3月 clescendo      - PAGE - 1 2 3 4
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「ここでいいですわ。送ってくださって、どうもありがとう。」

ロビンが利用する地下鉄の最寄駅に着いた時、彼女にしては珍しい愛想笑いを浮かべた。
それでも普通の男なら、それだけでポーッとなってしまいそうな艶やかな笑みである。
しかし、ゾロは特に動じた様子も見せず、心もち運転座席から顔をロビンの方に向けて「どうも」とだけ答えた。
ロビンはゾロに見えないように苦笑いを浮かべつつ、軽やかな身のこなしで車のドアを開け、道に降り立った。すると、追いかけるようにナミも降りてきた。

「あなたは降りちゃダメじゃない。」
「私も!私もここで。ここからバスに乗るわ!」
「あら、どうせ彼の向かいの家なんでしょ。家まで送ってもらいなさいな。ほら、彼は送る気満々みたいよ。」

振り返ると、ちょうどゾロが助手席に置いていた荷物を、今度はまた後部座席に投げ入れているところだった。

「でも・・・・。」

ナミがすがるような目つきをする。
こんなナミを見るのは初めてだ。いつも勝気でカラッと明るくて、暖かい笑顔と雰囲気を周りに振りまいて、みんなを楽しい気持ちにさせる。それが彼女だ。少なくともロビンはそういう一面しか見たことが無かった。
普段なら、会話が弾まない気まずい場面では気を使って率先して話題を提供する。飲みに行っても、どちらかというとロビンは聞き役で、おしゃべりをするのはもっぱらナミだった。
それなのに今日は、とういうよりも車の中の彼女は、まるで借りてきた猫のようにおとなしくて静かだった。郊外から都心部に戻ってくるまで、車の中は外の空気に負けないくらいにしっとりとした空気に包まれていた。

でも、それにも増して興味深かったのは、運転席の彼だろうか。
彼からは世間一般の男性が若い女性に向ける媚びや下心のようなものがまったく感じられない。ありのままのものにありのままの姿で対峙し、あるがままを受け入れる。泰然自若。若く見えるのに、この落ち着き払った態度はどうだろう。そのせいか、押し黙ったままの車内も別に息苦しいわけではなかった。それは、彼が醸し出すオーラによるものだろう。

この男と、あのナミさんが。

くすっとロビンは、今度こそ本物の笑みを浮かべた。

「じゃあ、私は行くわ。また明日会社でね。」

見るからに心細そうなナミを置いていくのはしのびなかったが、今の自分は消えるに限る。
大丈夫よ、ナミさん。
彼ならきっと。


ロビンが人の往来に紛れて、地下鉄へ降りる階段へと吸い込まれていくのを見届けた後、ナミが車の方に戻っていった。後部座席にはもう荷物が置かれていて座れない。

(これは・・・・助手席に座れってことよね・・・・?)

心に迷いを吹っ切るように勢いよく助手席のドアを開ける。ゾロがハンドルに両肘を乗せ、その上に顎を乗せていた。そのままの姿勢で視線だけをこちらに向けてきたのでドキリとする。車内は暗いはずなのに、切れ長の双眸が鋭く光って見える。しかし、すぐに視線を元に戻して、体を起こした。左手をハンドルに、右手はイグニッションキーへ添える。その間にナミは助手席に身を滑り込ませた。
さて、すぐに発車かと思いきや。

「シートベルト。」

ボソリと男が呟いた。
ああそうだった。シートベルトシートベルト。シートベルトはちゃんとしなくちゃね。
なに、このシートベルト。の、伸びない〜〜。

普通なら左肩上方から右腰下方までスッと伸びるはずのシートベルトが、何かに引っかかっているのか、ナミの体を覆うまで伸びてこない。
あともう少しなのに。なんかこれじゃ、まるで私の体が他の人より大きいみたいじゃない。

