船灯り(ふなともり)
高木樹里 様
「ゾロの泣くとこって、見たことないのよね」
よく晴れた昼下がり、ここはサニー号の甲板で、遠く水平線に見え隠れする海王類に歓喜の声を上げる麦わら帽子と、2人。
ふと気付くと、無意識にそんなことを呟いていた。
特に深い意味は、無い。
「あ?ゾロの泣くとこ?」
初めて見たときから、それなりに使い古した印象を受けた丸い麦わら帽子は、今や更にほつれていて、自分にも前後ろの判別はつく。
と、この男の帽子のことなんて、どうでもよくて。
「おれは、あるぞ」
古帽子のすぐ下から聞こえた言葉に、少なからず驚いた。
「うそ?!いつよ?」
「バラティエにいた頃。お前が、メリー号かっぱらってった後だよ」
何の邪気もなく続く台詞に、居心地の悪い思いがよぎる。
そう言えば、そんなこともした。
「・・・ふーん。で、何で泣いたのよ?」
気にしていない素振りは、どこかぎこちない。
こいつらと逢うまでは、そんなことなかったのに。
真っ直ぐ前を見据えたまま、船長は静かに言葉を紡いだ。
「負けたから」
「“鷹の目”を見つけて、戦って、負けて」
「で、もう二度と負けねぇって、泣いた」
――あの男らしい。
「悔し泣き?」
「さぁな。いつものゾロみてぇじゃなくて、ボロボロ泣いてさ。顔なんて、もう血とか汗とか涙とかでぐちゃぐちゃだった」
そこで、ししっと、どこか楽しそうに笑う。
「でも、声だけはしっかりしてたから。だからおれ、満足したんだ」
満足、ねぇ。
口には出さずに、台詞を噛み締めた。
この船の男達は、どいつもこいつも個性強い連中だけれど、一目見て気付く共通点がある。
それは、心の真っ直ぐさ。
女性に会えば誰彼構わずデレデレになるコックも、恐がりな気質が抜けない船医も、年の割に言動が若い船大工も、己の芯とする志は決して曲がらず、時折眩いばかりの輝きを見せる。
口では嘘八百をとなえる狙撃手とて、彼なりの信念も理想も持っていて、それだけは真理以外の何物でもない。
目の前にいる我らが船長など、素直を通り越して単純の域だ。
そして、今話題にのぼっている彼も然り。
どうしてこうなんだろう、と、時々思わずにはいられない。
自分にだって目的がある。目指すものがある。それは、今も昔も変わらない。
けれど、それに向かう心持ちが、決定的に異なっている気がしてならないのだ。
過去、人を騙し裏切ることで望むものを得ようとしてきた、自分には。
彼らが輝けば輝くだけ、自分の影が濃くなっていく気がする。
この思いは、ただ溜め込むにはあまりに重い。
だが、光源である彼らに向かって吐露する気にはなれず。
いつも、周りが寝静まる頃、女部屋で、同じようにして暗い海を生き抜いてきた年上の考古学者に、ぽつりぽつりと話すだけだ。
同じように、目的に向かって歩みを進めている筈なのに。
どうして、ここまで美醜の差がつくのだろう。
「もしかして、ココヤシ村で治療してた傷って、それ?ドクターにずいぶん怒鳴られてたけど」
バカじゃないの、と小さく呟いた。
生死の境をさ迷うほどの痛手を、自ら飛び込んだ先で得るなんて。
はっ、と鋭くため息をついて、吐き捨てるように言う。
「そんなんじゃ、世界一の大剣豪になる前に、どっかで死んじゃうんじゃないの?自分の身一つ守れないで、何を成し遂げようって言うのよ」
すると、ずっと海の彼方を見つめていた話し相手が、くるりと振り返った。その視線は、先ほどの自分のため息より遥かに鋭い。
「何でそんなこと言うんだよ!!ゾロがなるって言ってんだから、なるに決まってるだろ!!」
有無を言わさぬ強い断定的口調に、言い返す言葉が見つからなかった。
――何でそんな風に、言い切れるのよ。
――世界一、なんて、所詮抽象的なものでしかないでしょう。
――あんただってそうよ、海賊王海賊王って言うけど、はっきりした印も称号もないのに。
――どうしてそう、言い切れるのよ。
非常に主観的な話ではあるが、この船のクルーの中で、自分の夢は一番現実的だと思う。
世界地図の製図という作業は、8つある夢の中で、唯一、継続的なものだからだ。
無論、航海自体が危険極まりないのだから、達成できるとは限らない。
けれど、達成までの道のりも、必要な物も、目に見える形で手元に置ける。
他の船員達の場合はどうだろうか。
船長の『海賊王』――“ひとつなぎの大秘宝”が目安になるのだろうが、抽象的であることには変わりない。
狙撃手の『勇敢なる海の戦士』――はっきりしないことこの上ない。
コックの『オールブルー』――あるかどうかも定かではない。
トナカイ船医の『万能薬になる』――不可能ではないだろうが、あまり現実味は感じない。
考古学者の『真の歴史の本文』――長年情報を捜し求めているのだろうが、厳しいことを言えば、コックに同じ。
船大工の『“夢の船”で海の果てまで航海』――できることはできるだろう、だが、そもそもゴールが見えない。
そして、ゾロの『世界一の大剣豪』。
“鷹の目”という、目下の“世界一”がいる状況ならば、彼を倒すことそれ自体が夢の実現と考えて良いだろう。
だが、同じレベルの剣士が、他にいないという確証がどこにある?
