薄い花の香りが歩道に漂う。
点々とある街灯の光は、此処には届かない。
足元には水の枯れた水路に、早咲きで散ってしまった花びらが数枚。

桜の周囲は神聖な結界に縛られて、侵入者を拒んでいるようにも、逆に誘っているようにも見えた。

魔術を施された様に音さえ聞こえ無い空間に、勇気を出して一歩足を踏み入れた。

その途端、真白に見えた花々が、薄い朱を差した。

一点からスポットライトを浴びて淡く染まった。

初めての恋を知った乙女のように頬をピンクに色付けた……桜。


光源を探れば、そこに、葉桜色した男がいた。





花は短かし、愛でよ乙女

CAO 様

 

会社の行き帰りに通る石畳の緑道。夜半を過ぎれば人通りも途絶えがちになり、都会のオアシスも危険と紙一重の場所になる。
何時もなら回避してしかるべき緑道を、敢えて選んだのには理由があった。

早朝自宅を出て駅へ向かう途中、長い桜並木から外れたこの場所に、ぽつんと置き去りにされたみたいに生えたこの桜の木を見つけたから。八分咲きくらいに花をつけて、澄みきった朝の空気の中ひっそり佇んでいた。
テレビの天気予報では、今日は気温がぐっと上がり、お花見日和になると言っていた。きっと帰宅する頃には満開となっているだろう。
同じ緑道でも花見をしてくれと言わんばかりにそびえる桜並木から離れた場所で、本当にひっそりと静かに、けれども何処か誇らし気に独り立つその姿に見せられた。
もしかしたら、この桜を愛でるのは自分ひとりかもしれないなどと、小さな宝物を見つけた気持ちになって「今夜、逢おうね」と約束を取り付けていた。
勿論、桜からの返事を貰った訳ではないが。

だから、会社を出る間際残業を言い渡された時には、少し切ない気持ちになった。デートの約束が没になった時、そんな気分に。
それでも、少しでも早くに逢いたくて、残業を手早くこなし、何時も立ち寄るコンビニもパスして、此処へ駆け付けた。何かに急かされるように駅から小走りにやって来た。
但し、会社の隣のコンビニでビールを2缶仕入れたのは、次の電車まで時間があったからだ。それは、桜には内緒にしておこう…と、彼女は小さく舌を出していた。

だが、此処に辿り着いた時には、お花見気分は抜け落ちてしまった。

密やかに咲く自分だけの桜……
そう考えていたモノとは、容貌を異にしていた。


圧倒的に咲き誇る花々。

夜空に浮かぶ容姿は一種妖艶な程。

異世界に迷い込んだ幻想さえ抱かせ。

静寂の中、彼女を惹き付けて離さない。


どのくらいの刻をその場所捧げていたのだろうか。
ポカンと口を開けていたのか、妙に喉が渇きを覚えた。
のめり込むように見つめていた自分が、暖かい夜風で舞った花びらの一枚を視界に捉えた時、やっと覚えた渇きという生き物の感覚に、少し安心感を持った。ふと、手にしたビニール袋の重さに少し照れ臭くなった。


(折角だから飲まなきゃ…)


そう考えて、一歩桜に近寄った。



(………桜が照れた?)



本気でそう思った。
踏み出したと同時に、桜が色付いたのだから。

水を打った静かな世界に、無粋にもガラガラと現実身を帯た音が鳴る。
目を遣れば、そこに葉桜色の頭をした男が、桜の枝に程近いアパート2階のベランダに顔を覗かせた。
男は太い腕を桜に伸ばし、花を落とさないように優しく一撫でし、葉桜色の頭を寄せ香りを楽しんでいる。薄い唇を柔らかく歪め、愛しむ仕草で桜を見つめた。
それは、恋人に捧げる笑みに近く、軽い嫉妬を誘う甘い匂いに満たされていた。


