「ナミ、あんたはそれで……良いの?」
「良いも何も……ゾロがそう言ったンだから、そうなんじゃない?」
「で、無くって!あんた、ゾロが……」
「私が?」
「好きなんじゃないの!」
「ええっ!」
「ち、違うの?」
「まさか〜私が?ゾロを……」

試合前で遅くなった部活が終わり、薄暗い道を大きな荷物を抱えたナミに背中から声が掛った。振り返ればバイト帰りの姉のノジコがニコニコ笑っていた。紙袋を両手に提げていたナミからひとつ取り上げ、中身を覗いて「相変わらず臭いわねぇ〜」と呟いた。
何故ならその中身というのは、汗臭いタオルやら手拭いやらがギッシリと詰まっていたから。
そう、同じ高校の先輩でもあるノジコは、卒業まで剣道部のマネージャーをやっていた。今のナミと同じ仕事を。

地区でも強豪と謳われるナミの通う高校の剣道部。その主将を努めた男がノジコの彼氏だった所為もあって、ナミが中学生だった頃から、自宅へは剣道部の連中が押し掛けては夕飯を食べたり、相談事を持ち掛けたりと騒々しい日々が続いていた。ナミも一緒になって騒いだり、勉強をみてあげたり…スポーツ馬鹿の彼等は勉強の方はからっきしで…母と姉の3人暮らしのナミにとっては、一度に沢山の男兄弟が増えたみたいに感じていた。しかも、彼等は気のいい連中ばかりで、とても強豪と言われる恐ろし気な猛者には見えなかった。
そんな奴等に囲まれたナミが、ノジコの通う高校に入って、マネージャーをやりたいと思う様になるまでに、さして時間はかからなかったのも当然の話だ。

だが、一昨年、ナミが受験生になった年、地区止まりだったその高校は、一人の新入生の登場で一躍全国へ名を馳せる。

その男の名は…


『ロロノア・ゾロ』


ノジコが言うところでは「ナミの好きな男」である。





本艦は只今より潜行を開始する

CAO 様

 

「あんた達いい感じだったでしょ?だから上手くやってるもんだと…」
「上手くって、何よそれ!」

自宅までほんの50メートル程手前で、ノジコの言い草に戸惑いを覚え立ち止まる。
春まだ浅い黄昏時、気の早い街灯には用をなさない明かりが灯もり、心配そうに眉をひそめたノジコの顔に、少しだけ影を落としていた。

「…付き合ってるんだと思ってたのよ。」
「付き合ってなんかないわよっ!」
「そう……でもね、ナミ、あんたの気持ちはどうなの?」
「どうって……」




ゾロとは一昨年の春に知り合った。例に漏れずナミの家にやって来た剣道部員のひとりとして。先輩に拉致られた数人の新入部員のひとりだ。緊張する新入部員達を尻目に、彼は堂々としたもので一向に臆する気配も見せず、出された食事を片端から飲み込んでいった。遠慮という言葉さえゾロの前では裸足で逃げ出してしまうのでは無いか?そんな疑問さえ浮かんで来るほど、泰然自若と構えた様子は既存部員のそれにも劣らず、ナミ宅のソファに陣取り馴染んでいた。初見にも関わらずだ。

そんな男とナミが話す切っ掛けを作ったのは、普段成績優秀なナミには見られない弱音を吐いた一言。

「ノジコ〜ここの問題分かんないンだけど……教えてくれない?」
「どれ…数学〜?あ……」
「ここの数値の意味が分からないのヨォ〜だって、これ何の意味があるの?直接問題解くのに必要なのかしら……」

リビングのソファの中央に座るノジコに、背持たれ越しに覗き込み数学の問題集をかざして見せる。数人の剣道部員達は、ナミとノジコにチラリと目を向けたが、お鉢が回って来るのを恐れてか、我関せずとの顔をして其々の話題に花を咲かせていた。
少し煩わしそうに眉をしかめながらもノジコがナミに目を向ければ、ソファの端っこで食後の惰眠を貧る緑色の頭髪が視界を擦めた。

「ン……ちょっと、ゾロ!あんた何寝てンだいっ!」
「…お、朝か?」

ぼんやりと重そうな切れ長の瞼を開いて、すっとぼけた調子のハスキーボイスがリビングに響く。

「もう、夜だよっ!」
「…なんだ夜か。」

キョロキョロと首を振ったかと思った途端、沈み込むように再びソファの背持たれに体を預けるゾロ。
その頭にノジコの鉄拳が無情に降り注がれた。そしてノジコに宿る意地悪な微笑み。

「また、寝ようとしないのっ!起きたンなら丁度いいわ。勝手に昼寝した罰として、ナミの宿題みてやって。」

ノジコの言葉を受けてほぼ同時に二人から声が上がった。

「なんで俺が?こんな中坊の…」
「だ、駄目よぉ〜!馬鹿に聞いたって分かるはずないじゃ…」

少し長めのナミからの抗議に対し、グッと睨みを利かせたゾロの瞳が光った。

「誰が馬鹿だと〜」
「あんたよっ!剣道部は皆勉強駄目じゃないっ!」
「テメェ〜、こいつ等と一緒にすんなっ!」
「じゃ、出来るっていうの?」
「見せてみろよっ!」

ゾロは徐にナミの持つ問題集を取り上げ「どれだ」と呟き、指差すナミのその先にに見える問題を読み耽った。
ナミはその横顔に一瞥を投げ、どうせ解けるはずなど無いと、軽蔑に近い眼差しを送る。深い緑色の瞳が細められ、機嫌悪そうに眉根を秘そめたのが見える。ヤッパリ…とナミが愉快な笑みを溢した瞬間、ゾロの左耳にある三本のピアスが揺らめいた。

「ヒッカケじゃねぇか?」

呟く様に耳に届いた言葉が、ナミへ振り向き、真正面にある飽きれた色を見せる暗緑色の瞳を凝視させた。
ゾロの小馬鹿にした表情にも関わらず、思いの外近くにある整った顔に視線が固まる。

