取り去りたいもの
ヒカリ 様
それは初めてゴーイングメリー号に乗った日の夜からだろうか。
確か、ウソップが仲間になったあの日、みんなで宴だ何だと騒いだ後、先につぶれた年少の二人を横目に見ながらキッチンでナミと晩酌をしたんだ。
それからだ。
俺達がしょっちゅう晩酌をするようになったのは。
毎日とは言わないがほぼそれに近い頻度、俺達は二人で酒を呑む。たいていはキッチンで。まれに甲板なんかで呑むこともある。大して特別な話をするわけではない。むしろ、何も話していない時間の方が多い。独りで呑んでも構わないのだが、気が付くと二人で酒の取り合いをしていたりする。
新しい船になってキッチンが変わっても、それは変わらずに続けられている。癖となってしまったようだ。
そして今日も、自然と足はキッチンへ向かう。真新しい、きしんだ音のしないドアを開けると、やはり真新しいテーブルとイスでナミが航海日誌をつけていた。
俺は入ろうとして足を止めた。
野生の勘とでも言おうか。空気がいつもと違うことに気付いた。大気が固まっているような、何となく冷気が漂う異様な雰囲気だ。心なしか、ナミの周りではそれが一層濃いように感じられる。
「見張り、交代したの」
ナミはこちらを見ずに尋ねた。よく見ると、日誌の上の羽ペンにはインクがついていないままだ。
「あぁ」
ようやく俺はキッチンに足を踏み入れた。
妙な気配は消えない。
俺は自分が少しずつ飲んでいる酒と、グラスを手に取り、ナミの右隣に腰かけた。
ナミは左手で頬杖をつき、右手で空になったグラスをゆっくりと回している。
氷がグラスにぶつかる音が小さく響いた。
俺はちらりとナミの横顔を見て気付いた。自分が先ほどから感じている変に淀んだ空気はナミから発せられたものらしい。
ナミに表情がなかった。
いつもはナミ自身の中にある爛々とした光を映し出す瞳が、今はランプの光を反射させるだけのガラス玉のようになっている。
「どうした」
ナミは俺の問いかけにゆっくりと視線を俺に向けたが、一瞬目を合わせただけでまたテーブルのどことも分からないところへ視線を漂わせた。
質問に答える気はなさそうだ。
今日一日を思い返してみても、まぁ慣れない船で航海に出てからまだ日は浅いものの、ナミをこのように変化させてしまうような出来事はなかったように思われた。
しばらくしてナミはようやく手元にあった、自分で持ってきておいたらしいシェリー酒をグラスにそそいだ。
その時俺はすでに2杯目に突入していた。
ナミはグラスを口に運んで、味わうように、何かを思い出すように目を閉じた。
ランプの明かりがナミの瞼を照らし、もともと長い睫毛に陰を落として一層その長さを意識させた。
「戦いって、終わってからの方が辛いのね」
ナミはぽつりと呟いた。
ナミの言っている意味はイマイチよく分からなかったが、それ以上聞こうとは思わなかった。
またしばらく沈黙が流れた。
ナミの白く華奢な指がグラスを弄ぶのが妙に艶かしくて俺はなんとなく目をそらした。
いつも2人で呑んでいる時には感じたことのない緊張感がなぜかあった。
それはナミのめったに見せない憂いの表情のせいなのか、ランプの淡い光がかえってナミのすらりとした白い脚を意識させるせいなのか、ときどきナミの口から静かに漏らされる溜息のせいなのかは分からなかった。
「ロビンは取り返した」
ふいにナミは口を開いた。
俺は黙って続きを促す。
「ウソップも戻ってきたし、仲間も一人増えた」
「あぁ」
「全てが完璧に揃ったはずなのに、私は何か腑に落ちないのよ」
「・・・それで」
「うん。何か欠けてるの。パズルの1ピースが足りないみたいに。・・・・・・ううん。逆。私は完成したパズルから逆に1ピース取り去ってしまいたいのかもしれない」
ナミの話は抽象的すぎて、よく分からなかった。何を言おうとしているのか掴めなかった。
それから急にナミはランプに手を伸ばした。
キッチンを照らす明かりも同時に揺らめく。
ナミはランプの蓋を開けて、ろうそくの火をおもむろに手でにぎり消した。
じゅ、という音と共にキッチンが暗闇に包まれた。
「おい、お前何してんだ!火傷するぞ!」
俺は咄嗟にナミの腕を掴んだ。それは不安になるほど細かった。