「「あっ…」」



二人して同時に声を上げた。

男が再び部屋に入ろうと身を翻した時、眼下に佇みジッと桜を見上げる女の姿に目を止めたから。
その顔はお互いに身知った相手であったから。

桜に急かされ今日は立ち寄らなかった何時ものコンビニ。そのレジに立つ無愛想な店員。珍しい翠色の頭髪は清潔に刈り込まれ、一見すればその筋の人間かと思わせる恐い顔付き。左耳には遊び人風の3本の金色に光るピアスが躍り、筋肉質の大きなガタイには妙に不釣り合いに思えた。とてもだが客商売に向いているとは言えない容貌だ。
しかし、接客態度は非常に芳しく、多少の目付きの悪さを忘れさせる程礼節を欠かさない。その上、ドスの利いた低く掠れた声音を聞かせるくせに、言葉遣いは案外丁寧で、時に暖かな響きを持って男の優しさを伝えて来る事さえあった。

この男とは数ヵ月前からレジ前で、時折世間話をする間柄になっていた。

そういえば昨夜も話をした。

暖かくなってきたとか、花見の季節は酒が良く売れるとか、自宅近くの桜が見頃だとか……ほんの2・3分にも充たない小さな会話だった。
そういえば、今朝、天気予報で桜の開花予想に耳をそばだてたのも、この桜に目が奪われたのも、昨夜のコンビニでの他愛無い話が頭の片隅に残っていたからかもしれない。



「…何やってんだ?」

暫く見つめ合った後、男は不思議そうな顔で話しかけてきた。

「ん……お花見?」
「なんで疑問形なんだよ。自分の事だろ!」
「そうね……何でだろ?」

確に花見に来たつもりだったが、花の魔力とでも言うべきモノに捕えられて、自分の意思で赴いた気持ちになっていられなかった。春の夜の魔術に掛ったとでも言うのか、見事な桜に惹き寄せられたとでも言えばいいのか。

男の問いに半ば呆けた答えを返し、桜の花の隙間から男の葉桜色を眺めていた。
すると葉桜色が少し身を乗出し、彼女へ向けていた視線を花へと移し、呟く様に再び問掛ける。

「綺麗……だろ?」
「ええ、スッゴク綺麗…」
「コイツ、俺の自慢なんだ。」
「?……まるで自分のモノみたいな言い方ね。」
「ああ、俺ンだ。」
「アンタ、この木の持ち主?」
「や、違う……けど、似たようなモンだ。」
「何よ、それ?」
「ンな事どうだっていいじゃねぇか。」
「アンタが言い出したんでしょ…」
「それより、イイもん持ってんな?」

男が彼女の持つレジ袋を指差している。2階から覗くその目には、確りと中身の缶が確認出来ている様だ。

「そりゃ花見に来たんだから、準備は怠らないわ。当然でしょ。」
「……なぁ、もっと良く見たくねぇか、桜?」
「どういう意味よ?」
「俺のとっておきの桜を見せて遣ろうか?」
「とっておきって?」
「此処に来て4年になるが、まだ誰にも見せた事がない、最高に綺麗な俺だけの桜だ。」
「何処にあるのよ、それ!」
「見たいか?」
「見たいに決まってるでしょ!教えなさいよ!」
「いいぜ、教えてやる。但し条件がある。」
「条件ですって?」
「そんなに難しいもんじゃねぇよ。聞くか?」
「勿体つけてないで早く言ってよ!」
「酒…」
「はぁ?」
「アンタが持ってる酒、くれよ…」
「これ?」
「あぁ、それ。」
「ブッ……いいわよ。但し、一缶だけよ。」
「ケチ臭〜」
「文句があるならこの話はご破算よ。」
「桜は見なくてイイのかよ!」
「……別に、此処でも十分楽しめるし…美味しいお酒もあるし…」
「クソッ…分かった。一缶でいいからよ。」

してやったり…勝ち誇った笑みが自然と浮かんでくる。

「商談成立!で、何処にあんの、最高の桜って言うのは?」
「此処だ。」

男が親指を立てて、腕を振り指差すのは窓の内側。

「はぁ?何処よ!」
「俺の部屋だ。」

何を言っているのだろう。碌に知りもしない女を自分のアパートに誘うとは。新手のナンパともとれる、下心を全開にした愚かな行動……普通なら軽くいなしてその場を立ち去るのが利口と言うものだ。

