5月 stretto - PAGE - 1 2 3 |
1 1時間と経たずに、列車の窓からの眺めは、どんどんその趣きを変えていった。 建て詰まった家々の風景から、太陽がキラキラと輝き、新緑がイキイキと生い茂る世界へと。 窓を開ければ、爽やかな風が流れ込み、緑のにおいを運んでくるのだろう。 薫風の候とは、よくいったものだ。 今年のゴールデンウィークは暦に恵まれて、平日2日を休めば、実に9連休になる。 ナミはその2日間の有休を取り、5月1日から3泊4日の日程で、母ベルメール、姉ノジコと連れ立って旅行に出かけた。 社会人になって3年目にして、初めて自分のお金で母を旅行に連れて行く―――少し早いけど、母の日のプレゼントも兼ねてるつもりだった。 これから4日間は、街の喧騒を忘れて、旅をめいっぱい満喫しようとナミは思った。 携帯の液晶画面を見ると、アンテナが立ってなくてホッとした。 (ロビンのお友達、なかなかよい場所を選んでくれたじゃない) 今回の旅行を手配してくれた、旅行会社に勤めるロビンの友人に心の中でこっそりと感謝する。 (少なくとも今は、ゾロからの連絡が来ないことに気を揉まなくてもいいんだ―――) けれど、列車から降りて、歩いて宿に到着する頃には、再びアンテナがしっかり三本立っていた。 ナミはあからさまに顔を曇らせる。 (まったく、携帯会社がせっせと通話網を広げるのも考えものよね) 「ナミー!なにしてんの?早くチェックインしようよー!」 ベルメールとノジコが、急に立ち止まったナミを不思議に思いながら振り返る。 ナミは慌てて携帯をカバンの中にしまった。 宿は、団体客でも余裕で対応できそうな大きな旅館。玄関前の駐車場はたいそう広く、観光用の大型バスを何台も停めることができそうだ。 玄関の自動ドアがスーッと開くと、いらっしゃいませと小気味のよい声が耳に飛び込んでくる。 それが合図であったかのように、ホールにいる仲居や従業員達が「いらっしゃいませ」と唱和して、一斉にお辞儀をする。 3人ともかなり面食らった。こんな待遇受けたことがなくて。けれど、戸惑いながらも晴れがましい気持ちにもなったのも確かで、3人で視線を交わし合って微笑んだ。 年配の仲居さんが部屋まで案内してくれた。 部屋は8畳間、真ん中に漆塗りの机と座椅子。入って正面の縁側の窓からは大きな湖を一望できる。この旅館の売りは全室レイクビューであることだった。設備も新しく、部屋にバストイレも付いている。 仲居さんは丁寧にお茶とお菓子を用意してくれて、それをいただきながら、一通りの館内の説明を受けた。 温泉は24時間入浴できます、夕食は何時頃になさいますか、窓から見えます湖ではボートに乗れるんですよ、どこからいらっしゃったんですか、まぁそんな遠くからありがとうございます、明日はどちらを回られるんですか。 立て板に水のように仲居さんは話し続けた後、ふと気づいたように問いかけてきた。 「3人姉妹でいらっしゃいますか?」 仲居さんのこの言葉で、ベルメールの機嫌はすこぶる良くなった。 宿の到着時間が早かったので、ちょっと散歩に出かけることにした。 湖畔にちゃんと散歩道が整備されていたので、そこを歩いてみる。湖から爽やかな風が吹いてきて、3人の身体を撫でていく。街とは違う、清明な空気と静寂が辺りを満たしている。 仲居さんが言っていたとおり、手漕ぎボートを貸してくれる店があり、それをベルメールが見つけて、乗ろう乗ろうと言い出した。 一番若いからという理由でナミが漕ぐ。湖の真ん中へ行くまでの間、ベルメールとノジコははしゃぎながら輝く湖面とゆっくりと移りゆく周囲の景色を楽しんだ。湖の真ん中までくると、ナミもオールを漕ぐ手を止め、休憩した。 「死んだ父さんとの初デートで、やっぱり湖でボートに乗ったんだよね。」 「「その話、100回ぐらい聞いた・・・・。」」 父はナミが1歳になる前に亡くなっており、ナミは父を写真で知るのみで、面影の記憶は残っていない。 