「へっ?」
「問題、良く読めよ……」

呆けた顔でゾロを見つめていた自分が、突然恥ずかしくなって、抗議の声も言い淀んだ。凶悪な表情に臆したかに受け取られるのを訝しんでも、それは止められ無い程で。

「よ、読んだわよ……」
「だったら分かるだろ?」
「うっ……分か……らない。」

酷く衝撃を受けていた。勝ち誇ったようなゾロの顔に、惹き付けられていた自分が、恥ずかしくて堪らなかった。

「アホか!」
「あんたにだけは言われたくないっ!」
「けど分かんねぇンだろ…いいか、出題者の意図を考えてみろ!ここは………」

だが、本心からナミは驚いてもいた。中学生に勉強を見て貰う様な万年赤点野郎ども…だらかこそ、ノジコが卒業してしまえば、自分が入学して面倒を見て遣らねばと、母心にも似た気持ちで接してきた剣道部員。
その中にあってナミの宿題の相談に乗れる人間がいようとは。嘗て一度も経験した試しが無かった事態。
しかも、スポーツ推薦で入学したのは確実と思われる最強新人部員が、学年でトップの成績を争うナミでさえ引っ掛かった問題に解答を導き出したのだから。その驚きとプライドを傷付けられたショックに、暫しナミから言葉を失わせていた。
しかし、ゾロの解説は的を得ていて、理に叶っていた。説明も分かり易く、納得させられるもので、その語り口に聞き入っていたのも、また事実。

「……て、なるだろ?分かったか、中・学・生!」

そう言い置いてニヤリと歪む薄い唇に、少し反感を抱いたナミは意趣返しとばかり、無作為な表情を取り繕いチクりと針を差してみる。

「ありがとう、分かったわ…でも…」
「何だ、まだ納得いかねぇってか?」
「ううん、アンタが何で出題意図が分かったのかが、不思議で仕方ないのよ。剣道部のクセに。」
「あのな…」

諦めにも似た溜め息をひとつ吐いたゾロは、きかん坊の子供をあやす口調でナミに話し始める。

「剣道やってっから、分かるンだよ。相手が何考えてるか、これからどう動くのか。」
「…………?」
「試合の時は特に、一瞬の読み違いが勝敗をわけるンだ。相手の意図を感じて、その上をいかねぇと、負けちまうんだよ。体を鍛えて技を磨くだけじゃ足んねぇ。」

そこまで話したゾロは、揶喩かう様にニヤリと笑い、改めてナミの瞳を覗き込んだ。

「読み取る力が要るンだ……問題だって同じだろ?」
「うっ………そうだけど、なんか……」
「修羅場の違いだなっ!」

ガハハと豪快に笑うゾロに、悔しい思いが募ったナミだが、その場は一本取られたと素直に受け取る事にした。

だがこれを機に、ナミは事在る毎、ゾロに喰ってかかる様になった。勿論負けてばかりはいない。寧ろ、ナミの方が圧し気味、8割方は勝利していると言って良い。
逆にゾロは、当初の勝利に因って、ナミに対し優位の立場にあったのが災いしたのか、連戦連敗にも関わらず口喧嘩を挑み続けていた。必ず勝てる、勝っているのだと信じるように。
この1・2年はこんな他愛無いじゃれあいを繰り返し続けてきた、ゾロとナミ。
何時の間にか、二人の間には喧嘩友達以上の信頼関係が生まれていた。それは、男だとか女だとか先輩・後輩などとかいった既存の間柄を越えたもので、対等に話せる貴重な関係……だと、少くともナミは、そう信じて疑わなかった。


家を目の前にして、ノジコに問われる迄は。


「……私の?」
「そう、あんたの本心。」
「本・心?」
「ゾロに彼女が出来たって聞いて、どう思ったか……ってコト!」
「ん…………」





部活を終えて洗濯物を纏めたナミは、何時もの様に部室にタムロする部員達に、早く帰れと小言を宣っていた。そして何時もなら、男臭い部屋の空気を嫌ったナミが真っ先にドアを開け、男共を追い立てる筈だった。

しかし、今日は違っていた。

最も最後に部室を後にする主将が、一番に着替えを済ませ扉に手を掛けたのだ。

そう、3年生となったゾロは、そのずば抜けた実力で誰もが認める剣道部主将の地位を確立していた。

但し、象徴的存在として、カリスマに近い圧倒的実力者としてであって、雑務処理能力の殆んどは皆無で、各部活の予算会議に提出する書類の作成など全く理解していないどころか、生徒総会での予算案説明では質問者に対し質問を返してしまう程だった。
その他にも逸話は跡を絶たず、例えば、試合の集合場所が現地だったりした場合は、部員の誰かが送迎でもしない限り会場に辿り着けないのが実情だ。危うく不戦敗を喫しそうになった事もあった。
そして、これらゾロの冒してきた数え切れない失態の尻拭いをしてきたのは、他ならぬナミその人であった。
殊、剣道に関しては卓越した能力を見せるゾロだが、それ以外の事には興味が無いのか、気を抜いている様で、特に部活上がり等はダラダラとして、隙あらば堕眠を貪ろうとする毎日だ。

そのゾロがどうした事か、いの一番に部室を後にしようとした。
思わずナミは声を上げた。

「ゾロ、どうしたの?そんなに慌てて。彼女でも待ってるの?」
「待ってる……らしい。」

騒がしい部室が、その一言で水を打った様に静けさに包まれた。
全員が固まっている。
勿論、ナミもだ。

「じゃお先…」

別れの言葉を続けようと、ゾロが口を開いた途端。


「「「「ええっ〜〜〜」」」」


部室中から驚きの声が上がった。
部室の扉を開け放ったまま、廊下を背にしたゾロは、いかにも不満といった様子で顔をしかめている。

「…ンだ?俺に彼女がいちゃオカシイか?」

ボヤキに似た呟きが低い声音で部室に谺する。

「「「「オカシイッ!!!!」」」」
「うをいっ!」

異口同音に部員達の言葉が、ゾロの自尊心を粉々にしていようとは思いも寄らず、続く言葉は非難であったり、ヤッカミであったり、驚愕でもあったり、ありとあらゆる喧騒が部室内を埋め尽した。

「どこで押し倒した…」
「お前が女にモテるはずがねぇ!」
「先輩だけはと信じていたのに…」
「有り得ねー!明日は槍が降るんじゃねぇか?」
「剣道部員は異性交遊禁止……」

