3月 clescendo      - PAGE - 1 2 3 4
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少し温かくなってきたと思っていたら、凍えるような雨が降って、また寒い日々に逆戻り。
そうかと思えばまたうららかな日差しが降り注いで、その数日後には冷たい雨。

でも、雨があがった後は、それ以前よりかは確実に暖かくなっているし。
こうやって雨を繰り返す毎に、段々と春の気配が濃くなっていくのだろう。


月曜日の朝というのは、一週間の中で最も気ぜわしい気がするのは私だけではないだろうとナミは思う。
休日の朝にベッドでぬくぬくする方がもちろん好きけど、ウィークデーの緊張感ある朝も決して嫌いではない。
そんな出勤前の朝の貴重なひとときを、窓辺のテーブルで過ごす。左手で持った熱いマグカップに口をつけつつ、もう片方の手で旅行雑誌のページをパラパラとめくる。

先日カレンダーを見て焦った。もう3月。まだまだ遠いと思っていたゴールデンウィークも射程圏内に入ってきた。
毎年ゴールデンウィークには実家に帰省しているのだけど、いつも家でゴロゴロしてるだけで、どこにも行ったりしない。
でも、今年は母を連れ出して、ちょっと旅行に出かけてみたい。もちろん、費用は全部自分持ち。社会人3年目なのだから、それくらいの貯えもできた。今まで女手一つで自分と姉を育ててくれた母だから、ちょっと恩返しをしたいと思っている。

(私って、なんて殊勝な娘なのかしらね)

ナミは一人悦に入りながら、また次のページをめくっていく。

その雑誌は、通常の旅の情報誌とは異なり、ちょっと大人っぽい優雅な旅をテーマに扱っている。単に観光地を回るのではなく、訪れた街の自然や歴史、伝統、文化に触れながら、その街への理解を深めていく、そんな旅のアプローチの仕方を提案してくれている。
食事処も、地元で有名な店よりもむしろ、知る人ぞ知る隠れ家的なお店を、写真もふんだんに取り混ぜて紹介している。
宿なんかも、画一的な団体旅行用の旅館や高級リゾートとは一線を画した、人情味溢れるサービスや古くても風情のある宿を取り上げている。その分、値段も張るのだろうが。

(まぁ、私も今年25歳になるんだし、そろそろこういう旅をしてもいいわよね)

そんなことを考えて、この雑誌を選んだ。
実をいうと、昨日の日曜日は、本屋での雑誌選びでほとんどの時間を費やしてしまった。
昨今では、旅一つをジャンルにとっても、数限りない雑誌が氾濫してるし、その情報量の多さたるや、押し流されて溺れそうになるほどだ。結果として、たくさんある雑誌の中で、自分が求めている情報がどれに載っているか、それを選りすぐるにもそれなりの時間を要することになる。
そんな風に休みを一日潰してまで選び出したこの雑誌は、自分で言うのもなんだけど、なかなかのものだと思う。よくがんばった自分、と褒めてやりたい。
しかし、結局昨日は雑誌選びだけで力尽きてしまい、中身に目を通す時間がなかった。だから、今朝になって、ようやくページをめくっているというわけだ。

「わぁ、ここ、素敵。」

思わず声に出して呟いた。旅の記事ではなかったけれど、ふと目にしたコラム記事に、ページをめくる手が止まった。
記事と写真を織り交ぜて、筆者の友人の店がエッセイ風に紹介されていた。
店の裏庭で栽培している野菜を中心に、厳選された食材で料理を提供していて、栽培で使う土はもちろんのこと、料理に使う水さえも一方ならぬこだわりを見せているという。
写真に映し出された料理の美しいこと。彩り鮮やかで、それでいて品がある。料理自体がいいのか、それともカメラマンの腕がいいのか。或いはその両方だろうか。店の内装も落ち着いていて良い雰囲気だ。
そして一際目につくのが、料理が盛られている器だろうか。土の風合いをそのまま生かした陶器皿。これを選んだ人のセンスがしのばれる。
これ、どこのメーカーのかしら?それとも陶芸家の作品?と考えたのは、一種の職業病だと思う。センスの良い食器や雑貨に出会うと、うちの店でも取り扱えないかと、ついつい考えてしまう。

(でもやっぱり、この文がいいんだわ)

