チーズリゾット            

おはぎ様



 喧嘩の原因は、例によって些細なことだったと思う。
 船上の華二人のために作ったプチフールをつまみ食いしようとした食欲魔人がいたので蹴りつけてやった。蹴られた拍子に手から転がり落ちたプチフールを、珍しく昼寝もせず稽古をしていた脳味噌筋肉男が踏みつけた。多分、それだけのこと。

  ──── かくして、戦闘は始まった。

 「てめえ、なんてことしやがる! せっかく俺がナミさんとビビちゃんのためだけに作ったとっておきのデザートを!!」
 「踏めば壊れるようなもん作るなよ」
 「ほう……、踏んでも壊れないデザート。どういうもんだそりゃ」
 「お、おい。おまえら」
 「てめえの石頭煮てみろよ。すぐ出来るぜ」
 「へえ、てめえに料理を教わるなんざ、思っても見なかったぜ」
 「ついでに作って見せてやろうか」
 「そりゃ面白れえな……!」
 「おーい……」
 刀が鞘走る。踵がなる。
 触れれば発火しそうなオーラの狭間に立ち、怯えながらも仲裁の努力を重ねていた声は結局気づかれぬまま消えた。船首はたちどころに、目に見えぬ炎に包まれる。多少の差し水など無益だ。
 「このクソ剣士、覚悟しやがれ!」
 「そりゃこっちの台詞だ!!」
 元々語彙に乏しい二人組はたちまち意味のない罵声をあげながら戦いの世界へと飛んでいった。
 どれくらい時間が流れたことだろう。
 一つ欠けたプチフールを綺麗に等分して平らげ、紅茶までしっかりお代わりした後、おもむろにナミは立ち上がった。「船を壊さないでくれ!」というウソップの願いがさすがに哀れで……、あるいは、仲間同士で争う姿が見てられなくて……、という訳ではもちろんない。
 「ああもう、鬱陶しい」
 ただ単に、階段の上で平和におやつの時間を堪能していたというのに、場所を追われたカルーが邪魔になって仕方ないからだ。手すり越しに未だ決着が付いていない二人組の姿を認め、おろおろ周囲をうろつく砲撃手に眉をひそめる。
 震えながらしがみついてくるカルーをビビに預けつつ、船長に横目を送った。ちなみに船長はナミの手により、おやつの時間が終わるまで自分の腕で自らを縛り付けられ、床に転がされている。
 「なんだってまた、こんなことになったの?」
 「さあ、知らね」
 手本のように綺麗に放物線を描いて飛ばされていく仲裁者を眺めながら、最後の紅茶を飲み干し、ため息一つ。ずいぶんと派手な音を立てて着地したウソップが、蜜柑の木の間にひっかかりながら呟くのが聞こえた。
 「いや、原因はお前らが一番よく知ってると思うんだが」
 「知らないわ。……ところでウソップ。枝折ったら、2万ベリーよ」
 「なんでだっ!」
 ウソップが文字通り血を吐きつつ突っ込んでくるが、無視してナミは頭を抱え苦悩するポーズを作った。このままで行くと、新しい島の前に新しい修理工を捜さないとならない。しばし考え、すさまじい轟音と共に船があげる悲鳴に眉をひそめる。
 「あのさ、仲良くて結構だけどいい加減にしてくれる? 船に穴空いたら、あんたたち縛り付けて釣り餌にするだけじゃすまないわよ」
 おそらく、船上では一番抑制力のあるであろう声がついに高く響き渡った。その驚異的威力は、今回ももちろん例外でない。
 「判りました!」
 瞬時に戦闘は終了し、サンジはナミがいる方向へ両手を広げて駆け寄ってきた。階段もひとっ飛び、がしっと彼女の手を掴み、その小さな手ごしに彼女の目をじっと見つめる。周囲のあきれた視線も、冷ややかな彼女の様子にも気づいた風はない。
 「ナミさん。君の小さくて可憐な心を痛めさせてしまうなんて、俺はなんて罪深い男なんでしょう!」
 「うん、そう思うわ」
 「いや、その返事自体なんか違うよーな……」
 ようやく木から抜け出た外野のつぶやきは当然無視して、男は芝居がかった仕草で頭を垂れてきつく目を閉じた。感動の余り身をうち振るわせつつ、額に彼女の手を押しつける。
 「それにしても、君はなんて素敵な人なんだ。俺の心配だけでなく、船のことも気に掛けてくれるなんて……!」
 「どっちかっていうと、順番逆なんだけど」
 「ああ……!」
 鼻白んだ視線と冷たい言葉は素通りしたようで、サンジは感動のまま両手を広げる。どこまでも青い空を仰いで嘆息し、そのまま勢いよくナミを抱きしめた。
 「いっそのこと、プチフールの代わりに君を食べてしまいたい!」
 そう宣言したものの ──── 。
 (……ん?)
 目を閉じたまま抱きしめたナミの身体がヤケに柔らかく、羽毛のような手触りで、しかも想像よりずっとふっくらしていたので違和感を覚えた。何度か身体を往復し、手触りを確かめて首を傾げる。
 「……ナミさん、太りました?」
 「クエ?」
 目を開けるよりほんの少しだけ早く。
 「それのどこがわたしなのよ!」
 「カルーまで非常食にするつもりなの!?」
 「しかも、太ったってなに!?」
 「今助けるからね、カルー!!」
 「わたしのどこが太ったっていうのよ!!」
 今までにないほどの衝撃が交互に背中をおそい、サンジは倒れ込んだ。すかさず踏みつけられ、先ほどまでの戦闘とは比べものにならないほどの殺戮音が船上を埋め尽くす。
 蜜柑畑にまっすぐ飛び込んできたカルーを救出し、ウソップは為す術もなく彼と共に震えながら嵐が過ぎ去るのを待っていた。もはや事態は男たちの手に負える訳もない。こんな時出来ることと言えば、ただ空を仰ぎ、あるいは顔を伏せ、死人が出ないことを祈りながら傍観することだけだ。
 やがて、静寂は訪れた。
 恐る恐るウソップは目を開ける。待ち望んでいたそれは予想通り、2種類に分けられて船に訪れていた。すなわち、ぴくりとも動かぬ敗者と、肩で息する勝者たちとに。水を打ったように静まりかえる世界の中、ゾロは後頭部を掻きながら勝者の一人に声をかけた。
 「……ナミ、ひとつ言っていいか?」
 「なによ」
 「医者呼んでやれよ」
 彼が指さす先には美女二人に殴りかかられ、今はナミの足の下で泡を吹いて倒れるコックの姿がある。きっちり目がハートマークを描いているところにプロ意識を感じたが、あえて誰も何も言わない。