蜂の巣を突ついたような騒ぎに、さしものゾロも眉間に深い皺を刻んで苦渋の色を浮かべていた。とてもではないが口を挟める状況に無い。
5分は続いたであろう喧騒に終止符を打ったのは、華奢な拳と静かな怒りを伴った透明感のある良く通る声だった。


「うっさ〜〜いっ!!!」


ゴン・ゴン・ゴン…と部員達の頭部に鈍い音が幾つか響き、先程までの騒ぎが一気に終息へ向かう。
水を打ったように静粛となった部室に、声高に鳴り響く声が、ゾロを窮地から救った。

「ゾロッ、何やってんの!早く行きなさいっ!」
「ヘッ?」
「ヘッ?じゃないでしょ。女の子を待たせるなんて、男の風上にも置けないわ。」
「お、おう。けど…」
「こっちは任せて。アンタは行けばいいのよっ!」
「悪リィな。頼んだぜ、ナミ。」

ナミはウィンクをひとつゾロに送ると、ゾロの盾になるように扉の前に仁王立ちし、押し黙る部員達を一睨みした。蛇に睨まれた蛙といった形相の彼等に、弄ぶるような人の悪い笑顔を見せる。
後に部員達は口々に、このナミの笑顔は「ゾロが乗り移った」と言わしめる程の恐怖を植え付けたらしい。

「さあ、アンタ達…」

恐怖のお説教タイムのゴングが鳴った。
ただ、説教をするナミ自身は至って冷静そのもので、叱り飛ばす本人の言葉が自分で話しているような気がしなかった。どちらかと言えば他人が喋っているようで、それを端から聞いているナミがもう一人いる…そんな心持ちだった。
何故なら、ナミの背中に響く、ゾロの遠去かる足音がしっかり耳に届いていたから。




「……別に。」

ノジコに問われた『本心』とやらに、全くもって思いが至らない。
あの瞬間、ゾロに彼女が出来て今正に彼を待っているのだと聞かされた時、感情らしきモノはナミの心の中には何も無かった。改めて思い返してみたところで、あの瞬間に限って言えば、何かを感じる余裕もヘッタクレもない。
ただ、ただ、ビックリしていただけ。
永遠に立ち尽くしていたのではないかと思う程、微動だに出来ないくらいに驚いてたとしか言い様がなかった。
驚愕に包まれた男臭い部室で、一切の音が失われてしまって、ナミの耳には何も届かない。音の無い世界の向こうで、男共が鬼気迫る勢いで口をパクつかせている。各々の表情が怒りや羨望や嘆きを伴い歪んでいた。それを瞼のシャッターを下ろしながら、酷くゆっくり順序良く、琥珀の瞳に焼き付けていっただけ。
そして、救助を求める切実な祈りを魅せる深緑の眼差しとぶつかったのは、自然の成り行きだった。
その時、音が還ってきた。
喧々囂々たる男共の驚声だ。

後は「ゾロを行かせなきゃ」という思いに囚われた。ただ只管に、「行かせなきゃ、行かせなきゃ、行かせなきゃ…」と、呪文を唱え自分を鼓舞していたように思う。
槍玉にあげられたゾロを、この死地から救い出すという思いに、取り憑かれていたのだ。


「ショック…じゃ無いの?」
「……良くわからない。ただ、驚いたと思う。」
「それだけ?」
「うん。聞いた時は驚いて…みんなが騒ぐから、何とかしなきゃって思って…」
「どうしたの?」
「ゾロを彼女のトコへ行かせて、みんなをとっちめてやったわ。」
「そう……それで、おしまい?」
「ええ、おしまい………」

ノジコは一層心配そうに眉をしかめてナミを見ていた。静かに吐息を吐いて、少しだけ寂しそうに頬笑む。続いてナミの背中をトンと押し、立ち止まったままだった足を我が家に向けた。
背中に感じた暖かな温もりにナミは、抗し切れず気持ちが弛むような感触を覚えた。一歩先を歩くノジコの背中を前にして、引き擦られるかの如く歩を進める。
家までほんの50mの距離がヤケに永く、ノジコの蒼い髪が左右に揺れるのを見つめ続けていた。
何時の間にか夜の帳が足早に迫って、街灯の光が色鮮やかに歩道を照らし出している。歩くノジコの白いシャツの肩に淡い色を差して、見つめるナミの瞳に眩しく映っていた。

「ナミ…アンタがそれで良いなら、私はもう何も言わない…」

揺れる肩をそのままに、ノジコは前を向いたままナミに語りかけた。

「だけど、後悔だけはしないで欲しいと思ってる。可愛い妹が悲しい顔するようになって欲しく無いんだ。」
「悲しい顔なんて…してないでしょ?」
「…どうかな?」

肩越しに首だけ振り返ったノジコの顔には、少し悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
自宅玄関前に明るく輝く灯火に照らされた短いスロープは、母が帰宅している事を示している。今日は定時に終わったんだなと、愚にもつかない思いがナミの心を過ぎった。ああ、今日は夕飯の支度はしなくていいんだ……と。








「悪い、待たせたな?」
「ううん、大丈夫。そんなに待ってないから。気にしないでください。」
「……そうか……」
「ええ、待つのも楽しいし…」

ハニカミながらそう告げる彼女に、ゾロは何とも落ち着かない気持ちになった。
違和感とでも言うのか、他人行儀でいて、でも妙に親しげに話す彼女の態度に、背筋を這ったゾッとする感覚に抗らえなかった。
待ち合わせた正門横の自転車置き場を、夕暮れの陽射しが柔らかく包み、ゾロを見つめる彼女の影を永く伸ばしていた。甘えるような仕草と上目遣いに見る視線に、肌が粟立つ気がする。その状況に堪え切れなくなり、伸びた影の先に目をやれば、彼女の友人であろう何人かが揶喩を含んだ眼差しを送っていた。

(なんだかなぁ、アッチもコッチも…)

