7月 ff      - PAGE - 1 2 3 4
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ほとんど眠れないまま、夜明けを迎えた。

その頃からやっとウトウトし始めたのだけれど、目覚ましを掛け忘れて、次に気がついた時は、いつも出かける時間をとうに過ぎていた。
慌てて飛び起きて、10分で化粧して、朝食も摂らずに部屋を出た。
ああ、ホントに踏んだり蹴ったり。

ナミはマンションを出る時、恐れる気持ちでゾロの部屋を見上げた。
もしかしたら、呼び止められるんじゃないかと思って。
でも、杞憂だった。
カーテンは全開であるもの、窓は閉め切られている。人の気配も感じられない。
寝ているのか。それとも、もっと朝早くに出かけたのか。

そして、呼び止められなかったら呼び止められなかったで、不安に襲われた。
ゾロに気にも留められていないのかと。


出社してからは、エースと顔を合わせることに気後れした。
しかし、同じ会社、同じ課とあれば、顔を合わさないわけにもいかない。
エースは、課の朝礼の後、いつもの口角を上げた笑みを浮かべて、ナミに近づいてきた。
背中に隠していた手を前に回し、「ほれ」と花カゴをナミの目の前に出して見せた。
ナミにしてみれば、昨夜自分の部屋の覗き窓越しに見た花々だ。
礼儀として驚いた素振りをして、ぎこちなくならないように、なるべく朗らかに、ありがとうと言った。

「ホントは昨日渡したかったんだがな・・・・。」

エースはそう言いながら、意味ありげな視線を寄越す。
落ち着かない。

「夕べはどうしたんだ?」
「友達の家に泊まりに行ったわ。」
「ふぅん。」

サラッと嘘をつくことができた。もし訊かれたら、こう答えようと考えていたからだ。
エースは、昨夜ナミの部屋を訪れたことを打ち明けなかった。
けれど、探るような目つき。
そんなわけはないと思うのだけれど、エースには全てを見透かされているような気持ちになる。
まるであの時、ナミが部屋にいたことを分かっているみたいに。
もし、立ち聞きしていたことを知られたら、恥ずかしくてたまらない。
急に、昨夜ドア越しに聞いたエースの告白が脳裏に蘇ってきて、顔が火照ってきた。

「どした?」

そう問いかけられても、頭が混乱し、うまく返すことができなくて、俯いてしまった。
こんなの私らしくない。

「あー、課長、ずるいな。いくら誕生日だからって、ナミにだけそんなもの贈るなんて。贔屓だ贔屓。」

企画課の先輩が、ナミが貰った花カゴに目と止めたらしく、突然声を掛けてきた。

「お前さんはいつが誕生日なんだ? 忘れず贈ってやるよ。バラか?蘭か?それともハボタン?どれがいい?」
「いえ、男から贈られても嬉しくありませんからー。」
「なら言うなー!」

先輩が茶々を入れてくれたおかげで、ナミはエースから逃れることができた。
席について、花カゴを机の片隅に置く。
花々は美しく可憐で、優しい香りを放っている。
それはつかの間、ナミの気持ちを和ませてくれた。

けれど、すぐに不安な気持ちが湧き上がる。昨夜のことが思い出されて。

ゾロがナミの元へ来てくれたことは嬉しかった。
なぜならそれは、ゾロがナミの誕生日を覚えていてくれたということだから。
ゾロと結ばれた朝に交わしたほんのささやかな会話を、ゾロは忘れずにいてくれたのだ。
そのことが、たまらなく嬉しかった。

でも、よりによって、それでエースと鉢合わせするなんて。

(ホントになんてタイミングが悪いの)

この前も、たまたまエースに送ってもらった日に鉢合わせた。
そして今回も。
昨夜の出来事を、ゾロは一体どう受け止めたのだろうか。
エースと自分の関係を、いっそう誤解したかもしれない。
すぐに別の男になびくような女だと、軽蔑されたかもしれない。

ため息をつく。
目を閉じて、昨夜のことをもう一度反芻する。
ドア内側にぴったりと耳をつけ、外の二人の会話を聞き入っていた。
その内容に赤面したり、冷や汗をかいたり。

エースの告白にはびっくりした。
まさか、彼がそんなつもりでいるなんて。
いいえ、冗談だわ。
きっと、ゾロをわざと挑発しようと思って言ったのに違いない。

それに対してゾロは・・・・・何も言ってくれなかった。

どうして言ってくれないの?

ううん、分かってる。
彼は軽々しく想いを口にする人ではない。

でも、それでも、言ってほしかった。
エースに対抗して。

それとも・・・・やはり私のことなんて・・・・。



信じて待とうと思っていた覚悟が、脆くも崩れ去りそうだった。





その日は一日、仕事にならなかった。

コビーが何度となく心配そうなまなざしを向けてくる。

だから、なんとか自分を立て直そうとするのだけど、ことごとく失敗。

ゾロとケンカした日でさえ、こうはならなかったのに。


♪          ♪          ♪




終業の時間を過ぎ、ナミはのろのろと机の上を片付け始める。

(今日はもう全然ダメ。これなら帰った方がマシ。)

先輩とコビーに、お先に失礼しますと挨拶する。
課長席は空で。
正直、エースが席を外していることにホッとした。


会社から出ると、昨日とは打って変わっての曇天。
でも蒸し暑さは倍増した。都会のヒートアイランド現象と相まって、夕方になっても茹だるような暑さ。
都会の人々が急ぎ足で行き交う大通りを、ナミは俯むき加減にとぼとぼと歩き、帰りのバスに乗るべくバス停へと向かう。
バス停には、5、6人の人々が並んで待っていた。
その最後尾にナミもちょこんと立つ。
バス停の時刻表に目をやると、ナミが乗るバスはもうすぐ来るようだ。

(よかった、そんなに待たなくていい)

ちょっと安心して、目線を大通りへと戻す。
その時、スッと隣に誰かが並んだ。
何気なく目をそちらに向けて、驚きの余り声を出しそうになった。

(ゾロ・・・・!)

