夢を見た。
故郷の村で、正月を迎えている。
家族に連れられ、初詣に来ていた。
冬晴れの乾燥した冷たい空気を、見知った村人達の白い息が埋め尽くしている。
両親が境内に上がると、おれは例年のように、一人列から外れた。
所詮困ったときの神頼み、都合の良いときだけ神様に願うよりも、おれは自力で自分の目標を果たす。その信念は、頑として変えない。
母が賽銭を差し出すが、受け取らずに背を向けた。母も慣れたもので、すぐにそれを自分の賽銭として箱へと放る。
ぱん、ぱん。二礼二拍一礼。二親分の乾いた掌の音。
参拝し終えると、母は笑って「今年も、あんたの分もお祈りしてきたわよ」と言うのだ。


――『神様、今年こそ、くいなに勝てますように』ってね。







雪をソメル

            

高木樹里 様


「おいマリモ、これナミさんのとこへ運べ」
そう言ってどん、と渡されたのは、水を張った洗面器と、その中央で浮かんでいる白いタオル。


ナミが突如倒れてから、3時間あまりが経過していた。
涼しい夕べが来ても、状況はまったく変わらないどころか、刻一刻と悪くなっていっている気がする。
船全体が、嫌なムードに包まれていた。このまま、何もできずに時間だけが経っていくのではないか、と。
そうしたら、いずれリミットが来る。来てしまう。

打開策が、見つからない。


「額にかける、熱冷ましの換えだ。さっきルフィが洗面器ごと床にぶちまけやがったから」
こちらを振り向きもせずに喋るコックは、さっきから船中の氷という氷をかき集めていた。
と言っても、冷蔵庫の中以外にはほとんどない。仮にあったとしても、この気温だ。溶けて船の床板のシミになっているだろう。
一時は雪の中航路を進んだこともあるらしいが(おれは寝ていたから分からない)生憎、今は、風呂の後で髪を乾かさねば凍りついてしまうような気温ではない。


浅い洗面器の水風呂の中で、沈みかけた雪のように真っ白なタオルを見て。
ナミの額に、それを乗っける。その光景を、思い浮かべた、はずだった。



けれど。

一瞬のうちに、記憶が別の似た映像と入れ替えていた。







     横たわる身体

     顔にかけられた白い布

     色を失くした肌よりも、白く冷たい、薄い布



「おらマリモ!突っ立ってねぇで早く運べよ!!」



     その一枚が全てを物語る

     一つの物語の、あまりにあっけない終末を



「何してんだ!敵襲でもあったか?!」



     幾度呼びかけても、もう決して返事は返ってこない

     昨日まで、いつものように笑って、当たり前のように言葉を交わしていたのに



「オイ!!何ボーッとしてんだ!」



     “当たり前”が指の隙間から零れていく瞬間

     掛け橋が崩れ落ちる瞬間

     もう向こう岸に手は届かない どんなに叫ぼうと もう受け取ってもらうことはできない




「マリモっ!!聞いてんのかオイッ!!」
右肩に圧迫感を感じてグイと引き寄せられ、それと同時におれの意識も現実に引き戻された。
力の方向に振り向くと、至極不機嫌なコックの顔がある。

「ったく、何ボケッとしてやがんだ。これはおれが持って行くぞ、この役立たず」

イライラを声に最大限に反映させながら、金髪は力づくで洗面器を奪い取った。
水風呂の水面が乱暴に波を立て、雫が飛び散る。



――ナミの額に、それを、




ほとんど発作的だった。
おれは何も言わず、だが自分でも信じがたいスピードで、洗面器の中のタオルをつかんで、次の瞬間には海に投げ捨てていた。

「あっ!こら、何しやがる!!」
コックはもう、キレるというより、明らかに様子のおかしいおれに呆れたらしい。
盛大にため息をつくと、「何なんだお前、ほんと」と呟いた。