肩の力が抜けた。脱力した体には、手にしたバッグが急に重みを増したような気がした。

「…行くか?」
「ハイ。」

彼女に一声掛けて、校門へ向かった。何時もより歩むスピードを緩めて。作為ではなく、単に疲れていたからだ。
付き従うように半歩遅れて歩く彼女から、何か遠慮がちな言葉が聞こえてくる。
部活は大変か?とか、無理するなとか……適当にアァと返事を返していた。正直、何の面白味もない会話を振られ、何と答えるべきか迷ってもいた。校内を出て暫くすると、その声も聞こえなくなった。黙々と歩く二人。信号に差し掛かり、立ち止まった。行き過ぎる車の音が妙に大きく響いてくる。沈黙が重かった。

「何か、あったんですか?」
「や、別に…」
「部活で何かあったとか?」
「あ…アンタと待ち合わせてるつったら、大騒ぎに…」
「えっ!皆の前で言ったの?何か言われた…」
「あ?何か良く分かんねぇが、文句言ってやがったな。あんまり煩せぇししつけぇから、ガツンと言ってやろうとしたら、ナミが……」

ナミが救ってくれた。あまりの暴言に晒され、酷く困っていたところに、スッと現れ部員達を一喝した。
オレンジ色の髪がゾロの目前に出現し、ゾロを守るように華奢な背中が、精一杯大きく腕を広げて、盾となって立ちはだかった。
そして、行けと言う。この場から立ち去れと。後は任せろと。
振り返ったオレンジの頭は、気心が知れた同士の阿吽の呼吸とでもいった表情が浮かんでいた。
……琥珀の瞳が片方閉じた。
その瞬間、突然心臓がバクバク鼓動し始めた。胸が痛くなる程。それを悟られるのが怖くて、急いで部室を後にした。振り返りもせず。振り返えれば扉の枠の中に、ナミの後ろ姿が見えるのが分かっていたから。今、ナミを見るのが、何故だか怖かった。もう一度ナミを視界に捕えれば、待ち合わせ場所には行けなくなるような気がしていた。「行け」と言ったナミの行為に酬いる為、必死で足を動かした。

「ナミ…さん?」
「あぁ、ナミ…マネージャーだ。おっそろしい女で、何時も怒ってやがる。」
「そう…あの綺麗な人が?」
「!綺麗…か?アイツが?」
「え?知らないの?校内でも評判の美人で、かなりモテるのよ。この前のホワイトデーなんて、貰ってもいないバレンタインデーのお返しとかって、何人も告白に行ったとか、それに………」

彼女は噂話を延々と続けている。しかし、その大半はゾロの耳には届いていなかった。

(アイツが…ナミが綺麗だと?)

初めて知らされた事実に、少なからずゾロは戸惑っていた。しかも、相当モテるという。
確にナミの周りにはゾロも含めて何人もの男が取り囲んでいた。初めてナミと知り合った時も、ノジコは別として、周囲はむさ苦しい男だらけだった。当たり前の様に男の中にあり、ドチラかといえば男よりも漢らしい振る舞いをするナミ。
気っ風の良さは天下一品、そのクセ細かい所への配慮も怠らず、グウタラな部員共の尻を叩き部活を束ねる、影の主将…
綺麗という言葉が、ナミにふさわしい等とは思いも寄らなかった。その言葉は女性に対して使用するもので、逆にナミを冒涜しているような気さえする。そんな、判で押したようなウスッペラな美辞麗句は似合わない。
それにゾロにとっては、ナミは女である前にナミであり、百歩譲って女だとしても、姉とか妹とかいったとても近しい存在だった。いや、性差を越えた親友で、仲間とも呼べる人間だ。

おかしなものだが自分の彼女とかいう女に、ナミを貶められたようで、鬱々とした気分に浸っていた。

信号が変わった。隣で噂話を声高に語る彼女を尻目に一歩先に踏み出すと、慌てて彼女が後に着いてくる。口騒がない言葉の波は続いていた。

「…と、思ってた。」
「は?」
「だから、ナミさん?と付き合ってるのかと思ってたの、ずっと…」
「俺が、ナミと?」
「ええ、だから、私が告白した時はダメモトだったの。まさか彼女がいないなんて思ってなかったから、ラッキーって…」




春休み、偶々部活が休みだからナミの家での飯会も流れてしまい、クラスメートで実家がレストランをやってるサンジに飯をご馳走になろうと押し掛けた日の事だった。散々野郎に文句を言われつつ食事を終えると、遠蒔きに自分達を見ていた女子校生の一団が近付いてきた。中でも取り分け女の子らしい甘い匂いをさせた娘が、「私と付き合って下さい」と唐突に声を掛けてきた。
以前から暑苦しい視線を受けるような感覚は何度かあったが、それはゾロが一瞥を返せばクモの子を散らすように消え失せていた。だが、こうして数人の女に囲まれ、脅迫する様な目付きを四方八方から受けた状況に陥ったのは初めての経験だった。
二の句が続かず口隠るゾロにたたみかける勢いで彼女が迫ってくる。

「付き合ってる人がいるんですか?」
「や……いねぇよ。」
「なら、私と付き合っても問題ないですよね?」
「かもしんねぇけど…俺はアンタの事知んねぇし…」
「付き合ってから知ってくれればいいから。お願いします。」
「お願いって…」
「おい、ゾロ…」

カウンター越しに同席していたサンジが、人の悪い笑顔を見せつつ口を開いた。

「ここまで言ってくれてんだ、ハイって言ってやれよ。女性に恥をかかせるもんじゃねぇぞ。」
「ケドお前、好き嫌い以前に、何んにも知らねぇつうのは…」
「彼女も言ってるだろ?そんな事は、付き合ってからでも遅くないって。大体よ〜テメェみたいな筋肉マリモなんか、こんなチャンスでも無い限り、彼女なんて出来やしねぇんだからよ〜」
「テメェ、ふざけんなっ!」
「あぁ〜ん!ヤンのか?なら、今すぐ彼女が出来るって証拠見せてみやがれっ!」
「ああ、じゃ、付き合ってやるよっ!この……アンタ名前何だ?」