突然、ゾロの左手が、ナミの右手が持つシートベルトの金具に添えられた。ナミがパッと手を離す。もう少しで手が触れるところだった。
どぎまぎしつつゾロの方を見ると、ゾロは顔をしかめて、シートベルトを伸ばすのに必死な様子だった。

「またバカになってやがる。ったく、直せつったのに。」
「あんまり引っぱると、壊れちゃうんじゃない?」
「構わねぇ。どうせ俺のじゃねぇから。」

「俺の」じゃないのに、それでどうして「構わねぇ」のだろうか。

「これ、あなたの車じゃないの?」
「あ? ああ、さっきの店の。」
「サンジさんの?」
「ああ・・・・。ちょっと、力入れるぞ。」
「えっ。」

ゾロが運転席から助手席の方へ心持ち身を乗り出す。すると、わずかにゾロの体温を感じた。
ゾロは、右手をベルトに、左手を金具に添え、むん!と力任せに引っぱった。反動でナミの体もゾロの方へ引き寄せられて、声を出しそうになるのを必死で堪えた。ずるりとシートベルトが伸びて、金具がカチャっと所定のバックルに嵌った。

「あ、ありがとう。」

いや、とゾロは短く答えると、ナミの方へと寄せていた体を離した。
ほっとしたと同時に、温もりが離れて、少し寂しい気もした。


夜の都会を車内から見ると、その光の氾濫に圧倒される。今夜は閑静な郊外から都心部に入ってきたから尚更だ。
街は華やかに明るくきらめいた。雨粒で覆われたフロントガラスから街を見ると、水滴で光が拡散されてモザイク状になる。まるで色鮮やかなステンドグラスのようだった。ワイパーが通過する時だけその視界がクリアになる。

相変わらず、車内は沈黙が支配していた。
先ほど、ナミがこの車はいつ返すのかと尋ね、ゾロが明日、とボソリと答えたきりだ。
けれどここにきて、ナミは自分がかなりリラックスしていることに気づいた。
先程までは、どんな顔していればいいかも分からないほど緊張していたのに。
これは「シートベルト事件」のおかげかも。
ちょっとだけだったけど、普通に言葉を交わすことができたから。

ふと腕時計を見る。8時半だった。
次に顔を上げて、横の窓ガラスから通りを見た。見慣れた通り。普段なら歩いている通りだ。そこを車で通過するのは不思議な気持ちがする。
しかもこの近くには『east blue』の支店がある。都心部の店だから、まだこの時間でも開いているだろうとぼんやりと考えていると、ナミはいいことを思いついた。

「あの、ちょっと寄ってもらいたいところがあるんだけど・・・・。」



♭          ♭          ♭



雑貨店といえば100円ショップを想像してしまうゾロが、その店の外観を見た時は、到底雑貨店とは思えなかった。
コンクリート打ちっ放しのビルの1階エントランスの壁面にセンスよくロゴデザインされた『east blue』の文字が掲げられ、ブルーの照明でライトアップされている。店頭は全面ガラスのショーウィンドウとなっていて、外からでもダークブラウンのフロアリングの床の上に、落ち着いた色合いを基調としたテーブルやスツール、ソファなどの調度類が置かれているのが見える。それらがディスプレイだと言われなければ、格調高いホテルのロビーか何かだと思っただろう。
中に入ると、モダンな絵画が壁に掛けられ、要所要所にはグリーンが置かれていた。スタイリッシュで広々とした店内に、シンプルでシックなデザインの商品群がジャンル分けされてコーナーを作り、配置されている。

先立って歩くナミの後について、ゾロは店内を物珍しげに見回した。
そうしていると、まるでどこかの億ションのペントハウスの中を歩いているような気持ちになる。
そこで、ふと壁に掛けられた銀色のフレームに入ったポスターが目に止まり、立ち止まる。
ゾロは目を見開いて、それを見つめた。
ペンギンが脚のあいだ抱えるヒナに餌を与えているポスター。
その構図は、自分の部屋にあるあのパネルを思い出させた。
やはり脚のあいだにヒナを抱え、極地の吹雪に耐えるペンギンの群れの写真だ。
もしかしたら―――「彼」が撮った写真だろうか?

