほしいなあ」
 じっと横から見上げられて、思わず頬を指で掻いた。
「それは……母ちゃんがいいって言ったら、だな」
「ママは、年長さんになったらって」
「じゃ、年長さんになったら、だ。あと一年我慢しろ」
 そう返すと、ぷうっとむくれてまた小上がりの方に戻っていく。そういう顔も、母親そっくりだ。

 調整終えた自転車を隅にやって、おれも一休憩と小上がりに腰を下ろした。再び塗り絵をはじめたその子の後ろから、ちゃぶ台に手を伸ばしてスマホを手に取る。音楽アプリを起動しランダム演奏を選択すると、無線で繋いだスピーカーからおれのプレイリストが流れ出した。

 最初に一曲は……おっこれか。
 ゆったりとしたピアノ曲の調べが耳に心地よい。おれは上機嫌に鼻歌を合わせた。

「わたし、しってる。それ」
 色鉛筆を動かしていた手を止めて、おれの鼻歌にかぶせるようにふんふんと歌い出す。音は外れていたが、旋律はなんとなく合っている気がした。
「知ってる? そうか、有名な曲だし、たまにCMとかでも流れるもんな」
「なんていう曲?」
「ジュ・トゥ・ヴ」
「じゅ……ぶー?」
 発音を笑うと、顔をしかめたのでその頭を優しく撫でた。
「フランス語だよ、意味はな……」
 と言いかけたその時。

 ピンポン、ピンポーン……。

 店のガラス戸を開けたときに鳴るチャイム音が響いた。おれが反応するより前に、小さな影が立ち上がって走り出す。
「ママだ!」
「はーい、遅くなってゴメンねえ」
 外から開かれたガラス戸から、閉めていたときには聞こえなかった雨音が店内に広がった。さーっと静かな空気の流れのような雨音の間を、傘を閉じ、ベビーカーを引くナミの動作が割って入る。おれも店に降りて声をかけた。

「おー。雨大丈夫だったか?」
「あ、平気平気。予防接種も無事済んだし、お兄ちゃんも途中で拾えたのよ。ウソップ、この子ありがとね」
 駆け寄ってしがみついてきた娘の頭を撫でて、ナミはその子に促した。

「あんたもほら、ウソップおじさん、遊んでくれてありがとうって」
「あそんでくれてありがと! ママ、ジュース貰ったの」
「あらホント。いつも悪いわねえ。ウソップ」
「いいよ。お前んとこの子、預かるのなんていつものことじゃねえか。なんたって——そんなにいるしなあ」
 と、おれは目の前の頭数を数え出す。

 ナミの腰にしがみつく、幼稚園の制服を着た娘が一人。雨よけのカバーが掛けられたベビーカーの中で、ぐっすりと眠る赤ん坊が一人。そして店先には脱ぐのが面倒なのか、羽織ったままの黄色い雨合羽の下にランドセルの膨らみが分かる男子が一人。

 おれの視線の動きを見て、ナミがさらにふふんと笑った。
「それと、もう一人ね」
「ああ?」
 そう問い返した、三秒後に意味が分かって、おれは思わずナミの腹を見た。

「よ、四人目ぇ?」
「そう! 冬が来る前には産まれるから!」

 ぽんぽん、とナミが軽く腹を叩く。分かっているのかいないのか、娘の方もそれを真似してナミの腹に手をやった。おれはうっかり呟いてしまう。

「……まあ、お前もよく次から次へと……」
「なあに、そういうのはうちの旦那に言ってよ!」
 多少を顔を赤らめてみたものの、ナミははじけんばかりの笑顔になった。
 その笑顔も——昔となんら変わることがない。おれはつられて笑いながら、慌てて首を振った。

「いやいや、めでてえ事じゃねえか。賑やかなのはいいことだ。そうかそうか、良かったな」

 そして、おれをじっと見上げている——おれがはじめて出会った頃のナミとそっくりな——ナミの娘の頭を、もう一度ゆっくりと撫でた。



 頼まれていた自転車は修理が終わっているが、雨だからどうする? と聞くと、車に積めるからそのまま持って帰るという。自分のものは自分で運ばせるというので、長男坊の雨合羽の下で濡れた手を拭いてやって、ハンドルを握らせた。今度はすっころぶなよ、壊すなよ、と言い聞かせると、素直に頷く。覗き込んだ顔はおれも知っている父親に成長する度似てきてて、なんだか可笑しくなった。