売り言葉に買い言葉だった。彼女と付き合う事になったのは。この巓末の後、サンジがほくそ笑んで言った言葉が、未だに引っ掛かってはいるが。

「これでライバルは消えた……」

意味が分かんねぇ?
新学期を迎えて約一月。サンジとはまた同じクラスになったが、成績はお互い中の上、争い合うようなモノでも無い。何かの委員を取り合う訳でも、ましてや帰宅部のヤツと剣道の成績を争う訳にもいかない。
なら、何をしてライバルと、好敵手と呼ばれなければならないのか?
取り留めない思いが、あれ以来ゾロの心を捕まえて、時折だがモヤモヤした気持ちが浮上していた。

「ねぇ、ここ寄っていい?」

何時の間にやら噂話を終えた彼女は、駅前にあるショピングモールの一角にある小さな雑貨店の前で立ち止まった。

「あぁ…いいんじゃね?」

乙女心を揺さぶるきらびやかな店の作りと、見るだに照れ臭くなるような小物の数々に、一瞬二の足を踏んだ。

「じゃ、少し待っててね。」
「おう。」
「直ぐに戻るわ。」

また、違和感だ。
遠慮しているのだろうか?彼女はゾロを店の中へ誘わない。確に、ゾロのコワモテの風貌はこの店には削ぐわないし、自分自身も敢えて入りたいとも思わない。

先程から店頭で仁王立ちして只管ジッと待ち続けるゾロに、不審な目を向けた女子中高生が何人も店を出入りしている。好奇の視線を露にして。いたたまれない気持ちになっていた。これなら一緒に店に入った方が、まだましだったかもしれない。
明るく光る店内から広がる灯りを背に受けてはいても、ゾロが佇む場所だけは傾く春の日差しと同様にドンドン暮れなずんで行った。それに背を押されたかのように、何とも形容し難い沈降する思考に溺れる。居たたまれない気分を忘れる為に、何気無く訪れたその望洋とした思考に意識を移していた。

(中に入りゃ良かったのか、悪かったのか?ナミなら無理にでも…)

そう、これがナミなら、嫌がるゾロを無理矢理連れて行くだろう。隣でブツブツ文句を言うゾロを一喝し、態のいい買い物カートにしてしまうであろう。
幾度か部活の買い出しと称して、ナミの個人的買い物を一緒に賄わされた事実も、過去何度かある。正式な購入物のついでだとあくまでも本人は言ってはいたが、普段ゾロ一人なら決して足を向ける様な場所では無かった。その度、「か弱い女の子に重い荷物を持たせるのか?」と脅しをかけられる。都合のいい時だけ女だと主張するナミに、何度悪態を吐いただろうか。

(…あの時、女だって言ってたよな…)

だが、そう口で告げられても、実際女だとは、女性だとは実感していた訳ではない。女という意識をさせない、その必要を感じさせない………女。




去年の秋、新人戦の抽選会の帰り道、駅前でナミと偶然会った。否、良く考えてみれば、待ち伏せされたのかもしれない。
監督と二人駅に降り立ち、抽選会の結果を携えて学校に向かっていた。勿論、同じ部活のマネージャーであるナミが、二人の動向を知らない筈は無い。
だから、この駅前で偶然出会うというのは、決して偶然では無いという証でもある…とゾロは思った。

「ヨォ、ナミ!」
「あっ、監督〜。お帰りなさい…ゾロも。」
「出迎えご苦労さん。抽選結果が一刻も早く知りたかったのか?」
「冗談でしょ……買い出しに来たんですっ!」

好奇の色を琥珀の瞳に漂わせつつもキッパリ否定するナミに、ゾロの悪戯心が騒いだ。

「フライングしたかったンじゃねぇのか?」
「あら、教えてくれるの?」

やはり少し乗ってきた。
いつもそうだ。ゾロが軽口を叩くと必ずナミは、その釣り竿に色気を魅せる。食い付きがいいから、気楽で肩の力を抜いていられる。
だが、それは監督も同じなのだろう、ゾロの言葉を受けたのは普段は白猟と呼ばれる鬼監督。

「マネージャーになら教えてやってもいいんだぞ。」
「嬉しいけど……やっぱり、聞かないでおきます。」
「いいのか?」

監督自らがOKを出そうと言うのに何故?珍しくナミの考えを理解出来なかったゾロは、驚きでつい口を挟んだ。
それに呼応してナミはニッコリ微笑み、ゾロを往なす。
ゾロの心臓がコトリとひとつ音を立てた。
ナミはそのまま背の高い監督を見上げ、思いを言葉にした。

「ええ。マネージャーって言っても、私も部員のひとりだし……監督、皆にはいつも通り、一週間前に知らせるんでしょ?なら、私もその時でいいです。試合に出られなくっても、アイツ等と一緒に戦っていたいから。」
「そりゃ、殊勝な心構えだな?」
「はいっ、ワクワクしながら待ってます。」

監督にそう告げたナミは、端で見ていたゾロには眩しいくらいに頼もしく思えた。自分達部員を心から信頼し共に肩を並べていようと心掛ける姿に、改めて同士に対する深い情愛を感じたからだ。
その時点でゾロは勿論対戦相手を知ってはいたが、敢えてナミに話すのは止めようと心に誓った。前もって念を押された監督からの口止めも去る事ながら、何よりナミの思いに水を差すのが憚られたからだ。
その直後、学校に用事があると先に戻る監督に、ナミの買い出しに付き合ってやれと命を受けたのは、多少不本意ではあったが、潔いナミへ傾倒した思いが素直に足を向けさせる結果を招いたのだろう。何時もならば、少しでも早く部活へ戻り練習をしたいと言うだろうゾロにもかかわらずだ。

「なぁ〜、まだ買うのかよっ!」

駅前スーパーで特売のペットボトルを箱買いして、薬局に立ち寄り、百円ショップにまで足を伸ばし、更に何処かへ連れて行かれ様としているゾロは、流石に堪忍袋の緒が切れる寸前だった。幾らナミに傾倒したとはいえ、大荷物を抱えさせられ連れ回されれば不平のひとつも言いたくなる。

「俺は帰って練習したいんだよっ!早くしろよ〜」
「何言ってンの?こんなに素敵なナミちゃんとご一緒出来るだけでも有り難いと思いなさいっ!」

そう言うとナミはサッサとアクセサリーが陳列してある専門店に入って行く。

「おいっ!そこは部活に関係ねぇだろ。」
「ついでよ、つ・い・で。」
「テメェ〜ついでも何も……俺はどーしろってんだ。」
「はぁ?アンタも入りなさいよ。そんな出入口につっ立ってたら、往来の邪魔じゃない?」