 ほどなく、医者は呼ばれた。

 「これは……ひどい。背骨がまた折れかけてる」
 医者の頭上で、現場にいた全員が顔を見合わせる。
 「なんでこんな事になったんだ?」
 「……ちょっと、悪ふざけしてたのよ」
 「悪ふざけで骨が折れるのか!?」
 「まあ、そんなことはともかく」
 何となく触れられたくない過去に話が飛びそうな雰囲気だったのでナミは急いで話を変えた。まだ両手に握りしめていた昆に気づき、さりげなく隠す。
 「どれくらいで治りそう?」
 「普通の人間だと1週間くらいはかかると思うけど、こいつの回復力だったらたぶん一晩寝たら大丈夫だ」
 「一晩?」
 「ただし、今夜は絶対安静だぞ!」
 「一晩って……」
 みんなが顔を合わせたところで、ルフィが決定的な一言を放った。自らの戒めをカルーと共にほどきながら、明るく問いかける。
 「今夜の夕飯はどうするんだ?」
 意図的に触れなかった部分に踏み込んでくる船長に、船員たちはそろってため息をついた。息を吐ききったところで、ナミは一同の目が自分に注がれてるのに気づき、ルフィとゾロを指さす。
 「そもそもの原因はあんたたちでしょ? あんたたちがなんとかしなさいよ」
 「とどめを刺したのはおまえだろ」
 「おれは料理なんてできねえぞ!」
 「だからって……!」
 「……な、ナミさんの手料理……♪」
 嫌な感じの痙攣を繰り返しながら、それでも執念ではい上がろうとするコックをゾロは顎で指さした。
 「ほら。本人もご希望だ」
 「……ビビ?」
 「ごめんなさい。料理なんてしたことないの。わたし材料調達係だったから」
 助けを求めて視線を送ったのにあっさり断られ、力が抜ける。背景に影を背負って落ち込むナミの背中をビビはあわててさすった。
 「だ、だから、材料ならすぐ持ってくるわ。じゃがいもがいい? それともにんじん?」
 「そういや、ナミの手料理って初めてだな」
 すっかり回復したウソップの脳天気な声が、カルーの後ろから聞こえる。追い打ちをかけるのは、元に戻って背伸びしている船長の声だ。
 「ナミー、腹減ったー! 肉ー!!」
 「あんたら、言っとくけど有……!」
 「まさか、自分がしでかしたことで金を取るとかいわねえよな」
 機先を制した剣豪と航海士はしばし見つめ ──── 、もとい火花を散らし合う。カルーとウソップが再び青ざめて逃げ腰になる中、目をそらしたのはナミだった。
 「わかったわよ。今回はわたしが悪かったってことにしといてあげるわ!」
 多少、自責の念はあったのか彼女は珍しく“素直に”あやまる。まだ口の中でなにかぶつぶつ言っているようだったが気にしないことにして、ゾロは横たわったままの男を腕組みして眺めた。いくらなんでもここに置いておくのは邪魔だ。
 「じゃ、話は決まったからこいつを片づけようか」
 「おう、部屋に連れて行くのか?」
 意味もなく指を鳴らしながら近付く男へ、脳天気な補助の申し出がかかる。『野郎に抱きかかえられるなんざ、死んでも嫌だ!』という患者の意向は丁重に無視され、海賊団で一、二を争う怪力たちの手によってサンジは男部屋へと戻された。
 途中、何度か医者の「丁寧に!」という忠告は不可抗力で無視される。断末魔と聞こえなくもない絶叫に背を向け、ウソップは冷や汗を拭った。
 「思うんだが……。あのまま甲板で寝てたほうがよかったんじゃないか?」
 「言われてみれば、そんな気も……」
 船でかなりの上位に位置する常識人同士の常識的な指摘はともかくとして、跳ね上げ扉は閉じられ、甲板には再び静かな時間が流れ始めた。