「――悪ィ。別のモン持ってくるから、洗面器そこ置いといてくれ」
どうにかそれだけ搾り出すと、おれは男部屋へ急ぎ足で戻った。
否、逃げ帰った。






















あの日の記憶は、嫌になるほど鮮明かと思えば、思い出そうとすると妙にぼやけてよく分からなくなる。
順序よく映像が繋がらないのだ。
そう、事の起こりは、いつも通り、道場に朝練しに来たおれのところに、同じ門下生の友達が血相変えて飛び込んできて――


最初に『死んだ』というコトバを耳にしたとき、それは『シンダ』という音として鼓膜には届いたけれど、脳で漢字に変換されなかった。
『シンダ』?『シンダ』?何だ、それは。くいなが、何だって?
何があったんだ。くいなが、どうかしたのか?それは、大変なことなのか?剣に関わることなのか?あいつは今、どこにいるんだ?

それからしばらくして、家の階段で転落死したという内容を頭が要約すると、今度はすぐさま反論の嵐が脳裏を埋めた。

階段で転んだ?まさか。そんなんで死ぬようなタマじゃない。
おれがずっと勝てないでいる奴が、そんな簡単に死んでいいハズがない。何で死んだって決めつける?まだ息があるかもしれないじゃないか。そんなくだらねぇこと言ってるヒマがあったら、とっとと助けろ、まだきっと間に合う――


認めなかった。受け入れられなかった。だから会いにも行かなかった。

翌朝、ようやくくいなと会ったとき、すでにその布は顔を覆っていた。
だからおれは、あの約束を交わした夜以降、彼女の顔を見ていない。
何故だろう、最後にアイツが人に向けた顔は、月の下の、泣いた後の微笑みだった。


動かない、もう刀を握れない、冷たくなった白い手を見つめて、それから顔をすっぽりと覆う布を見て、どちらも雪みたいだと思った。
雪のように、溶けてなくなってしまうんだと思った。
そうしたら、急に恐ろしいほどの勢いで、アイツが永遠に失われたことが実感としてつかめて、喉元を締め上げられたような感覚に陥って、息ができなくなった。
自分はまだ息をしていると確かめたくて、好き勝手に喚き散らした。
喚いていたら勝手に涙が出てきた。


あのときの自分は、今思うとあまりに子供だった。
事実、自分でも“子供”の姿でいようとしたのだ。
勝ち逃げされて悔しがる、それだけの感情で喚く子供でいようとしたのだ。
急速に芽生え成長していく自我が、いつの間にかつかんでいた感情に、気付かないフリをして、蓋をして。
それは、『悔しい』よりもずっと、深くて暗い感情だったから。


だが、悔しい、という気持ちだけでも、おれを当惑させるには事足りていて、
このわだかまりを、やるせなさを、どこかに放出させなければ気が済まなかった。
そしておれは、それを前夜の約束を誓うというカタチでしか成せなかった。
果たせなかった思いを、固めて固めて、ガチガチに潰して。
親子に向かって放った決意の言葉は、最早己の命よりも価値高い、強固なものになっていた。






その夜、誰もいない暗い神社に、一人で入って。
がらんとした薄気味悪い通路を、ずんずんと一直線に進んで。
そのスピードのまま、境内に上って、賽銭箱を力いっぱい蹴り飛ばした。
思いのほかそれは重くてビクともせず、代わりにおれの右足の親指が死ぬほど痛いだけだったが、それもおれは地団駄を踏んで、巨大な棺桶のような箱を睨んだ。


神様なんかいない。

神様なんかいない。

もしもいるなら、そいつは。







誰よりも必死だったくいなを、階段から突き落とした、最低野郎だ。




もう二度と来るもんか、と心中で毒づく。

賽銭だってびた一文くれてやらねぇ。信じてなんかやらねぇ。祈ったりもしねぇ!





