そのせいか、ベルメールは父親のことを何度も二人の娘に語って聞かせてきた。 「そのデートの夜にえっちして、その時に私ができたんでしょ?」 「そうそう、それで父さん、プロポーズしてくれて。」 「まったく、考え無しにするからよ。」 「いやぁ、すごく盛り上がっちゃってさ〜。」 いつものように照れ笑いをしながら語るベルメールに対し、呆れた様子のノジコ。 一方でナミは、自分もまったく同じ状況だったので、内心冷や汗タラリ。 (避妊のことなんて頭から吹っ飛んでたわ・・・・) 「でもおかげで、あんた達はこんな若いお母さんを持てたんだから、感謝してよ!仲居さんに姉妹って言われちゃうなんてイイでしょ!」 「私達は別にイイことなんてないわよ!ねぇ、ナミ?」 「そ、そうね。」 「とにかく、あんた達も彼氏できたら、まずボートに乗んなさい。盛り上がっていいわよ〜。」 根拠のないベルメールの言葉に、姉妹は顔を見合わせて苦笑いを浮かべていた。 宿に帰ってきて、温泉につかってのんびり。 食べきれない夕食を部屋でいただく。 団体客が到着したのか、宴会の声が聞こえてくる。 ふとんの中に入ってからも遅くまで周囲でざわめき。 天井の模様を見つめながら、こんなものかしらと思う。 ほんとは、もっと落ち着いた宿にしたかったのにな。 ゾロの雑誌に出てくるみたいな。 翌日は近くの山をハイキング。 山の中腹にお寺があり、その庭でシャクヤクが群生しているらしい。 ガイドブックには無料と書いてあったのに、ゴールデンウィーク中は有料となっていた。観覧料は400円。せっかくここまで来たんだから入りましょうと言うナミに、驚く二人。あの守銭奴のナミが・・・!と。 2日目からは旅館から近場のまちへと繰り出した。美術館、博物館、植物園、庭園、寺社仏閣、武家屋敷跡、お城・・・・と、ナミはガイドブックに載っている全ての観光地を巡らんばかりに、寸暇惜しんで二人を連れまわした。 しかし、3日目の午後、ついにベルメールが疲れたと音を上げた。 「若いんじゃなかったの。」 「若いけど、オ・ト・ナなの。オトナはもっとゆっくりと旅を楽しむものよ。とりあえずちょっと休憩しましょう。」 「あ、それなら良い店が確か・・・」 またガイドブックを見ようとするナミから、ベルメールがそれを取り上げる。 「ガイドブックはもういいわ!適当に見つけた店に入るわよ。しょうもない店に当たるのも旅の醍醐味よ!」 ナミはため息をつく。 次から次へと何かしてないと不安なの。 携帯を確かめたくなってしまう・・・。 ゾロのことから頭を離したいのに。 最後の日の朝、ナミはひとりで温泉につかりにいった。 朝もやのかかる露天風呂。露天風呂は岩風呂のように設えてあって風情がある。ほかには誰もいなくて、貸切みたいでぜいたくな気分。 無色透明のお湯を両手ですくって空中へ放り投げてみる。 お湯が玉粒の連になって飛び散る。 まるでガラス玉みたいに見えてとても綺麗。 何回も繰り返して遊んだ。 長くつかって熱くなったので、岩場に腰掛け、足だけをお湯につけて、火照った体を冷やす。 水滴がナミの体を伝って流れ落ちていく。 まるでその輪郭をなぞるみたいに。 ゾロもあの夜、手でくちびるで、ナミの輪郭をなぞっていった。触れられたところから熱くとけていくようだった。 この胸をゾロの大きな手が掬い上げるように揉みしだいて、乳首を弾いて。 顔をうずめて吸いついて、食べられてしまうんじゃないかと思った。 子供みたいな熱心さで乳房をいじるゾロは、とても可愛くて、愛しいと感じた。 思い出すだけで、お腹の奥がきゅっとしめつけられ、湯あたりとは違った身体の火照りを覚える。 しあわせだった。 とても優しく、時には激しく、私を抱いてくれた。 ゾロの腕の中はあたたかくて、とろけそうなほどに心地がよかった。 それなのに、あの夜以来、一度も会えない。 ライターという職業の関係上、不規則な生活であることは分かっているつもりだった。