ゾロが、横に並んで立っていた。
目線を前に向けたままで、ナミを見ようとはしない。
ナミも、倣うかのように、顔を前に向けた。
けれど、心はとても平静ではいられない。
心臓が、うるさいくらいに強く、打ち始める。

どうしてゾロがここにいるのか理解できなかった。
ゾロとはバスが一緒になることはあったけれど、このバス停を利用することはないはず。
ということは、わざわざここまで来たということ。

何か話そうと思うのに、言葉が出てこない。
昨夜までは、ゾロと次に会ったらこういう風にしようとか、あの話をしようとか、いろいろと想像を巡らせてもいたのに、いざとなると、そんなもの全て吹っ飛んで、頭の中は真っ白になってしまった。

どうしたらいいのか分からない。

ああ、息が詰まりそう。

眩暈すらも起こしそうになった時、

「今、帰りか。」

沈黙を守っていたゾロが、唐突に話しかけてきた。
それに対し、コクコクコクコクと、バカみたいに首を縦に振る。
それしかできなかった。
頭の中はパニック陥っていた。
なんてぎこちないの。
もどかしくて仕方が無い。
まるで、知り合う前の状態に戻ってしまったみたい。

次の瞬間、手の甲に熱いものが触れて、ハッとなった。
ゾロの手だ。
ゾロの手の甲が当たったのだ。
ううん、当たったんじゃない。
わざとゾロが、手の甲を触れ合わせている。
全身が強張るのとは裏腹に、触れ合った部分は燃えるように熱い。

しばらくして、ゾロの手がナミの手を取った。
そして、軽く握られた状態のナミの手の指を、優しい手付きで、解きほぐしていく。
ゆっくりと。
それだけで気が遠くなりそうだった。
ナミの手が開いたところで、何かを握らされた。
今度は、ゾロの手が、ナミの手全体を覆うように握ってくる。
ゾロの手は熱くて、その熱は、ナミの身も心も温めていく。
ナミの心臓はうるさいくらいにドキドキして、今にも張り裂けんばかりになる。
そこへ、バスがやってきた。

「俺、またちょっと、取材で出かけるから。」

ナミは顔を上げて、ゾロの方を見る。
ゾロも、ナミを見ていた。
そうして、いったいどれくらい長く目を合わせていなかったのか、気づいた。
切れ長の目。澄んだ瞳にナミが映っている。
表情はいたって静かだった。そこにはナミに対する怒りも侮りも見受けられない。
それでいて、口を真一文字に引き結んで、恐そうな顔。
・・・・・それは、ゾロと出会った時からいつも変わらず見てきた表情だった。


何か言いたかった。


誤解してない?

軽蔑してない?

嫌いになってない?


私のこと・・・・・好き?


想いは胸の内から溢れてくるのに、喉の奥に引っかかって、出てこない。
ただ見つめるだけしか、できないなんて。

「昨日なんもできなくて・・・・」

ゾロが不意に言葉を発した。
え?と聞き返そうとした時、バスが大きくクラクションを鳴らした。
ナミの前に並んでいた人々はみんな既に乗車していて、残るはナミが乗るばかりとなっていた。
バスは、早く乗るなら乗れと、クラクションを鳴らしたのだろう。

「行けよ。」

いつの間にか手を離され、代わりに肘を掴まれる。引っぱられて、バスに乗るよう促された。
半ば強引にバスのステップの上に乗せられる。
ぷしゅーと音を立てて、バスの扉が閉まり、二人を隔てた。
ゾロは、バスの扉の窓越しに、じっとナミを見つめている。
ナミもゾロを見つめ返した。
バスが動き始めた。
ゆっくりとバス停から遠ざかる。
ゾロの姿が後方へと流れてく。
段々と小さくなる。
やがて、見えなくなった。
見えなくなる瞬間まで、見つめ合った。

胸はドキドキと鳴り続けていた。

窓から見える風景が移り変わり、バスが街を抜け出た頃、ふと、握りしめていた手のことを思い出した。
そうだ、ゾロは何かを手に握らせてくれたのだった。
手のひらをゆっくりと開けて、胸におし抱いて見てみる。
それは―――小さな包み―――何か、お菓子のようだ。
小さな半透明のセロファンの包みには、バラティエのロゴが入っている。


これ、誕生日プレゼントのつもりなの?


ナミは手の中のお菓子を愛しげに見つめ、小さく笑みを漏らす。
この日、初めての笑み。
同時に、目尻に溜まっていた涙が一筋、零れた。



ff―――とても強く。

私の心をこんなにも揺さぶるのは、やはり貴方だけ。

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