5月 stretto      - PAGE - 1 2 3
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チュンチュン、という小鳥の鳴き声でゾロは目を覚ました。
いつの間にか、窓際に座り込んで眠ってしまっていた。
手の甲で、口の端にこびりついたよだれの痕を拭う。
変な格好で寝たために、身体のあちこちが痛い。
両腕を上げて背伸びをしながら、時計を見ると、10時を少し過ぎたところだった。
ショボつく目で向かいの窓を見やると、やっぱりナミの部屋の淡いオレンジ色のカーテンはきっちりと閉ざされたまま。
結局、ナミは帰ってこなかった。

どこ行ってんだ?なんで帰ってこないんだよ・・・・。

もうこれ以上待ってても意味がなさそうだ。ゾロはようやくシャワーを浴びに浴室へ向かった。



明日からの仕事に備え、連休最終日の早めの時間にナミはマンションに戻ってきた。
バス停に降り立った途端にずしりと重くなった両足を無理矢理に前へと進め、マンションまでの道のりをのろのろと歩く。
もう何も期待しないと心に決めていたのに、それでも、ゾロのアパートを見上げずにはいられなかった。
そしたら、窓が全開で。

ドキっとした。
心臓が止まるかと思った。
ずっと、ずーーーーっと閉まっていた窓が、開いている。
ゾロがアパートに戻ってきてる。
けれど、携帯は沈黙したまま。

どうして?いるのなら、連絡くれればいいじゃない。
どうしてくれないのよ。
これなら、いない時の方がよかった。
いると分かっていながら連絡が無いのは、目の前で無視されてるような気持ちになる。



バンと浴室の折りたたみドアを開けると、ムワムワッと湯気が部屋の方へと拡がっていく。
熱いので、裸のままゾロは風呂場から出てきた。ぽたぽたと身体から水滴がしたたり落ち、畳がしたたかに濡れたが、特に気にも留めずに部屋まで戻ってきて、タンスの中からタオルを引っ張り出し、ガシガシと頭を拭う。
そして、もはや習慣化した動作を――窓際に立ち、向かいの窓を見る。
すると、先ほどまでは閉まっていたオレンジのカーテンが開いていて、白いレースのカーテンだけとなっている。窓も、開いているではないか。中には、明らかに人影が動いている。
タイミングの悪いことに、ゾロがシャワーを浴びている間にナミは帰ってきたようだ。

(朝帰りかよ)

不穏な言葉が脳裏を浮かび、黒いもやが心の中に立ち込めた。無意識のうちに眉間に皺が寄る。
寝巻き代わりにも使っているジャージを足の指で引っ掛け拾い上げて身に着けると、裸足のままスニーカーに足を突っ込んで、部屋を出た。



何か身体を動かしていないと、頭がどうにかなりそう。
そうだわ、掃除をしよう。
10日近くも部屋を空けてたんだもの。埃もたまってるし。
有給休暇を取るために、連休前は仕事が忙しくて、ロクに掃除できなかったし。
掃除機をかけて、拭き掃除もして、洗濯物もやっちゃう。
後でコインランドリーに行ってこよう。そうだわ、買出しもしなくちゃ。冷蔵庫の中空っぽだもの。

この部屋にずっといるのはいや。
だって、どうしても向かいの部屋を意識してしまう。
明日からは仕事があるからいいけれど、今日一日、お向かいと無言で向き合っているなんて、そんなこと、耐えられない。

その時、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
それだけのことで、びくっと身体が震えた。
ゾロだ。勘だけど、きっとそうだと思った。
恐る恐る覗き窓から確認すると、やっぱりゾロだった。
ゾロが、来てくれた。
その事実に、凝り固まっていた肩の力が少しだけ抜けた。胸の奥がとくんとくんと鳴った。
それでも、ナミは気を取り直すように一つ咳払いをして、ドアノブに手をかけた。

ドアを開けると、黒いジャージ姿で、ズボンのポケットに両手を突っ込み、お世辞にも機嫌がいいとは言えない顔で、ゾロは立っていた。
ナミの胸の高鳴りは急速にしぼんでいく。