だが、今日は違っていた。

多分、美し過ぎる桜の所為だ。

咲き誇る花の魅力に惑わされた為だ。

この木と交した約束があるからだ。


「……其処へどうやって行けばいいのよ?」


気付いた時には了承の返事をしていた。

「あ…え…っと、この先に緑道の切れたとこ…や、待てよ…そっから一旦駅の方に戻って……ると、遠回りか?」
「何言ってンのよ?訳わかんないなぁ〜もう、自分家への道案内も出来ないの?」
「緑道から直接入れねぇだろーがー!入り口は反対っ側なんだからよ!」
「じゃ、右か左か、どっちからが近いの?それだけ教えてくれれば、私自分で…」
「あーもー、煩せぇ〜!黙って待ってろ!」

苛立った口調でそう告げると、葉桜が窓枠の中に姿を消した。
迎えにでも来るつもりかと、少し首を捻りながら、満開の桜越しベランダを見つめていた。
すると一分もしない間に、再び窓から葉桜が現れた。大きな手にはくたびれたスニーカーを一揃え持っている。片方の手を窓枠に掛け半身を乗り出し、腰掛けたと思ったら足にスニーカーを履き始めた。

「?……何やってんの。」
「靴履いてんだよ。見てわかんねぇの?」
「分かるけど…何するつもりか聞いてるのよっ!」
「迎えに行ってやろうとしてんだ……うっし。」
「ええっ?」

いきなり男が視界から失われる。ベランダから幹伝いに桜の木に取り付いている。

「あ、危ないわよっ!ちょ、ちょっと…」
「待ってろ!」

大きなガタイに似合わず、あっと言う間に桜へ張り付き、男は器用にスルスルと降りて来た。
そして桜の根元にスクッと立って、ニヤリと笑い彼女を見下ろしている。
緑道脇は石垣が1m程積み重なっていて、直ぐ下には枯れた水路。男の行動に驚き、その水路に足を踏み入れた。干上がっている筈の足元に、渇き切らないい小さな水溜まりがあった。軽く水滴が跳ね上がり、革のハイヒールを濡らした。

「ンもう、驚かせ…あ、冷たっ!」

ハハッと笑った男は石垣を飛び降り、彼女の直ぐ脇に立ち、悪戯の成果に満足した顔を見せている。

「ンじゃ、行くか?」

徐ろに彼女の手を取り、再度石垣を登ろうとする男。
焦って手を離そうと男の顔を見つめると、思った以上に近い場所にあり、あられもない方向へ視線を送ってしまった。
その隙を逃さず男が石垣に取り付く。慌てて握られていた手に力を込めて引き戻した。

「何処行こうとしてんのよっ!」
「桜見るンじゃねぇのか?」
「でなく…どっから行こうとしてんのよっ!」
「此処…」
「行ける訳ないでしょっっ!」
「何で……?」

心の底から不思議だとでも言いた気な男が、口をヘの字に曲げている。

「アンタねぇ〜私、スカート穿いてンのよっ!しかも、ヒールだし、バックだって荷物だって持ってるし…この木に登るつもりでしょ!ストッキング電線したらどーすんのよっ!しかも、アンタが驚かせるもんだから、足濡れちゃったじゃないっっ!」

そこまで一気に撒くし立てると、男は多少蒼白となって済まなそうな表情になった。

「わ、悪りぃ…けどよどーやって行くンだよ?」
「回って行けばいいでしょ!」

そのまま繋いだ手を引いて、水路を出て緑道に入る。思わず勢いづいて鑪を踏む男に、怒りを露に振り返って宣告した。

「さぁ、行くわよっ!」
「お前なぁ〜行くって…」
「ツベコベ言わない!どっち!」

肩をすくめた男は一瞬小さく見え、後ろに背負う桜も身を潜めたように見えた。

「コッチ…です。」

握った手を少し弛めて、男は申し訳無さそうに呟いた。
頭上で満開の桜も震えていた。多分風が吹き抜けたからだろう。
満足気な笑顔が彼女に宿り、男が指差す方向に濡れた足を踏み出した。繋いだ手を思いっきり引っぱって。
勿論、片手にある重いコンビニの袋を、男の腕に預けるのも忘れずに。




確に桜の下からは説明し難い場所ではある。だけど、アパートの名前はハッキリ表示してあるし、その看板の下には住所も明記されている。緑道の止切れた所は桜の下からでも十分確認出来るし、交差する私道も片側は行き止まりだ。


(説明くらい出来るでしょ…普通?)