でも、向かいに住んでいながらその姿を一度も見かけないなんてどういうこと?こんなこと、彼が引っ越してきてから初めてのことだ。 携帯は電源が切られたままで、それ以外の連絡手段を持たない私は、これ以上どうしようもない。 ゾロからも、一度として連絡がこない。 どうして? もうひと月になる。 ひと月も連絡を取り合えなくて、恋人っていえるの? 恋人―――ううん、私とゾロは恋人なんかじゃないんだ。 身体を繋げたけれど、気持ちを言葉で告げあったわけではない。 私は恋人になりたいと思っていたけれど、ゾロはそうではなかった? だから、避けられてるの? いいえ、避けられてるのならまだしも―――もしかしたら、気にもされてないんじゃ。 ゾロにとって、私っていったいなんなの? そのとき、カラカラとサッシが開く音がして、ふわっと涼気がナミの身体をかすめていった。 ハッとして顔を上げると、ベルメールとノジコが腕組みをして立っていた。 「あんただけ抜けがけしてズルイじゃない!朝風呂に行くなら声かけてよ。」 「そうよ、今日で温泉ともお別れなのに。」 一瞬にして静寂は破られ、かしましくなった。 二人はパシャパシャとかかり湯をして、どぼんと温泉に入る。 ナミもまた、だいぶ身体の火照りもおさまったので、再び湯に身を沈めた。 「は〜〜〜、朝風呂なんてぜいたくの極みね〜〜。」 「おおげさね。」 「それにしても、なかなかいい宿だったじゃない〜。団体客がちょっとうるさかったけど。どうやって見つけたの?」 「会社の友達の友達が勤めている旅行会社が全部手配してくれたの。助かっちゃった。」 「直前だったのに、よく列車も宿も押さえられたわよね。このハイシーズンにさ。ナミってば、なかなか旅行の手配してくれないんだもん。傍から見てても間に合うのかって心配して、ヤキモキしちゃった。」 「なに、仕事忙しかったの?」 「う、うん、そんなところ。」 「忙しい時期にありがとね。おまけに散財させちゃったね。」 「ね〜!ナミがこんなに気前よくお金使うなんて信じらんないわよね!しかも私腹を肥やすんじゃなくて、家族のために、だなんて!」 「ちょっと、それじゃまるで、私が冷血な守銭奴みたいじゃない!」 「ナミ・・・そんな、自分で言っちゃおしまいよ。」 「ベルメールさんまで〜〜ひどいわ〜〜〜!」 ナミはおおげさに顔を両手で覆って泣くフリをする。 「うそうそ。冗談よ。ベルメールさんも私も、感謝してますったら。ナミはエライ!」 けれど、ノジコが取り成しても、まだナミは顔を両手で覆ったまま。 「なに、ナミ。まさか、ほんとに泣いてるの?」 「ええっ!?」 「あ〜あ、ノジコが泣かしたー!」 「そんな、なにも泣くほどのことじゃないじゃない〜〜〜。」 おろおろするノジコを尻目に、ベルメールがうつむいてしまったナミの身体を優しく抱きしめて、よしよしと頭を撫でる。 ナミはナミで、されるがままに、ポツリとつぶやいた。 「子供じゃないわよ・・・。」 「アラ、親にとってみれば、いつまでたっても、子供は子供よ。」 と、明るい声で言い返された。 そういえば小さい頃も、何かあるとこうしてベルメールに抱きしめてもらい、頭を撫でてもらった。 そうしていると、不思議と不安も悩みも悲しみも、薄れていくのだ。 ベルメールさんには魔法の手があると、半ば本気で信じていたあの頃。 でも、今は違う。 私はもうコドモじゃないし、ベルメールさんが母親になった歳をはるかに越えてしまっている。 今ではあの頃と比べ物にならないくらい、悩みも不安も複雑になって、深くなって。 もう抱きしめてもらうだけでは、かなわなくなってしまった。 ううん。 本当は、抱きしめてもらうだけで、心のモヤを晴らせる人が、ひとりだけいる。 ゾロだ。 でも、ゾロはいない。 今、私の目の前には。 ♪ ♪ ♪
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