どうしてそんな顔するの?
でもきっと、私もこんな顔してるんだわ。
1ヶ月ぶりの感動の再会だっていうのにお互いなんて顔してるのだろう。

ナミは薄暗いマンションの共用廊下に出て、後ろ手で部屋のドアを閉めた。
部屋に招き入れられなかったことに、ゾロはますます怪訝そうな顔をした。
そして、ゾロが口を開く。

「夕べ、どこ行ってたんだ?」

言外に「なんで帰ってこなかったんだよ?」という意味が込められている。
その言葉に、ナミはカチンときた。
今まで胸の内に溜め込んでいたものが、あふれ出す。

「・・・・・・・・・・よ!」
「ナミ?」
「それは、こっちのセリフだって言ってるの!ゾロこそ、今の今まで、一体どこに行ってたのよ!?」

ナミの突然の剣幕に、ゾロは少しひるんだような表情を見せていた。

「・・・・ヨーロッパ。」
「ヨーロッパ?」
「ああ、1ヶ月。取材旅行で。昨夜帰ってきた。」
「・・・・どうして、教えてくれなかったの?」
「急に決まって、言う時間が無かった。」
「それでも連絡ぐらいできるのでしょ?1ヶ月もあったのよ。その間にどうして一度も連絡くれなかったの?」
「携帯を家に置き忘れちまって、連絡できなかった。」

携帯を・・・忘れた・・・。
道理で、携帯に電話してもつかまらないわけだ。
でも、それにしたって。

「すごく心配したのよ!突然連絡取れなくなって、一体全体どうしちゃったんだろうって!」

嫌われたのかと、私のことイヤになって避けられてるのかと思ったのよ。
会いたいのに会えなくて、寂しくて仕方なかったのよ。
そう必死で訴えたつもりだったのに、むしろゾロは戸惑ったような顔をして、ナミを見つめている。
じっと見られて、たまらず言い返した。

「なによ?」
「いや・・・・。」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ。」
「なんで、怒ってるんだ?」
「なんでって、」
「今までも、急に取材旅行でパッと出掛けてたから。」
「だから、なに?別に連絡しなくていいとでも思ってたの?」
「いや、そういうわけじゃないが。」
「じゃあ、なによ?」
「まさか、これくらいのことで、そんなに怒るとは思ってなかった。」

(これくらいのこと!?)

寂しいのを我慢して、いっぱい気を揉んで、1ヶ月を過ごさなくてはならなかったのが、「これくらいのこと」?
体も重ねた恋人と、1ヶ月も連絡を取れないのが、「これくらいのこと」なの?
ああ、そうね。ゾロは私のこと恋人だなんて思ってないんだったわ。そう思いたかったのは私だけ。
私のことなんて、どうでもいいのね。

「それより、お前の方こそ、どこ行ってたんだよ。」

ナミが押し黙ってしまったので、このままでは埒があかないと思ったのか、ゾロが話を切り替えてきた。
これにナミはまたムッとした。
自分のこと棚に上げて、よくもそんな詰問口調で言えるものだと。

「旅行よ。ゴールデンウィークだったから。」

ゴールデンウィークと聞いて、ゾロはハッとした。
そうか、5月にはゴールデンウィークというものがあった。
だから昨日の空港はあんなに混雑してたのだ。帰国ラッシュに巻き込まれてしまったのだ。
1ヶ月の放浪のせいで、暦の感覚がすっかりおかしくなっていた。

「でもこのことは、前にゾロに言ったじゃない!」
「聞いてねぇよ。」
「いいえ、言いました。」
「いつ?」
「この前、お花見の夜。夕食の時に・・・・。」

お花見。ゾロが夜桜を見せに遠くまで連れて行ってくれたあの日。
ドキドキして、でも幸せで。
初めてのキス。そして―――お互いのぬくもりを感じて。
わずか1ヶ月前のことなのに、遥か遠い昔のことみたい。
思い返すと、涙が出そう。