その店の魅力を大げさすぎず、ありのまま等身大を伝えようとしているところに好感が持てる。友人の店だからだろうか、褒める時には多少照れが滲み出ているように見えて、それがとても微笑ましい。何よりも、店を見つめる筆者の暖かい眼差しがこの記事には宿っていて、それだけで惹きつけられるのだ。
記事の最後には、思いのほか若い副料理長の写真とともに、店の情報が記されていた。

(郊外だけど、行けない場所じゃないわね。今度、ロビンと一緒に行ってみようかしら。)

そんなことを考えていたら、テレビで占いコーナーが始まった。これを見終えたら出勤時間だ。
ゴクゴクと残っていたコーヒーを飲み干しながら、いつもの習慣で向かいの窓に目をやる。

カーテンが開いたままの窓。

昨夜も帰ってきていないんだわ。
もう3日になるかしら。
まったく、どこで何をしてるんだか。

無用心にもお向かいさんは、カーテンを開けっ放しで出掛けたので、中が丸見えだ。不審者やストーカーが怖いナミには考えられないことだが、向かいのゾロというヒトはそういったことに全く頓着してなくて、幾分寒さも緩んできたこともあって、最近はカーテンが開けっ放しにされていることの方が多い。

窓の中が見えると、返って不在を思い知らされてしまう。
まだカーテンが閉まっていた方が、ひょっとしたら居るのかも?って想像もできるのに。

バスの中で、あんなに近くで触れ合ったなんてまるで嘘のよう。もしかしたらあれは幻だったのかと思うくらい。
言葉も交わしたけれど―――深みのある声だった―――でも、あれから一度も彼のそばに立って、その声を聞くことはなかった。
おそらく、私が向かいに住んでるってことにも気づいてないんだわ。
彼との間に横たわる距離を考えると、ちょっと切なくなる。
窓はこんなに近いのに。

ナミは溜息をついて立ち上がり、うちはお向かいさんとは違うのよとばかりに、淡いオレンジ色のカーテンを殊更強く引いた。



♪          ♪          ♪



「じゃあ、そろそろお暇するとしようか。」

課長に促されて、ナミもソファから立ち上がり、応対してくれた社長にお辞儀をする。

「これから、よろしくお願いいたします。」
「こちらこそです。」
「ナミくんも。これからもヨロシク頼むよ。」
「はい。」

和やかな空気で会合を終え、ナミは課長とともにその会社のビルを後にした。

「ゲンさん、今日はありがとう。」
「いやいや、これも上司の役割だからな。」

すっきりしない空模様であるが、気温は和らいで、午後になると春かと思うような陽気になってきた。ゲンは背広を脱いで小脇に抱え、ハンカチで額の汗を先ほどからしきりに拭っている。

今日は新規で販売提携を結ぶことになった陶磁器メーカーを、上司であるゲンとともに訪問したのだ。
小さい規模ながらも洗練された美しいフォルムと洗練されたデザインの陶磁器を生み出すそのメーカーを見出したナミは、ナミの会社が展開しているインテリア雑貨店で品物を扱わせてもらえるよう、3ヶ月に渡り打診していたのだ。
それがこの度、あくまでも自主販売にこだわっていたメーカー社長をようやく説き伏せ、納品してもらえる運びとなった。
これも足繁く通い、ナミの会社の店で品物を扱うことによる費用対効果を詳しく説明し、販売促進の企画を次々提案していった成果だった。時間をかけて、ナミは次第に社長の信頼を得ていくことに成功したのだ。
今日は正式な契約を結ぶ前の挨拶だ。上司を連れて行くことで、ナミの会社がこのメーカーに寄せる期待の大きさと信頼を示したかった。

「それにしても、お前も一人で契約取ってくるようになったんだなぁ。」
「これも、ゲンさんに鍛えられたおかげです。」

隣を歩くゲンに、改まったように頭を下げる。なんだ気持ち悪いと、ゲンが苦笑いを浮かべてナミの頭をこづいた。
ゲンは、ナミが配属されてる企画課の課長である。非常に面倒見が良く、普通は先輩社員が教えるような仕事も、ゲン自らがナミに実地で教えてくれた。大きな仕事の局面にもナミを連れて行ってくれて、様々な経験をさせてくれた。早くから仕事も任されて、自由に企画提案させてもらっているし、実際に役員決済を経て実現した企画も多い。それは、ゲンの後ろ盾があってこそだと思っている。
ナミは今の仕事を面白いと思っているし、最近は特にやりがいを感じるようになってきた。そこまで気持ちになったのは、やはり今まで鍛えてくれたゲンのおかげだろう。