ムサ苦しい学ラン姿の男が、鼻の下伸ばして入って行ける様な店ではない。特にゾロのイカツイ顔は、乙女チックなアクセサリーとは縁遠く、店側にも迷惑だろう…そういう思いを口にするのも気が引ける様で、柄にもなく口隠っていた。

「や、そうじゃなく…ンな店に入るのは…」
「店がどうかした?お店ってのは入る為にあるの。アンタ、馬鹿?」
「馬鹿って言うな!」
「なら、ついてらっしゃい。」
「あ〜も〜…」

ナミにかかれば怖いモノ無し。これは部の中でも暗黙の了解で、ゾロは促されるままナミに従っていた。
だが、入店してはたと気付く。自分の姿に。

「中に入っても邪魔じゃねぇか、俺?」
「そう?あっ、これ可愛い〜…」
「聞けよっ!」
「何?煩っさいなぁ〜」
「いいか、こんな大荷物持ってたら邪魔だろ?重いしよ。」
「は?なら、店の人にお願いしてレジ前にでも置かせて貰いなさいよ。」
「そりゃ、迷惑になんだろ?お前、荷物持てよ。」
「か弱い女の子がそんな荷物持てる訳がないでしょ!」

その言葉を言い終わらぬ内に、ポカリと頭を殴られた。不意を突かれた攻撃で余りの痛さに蹲り、どこがか弱いンだと小さく悪態を吐いた。
すると、スッと白い手が伸びてきて、ゾロの腕から薬局の袋と百円ショップの買い物が奪われる。

「ゾロッ、こんなの重いって言ってどーすんの。アンタ主将でしょ?アンタの肩にはウチの部員達全員が乗っかってンのよ。弱音吐いてンじゃないわよっ!しっかりしなさい!」

見上げればナミは笑っていた。いかにも悪い顔をして。勝ち誇った女王の顔で………否、王だ。

また、トクリと胸が鳴った気がした。

「………分かってる。」

ゾロも笑った。
悪い顔だったのだろう、遠蒔きに二人を見ていた店員達が、身を寄せ合って震えていたから。
ナミの後ろにはキラキラ光るアクセサリーの数々が、きらびやかに店を飾っていた。その明るさに負けない輝きを、ナミの笑顔は放っていた。




つらつらと形にならない光景が脳裏をかすめ、自分が今置かれている状況を失念していた。ゾロは考えるでもなく降って湧いた思いに身を委ねる内に、自分が彼女を待っているという事実さえ忘れかけていた。

「待たせてゴメンなさい?」
「!………お、おう。」

突然声を掛けられ慌てて目を遣れば、甘える仕草を全開にした彼女が、ゾロに摺り寄って腕を絡めてくる。
反射的に手を引いてしまった。
彼女は少し驚きを見せたが、直ぐに申し訳無さそうな素振りでゾロを上目遣いに見上げる。

「あ…や…済まない…何つうか…」
「いいの……恥ずかしいわよね?ゴメン。」
「そうじゃねぇ…お、驚いただけだ…」

酷く相手を傷付けてしまった気がして言い訳がましく言葉を紡ぐが、不安定な気持ちの所為で視線の遣り場に戸惑い、あらぬ方向に目を移した。

「じゃあ、腕組んでもいい?」
「…ああ…あ?」

つい、誘われるまま頷くと、間発入れずに彼女の腕が絡まってきた。
ゾクッとした違和感がまた、ゾロの背筋を這った。
しかし、同意をしてしまった事実に何ら変わりは無く、唯々諾々と受け止めるしか無い。

「ね、お茶でもする?」

彼女に目を向ける。ベタベタと擦り寄る姿に何故か不快が募ってきた。

「今日は、早く帰るって言ってあって…」
「そう…」
「悪りぃな。駅まで送るからよ…」
「ううん。あのね…」

歩き始めれば、駅まで数百m。眼前に捉えているその大きなターミナルが、とても長い距離に感じた。
自分の胸を押し付ける様にゾロの腕に絡まる彼女は、部活の休みにデートをしようとか、明日はお昼を一緒に食べようとか、二人の予定をしきりと話し続けている。その声を遠くに受け止めるゾロの耳は、何故だか他人事を聞かされているようで、返す言葉も「ああ」とか「おう」とか気の抜けたものになっていた。

(別に彼女が嫌いって訳じゃねぇんだが…)

何とも申し訳無い、そんな気持ちを現す様に、春の日差しは暮れて行く。
白いビルで囲まれた駅舎は、オレンジ色に輝く夕暮れで色付いていて、それが妙に眩しく感じた。オレンジ色の光景に見るでも無く目を向けたゾロの脳裏には、ナミの華奢でいて頼もしい後ろ姿が重なり、焼き付いて離れなくなっていた。何となく想いが過ぎる。

(振り返りゃ良かったのか…)

その想いの向こうで、楽しそうに話す彼女の声が谺していた。

試合前で明日からまた部活で遅くなるんだな…
姉貴も出張とか言ってたし、飯食って帰んねぇとな…
ナミん家で食わして貰うか…

そんな些細で自分勝手な予定を立てて、駅へ続く歩道を歩いた。
彼女の声は聞こえているのに、何故だか言葉は届いていなかった。







「ゾ…主将いる?」
「あー、ナミさん。今日もまた麗しい〜貴方の微笑みは、まるで愛の天使さ〜なんて美しいんだ…」
「サンジ君に言われ無くても知ってるから。でも、ありがとね。ところで…」
「マリモを探してるんだろ?それにしても、マネージャーって大変だね。あんなアホの面倒見なきゃなんないんだもんな。お察しするよ、全く…」
「で、何処?」
「あぁ、アイツなら……」

昼休み監督から頼まれた試合の日程表を届ける為に3年の教室を訪れたナミは、ゾロのクラスメートのサンジに声を掛けられ、入り口付近で手を取られ毎度の如く口説かれそうになっていた。
その手を避けるのも煩わしく取られたままに、用事の主を探し教室内を物色していると、不意に取られていた筈の自分の腕が落ちた。