「母を旅行に連れていきたいって、言ったでしょう?」

ああ、そういえば、そんなことを言っていたような気がする。でも、はっきりとは思い出せない。
なぜならあの時、ナミに強引にキスしたすぐ後で、ナミの機嫌が気になって仕方がなかったからだ。これで終わりになったらどうしようかと。
それに正直言うと―――ナミに見惚れてて、話なんてロクに頭に入ってこなかったんだ。
でも、そんなこと言えやしねぇし。

「悪い。聞いてなかった。」
「そう。ゾロは私の言うことなんて、興味ないのよね。」
「そんなこと言ってねぇだろ。」
「じゃあ聞くけど、私が旅行のことでゾロに相談したいって言ったことは、覚えてる?」
「・・・・。」
「ゾロと相談してから決めようと思ってたのに。どんどん時間が無くなっていくし、ゾロの携帯に連絡入れても、出てくれないし。」
「それは、携帯忘れちまったんだから、仕方ないだろうが。」
「携帯が無ければ、手紙でもいいじゃない?ゾロの向かいなんだから、住所わかるでしょ?うちのアパート名、覚えてないの?」
「・・・・。」
「それに、私が『イーストブルー』に勤めてることは知ってたでしょ?だったら、『イーストブルー』の電話番号を調べて電話して、私を呼び出してくれればいいじゃない!」
「そこまで思いつかなかった。ってか、普通そこまでしねぇだろ。」
「そういうこと言ってるんじゃないわ。要は、ゾロが本気で私に連絡したかったか、したくなかったか、っていうことよ。どうでもいいって思ってたんじゃないの?」
「そんなことねぇよ!」
「そうかしら?じゃあ聞くけど、その取材旅行中に一度でも、真剣に私のこと考えて、連絡とろうって思った?」
「それは―――・・・。」

ああ、やっぱり。
考えもしなかったんだわ。
そうよね。昨夜に帰ってきていながら、結局ただの一度だって電話くれなかったんだもの。

「わかった、もういい。」
「わかったって、何がだよ。」
「もういいのよ、もうたくさん!」
「待てよ!」

ナミは身を翻し、ドアを開け、部屋の中に身を滑り込ませた。ドアを閉めようとした寸でのところを、ゾロが閉じさせまいとドアを掴んだ。
しかし、

「離してよ!大声出すわよ!!」

今までに見たことも聞いたこともない、キツイ表情と声音で言われ、ゾロの手が緩む。
ナミはゾロの手を振りほどくと、その勢いのままにガチャンとドアを閉めた。
ゾロは廊下に取り残されて、しばらく呆然としていた。
ただただ、ナミの部屋のドアを見つめて。



なんなんだ。
ワケが分からねぇ。
なんであんなに怒ってるんだ。
・・・っていうか、展開が早すぎる。
ついていけねぇ。

混乱した頭を抱えつつ、ゾロは自分のアパートへと戻った。
辛うじて分かるのは、携帯を忘れたことは、最大の失態だったということだ。
その携帯はというと充電器と繋がれていたが、もうグリーンのランプが点いていて、充電が完了したことを示していた。
携帯を引っつかみ、電源を入れる。
液晶画面が映ると同時に表示される「着信あり」の文字。
着信履歴を調べてみると、3件を除いては、あとは全てナミからのものだった。
留守番電話に至っては、全部ナミだった。

(ナミ・・・・)

ナミが、思いつめた面持ちで懸命に電話をしている姿が容易に想像できた。
急に胸が苦しくなって、いたたまれずにゾロは発信ボタンを押す。
しかし、ナミは出ない。
わざと出ないのか、意図的に電源を切っているのか。

今は声も聞きたくないってことか。

しばらくすると、留守番電話を促すアナウンスが流れてきた。
ひどく物悲しく聞こえる。

ナミは、いったい何度このフレーズを聞いたのだろう。



あれほど待ち望んでいた携帯が、突如鳴り出した。
液晶表示がゾロからの電話であることを告げている。
ナミは両耳を手で塞ぐ。
今は出たくない。
いいえ、もう出られない。

やがて、コール音は途切れた。
弾かれたようにナミは携帯を手に取って見つめる。途端に涙がこみ上げてきた。

ばかばかばか、ゾロのばか!
なんでメッセージを残してくれないの!

