5月 stretto      - PAGE - 1 2 3
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耳にイヤホンを挿していたが、音は少しも頭の中に入ってこない。
手には記事をまとめようとノートを持っていても、意味のない言葉を羅列するだけだ。
この一ヶ月、特に最後の日々を思い返していると、興奮と焦りが同時に押し寄せてくる。

この一ヶ月間、自分の語学力の無さを痛感させられた。
相手の言ってることは辛うじて理解できても、それに対してロクに答えられないもどかしさ。

こんなことではダメだ。
こんなことでは、世界各地で活躍する彼についていくなど、到底おぼつかないだろう。
まずは彼に相手にされるようになること。そのためには、自分の実力をもっとアピールすること。
しかし、まずは語学力だ。

高度が段々と下がってきているのを身体が感じとる。
機体を揺らす振動が伝わってきたかと思うと、次の瞬間にはポーン!と音がして、シートベルト着用のランプが点灯する。
厚い雲間を抜けると、色鮮やかな夜景が視界に飛び込んできた。
もうすぐ着陸だ。
約1ヶ月ぶりの帰国となる。



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時はさかのぼり、1ヶ月前。
ゾロはアパートのベッドで、幸せな二度寝を決め込んでいた。

まだシーツのそこかしこにナミのぬくもりがあるように感じる。
つい先ほどまで、このベッドでナミと一緒にいた。
それだけじゃない。昨夜はこのベッドの上にナミの身体を組み敷いた。
この世にこんなに丸くて、やわらかで、なめらかで、やさしい手触りがあるのかと、今思い出しても感動を覚える。
自分はセックスには淡白な方だと思っていた。
それなのに昨夜の自分はどうだ。何かに取り憑かれたかのように飽くことなくナミを求めた。一度欲望を吐き出しても、次にまたあの白い身体が視界に入ると、矢も盾もたまらず手をのばしてしまう。砂漠で水を求める民のように、今飲まなければ当分味わえないとでもいうように。
嬉しいことに、ナミも自分の愛撫に素直に呼応して、何度も甘い声をあげてくれた。貫くたびに、悦びにうち震える姿はたまらなかった。
それと同時に、身体の奥深いところで繋がったことで、ナミを確かに自分のものにしたのだという確信が、心地よく全身に広がった。

このままいつまでもまどろんでいたいところだが、そういうわけにもいかない。
昨日までの取材旅行を記事にまとめなくてはいけないし、ウソップの撮った写真を確認しに出版社に出なくてはならないし、車をサンジに返しに行かなくてはならないし―――車、やっぱり自分のを買おうか。これからナミと出かけることが増えるだろうし、そのたびにサンジに車を借りるというわけにもいかない。なんとなくだが、当分の間はサンジにナミのことを言いたくなかった。

そんなことを考えていると、携帯電話が鳴った。
とっさに、ナミからか?と思った。会社に行くと言っていたが、もしかしたら戻ってくるんじゃないかと、都合のいいことを考えた。
しかし、液晶の表示を見てガッカリする、というよりも、ウンザリした。
編集長のスモーカーからだった。

「これから一ヶ月、親戚の葬式の予定はあるか?」

通話ボタンを押すと、開口一番がこれだった。

「無いのなら、パスポートと取材道具一式持って会社に来い。今すぐ!大至急だ!」

それだけを告げられたのち、携帯は切れた。
呆気にとられた。
なんなんだ。
なんなのかよく分からないが、たいそうな剣幕だった。これは指示に従った方がよさそうだと、本能が告げていた。
取材道具はともかく、なんでパスポートが必要なのかという疑問が残るがその前に。
パスポートって、どこにあったっけか?
引っ越しのゴタゴタの後、どこに仕舞ったか、ちょっと思い出せない。
そのせいでちょっとした家捜しになり、「大至急」という命令にかなり背くことになった。
だから、出かける直前はかなり慌てていたのだろう。
携帯を置き忘れたことに、この時は気づかなかった。


スモーカーがいつものようにタバコの煙をくゆらせて、編集長の机の上にどっかりと腰を据えていた。これまたいつものように怒ったような顔をしているが、今はそれに輪をかけている。その顔にははっきりと「遅い」と書かれていた。
ゾロが編集長の机の前に立つと、スモーカーはA4の紙ファイルを無造作に投げつけてきた。