「俺に用があんだろ?」

声のした方向にオレンジの頭を揺らせば、ナミとサンジの間に身を乗り出す様にゾロが立ちはだかっていた。勿論、サンジの手を跳ねのけたのも、ゾロだった。
サンジが思いっきり不快な顔を見せているのがその証拠。

「テメェ〜、俺とナミさんの愛の語らいを邪魔すんじゃねぇよっ!」
「煩せぇ、コイツは俺に用がある時しか此処へ来ねぇだろーが。テメェはお呼びじゃねぇんだよ。黙ってろ!」

喧嘩腰の男共を前に、ナミは至って落ち着いた様子で、掴み合いを始める二人の頭に拳を落とした。

「二人共、うっさいっ!」
「「…すみません。」」

ナミは内心ドキドキと心臓が高鳴るのを、必死で抑えていた。サンジに取られていた手を、まるで妬いてでもいるかの様に跳ねのけたゾロの行動に、勘違いしかねない自分の気持ちの遣り場に当惑してしまっていた。
こんな事は初めてだ。
今までだって試合に勝った嬉しさで、ゾロだけでなく部員達とも何度となく抱き合い、肩を組んだり、手を取り合ったりしてきた。時には、敗戦の悔しさに涙する後輩をしっかりその豊満な胸に抱き止め、慰めてやった事さえある。
だが、過去一度足りともそれを、ゾロに止められたりした事はなかった。
そして、手を外された瞬間触れたゾロの手に、温もりを感じた例しも…

(ノジコの所為だわ…)

頭を押さえて蹲る男二人を眺め、自分自身を落ち着かせる為に深く息を吐く。
ふと見れば大きな掌の間から覗く緑の短髪に、思わず小さな笑みが零れ、ナミを再度焦らせた。
その思いに蓋をして、とても事務的な口調で告げる。

「はい、これ、監督から今度の試合の日程表だって。良く読んでおいてね。主将!」

紙の束で緑の頭に軽く面を入れた。

「ナミ、人の頭2回も叩くんじゃねぇよ!」
「2本先取したから、私の勝ちね。」

恨めしそうに見上げてくるゾロの顔に、精一杯悪い顔を作って笑った。

(全国広しと謂えども、アンタから面を奪えるのは私しかいないわよね?)

そう思えたから、今目の前にいるゾロに対して感じている不確かな想いは、まだ何かの形にするべきじゃない。ナミはそう確信して、再度日程表を手元に戻し、一枚だけ抜き取りゾロに渡す。

「ほら、私に一本取られててどーすんの?確りしてよ、主将?」
「あぁ…そうだな。」

ゾロがバツの悪そうな笑顔を見せた。
ナミの心臓がトクンと鳴っていた。
二人の視線が絡まっていく。その目には見えないヴェールの向こう側で、トクントクンと鼓動が響いているのが、ナミには確かに聞こえていた。

「ロロノアく〜ん…」

廊下の先から親密そうに響く、甘い女子生徒の声が聞こえてきた。昼休みに入って三々五々廊下へ溢れ出した生徒達は、その声の主に羨望の眼差しを向け、何と無く道を譲る様に歩む先から身を引いていった。
ナミもまた、トクンと鳴り続ける心臓の音をよそに、その場所から立ち去る決意を固めた。声の方へ顔を向けたゾロの脇を擦り抜け、隣で佇むサンジにおどけたウィンクを送り、自分の教室へ足を踏み出す。
そそくさと廊下を辿り階段に差し掛かる。手摺に手を伸ばした。ギュッと握れば、トクンと鳴っていたはずの心臓が、ズキンと音を立て痛みを増したような気がした。階上を見据え頭を上げ、何故か潤みかかる目元を堪え一歩踏み出す。
途端…

「ナミ、迎えに来いよ!」

低い掠れた声が背中に掛る。
驚いて振り返れば、すぐ後ろにゾロがいた。
いる筈のない男を暫し呆けた顔で見つめていると、業を煮やしたようにゾロが詰め寄ってきた。

「だっから…試合の日だよ、試合の日!」
「何で、私…いつも一人でいいって…」
「3年最後の地方予選だ。全国がこれにかかってんだよ。絶対遅れる訳にはいかねぇ…こっから秋までずっと走り続けんだ、俺は!」

偉そうな物言いだった。それが人にモノを頼む態度かと言いたくなる程。
けれど、その深い緑の瞳は余りに真っ直ぐで、痛い位にナミの心を射抜いていた。ゾロの彼女の声が廊下に響いた時以上に、酷く痛かった。

「宣言したんだから、負けたら許さないわよ。」
「絶っ対、負けねぇ!」
「私を顎で使おうってんだから、勝ち続けなさいよ、必ず!」
「当たり前だ、誰に言ってやがる。必ず勝ち続けてやる…」




(…お前に見放されない為にも。)

ゾロの中に宿った言葉は、形を成さなかった。
廊下に谺していた声の主が、ゾロに追い付いたからだ。

「見つけた。お昼一緒に食べる約束…」
「ああ。」

スッとゾロの脇に立ち、腕を取って促す彼女に、ナミは一礼をする。ゾロに無表情な視線を送り、他人のような微笑みを口許に湛えた。

「じゃ、約束よ…主将?」
「おう、任せろっ!」

もう振り返る事なく階段を昇っていくナミの背中は、何時もの頼もしさは無く、抱き締めて支えて遣りたくなる程健気な空気に満ちていた。それは多分にゾロの一方的な想いを反映させているに違い無いと理解はしているものの、隙あらば胸の中に押し寄せてくる渦巻くような気持ちは、切なさを伴ってゾロの手を伸ばさせようとする。