 店のすぐ側のコインパーキングに、娘を連れてきたときに停めた車がそのままになっていた。おれも付いていき、まず後部のハッチを開けて自転車を、そしてナミが赤ん坊を抱き上げた後のベビーカーを畳んでしまう。車移動とはいえ子連れは大変だ。半分濡れながら子供達をベビーシートとチャイルドシートに手分けして乗せて、ナミが運転席に乗りこんでから、ようやくおれは自分の傘を差した。

「じゃ、ウソップ、ありがとね!」
「おじさん、バイバーイ!」
「自転車ありがとうございました」
「おう、またな。運転気をつけろよー!」

 子供達の元気な声に、おれも笑って手を振る。開けた窓から漏れる賑やかな車内の声が、徐々に雨音のカーテンの向こうに遠ざかる。車が角を曲がって見えなくなるまで、おれはなんとなく佇んで見つめていた。



 無人の店に戻ると、当たり前だが静まりかえった空気に居心地の悪さを覚えて、止まっていたスマホの音楽アプリを再起動した。今度はランダム演奏にはせずに曲を選ぶ。
 流れる、耳に心地よいゆったりとしたピアノ曲。ふんふん、と思わず鼻歌が漏れる。

 ——ジュ・トゥ・ヴ。……あなたがほしい。

 教え損なった曲のタイトル。その意味。記憶の中で、幼いおれが力一杯叫んでいた。

 ——ナミちゃんが、ほしい。

 遊びの中の子供の戯れ言だ。だがおれの中での一番古い強烈な記憶。その時の自分の声の震えを、今でも思い出すことが出来る。
 あの時、ナミと一緒に教室に走りながら、おれは何度となくその言葉を心のうちで繰り返していた。
 心臓がすぐ耳の側にあるような動悸を感じつつ、繰り返す度に心の底に刻みつけた。
 また、あの、はないちもんめの時のように、ナミが誰からも欲しがられず、一人になって泣いていたら——その時はもう一度言おう。幼心の内で、そう固く決心した。
 
 ……なーんて、な。 

 おれは不意に沸いたセンチメンタルな気分に、ぷっと思わず吹き出して、スマホのボタンを押して曲を止めた。

 幼稚園での日々から、もう三十年。
 あのナミのはじける笑顔を見て、欲しがらない男が現れないなど、それこそあり得ない話だった。 
 おれのそんな秘めた決意はついに表に出ることなく、ナミは十代の終わりにあっさりと最愛の男を捕まえて、今も着実に幸福への道を進んでいる。

 それを寂しく思わないこともないが——。

 その時、プルル、と手の中でスマホが軽快な音と共に震えた。見ると、画面に今着信したメッセージが表示されている。

『今仕事終わりました。時間通りで大丈夫ですか?』

 おっと、とおれは時計を見上げた。針はちょうど夕方の六時を指している。
 やべえやべえ、もうこんな時間。とおれはもう今日は店じまいと決め、店の戸を開けて外の庇の内側に入れていた展示車を、一台一台担いで店内に運び込んだ。雨で、そもそも外に出していた台数が限られていたのは助かった。
 シャッターを下ろしたらすぐに今日の分の伝票を……っと、それは昼前に片付けた分で終わっていたな。午後は客足はぱったり途絶えちまったし。じゃあすぐにシャワーを浴びて着替えができる。
 店の予約は七時。その十分前にって決めた駅の改札での待ち合わせは、この分だとギリギリだ。

 急げ急げ。彼女を待たせちゃなんねえ。なんたって今夜はデートなんだから!

 おれはスマホに手早く「大丈夫! 予定通りに!」と打ち込んで返信すると、ぽいっと小上がりの畳の上にそれを放り出した。
 


 ——ジュ・トゥ・ヴ。……あなたがほしい。

 ナミにもおれにも、そう言える相手が見つかったこと。
 おれ達はなによりの幸せ者だと。心から、そう思う。
 
 


 <終>




<管理人のつぶやき>
泣き虫園児ウソップ。「はないちもんめ」で泣いてるナミを救えるまでに成長したんだね;▽;。誰かをほしいと言うこと、誰かにほしいと言われること、その重みが伝わってきました。ウソップのナミを想う気持ちが尊くて嬉しい。でもその想いはやがて昇華され、篤い信頼で結ばれた大人の二人を見ることができました^^。

現在、Pixivで活躍されているせん松様の投稿作品でした。じ~んとくるお話をどうもありがとうございましたーー><。




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