「今日から一ヶ月、ヨーロッパに飛んでもらう。」
「ヨーロッパ?」

ゾロの反問には答えず、スモーカーは話し続ける。

「本来行く予定だった記者が急遽入院したから、その代わりに取材に行ってもらう。詳しくはそのファイルに目を通せ。全行程と取材資料が入っている。」
「ちょっと待ってくれ。そんなこと急に言われても。」
「つべこべ言うな。綿密に行程が組まれていて、先方の国の複数の人物と既に取材のアポイントも取ってある。もう仕切り直しはできねぇ。誰かがこの行程で行くしかねぇんだよ。」
「だからって、なんで俺が。」
「エコ・ツーリズムの取材だぞ。環境問題だ。普通の旅行とは違う。ある程度知識がないと、取材もできねぇ。その点、お前ならある程度下地がある。とにかく、もう他のアテを探す時間もないんだ。担当記者と今すぐとって代われるヤツで思いつくのは、お前さんしかいない。」
「担当記者って・・・・入院したヤツのことか?いったい誰なんだ?」
「・・・・たしぎだ。」
「!」

たしぎとは、ゾロがまだ大手出版社に勤めていた頃、同業他社の記者として出会った。その当時から、彼女はゾロにライバル心を抱いているようだった。
現在はどちらもフリーライターだが、今となっては完全にたしぎの方が一歩抜きん出ているとゾロは思っている。すでに彼女は何冊か本を出しているし、堪能な語学力を生かして、海外でもその活動の幅を広げている。スモーカーもたしぎのことを買っていて、主に海外の旅の記事を書かせている。
それでも、彼女はいまだにゾロと会うと競争心を顕わにする。そんな彼女の代わりにゾロがこの取材を受け持つとなったら、彼女にしてみれば面白くないだろう。

「やっぱり他の誰かを当たってくれ。」
「生憎だが、お前さんを指名してきたのは、他でもない、たしぎだ。」
「は?」
「お前なら、自分の代わりを託せるってよ。それを条件に、あの女、やっと入院したんだ。」

まったく、あの跳ねっかえりが、とスモーカーは口の中で呟いていた。

「しかし・・・・俺だって、やり残してる仕事が・・・・。」
「昨日までの取材記事なら飛行機の中ででも書いて、メールで送ってくれりゃあいい。」

(気軽に言ってくれるぜ)

「まだ呑めねぇか?なら、ファイルを見てみろ。行程表があるだろう。その最後だ。」

スモーカーの表情には、ゾロを陥落させる自信がありありと見て取れた。その様子が気に食わない。そんな簡単に呑んでたまるかと思う。
それでも一応言われるままにページを繰る。
そこで目にした記載事項に、文字通り、ゾロの目の色が変わった。

「この取材行程の最後には、自然保護活動の国際シンポジウムの取材が組み込まれている。そのパネリストに、あの男―――ジュラキュール・ミホークが来るんだよ。」

「ミホークはメディアへの露出嫌いで有名だ。そんなヤツが、こういう催しに出ること自体が珍しい。どうだ、夢にまで見たヤツと会える、絶好のチャンスだぞ。」

この条件ならどうだとばかりに、スモーカーはその口角を吊り上げた。

「どうする?行くか?」
「行く。行かせてくれ。」

もう迷いはなかった。

できれば、たしぎの見舞いがてら、取材のツボを聞いておきたかった。この取材の行程は彼女自身が組み立てたそうだから、できるだけ彼女の意向に沿うようにしたい。しかし、そんな時間はなかった。今から空港に移動しても、飛行機のチェックイン時間ギリギリだ。

「あ、ゾロー!写真、できたぞ!どれ使うか決めてくれ!」

編集室から急ぎ足で出てきた廊下で、ウソップとばったり会った。
手を振りながら近づいてくる。

「ウソップ!いいところへ。悪いが、車をサンジに返しておいてくれるか。」

サンジの車で会社に乗りつけたのはいいものの、これから空港へ直行しなくてはならなくなって、サンジの車をどうすればいいのか困っていた。

「え?」
「一ヶ月留守にするから。あと頼むな。」
「え?え?」

状況が飲み込めないまま、目をパチクリさせているウソップに、車のキーを手渡した。
じゃあなとウソップの肩をポンポンと叩いて、ゾロは空港へと向かった。


ゾロが、携帯をアパートに置き忘れたと気づいたのは、空港の手荷物検査を受けた時だった。
ポケットの中の財布やキーホルダーなどはこのトレイに入れてくださいと言われ、ゴソゴソとポケットの中をまさぐっていたら、入っているはずの携帯が入ってないことに気づいた。
けれど、もう後の祭り。
取りに帰る時間はない。