どれも、まったくもって概念的だ。だからこそ、この手で掴み取れると信じて疑わないのだろうが。
不安にならないのだろうか。自分の歩む道が、本当に自分の目指す先に繋がっているのか、立ち止まって考えたことはないのだろうか。
事実、黒髪の彼女は、アラバスタで一度、自身と夢の終わりを感じたと言っていたというのに。
「ったく・・・」
どいつもこいつも、10分先のことは何一つ分からないくせに、遠い未来のことだけはやたらと詳しい。
そういう迷いのなさを、羨ましいと感じている自分がいる。
「何の話してんだ」
突如、3つ目の声を耳にして、驚いて振り向いた。
さっきまで、蜜柑畑のそばで、高いびきをかいていた筈なのに。
「おっ、ゾロ、起きたのか」
「そういつまでも寝てねぇよ」
「どの口が言うのよ、見るといつだって寝てるくせに」
小さく嫌味を言うと、寝起きの不機嫌そうな目で睨まれたので(この男はいつだってこんな目つきだが)ちょろっと舌を出して素知らぬふりをしておいた。
何を思ったのか、船長は、不意に弾かれたように飛び跳ねると、さっきまで話していた自分を置いて、何も言わずにキッチンへ飛び込んでいってしまった。
会話の間に空腹を感じたのだろうか、まだコックが相手してくれるような時間帯ではないだろうに。
残された2人の間に、柔らかな海風が通り過ぎる。
「・・・で?」
「何よ」
「何の話してたんだっつったんだよ」
「別に」
この男に聞かせるような話じゃない。
話す気がないのが伝わったのか、剣士も深く追求してはこなかった。
「・・・なァ」
「ん?」
甲板に広がる芝生と同じ色の髪を、潮っけのある空気になびかせながら。
「『地獄に落ちる』って、何だったんだ」
ゾロは、思い出したように問うた。
「――え?」
いつだったか、彼に向かって吐いた言葉。
ウィスキーピークでした、冗談のような貸し借りだ利子だの話の末に。
どうして今更、そんなものを。
「憶えてたの、そんなこと」
「憶えてる」
「特に意味はな――」
「未だに、罪の意識でもあんのか」
「だから意味はないったら」
「落ちぶれた気にでもなってたか。獲物だって海賊だったんだろ」
「人の話を聞きなさいよ!!」
勝手に決めつけて喋り続けるこの男に、決して長くない堪忍袋がキレた。
こいつは本当に、自己中で嫌だ。
「だったら、何であんな顔してたんだ」
何気なく続いた言葉は、思いがけない威力を持って自分の反論を握り潰した。
――光源に吐露する気にはなれない。
「どうだっていいでしょ。お節介」
捨て台詞を投げつけ、踵を返した。
これ以上会話を続けたら、絶対にボロが出る。
これでは半ば当て付けだと、自覚はしていた。
だが、踏み込まれたくない領域に、踏み込まれたくない人間が堂々と踏み込もうとしているのが我慢できなかった。
太陽の眩しさに、己に影ができるからと言って、誰が太陽を責められる?
自分が今ゾロに対して抱いた感情は、正にそれだ。
「あっ、オイ、キレんな逃げんな!」
「誰がキレさせたと思ってんのよ誰がッ!!」
あっけらかんと咎める剣士に、思わず振り返って怒鳴り声でツッコむ。
「あんたホント、一体何を言いたいのよ!!」
するとゾロは、呑気にがしがしと頭を掻いて、ゆっくりとため息をついた。
「この船の航海士が――おれらの“電源”になってる奴が迷ってんじゃ、おれらは一歩も進めなくなるだろうがよ」
――え?
彼の言わんとする意味を図りきれず、刹那、呆然とする。
「お前が船を進めてんだろ。じゃぁお前は迷いなんか持つな。お前が真っ直ぐ歩けなかったら、おれらだって目指すものに向かって行けねぇ」
「お前が要(かなめ)だろうが」
芝生色の頭の剣士は、それだけ言うと、ゆっくりした動きで蜜柑畑の方へ戻っていった。
足元に置いていかれた言葉が、じんわりと身体に染み込んでいく。
――電源、だって。
――要(かなめ)だって。
――私が・・・。
いつ以来だろう、誰かに貰った言葉が、こんなにきらきらして見えるのは。
その輝きを与えられたのが、あんなにイカツイ万年寝太郎だと言うのが少し気に食わないが。
それでも、今確かに、自分の中で一つの結論が出た。
自分は、この船を進める原動力なのだ。
彼の言う通り、電源そのものなのだ。
電源は光ることはない。
だが、その瞬きを生み出しているのは、紛れもなく自分なのだ。
それでいいんだ、と思った。
数分経過してから、あの男が辿っていった同じ方向に足を向けた。
柑橘系の甘い匂いの手前、午前中と同じ場所で、芝生色がいびきをかいている。
その熟睡している顔をちらりと覗き込んでから、その奥の、自分のテリトリーに入った。
熟成した数々の実はどれもいい色をしていて、まるで太陽だ。
その中でも、一際大きくて色濃いものを選ぶと、一つもぎ取った。
Uターンして、もう一度いびきをかく寝顔を覗く。
何か言おうかと思ったが、何となく必要ない気がして、ただ黙って、熟れた果実を緑色の頭のぽんと乗せた。
鮮やかなオレンジのそれは、若草色の上によく映えた。
FIN
(2008.01.14)Copyright(C)高木樹里,All rights reserved.
<管理人のつぶやき>
ナミと他の仲間達の夢の違いについては、なるほどな〜と思いました。ナミがそれらの夢をうらやむ気持ちも理解できますね。そんなナミに対しての「お前が要(かなめ)だろうが」のゾロのセリフはある意味、殺し文句ですね(笑)。見事にナミの憂愁を払いのけてくれました^^。
高木樹里さんの初投稿作品でした。素晴らしいお話をどうもありがとうございました!!