タオルは、洗面用の使っていないのを拝借した。
薄いピンク地のものだった。
何だって良かったのだ。ただ、色さえついていれば。


新しいタオルを洗面器の冷水に浸して、ノックもせずに女部屋に入ると。
中にはナミの他に、二人の若い“長”がいた。
一人は麦わら帽子を被ったこの船と一味の長、もう一人は空色の髪を束ねた一国の王女。


「あ・・・Mr.ブシドー・・・」
「コックからだ。頭冷やしてやれって」

おれの言葉に、ビビは「ありがとう」と小さく言って、浸かっていたタオルを洗面器の上で絞り、ナミの額にそっと乗せた。
淡い桜色の綿布は、湿り気で色を濃くしていたが、それより更に赤みの強いナミの頬を見て。
おれは不謹慎ながら、熱の心配より先に、少しだけ安心してしまった。

白くは、ない、と。



「気温がどんどん落ちてるわ。この調子だと、辿り着くのは冬の島かしら」
安堵した矢先に、ビビの口から不吉な言葉が漏れ出た。
冬。雪。白。正月。初詣。賽銭箱。棺桶。
連想する全てのものが、悪い予兆のように感じる。
ぐるぐると回る言葉の渦巻きの中心に、うっすらと浮かび上がる白い布の向こうの死相。

やめろ、混同するな・・・。




「なんか、ゾロまで顔色悪くねぇ?」

意識しているのかしていないのか、妙に間の伸びた口調で、突然ルフィが口を開いた。
普段人の顔色なんか、目潰しされたって伺わねぇような野郎が、何でこんなときだけ聡くなるんだ。

船長の目を見据えて、白を切った。

「んなわけねーだろ。一度に何人倒れりゃいいんだよ」

そう。辛いのはナミだけだ。
こいつが治りさえすれば、それだけで。


「ならいーけど。じゃ、今度はゾロがナミの傍にいろよ。ビビ、気分転換に行くぞっ」
ルフィはまた、何の脈絡もなくそんなことを言うと、驚きに目を見開くビビの腕を引っ張って、急にバタバタと出て行ってしまった。
一瞬訳が分からなくなったが、大して間を置かずに気付いた。
そう言えばビビはさっきからずっと、この部屋に缶詰だ。
この場はおれに任せて、少し休憩させてやろうと考えたのだろう。

ため息を一つ吐き出して、ベッドに肩を預けるようにして腰を下ろした。


ナミは起きない。
大きな目は閉じたまま、うなされるように眉根を寄せて、浅い呼吸を繰り返す。
火照った肌には、じっとりと汗が浮かんでいる。



桜色の熱冷ましは、もうぬるくなってしまっているだろうか。

淡紅色をしたコットンタオルは、故郷に咲いていた同じ色の花を思い出させた。
その最高の姿は極めて美しく、どこか幻想的で、それ故に狂気的な印象さえ受けた。
それは自分に限ったことではなく、故に小声で囁かれる程度の風説まであって。

その大木の下、根の奥深くには、人の死体が埋まっているのだと。

死体、という、またまた不吉なワードが出てきて、おれはブンと頭を振った。
いい加減にしろ、縁起悪ィ。





息が苦しそうなナミを見て、どうしたら楽にしてやれるだろう、とぼんやり考えたが、所詮自分には無理な話だった。
ただ、風邪一つひいたことがないおれでも、息苦しいときの辛さは、嫌と言うほど分かる。



くいなが死んだと初めて分かったとき、本当に苦しかったんだ。


本当に。本当に。






死んでしまいそうなくらいに。












「ゾロ・・・」

か細い擦れた声に、おれは異常なほど敏感に反応した。
バッと身体ごと振り向き、寝ている顔を覗き込む。
長い睫毛が、僅かに震えていた。

「どうした。気持ち悪いのか?どっか痛むのか?」
「・・・ゾロ、」

自分でも分かるほど切迫しているおれの口調に、必死に答えようとナミが息を吸う。
けれど、言葉一つ喋るのにもしんどそうで、「ゾロ」の「ロ」は空気漏れのような音にしかなっていなかった。