「もう私がいなくなっても安心だな。」
「え?」

さりげなく漏らされた言葉に、ナミは目を見開いてゲンを見る。

「ハハハ、私も定年だよ。」

ゲンさんてそんな歳だったの?ということよりも、ゲンがいなくなることに、ナミは強い衝撃を受けた。

「今の社長にほれ込んで、前の会社を辞めて入社。それから20年だ。万年課長だったが、幸せな会社人生だったよ。」

ゲンはあくまで現場にこだわって、部長や取締役就任を固辞し続け、今に至ると言われている。

「ゲンさんが定年・・・・。」
「おいおい、別に死んでいなくなるわけじゃないからな。」

ナミの強張った表情を見て、ゲンが慌てて取り繕うように言う。

「次の課長は、決まってるんですか・・・・。」

そう問いながらも、ナミは心ここにあらずだった。

「社長が今、ヘッドハンティング会社を通じて人材を探してるらしい。私の後釜だから、飛びきり優秀なヤツじゃなかったら、辞めませんよと社長に言ってやったよ。」

少しでもナミの気持ちをほぐそうと、ゲンはガハハと笑いながら朗らかにしゃべる

「正確にはいつ?」
「4月末だな。引き継ぎ業務で出てくることはあるかもしれないが。」
「そうですか・・・・。」



♪          ♪          ♪



それからどこをどうやって会社まで戻ってきたのか、はっきりと覚えていない。
呆然としたまま企画課に戻ってきたナミを、後輩が訝しげな顔で迎えた。

「ナミさん、どうかしたんですか。」
「・・・・・あんた、ゲンさんが今年定年だってこと、知ってた?」

急に意識を取り戻したように、ナミがガバリと顔を近づけてきたものだから、後輩は驚いて、少しばかり顔を仰け反らせた。

「そ、そりゃ、知ってましたよ。俺、歓送迎会の幹事ですから。」

後輩が言っている歓送迎会は、主に本社勤務の社員やパート、アルバイトを対象にしたもので、最も人事異動が多い春先に行われる。各課で個別にも行われる歓送迎会とは別に、本社全社で行われるものだ。だから、各課から幹事が出されるほどで、一年に一回の大掛かりな食事会といっていい。

「あ、ナミさん。歓送迎会の話題が出たついでに相談なんですけど、俺、店選びの担当になったんですよ。」

(そうか、じゃあ、今年の歓送迎会は、ゲンさんも送られる側なんだわ。)

ナミの気持ちがまた別の世界に遠のいたのに気づかず、後輩は話し続ける。

「今年はどこの店にしますかね〜。いい店をなかなか見つけられなくて。」

(ゲンさんを送るんなら、飛びきりいい店でしたい。)

「ナミさん、よくロビンさんと食事とか行ってるじゃないですか。」

(今までの感謝を込めて、最高に素敵な歓送迎会にしなくちゃだわ。)

「その経験から、どっかお勧めのトコロとかありませんかね?」

(こんなトーヘンボクに、店選びなんて、任せてらんない!)

「助けてくださいよ〜。俺、ホント困ってて。」
「店選び!私が仕切るわ。アンタは口を挟まないで!」
「ハ、ハイぃ・・・・。」

望むところです、と後輩が呟いたのは、ナミの耳には届かなかった。

そうだわ、あの店はどうかしら。
今朝の雑誌のコラムで見た・・・・・。

ナミはロッカールームに駆け込んで、カバンの中をまさぐり、あの旅行雑誌を取り出した。ヒマを見つけて読もうと思って、会社にまで持ってきたのだ。
ペラペラと急いでそのページを開く。

リストランテ・バラティエ。
客数は50人まで対応可能と書いてある。規模的にも問題ない。

早速、ロビンと一緒に下見に行ってみよう。
期待を込めて、ナミはそのコラム記事を見つめた。

記事の片隅に写る、金髪片目の若い副料理長が、写真の中からナミに微笑みかけていた。

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