カシッと音がして、ナミの掴まれていない左手から火が灯る。
器用にも、左手だけで、マッチをすったらしい。
それをろうそくに近づけて再びランプを灯した。
「何やってんだよ」
俺はもう一度言い、掴んだナミの右腕をそのまま自分の目の前に持ってきて、手のひらを開かせた。
白く柔らかい手のひらの真ん中辺りがほんのり赤くなっていた。が、幸いにもあまり大したことはないように見える。
「チョッパーに見せるか」
「ううん、いい」
俺はいよいよ訝しげにナミを見た。
「どうしたんだよ、一体」
ナミの腕を掴む手の力を緩めると、ナミはすぐに腕を引き抜いた。
「・・・・・・・・・ねぇ」
「あぁ?」
「どうして私達は毎晩お酒を呑むの」
「・・・・・・?」
俺の答えなど最初から期待していなかったように、ナミは続けた。
「どうして私達は毎晩2人で会ってるの。どうして私はあんたを待っていて、どうしてあんたは私を待ってるの」
俺は急に息苦しくなった。
「・・・・・・・・・ただ呑んでるだけじゃねぇか」
「嘘」
「・・・嘘じゃねぇ」
こんなにもしょっちゅう晩酌をする癖がついた理由など、とうの昔に捨ててきた。
ナミは今まで伏し目がちだった目を真っ直ぐに俺へと向けてきた。
「嘘よ」
ナミの瞳は残酷だ。
自分と同じ気持ちをこの薄茶の瞳の中に見ていたことなど、気付いてはいけないはずなのに。
明るいオレンジ色の髪から漂ういつも同じシャンプーの香りに安心を見出していたことや、この女が物欲しげな顔で俺の腕を見つめていたことに、理由をつけてはいけない。
「今の、見たでしょ」
「何を」
「火って簡単に消えるのよ。どんなに燃え盛る炎でも、永遠に消えない火なんてない。人間だって同じよ。ルフィだって、ウソップだって、サンジ君だって、チョッパーだって、ロビンだって、フランキーだって、あんただって私だって。すぐに消えちゃうのよ」
「・・・・・・・・・・・」
「私とあんたは同じ気持ちのはずなのに、ずっと目をそらしてきた。何の為に。この船の均衡を崩さない為にでしょ。私達がその気持ちに気付かないフリをして、お互いを見て見ぬフリをしながら何とか壊さないようにしてきたこの船のバランスが。このランプの火みたいにはかない人間の手で保たれているのなら。私達の努力は何の為。ねぇ何の為」
「ナミ」
ナミの右目から一筋涙が伝った。
真新しいテーブルに涙のしみが一つできた。
俺は観念した。
「何をしてほしい」
ナミの請うような、責めるような視線が痛かった。
「・・・・・・わかってるくせに」
あぁそうだな。ずっとわかていた。
ナミの欲していたもの。
俺の欲していたもの。
俺はナミの頬に手を添え、涙の跡をぬぐってから俺が手に入れたくてたまらなかった唇にそっと口付けた。
ナミが目を閉じたせいで両目からまた一滴ずつ涙が落ちた。
俺はあまりの愛おしさに、ナミの頭を抱え込んでぎゅっと抱きすくめた。
腕に力を込めると、ナミも俺の背中に手を回した。
そのままナミの顔に自分の顔を近づけると、それに応えるようにナミが顔をあげ、さっきより深い口付けを交わした。
この船のバランスなんて、最初からとれていなかったのかもしれない。少なくとも俺とナミが出会った時点でそんなものは消滅していたんだ。それを表面的に取り繕って、つぎはぎだらけのものを均衡がとれているとごまかしてきたのかもしれない。
「消えねぇよ」
俺はナミの閉じている瞼に唇を寄せて、静かに言った。
「俺は、俺達はそんなに簡単に消えねぇよ」
ナミはふっと息を漏らした。
そしてようやく笑顔を見せた。
「私達、難しいこと考えすぎたのね」
ナミはふっきれたような綺麗な顔で、俺の唇を求めた。
FIN
(2007.03.24)Copyright(C)ヒカリ,All rights reserved.
<管理人のつぶやき>
いつにない重い空気をまとって気だるげなナミ。その様子に、ゾロでなくてもどうしたのかと思います。ロビンもウソプーも戻り、新しい船を手に入れて、全て丸く収まったハズなのに。
火を手で消す所作にはドキッとしました。でも、そんな緊張感の中、二人が導き出した答えに安堵いたしました^^。それにしてもなんて艶のあるお話なんでしょう!
ヒカリさんの2作目の投稿作品でした。どうもありがとうございました!