男の住むアパートの鉄製階段を目の前にして、彼女は飽きれ果てていた。
2・3度路地を曲がり、その度アレッ?と小さく声を上げる男に焦れていた。先程の話では、4年もここに住んでいると言う。余りに飽きれて「自宅にも帰れないの?」と尋ねれば、「何時も通らない道だから」と言い訳にもならない戯言を宣う。しかも、当然といった太々しい態度で。
桜の木の真下にあるアパートに辿り着くまでに、優に20分を要していた。どう考えても道に迷っているとしか思えない。もう、飽きれを通り越して、男に憐れみさえ覚えていた。
そして、見覚えあるアパート前に立った時には、

「な、遠かっただろ?やっぱ、桜、登っときゃ良かった。」

と、まるで自分の選択に間違いはなかったのだと言わんばかりの俺様な姿を垣間見せた。

「あのね…」

何度行き止まった時に元の道へ導いたか。初めて訪れる場所で何故彼女が道案内させられるのか。住所を語らせこのアパートを探しだしたのは他ならぬ彼女……言いたい事は山ほどあったが、共に歩いた道のりにホトホト疲れ果てていた。
その上、夢中で歩いていた時には気付かなかったが、繋いだ掌はシットリ汗ばんでいて、立ち止まった今、改めて意識を集中すると妙に気恥ずかしい思いに駆られていた。

「……手…」
「手がどうした?」
「……離して。」
「あ………」

横目で男を見遣れば、葉桜色の頭が動いた。下向き加減に揺れた頭がピタリと止まり、繋いだ手と手を凝視している。その手に一瞬緊張が伝わり、直ぐ後にパッと解放された。

「………す、すまん… 」

春の夜風に晒されて、別たれた掌はすうっと冷たくなった。
男は何度か掌をパタパタと小刻に振ったかと思うと、慌ててズボンのポケットにしまい込む。そして、何だか忘れ物でもした様な不安な顔を見せ、明後日を向いて苦虫を噛み潰したみたいに表情を曇らせる。
彼女もつられて、バツが悪そうに苦笑を洩らした。

「あ…此処だ。」

男が取り繕うように漏らした言葉が、階段前に佇む二人を現実に引き戻す。
彼女は苦笑を引っ込めて、改めてこの失態の追求に取りかかった。

「知ってるわよ。案内する筈の人間が、散々迷いに迷ってくれて、結局、招かれた私が連れて来て上げたんだから。」
「うっ……」

言葉を返せない男に、軽い優越感を感じた。

「さあ、見せて頂戴。約・束…でしょ?」

勝ち誇った態度で胸を張り、どうだと言う思いを込めて悪戯なウィンクを投げた。
何か文句のひとつでも口にしようと試みたのか、男は口をパクパク動かしたが、それは言葉になる前に何処かに消えてしまったようだ。眉間にひとつ皺を刻んで、顎をシャクリ階段へ彼女を促した。


ドスドスと響く音に続き、カツンカツンと軽やかな足音を鳴らせ階段を上がる。
前を行く男の背中は何だか怒りのオーラが漂っている。そう自分と年齢もかわらないだろう女に、言い負かされて憤慨しているのかもしれない。沽券にかかわる…とでも思っているのか?
彼女からすれば、そのくらいの事でムキになる男の幼さに、昨夜まで知っていた大人びた態度との裏腹さに、面白味を感じ可愛いとさえ思ってしまった。

階段を登りきり、アパートの外に続く廊下を、最も奥まった部屋へと向かう。先程桜の下から窺った窓辺とは、真逆に位置する外廊下。立て込んで隣接する家並の軒先のお陰で、薄暗いトンネルのようにも感じた。切れかかった灯火が妖しく揺れて、前を行く葉桜を点滅させていた。
一足先に部屋へと着いた男は、ドアを前にふと動きを止めた。
その顔に怒りの色はもう無い。代わりに現れた、情けない表情。親に叱られ泣きそうになる子供のように。