「ペンギン、好きなの?」

思考に耽っていたところで突然声を掛けられて、思わずビクッと体を震わせてしまった。
そのせいで、逆に声を掛けたナミの方が目を白黒させていた。

「別に好きじゃねぇ。」

そう言い張ったものの、返って怪しかったかもしれない。
ナミはきょとんとした顔をしてこっちを見ている。
急に気恥ずかしくなって、ゾロが明後日の方向へ歩いていこうとすると、すぐに呼び止められた。

「そっちじゃないわ、こっちよ!ほら、これが、サンジさんが好きな『どすこいパンダ』シリーズ。」

そのコーナーには、キッチン雑貨、文房具、リネンやカーテン、家具に至るまで置いてあり、それらの品には必ず『どすこいパンダ』がワンポイント入っている。
変なブランド名だと思っていた。しかし、サンジがそれを好きなのは知っていたし、そのエプロンを身につけている姿も見たことがある。それにしても、ここまで種類が豊富とは思わなかった。

「あった、『どすこいパンダ』シリーズのカタログ。これが欲しかったの。」

車内で、ナミはこの近くに『east blue』の支店があるから、寄ってほしいと言った。
サンジに送る約束になっていたこのシリーズのカタログを、明日車を返すついでに、渡してほしいからと。
そして店に行くまでの道筋は、ナミにナビゲートしてもらった。とても的確なナビゲートだったので、スムーズに店まで到着した。ウソップではこうはいかない。

店専用の駐車場に車を止めた頃には、雨が止んでいた。
店にはナミ一人で行くのかと思っていたら、「あなたもよかったら来てみない?」と誘われた。
確かに外観を見て少し興味を持ったのも事実だったから、一緒に入ってみることにした。
そしたら、こんな店だった、というわけだ。

「このシリーズは私の上司が企画開発したブランドなの。今ではうちで一番のヒット商品なのよ。」
「へぇ・・・・・。」
「私もいつかこういうブランドを一つは作ってみたいな。」

ナミがいきいきと瞳を輝かせて語る。仕事への意欲と、上司への尊敬の念が感じ取れた。

「その上司がね、今度定年退職するの。」
「・・・・・。」
「だから、彼を送る歓送迎会をバラティエでしたかったんだけど・・・・。」
「・・・・・残念だったな。」
「仕方ないわ。人気店なんだもの。予約が埋まってて当然よね。あ、でもある意味あなたのせいでもあるのかしら?」

ゾロがコラム記事を書いたから、バラティエの客足は急に伸びたのだ。
ぐっとゾロは言葉に詰まる。
すぐにナミは冗談よと打ち消したが、ゾロの反応が面白かったのか、くすくす笑っている。

随分と、自然な表情が出るようになったもんだ。
今日会った時、後部座席に座っていた時には、やたら緊張した顔をして、雰囲気も張り詰めていた。
でも今は、やわらかく微笑みを浮かべ、優しい空気をまとってゾロのそばに立っている。
そうするとゾロもつられるように穏やかな気持ちになる。
そんなことを思いながら、しげしげとナミの顔を見つめた。いや、見とれたといってもいい。
自分の店にいるという自負からか、背筋をピンと伸ばし、優雅な立ち居振舞いでゾロを案内してくれた。黒いスーツに身を包んだナミはこの店に実に相応しい存在で、凛とした美しさを見せていた。

ナミもゾロの視線に気がついて、ゾロを見返してきた。
ちょっと不思議そうに小首を傾げて。
その仕草がまたなんとも。

見ていられなくなって、ゾロはナミから離れて別の商品コーナーへと歩いていった。
しかしナミはすぐに追いついてきて、ゾロが興味を示して見る商品の説明をしてくれる。
けれど、ゾロはその言葉半分しか頭に入ってこない。
傍らに立つナミを意識してしまうのを止められなかった。

