〜Astrantia〜
ペコー 様
私はいつから壊れ始めたのだろう――
私はいつまで壊れたままだろう――
ああ――
確実に言えることは――
あんたには関係ないことだったわ――
天気快晴。風量充分。
嘘つきの長鼻男―ウソップ―の村を出て数日、思わぬ収穫となったゴーイングメリー号は麦わらの海賊旗を掲げながら、海の上を走っていた。
「なぁゾロ」
「んぁ?」
船長であるゴムの男―モンキー.D.ルフィ―は、黒髪を気持ち良さそうに風にそよがせながら、気に入った羊頭の上で惰眠を貪っている。ウソップは傍からはガラクタにしか見えないような諸々を、ああでもないこうでもない、といじりながら、側でトレーニングをしていた強面の男―ロロノア.ゾロ―に声を掛けた。
「ゾロは海に出たとき、一人だったんだろ?」
「ああ」
「・・・恐くなかったのか?」
いじっていたガラクタを足元に置きながら、ウソップはゾロの方を向いた。
遠くで海鳥が鳴いている。
「なんだ、急に」
ゾロはいつもと少し声色が違うウソップをいぶかしみながら、持っていたダンベルを置いて、タオルで汗を拭った。
「おまえは、今恐いのか?」
「恐いって言うか・・・。俺は数日前まで、なんだかんだ言って、結局村でホラを吹きまくって海賊ごっこしてただけのガキに過ぎなかったんだ」
ゾロは黙って予め用意していた酒瓶を煽った。
「それがキッカケはどうあれ、おまえらと海賊をやることになった。素直に言えば、嬉しさと恐怖でいっぱいなんだ」
自分の独白をゾロがどのように思って聞いているのかは、ウソップにはわからなかったが、それでも話してしまいたくなった。
「おまえは腕もたつし、力もある。だから海に出るとき、どんな感じだったのかな、と思ってさ。まぁ俺とは逆の感情だろ?」
「・・・まぁ恐いっつー感覚は無かったが」
瓶を口から離しゾロは口を開いた。
「それでも、震えは、したな」
「震え?」
「ああ。興奮と緊張と、なんだろうな。よく自分自身もよく判らなかったが、おまえが半分抱いてる嬉しさってのと同じだったと思うが、不安ってモンがその震えの中に無かったわけではねぇと思う」
船底に当たる波音が絶え間なく、程よい音量で聴こえ続けている。
「それに」
「え?」
「喜びだけで海に出るやつなんか、そこのやつぐらいじゃねぇか?」
ゾロはそういうと羊頭の上の麦藁帽子を指差した。
ウソップはようやく笑いを漏らした。
「サンキュな、ゾロ」
「何が」
「なんか、ちょっと楽になった気がしないでもない」
「そうか」
「ウソップ〜!」
ちょうどそこへ航海士の女―ナミ―がキッチンの扉をあけてウソップを呼んだ。
「ちょっと直して欲しいところがあるんだけど」
ウソップは手先が器用なため、なにかと修理などを頼まれ、特にナミからの頻度は高い。
「おう。今行く」
先ほどより幾らか表情が明るくなったウソップは諸々をその場に置いたままナミの元へ向かった。
ウソップが階段を上がってくる数秒、ナミは欄干に手を置いたまま、下を見下ろしていた。
そこには酒瓶を煽りはじめたゾロがそのまま立っている。
ナミは何も言わず、ほんの一瞬、気づく者が居なくてもおかしくないほどの瞬間、ゾロに視線を投げた。
それは意識してか、又は無意識か。
そして、何事も無いようにウソップを連れてキッチンへまた入っていった。
「・・・」
ゾロはその視線をナミ本人も気づいていないほど何気なく受けとめていた。
その夜。
当番でウソップが作った夕飯を食べ、蓄えが多くは無い酒を飲み、
軽い宴会のようになって数時間。
すっかり静かになった二人をゾロは男部屋へ運んだ。
「二人は弱いのね〜、お酒」
戻ってきたゾロに声を掛けたナミは、シンクに立って後片付けをしていた。
ザァザァと蛇口から流れる水音がいやに耳につく。
「まぁな。ウソップはそれだけじゃねぇ気もするが」
「なに?どういう意味」
ゾロはまだ飲み足りない様子で、新たな酒を開けて飲み始めた。
「ちょっと〜まだ飲んでんの?あんたも底なしの酒飲みよね。ちょっとは手伝いなさいよ」
「あいつら放り込んできた分の労働賃だ。それに」
小さな窓からわずかな月明かりが差し込んでいる。
何かを惑わしているように。何かを誘っているように。
「おまえだって、飲み足りてねぇんだろ?大飲みのクセに」