固まっていた男が、ギシギシと音を立てたのかと思った。
そのくらいゆっくりぎこちなく、彼女に首だけ回して助けを求める顔をした。


「…どしたの?」
「…鍵…………ねぇ。」
「ハアァァ?」

非難めいた声を上げれば、開き直るように男が言い募ってきた。

「だから、鍵、部屋ン中だって言ってンだよっ!」
「何言ってンのよ!ばっかじゃない?」
「馬鹿言うな!」
「アンタねぇ〜他人様を招いておいて、やっと辿り着いたと思ったら、中に入れ無いって…ナメてんの?」
「しゃーねーだろっ、忘れちまったもん、今更…」
「どーしてくれんのよっ!ちょっとぉ〜、お花見できないじゃないよ!もう……ビール返してっ!」
「ゲッ…や、落ち着けっ!此処で待ってろ。俺が戻って中から開けてやっから。な?」
「ヤーよっ!アンタが戻ってくんの待ってたら、真夜中になっちゃうじゃない?こんな危険そうな場所で、若くて可愛い女がひとりで待ってるなんて、襲って下さいって言ってる様なもんでしょっ!も、帰る。明るいとこまで送りなさいっ!ほら、ビール返してって…」
「や、マジ待て…とにかく、ビールは待てって。」

そう告げた男は提げていたコンビニ袋をドアノブに引っ掛けた。
人質…缶質を取られた彼女は、男の横に周り込みコンビニ袋に手を伸ばす。
グイと袋を引っ張れば、それをさせじと男がノブを押さえる。それではビニール
袋を外せないから、男の腕に空いている手を掛けてドアノブから離そうと試みた。まさか手を取られるとは考えが及ばなかったのか、男は慌てて彼女の掌にもう一方の腕を乗せ、右に左に手を揺すった。

その時……

ドアノブが回り、扉が開いた。

ドアが動いた反動で、手に込めた力の受け処が逸れ、前のめりになった彼女は思わず倒れ込む。
すかさず男の腕が動き、彼女を支える。
だか勢いは止まらず、彼女は男のぶ厚い胸に頭を激突させた。

「痛っ…」
「お、おい。無事か?」
「無事な訳な……って!鍵かかってないじゃないっ!」
「あん?…うおっ!本当だ。」
「本当じゃないでしょ…」
「良かったな〜これで見られるぞ、とっておきの桜。」
「も、何よその言い方。だいたいね…」

文句を言いながら男を見れば、信じられないくらい近い場所に顔があり、途端に体の筋肉がこわばった。

「「…………」」

半開となったドアの直ぐ脇で、抱き合う様に身を寄せ合い、くちづけせんばかりの距離にある二人の状態。それに気付かされ、互いに動けなくなる。言葉もなく、ただ、立ちすくむ。

ギィ……と音を立て、缶ビールの自重を受けた扉が開く。

扉の奥から眩い蛍光灯の明かりが二人の元へ。

二人は同時に扉の先へ視線を向け。

其処には………



『桜』



大きな窓枠という額縁に入った萌え出る桜花があった。

仄かに淡くピンクに色付いた、窓を覆い尽す桜の花弁。その隙間から漆黒の幹が所々顔を覗かせ、華麗なアクセントを魅せる。窓の中に入り込む勢いで伸びた一枝が、その美貌を誇示して見る者を手招いている。

おいでおいでと、この異世界へと誘って。

幻想と現実の狭間、時と空間を切り取って、誰も触れる事叶わぬ立体と平面の間へ…


一枚の絵画かと見惑う程に素晴らしい枝振りの構図と、生き生きとした生命力を轟かせ、窓枠に切り取られたにも関わらずその圧倒的存在感は揺るがない。
咲き誇る桜の花々が匂い立つ様に、殺風景な小さな部屋を覆い尽し、その場所を一時美術館に変えていた。




「………すごっ…」

男の胸に頭を預け、寄り添ったままで、彼女の口から感嘆の呟きが零れた。

「だろ?」

オレンジ色の頭の上から、温かく優し気で、でも少し自慢気な掠れた声が降ってきた。少し、幻聴にも思える、甘い響きも含んで。

「ええ、言葉にならない……」

返す声音は夢の中で発した様に、不安定でぼんやりとこの空間に消えて行った。
男に身を預けたままで、暫し焦がれた様に桜を見つめ続けた。
瞬きするのも惜しいと、その琥珀の瞳に焼き付けて。身動きすれば、眼前の光景が失われてしまうのではないか?という不安にさえ駆られ。微動だに出来ない。