そして、カーテンのコーナーへと差し掛かった。様々な生地見本を見れるようになっている。
壁に実際の窓枠を設け、リアルにディスプレイされている。
そこに掛かっているのは、淡いオレンジ色の布地だった。

これには、見覚えがある。
どこで見たんだったか―――
ああ、そうだ。

「これ、あんたの部屋のと、同じじゃねぇ?」

(いつも見てたから覚えちまった)

言ってから、ハタと、自分が重大な発言をしたことに気づいた。
これでは、自分がナミの部屋を知っていると言っているようなものではないか。
恐る恐るナミの反応を伺う。しかし、ナミは特に意に介していない様子で、さらりと言った。


「あなたはまずカーテンをきちんと閉めるべきね。あれじゃ中が丸見えよ。」


そこまで言って、ナミはあ・・・・と口元を押さえた。

(なんだ)

(こいつも気づいてたのか)

自分が向かいの部屋に住んでいること。


ナミがバツの悪そうな顔をしてこちらを見ている。おそらく自分もこんな顔をしているんだろう。
やがて、二人とも堪えきれずに吹き出した。
お互い知っていながら知らない素振りをしていた。それが可笑しくて。
店員がこぞってこちらを見た時は、笑いをこらえるのが大変だった。



いつ気づいたの?

この間・・・・バスで会った日

そうなんだ

窓から見たら、あんたが向かいのマンションに入るところだった

ふーん

・・・・・あんたは?その、いつから気づいてた?

私?

私はね・・・・


あなたが引っ越してきた日から・・・・


それから、ずっと見ていたの



♭          ♭          ♭



ゾロはその夜、長期の取材旅行で疲れているはずなのに、気持ちが高ぶってなかなか寝付けなかった。
翌日、起きたら10時を回っていた。
布団から這い出してすぐに、向かいの窓を覗いた。しかし、ナミはもう出勤した後なのだろう、あのオレンジ色のカーテンがきっちりと引かれていた。
どこか気が抜けたようになった。
その後は、のろのろとした動作で、昨夜は部屋に運び込んだだけで放っておいた旅行の荷物を解き、整理し始めた。
夕刻になって、今度こそサンジに車を返すため、出かける準備をする。ナミから預かった『どすこいパンダ』のカタログも手に持った。
部屋の鍵を閉めて、階段を下りる。昨夜アパートの前に停めた車の前まで来た時、車のワイパーに何かカードが挟まれていることに気がついた。
慌てて手に取って見る。小さな字でメッセージが書かれていた。


『昨夜は送ってくれてどうもありがとうございました。
今朝、バラティエさんから電話がありました。
うちの会社の歓送迎会、受けてくださるそうです。
私がゾロの知り合いだということで、無理して受けてくださったみたい。
ありがとう、ゾロのおかげです。今度何かお礼をさせて下さい。』


カードを裏返すと、それはナミの名刺だった。サンジが言っていたように、携帯電話の番号も書かれている。
この時、またウソップの言葉が天から舞い降りてきた。

“思い切って、会う約束をしたんだ”

ゾロはジャケットのポケットから携帯を取り出し、カードを見つめながら初めての番号を押した。
呼び出し音を聞いている間は、気が遠くなりそうだった。
9回目のコールでナミが出た。

「ナミか?」
『ゾロ?』

初めて、二人は声に出してお互いの名前を呼んだ。

『名刺見てくれたのね。そういうわけで本当にありがとう。』
「俺はなんもしてねぇけど。」
『ううん、ゾロのおかげよ。きっと最高の歓送迎会になるわ!』
「それより、礼って書いてたよな?」
『うん。あ、何か希望あるの?』

一呼吸置いて、ゾロは一気に言った。

「今度、どこかへ行かないか。」



相手の反応を待つ。
それこそ、永遠に感じた。


一拍の間のあと、朗らかに弾むナミの声が返ってきた。



clescendo―――だんだん強く

それは春の訪れにも似て。

ゾロも、確実に濃くなるその気配を感じ取っていた。


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