「何か欲しいもんでもあるか」

急かすような言い方に、我ながら腹が立つ。けれど、そっと待っていては、答えなど引き出せないような気がする。

ナミが、5cmほど頭を顎を引いた。うなずく動作だった。














「花が、見たい」








か弱い呼吸の合間の言葉は、やけにはっきりくっきりと聞こえた。



「は?――花って、花か?」
「・・・ウソップ連れてこいって、言ってんじゃないわよ」
「もしそっちだったら、ついに熱で頭がイカれたかと思うところだ――って、」
そうじゃないだろう。論点が違う。

「何でそんなもん・・・何の花だよ」
訳が分からないまま問うと、ナミは「何でもいいの」と呟いた。



「命のあるもの、傍に欲しくて」





その声は、いつものような、魔女然とした人をくったような声音ではなくて。












泣きたくなるほど、切なかった。








悪い、ナミ。

きっとこの船が辿り着くのは、草一つ生えていない極寒の地だ。




「――おれ達がいる」
「うん・・・」
「すぐに島を見つけて医者を連れてくる。今日中が無理でも、明日にはきっと」
「・・・ん」
「――花も、そこで見つけてやる。蜜柑は今、蕾つけてねぇだろう?」
「・・・そうね・・・」


だから、今は我慢してくれ。

きっと明日には、必要なもの何もかも、探せるだろうから。



ナミが初めておれに頼んだ“欲しいもの”を、渡してやることができないのが歯痒い。




布団の中の火照った顔は、小さく微笑むと、「ごめん」だか「いきなりムチャ言ったわね」だか呟いて、また瞼を閉じた。

まったく、アホか。


こんなときくらいだぞ、お前のワガママが無条件で通るのは。









もう一度ベッドの端に座り直し、何度目か分からないため息を吐き出した。
息苦しいってのは、空気が吸えないってことじゃない。吐けないってことなんだ。

真っ赤な顔をしたナミを改めて見下ろす。

と、ここで、今まで気が付かなかったものを見つけた。





どこから入ってきたのだろう。








枕元に――桜の花びら。





それはたった一枚で、咲き誇っていたときの仲間は影も見当たらず、ただそこで佇んでいた。
まるで、ナミと孤独を分け合うかのように。

生命の象徴が欲しいと囁いた彼女の傍に、いつの間にか添えられていた縦長のハート型。
そっと手にとって、ナミの手に握らせた。


死体の血を吸って色づく、などという噂を感じ取れないほど、それは優しい色をしていた。
春の色だった。

春の、いのちの色だった。





一体どこの島の木から舞い降りてきたんだろう。
遠く遠く、風に乗って海を渡ってきたんだろうか。




ならば。








こいつの命も、どうかこの海を渡りきってくれ。










おれは遥か彼方、神ではない何かにひとえに祈りを捧げた。





















その桜が、ナミの命を救う小さな冬島のモノだと知るのは、もっとずっと後になってからだ。




FIN

(2008.02.02)


<投稿者・高木樹里様の後書き兼言い訳>
相変わらず糖度激低ですいません・・・。orz
ナミがケスチアにかかってるシーンを題材にしてみました。
事の発端は、「ゾロってば何でこんな『神には祈らねぇ!』ってしつこいんだろうな〜」とふと思った、そこからでございます。

“雪”“冬”“桜”をキーワードに、命に絡めて書きました。
タイトルは、一番『死』のイメージを持たせた“雪”を、これまた『死』の色として書いた『白』から染める、ということで、ナミの復活を象徴しています。
また、桜のソメイヨシノともかけてみたつもりです。(^^)

ドラム編に続くように頑張りました。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。


Copyright(C)高木樹里,All rights reserved.


<管理人のつぶやき>
くいなの死を目の当たりにしたゾロにとって「白」は死の象徴なんですね。
逆に彩りは生のイメージ。ナミは花から、ゾロは花の持つ色から生のイメージを感じ取る。
一片の桜の花びらによって、ゾロはどれだけ気持ちを救われたことでしょう;;。
そして、今現在とても寒い季節なので(笑)、春を待ち望んでしまう。早く春が来ないかなぁ。

高木樹里さんの2作目の投稿作品でした。素晴らしいお話をどうもありがとうございました!

 

戻る
BBSへ