「ハァ…」

美しさに感嘆の吐息が洩れる。

その時不意に、窓の向こうで夜風が踊り、桜の枝を微かに揺らした。
それは正に桜が室内へ手招いた様に見える。

「もっと近くで見てみるか?」
「うん、見たいわ。」

彼女が顔を上げれば、先刻より更に近くに葉桜がある。

「うぉっ!」
「キャッ!」

余りの驚きで互いに突き飛ばし合い、寄り添う体を離した。二人とも赤面していた。
声にして相手を非難しようと思うのだが、自分からすがる様に預けていた体が妙に心地好く脳裏をかすめ、上手く言葉を紡げない。
気恥ずかしさに包まれて、口をゴニョゴニョ動かした。形にならない言葉を探して視線をさ迷わせれば、同じ様な仕草で戸惑う男の視線と重なる。ドキリと胸がひとつ大きく鳴ったから、視線を避ける意味で頭を部屋の中に向ける。
飾られた桜の花を見る為に。

「……中、入っていいぞ…」

誠意の込もった声に誘われて、男に目を向ける。
微かに頬を赤らめて、それでもあくまで真摯な態度で彼女を見つめていた。
その姿に、慌てていた自分が滑稽に思えてくる。だから一呼吸吐いて、嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「うん…ありがと。」
「散らかってっけどな。」
「…本当ね。」
「失敬なヤツだな!」

フフッと互いに笑いが溢れた。
さっきまでの仄かな緊張感を振り払い、彼女は部屋の中へと入って行く。玄関先から真っ直ぐに、迷い無く真正面にある額縁を目指して。引き寄せられる様に、
一歩一歩着実に近付いて行く。桜の見目は次第に大きさを増し、その華麗さが彼女を飲み込んで行った。
部屋の中央に位置する季節外れのコタツに足を取られ、ふと立ち止まる。その場でジッと鑑賞すると、雑然とした男の部屋に不釣り合いと思っていた光景が、至極当たり前で当然で、ここにあるべきモノに思えてきた。


プシュ


妙な音を耳にして後ろを振り返る。

其処には葉桜。

幸福を絵に描いた顔付きで、缶ビールのプルトップを開けている男がいた。

「アンタねぇ…」
「お先に…」

缶ビールを薄い唇に押し付けてゴクリゴクリと喉を鳴らす男。
プハッと一度息を吐き、片手で唇についた泡を拭った。

「約束だから頂いたぜ。」
「全く、もう……乾杯もしてないのに?」

ニヤリと意味深な笑みを見せれば、男はハハッと笑って肩を揺らした。

「俺は、ゾロ。お前は?」
「私…ナミよ。」

ゾロはビニール袋から缶ビールを取りだし、ナミに投げ遣る。
受け取ったナミは、プルトップに指を掛けた。
プシュウと音を立て、缶から大量の泡がほとばしった。

「きゃあ〜」
「おいっ、気ぃ付けろよっ!」

慌てて葉桜がタオル片手に駆け寄ってくる。
その背後には、開け放ったドアから、二人が歩いて来た外廊下が見えた。
電灯はまだ点滅を続けていた。

「やだぁ〜濡れちゃったぁ〜」
「テメェが気付かねぇのが悪りぃンだろっ!」
「何よっ!アンタが投げンのが悪るいんでしょっ!」
「アンタじゃねぇ…ゾロだ。」

ナミの濡れたスーツの袖を拭きながら、下向加減の葉桜が呟いた。




ナミの後ろに、満開の桜。

目の前には、葉桜。


今日の夜桜見物は、楽しくなるかもしれない。




Fin


(2007.04.12)

Copyright(C)CAO,All rights reserved.


<管理人のつぶやき>
桜は昼間見るとピュアで可憐であるのに、夜に見る桜は幻想的で妖しい魅力をまとっていますよね。
その圧倒的な魔のような力によって、ナミとゾロは引き合わせされたような気がしてなりません^^。
ゾロのことを「葉桜」と呼んでるのがイイなぁって思いました。葉桜の君やね(笑)。

CAOさんの12作目の投稿作品でした。
春にふさわしい桜のお話、どうもありがとうございました!!



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