「人を誰かさんと同じ酒豪みたいに言わないで欲しいわ。私はか弱い女の子なんだから」
「どこが」
瞬間、ゾロの頭に鍋の蓋が命中した。
「なぁ」
「何よ」
「おまえ、海に出たとき一人だったか?」
急な質問に少しナミは慌てたが、すぐに持ち直した。
それがナミの特技でもあった。
「何急に」
「いや、ウソップがな、昼間聞いてきたんだ。海に出たとき恐かったかって」
「ふ〜ん、それであんたなんて答えたの」
「恐いって感情だったかはわかんないが、喜びだけではなかったっつった」
ナミはたらいの中で踊る皿を見つめた。
「へぇ。あんたでもウッキウキな嬉しさだけじゃなかったんだ。意外」
「おまえは?」
「さぁね。昔の事過ぎて、覚えてないわ」
海に出たとき。
そんなこと、今思い出すべきではない。
そんなこと、今思い出したくも無い。
「なぁ」
「なによ、さっきから」
「おまえ、なんで海に出たんだ?」
ナミの手の中にあったはずの皿は半回転しながら、またたらいの中に落ちた。
小さく水が跳ねる。
「どうして」
「なんとなく」
「そう」
ナミは自分で声が震えていないか、それすら判らないほど戸惑った。
この男はどうして、自分の隠している部分を簡単に見つけ出すのか。
――あの惨劇を目にして、あいつの一味に入って、海賊専門の泥棒になって。
なんの為に海へ出たか、なんて言ってしまえたら。
全部の事情を。全部の気持ちを。
この男に言ってしまえたら。
――なぜそんな事を聞いたのか。
ゾロはただの気まぐれだっただけだと、思い返す。
自分は他人の過去には興味が無い。
そう、只の気まぐれだ。
ゾロは一向に答える様子がないということと、先ほどから手を動かしている様子が無いことに気がつき、ナミのほうを向いた。
ゾロの視線に入ったのは、ほんのわずかに小さくなった、
なにかに耐えているような、背中。
「おい、ナミ」
椅子から立ち上がって側に寄ると、たらいの中に浮かぶ一枚の皿を残して、すべての洗い物は終わっているのに、流し続けている水に晒したまま動かないナミの手があった。
「おい」
そう言ってナミの肩に手を置けば、ナミは肩をビクッと震わせて、振り向いた。
マズイ、という顔をして。
泣きそうな顔をして。
「なんでもない」
アハハ、と軽く笑いながら、ナミは残っていた一枚をさっさと水から上げて、ゾロの横を通り過ぎた。
否、通り過ぎようとした。
ナミの身体は、ゾロの腕によって阻まれた。
蛇口の水はもう止まっていた。
「ちょっと、どいてよ」
「質問に答えてねぇだろ、まだ」
「別に関係ないじゃない、あんたに」
「ああ?」
「言っておくけど、私はあんたらとは手を組んだだけ。その前のことなんて言う必要、ないでしょ」
「・・・まぁそういうことにしておいてやるよ」
「なによ、それ。まぁいいわ、早くどいてよ」
「じゃぁ代わりにもう一個質問に答えていけよ」
「なんなのよ、もう」
「あの視線の意味はなんだ?」
「なんのこと」
「昼間、おまえがウソップを呼びに来た時だよ。俺のこと見てただろ?」
「なにそれ、あんたの勘違いじゃない?」
「んなわけあるか」
ゾロの鋭い眼光に、ナミは立っていられなくなりそうで、軽く身を引いて俯いた。
何も聴こえてこない。
静か過ぎて、この世に誰も居ないのでは、とも思えるほど。
何も無い、そんなあり得もしない世界のような、感覚。
「別に、意味なんて、無いわ」
「意味ねぇ視線なんかに、俺が気づくわけねぇだろ」
「は?」
「俺は今まで殺意とか悪意とかの視線の中で生きてきたんだ。なんとなくでも意味がある視線には気づいちまうようになっちまってんだよ」
「ホント、あんたって獣よね」
「おまえだってそうだろ」
「?」
「あんな誘うような目ぇしやがって。無意識か?」
「あんたって本当、どこまでいっても獣ね。本能の赴くまま」
ナミは目の前に居る男の首に腕を回した。
「おまえに言われたくねぇよ」
ゾロは目の前に居る女の顎に手を掛けた。
二人は同時に口元を歪ませた。
そして。
同時に唇を合わせた。
――ねぇ、あんたっていつも私を見抜くのね
――それが危険だってことも
――逆にどこか快感に感じることも
――わかってたわ、私だって
――それでも
――あんたから逃げなかったのは
――あんたを求めてたのは
――ああ
――やっぱりあんたには
――関係ないことだったわ
FIN
(2008.06.19)