出発ロビーでナミに電話しようと思っていたのに。一ヶ月間、出張することになったと。
貰った名刺は持ち歩いていないので、携帯がなければ、彼女の電話番号は分からない。

まぁいいか。
突発的に取材旅行に出ることは、もう彼女も承知しているだろうし。

そんな軽い気持ちだった。



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1ヶ月に渡る取材旅行は、実に内容が多彩で、後ろを振り返る間もなく過ぎていった。
イギリス、ドイツ、デンマーク、スウェーデンの4カ国それぞれのエコ・ツーリズムに参加するというもので、それぞれが5日〜1週間ぐらいの日程で、休憩日や移動日を挟んで、順々に4カ国を巡る。
実際はエコ・ツーリズムというよりは、環境先進地の視察旅行という方が近かかった。現在、ヨーロッパで主流の環境技術を学び、現地のキーマンと会い、話を聞く。
一番困ったのはヒアリングだ。ゾロは語学はさっぱりで、エコ・ツーリズム参加者達の協力がなければ、かなり苦しいものになったろう。
ゾロはゾロなりに精一杯やったつもりだ。それでも、たしぎなら、もっと的確で有意義な聞き取りができたはずだと思うと、おのれの不勉強さ、不甲斐無さが身に沁みた。
そして、取材日程も最終コーナーに入る。ゾロは自然保護の国際シンポジウム会場に乗り込んだ。

ようやく、ジュラキュール・ミホークに会える。
気の張る取材旅行の中、それを励みにやってきた。

ジュラキュール・ミホークは動物専門の写真家で、主にペンギンの生態に迫って写真を撮り続けており、多数の写真集とペンギンについての著作を出している。また、動物達の生息環境を守るという観点から、環境保護活動にも取り組み始めた。
ゾロはそんな彼の写真と生き様に、その、なんというか、魅せられた。ゾロがジャーナリズムの世界を目指すようになったのも、彼の存在があったからだ。

最初は姉の影響だった。姉がペンギン好きで、ミホークの写真集を図書館から借りてきてたのを、ゾロも目にするようになった。その愛らしい姿に姉弟して愛好を崩したものだ。 まぁ子供の時はそれでよかったが、大人になった今は、大の男がペンギンを前にして目尻を下げるのはみっともないという姉の助言を聞き入れて、他人の前では素知らぬ振りを決め込んでいる。しかし、ペンギンの姿を写真やテレビで見かけると、ついつい反応してしまうのだった。
それから、ふと目にしたミホークのプロフィールから、彼がゾロと同郷人であることを知った。自分の生まれ故郷から、世界的に有名な写真家が出た。そんな純粋な興奮を覚えた。

今では彼の写真集なら全て収集しているし、彼に関する記事もスクラップしている。
しかし、ミホークは自分が撮った写真や著作はともかくとして、彼自身はいたって露出嫌いであった。彼はめったにメディアの取材を受けないし、公の場に姿を現さない。そのため、彼の人となりや彼の活動を総括的に伝える本なども、出版されていない。
いつの頃からか、ならば自分が、とゾロは考えるようになった。
だから、会ったこともない彼に、随行取材の申し込みの手紙を、何度も書いた。
一度も返事は来たことはないが。

シンポジウムが始まった。
基調講演、パネリストによる自然保護活動の現状紹介、そしてパネルディスカッション。
ゾロはいずれもイヤホンの通訳を通して聞いた。これが無ければチンプンカンプンだったろう。

シンポジウム終了後、レセプションパーティがあり、それにも参加した。そこでなんとかミホークに話しかけるつもりだった。
しかし、そう考えているのはゾロだけではなかった。
多くの者が、公の場に姿を現したミホークと交友を持とうと近づいてきていた。
「孤高の人」というイメージが強いミホークは、人嫌いという評判だったが、実際はそんなことはなく、社交的に誰とでも接している。
ようやく順番が回ってきて、ゾロが名刺を差し出すと、ミホークはすぐさま反応した。そして、じろりと値踏みするかのような視線をゾロに送った。