本当は、ひと言でいいの。
ゾロが心からの言葉をくれたなら。
それだけで素直になれるのに。




♪          ♪          ♪




翌朝、マンションにいると息が詰まりそうなので、ナミは早めに会社へ行くことにした。
いつも自然と見てきた向かいの窓を見ないようにするのは、並大抵のことではなく、でも意地でも見るまいと、逃げるようにしてバスの通りまで出てきた。

バス停前のいつものブラッスリーは既に開店していて、朝食にパンを買っていこうと立ち寄ると、レジの向こうから店の奥さんが出てきて、笑顔でナミを迎えてくれた。「しばらく会えなくてさびしかったわー」と優しく話しかけてきてくれて、ギスギスしていた心が少しほぐれた。

バスに乗って、窓の向こうの過ぎ行く景色を瞳に映す。連休前よりも確実に新緑が深まったように思う。
にぎやかな街中まで出てくると、いつもの日常が帰ってきたと実感した。
会社のビルの玄関前まで来たときには、もうかなり落ち着いて、気持ちもしゃんとしてきていた。

「おはようございます。」
「おはよう!」

誰もいないと思いながらも企画課の部屋のドアを開けて挨拶したら、やたらと元気のよい声が返ってきた。
それは、ゲンの声ではなかった。
そう、ゲンは4月末で定年退職したのだ。もう企画課にいるはずがない。
じゃあ、この声は・・・・?

「シャンクス社長!?」

いつもゲンが座っていた課長席に、赤髪の男が座っていて、ナミに向かって陽気に手を振っていた。

「ナミ、ずいぶんと早いじゃなか!一番乗りだぞ。ゴールデンウィークはどうだった?楽しかったか?」
「ええ、おかげさまで・・・って、どうして社長がこんなところにいらっしゃるんですか?しかもこんな早くに。」
「まぁいいじゃないか。たまには俺も現場の空気を味わいたいんだ。」
「はぁ。」
「俺っていつも社長室に一人ぼっちだろ?寂しくてさ。」

やっぱこうして社員が出社してくるのを迎えるってのは嬉しいよなぁ!昔はさ、会社も小さくて、俺もみんなと一緒の部屋にいたんだ、会社がそこそこ大きくなったのは良いけれど、社員との距離が遠くなったような気がしてさびしい、さびしいぞーー!と、シャンクスがひとしきり叫んでいる様子を、ナミはぼんやりと眺めていた。
すると、

「社長、そこは今日から俺の席なんですから、どいてもらえますか。」

ナミの背後から、別の声がした。
企画課の先輩の声ではない。コビーでもない。
もちろん、ゲンでもない。

「おお、来たな!お前を出迎えようと思って、ここでこうして待ってたんだ。ようこそ我が社へ!」

ゆっくりと振り返る。
いつの間にか、たくましい体躯の男が一人、企画課の入り口にたたずんでいた。
緩いウェーブのかかった黒髪。そばかすだらけの顔。
そして、鋭い光を宿した強い瞳。

「ナミ、紹介しよう。企画課の新しい課長のポートガス・D・エースだ。今日が初出社になる。」

(彼が、新しい課長・・・・)

ナミと目が合うと、エースと呼ばれた男は白い歯を見せてニカッと笑う。
その笑顔が、窓から差し込む朝の光を浴びて、とてもまぶしい。
そのままエースはナミのそばへと寄ってくると、右手を差し出し、握手を求めてきた。

「ポートガス・D・エースです。よろしく。」

ナミが半ば無意識のうちに右手を出すと、エースはその手を包み込むようにぎゅっと握り締めてきた。

気のせいだろうか、その瞬間、ビリッと電流がナミの全身を駆け抜けた。



stretto―――緊迫して。

不安と恐れを抱いたまま、運命の輪が回ってく。
これからどうなっていくんだろう。

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