昨夜から頭に浮かび続けるナミの後ろ姿があった。何故なのか不思議で仕方なかったが、先程サンジに握られていたナミの手を見た瞬間、その望洋とした気持ちに名前が付いた。

『嫉妬』

その言葉に当て填ると、確信した。
何故なら、それを思うより前に、ゾロの体が自然に動いていたから。ナミの手を握るサンジの手を、気付けば振り払っていたから。妙に近い距離にある二人の間に割り込み、ナミの視線を独占したいと願っていたから。
勿論それらの感情は、とても利己的で独善的なものだ。それも十分理解した上で、自分を止められないのが、我が事ながら悔しく腹立たしかった。
それにナミは今までと何ら変わる所無くゾロに、愛して止まない剣道部主将としての絶対的信頼を置いている。ナミの気持ちを汲んで、自分に出来る事は何か、それも十分に理解しているつもりだ。
目覚めた自分の気持ちとナミの望む想いの狭間で、暫し立ち尽すと、絡まっている腕の重さが増した。

階上に消えたナミの姿を追っていた目を、隣で腕を取る彼女に移した。可愛いらしく甘えてくる彼女を見て、苦しいくらいに懺悔の思い駈られる。
昨日まで、いや、ついさっき迄、ゾロ自身も知らなかった本当の心。常に共に歩んできたナミが、誰かの手に落ちるかもしれないと分かった時、自分でも抗い切れない感情が顔を覘かせた。何時の間にやらゾロの心の大半を占拠していたナミという女の存在。仲間だと同士だと思っていた、思おうとしていたんだと。
そんなゾロの想いに気付かず、ただ恋という名の時間に浸る彼女の姿に、只管申し訳無いと心が呟いていた。

(……恨むぞ、サンジ!)

何度も瞬きを繰り返し、ゾロを見つめる甘えた瞳に、ひとつ目礼をすると、覚悟が決まった。


「話がある…」


但し、この気持ちをナミに伝えるのはまだ早い、そうゾロの心は呟いてもいた。





自分でも良く階段を駆け上がらなかったものだと、ナミは自分を御した力に感心していた。
ゾロの腕を取る彼女の姿を見た途端、頭の中が真っ白になった。その光景に目を伏せる為に、彼女の顔を碌に見る事もせず頭を下げた。お陰で、きちんと礼節を重んじる後輩と思われた事だろう。我ながら瓢箪から駒だと…つらつらと流れるままの思考に身を任せていると、戻るはずの自分の教室を通り過ぎていた。クラスメートに呼び止められて、慌てて席に着いた。決まった手順で弁当を机の上に開き、いただきますと手を合わせ、箸を持ち、茹でたブロッコリーを摘んだ。

(変な色、ゾロみたい…)

途端に涙が零れた。
ポロポロと頬を伝い、一つ二つ机に染みを作る。

(彼女が出来たって知って、初めて自分の気持ちに気付くなんて…馬鹿みたい…)

そう思ったら何だか少し笑えてきた。

この高校に入る前から知っていたゾロが、何時の間にかナミにとって特別な存在になっていたとは、さっきまで知るよしもなかった。敢えて言うなら、余りにも身近に在り過ぎて、改めて考える余地がなかったという事なのか。その必要が無かったのか?
ゾロはそこに居て当然で、ナミの前から消える等有り得ない。そう勝手に思い込んでいたのだろう。
それが、蓋を開けてみれば、ゾロは彼女のモノになっていた。それを昨日までは頭で理解していたのだが、さっき階下で見たゾロの腕には女の腕が絡まっていて、さもそれが自然であるかの様にナミの目には写った。
ゾロは自分だけのゾロでは無い。彼女のゾロであり、決してナミのゾロでは無いのだと。

気付くべきでは無かったのかもしれない。昨日ノジコから受けた質問に、ずっと答えが見付からないまま、モヤモヤした気持ちを持て余していた。家に帰ってからも、食事の合間に、風呂に浸かっている時、テレビドラマのCMの間とか、ベッドに潜った瞬間…ふとゾロの顔が心の画面に写し出されてた。だが、深く考えるでも無く、遣り過ごした。
多分、試合を間近に控え、ゾロを始めとする部員達の動向が気になっているのだろうと、ひとり納得していたのだ。
そうやって自分を誤魔化し、本心を知るのを畏れていたのだろう。

だが、その気持ちと向き合う刻が訪れてしまった。
ゾロの彼女の声を聞き、むつまじく繋がれた二人の手を見た瞬間に、滞っていた想いが溢れてしまった。

『嫉妬』

零れた想いに名前が付いた。酷く自分勝手な言い草だが、ゾロはナミと何ら特別な関係でも無いにも関わらず、奪われたと感じていたのだ。
そして直ぐにやってきた諦めにも似た、とても悲しく切ない想い。

(ノジコ、恨むわよ…)

正直知りたく無かった、ナミの中に生まれたゾロへの想いと、同時に感じた醜い嫉妬心。
二つの気持ちにさいなまれ、押し潰されてしまいそうな心を必死で隠して、やっとの事で取り付けた約束。ゾロを慕う彼女の前で、ナミにしか出来ない仕事を。

(迎えに行ってあげる。私は私の方法でアンタの力になってあげる。アンタに彼女がいても、私とゾロの距離は変わらないわ、これからもきっと…)

これからも勝ち続けると高らかに宣言したゾロの側で、道案内を続けていけるのはナミ以外にはいない。ゾロがそれを望んでいると、その口で伝えてきた。
だから、ナミは決心する。

(私の気持ちは、静かに留めて、誰にも気付かれないように、深く心の中に沈めて…)


落ちた涙を拭い、摘んだブロッコリーに噛りついた。
ムシャムシャ咀嚼すると、女泣かせなゾロに復讐を果たした様な気になって、何だか元気が湧いてきた。

「ばぁ〜か〜」

少し浮き上がった気持ちで呟けば、ゾロが「馬鹿言うな!」と答えている気がした。

これからもいっぱい馬鹿って言ってやろう。


彼女がいるアイツを、「ゾロ」って呼べなくなった代わりに。


潜めた気持ちで、「好き」って言う代わりに。




「ばぁ〜か…」









(2007.05.15)

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<管理人のつぶやき>
ゾロに彼女ができなかったら、気づかなかった恋心。でもその時は突然やってきて、二人の心は翻弄されます。
気づいてしまえば想いはほとばしる。ナミにしてみれば、気づいた時には失恋ですから、本当にやるせないよな〜><。
けれど若い二人は相手への想いを秘めることにしました。はてさて・・・・。

CAOさんの13作目の投稿作品でした。切ないお話をありがとうございました。
続き、求む!!!!(力こぶし)



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