「手紙をくれる、あのロロノア・ゾロくんだね。いつもありがとう。」
「あ、いえ。」

名前を覚えらてることが意外だった。恐縮しながらも嬉しく思った。
けれど、続くミホークの言葉でそんな気持ちは吹き飛んだ。

「しかし、そろそろラブレターはやめてくれないか。」

ミホークはそれだけ言うと、目を伏せて冷ややかな笑みを浮かべ、ゾロの前を通り過ぎて行った。
その後は、ゾロには目もくれなかった。

ガツンと後頭部を殴られたような気がした。
ラブレター?
俺の取材依頼の手紙が、か?

華やかなレセプションパーティが続く。しかしゾロはもう誰にも話しかけず、壁際にもたれてミホークの言葉の意味をじっと考えた。

俺は今まで何を書いていたんだ?
ありゃあ単なるおねだり文だ。甘っちょろいファンレター。ラブレターだな、まさしく。
俺は、ライターだってのに。
ライターなら、ライターとしての力で勝負して、彼を振り向かせるべきだった。

これからは、俺が書いた記事を彼に送ろう。
俺の実力を見せる。
そしていつか、俺を認めざるをえなくさせてやる。



♭          ♭          ♭




空港に無事着陸して、ようやく飛行機の長旅から開放されたかと思っていたら、今度は入国審査を待つ人々の長蛇の列に唖然とした。
なんでこんなに人が多いんだ?

空港と街を結ぶリムジンバスに乗り込んだとき、ようやく人心地ついた。
バスの窓から久しぶりに我が国の風景を見る。
看板の文字も、吊り広告の文字も全部読める、車内放送も全部聞き取れるってのは、ありがたいもんだ。

市街地でまたバスを乗り換えて、ゾロのアパートの最寄りのバス停で降りる。
ようやく自分の街に帰ってきた。それと同時に、どういうわけか、ぶわっと頭の中にナミことが思い浮かんだ。
この一ヶ月いろいろなことが有り過ぎて、正直ナミのことは頭の片隅に追いやられていた。
それが帰ってきたとたんに、ナミを抱いたあの日の記憶が、一ヶ月の空白など無かったかのように、鮮やかに蘇った。
ナミにようやく会える。
よく一ヶ月も、離れていられたもんだと今更ながら思う。
早く会って、この一ヶ月で俺が得たことを、ナミに聞いてもらいたい。
誰かに自分のことを打ち明けたいとこんなに強く思うのは初めてだ。
そして、ナミの考えも、聞きたい。
とにかく、ナミに会いたい。

いつものパン屋はもう閉まっていた。もうそんな時間なのだ。腕時計を見ると、20時を回っている。
歩いてアパートへ向かっても、目は自分のアパートよりも先に、ナミの部屋を見上げていた。
明かりが消えている。
まだ仕事から帰ってきてないようだ。

ゾロは自室に向かった。郵便受けを覗くが、何も入っていなかった。
特に頼んだわけではないが、ウソップが郵便受けが一杯にならないよう、せっせと回収してくれたのだろう。

行きは着の身着のままで出かけたのに、帰りの今は旅先で集めたパンフレットや資料がぎっしり詰まった鞄を二つ抱えている。それらを部屋の真ん中にドサリと置いて電気を点けた。
アパートの部屋は一ヶ月分の空気が澱み、湿気をたっぷり含んでいた。カーテンを開け、窓も扉も全開にして、空気を入れ替える。

携帯はベッドの上に無造作に置かれていた。なんでこんなに分かりやすいところに置いておいたのに、忘れてしまったのか、我ながら呆れる。
既に電池も完全に切れてしまっている。一ヶ月も放っておいたのだから当然だ。
急いで充電を始めた。

充電を待つ間、風呂にも入らず、ジリジリした気持ちで窓際に立ち、外を眺めていた。
ナミが帰ってくるところを見逃すまいと、思ったのだ。

帰ってきたら、大声で呼び止めて、階段を駆け下りて、ナミの前に立って、それから―――


しかしこの日、ナミは帰ってこなかった。

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