 *****




  ──── そして夕刻。
 戦場は甲板から台所へと場所を変えていた。

 「もう出来たか? 」
 「ちょっと、ルフィ! 鍋食べないでよ、鍋を!」
 「お、おい、なんかすげー燃えてんぞ、ナミ! 何の実験だ!?」
 「うるさい! 見てないで手伝って!」
 「腹減ったぞ ──── !」
 「ナミさん、材料持って来たわ!」
 「タマネギって言ったのに、どうしてニンジンとかジャガイモまであるの?」
 「ええと、それはその……、サービス……かな?」
 「肉喰いてえ ──── !!」
 「あ、これちょっとみんな古くない? 大丈夫?」
 「腹に入れば一緒だろ」
 「あんたはともかく、わたしとかデリケートなんだからお腹壊したら困るじゃない」
 「けっ、誰のことだか」
 「……何か言った?」
 「肉 ──── !!!」
 「ナミ、何か手伝うことないか?」
 「ありがと、チョッパー。とりあえず、そこの肉警報機を外に出しといて!」
 「わ、わかった」
 「肉 ──── !!!!」

 戦場が再び静寂を取り戻すまでには、かなりの時間を要したという。




 *****




  ──── そして、今。

 口一杯スプーンをくわえ込んだ男は、身内にわき起こった疑問と怒号と絶叫と祈りとが手に手を取り合って踊り狂う足音を聞いていた。それはまるで戦場のように、彼の思考を乱していく。
 目の前には、ナミと彼女が作った料理。逸る心を抑えながら食べ始めた自分自身。揺れているハンモック。それから ──── 。


 (固い)


 すべての波が消え去ったあと、ただ脳裏にはその単語だけが残っていた。
 リゾット、ということだがそれにしてはずいぶんと固い。中に芯が残るというよりも、外がわずかにでんぷん質になっているというだけの代物だ。かみ砕くと口の中でぷちぷち音がして、歯の間に砕ききれない米がへばりつく。
 はっきりいって、料理以前の代物といっても過言ではない。
 一瞬だけ強く目を閉じて、サンジはおもむろに顔を上げた。目の前では、ナミが首を傾げて様子をうかがっている。料理の感想を述べる前に、まず確認しておきたくておそるおそる口を開いた。
 「こ、これはナミさんが作ったんですよね?」
 「当たり前じゃない。チーズリゾットなんてもの、他の連中に作れると思うの?」
 「そうですけど……」
 これがチーズリゾット。
 改めて見たそれは、名前から連想される僅かに黄みがかった白いお粥……ではなく、赤や緑や茶色といった彩りが添えられた華やかなそれだ。普段であるなら、間違ってもそれを“チーズリゾット”などという名前では呼べない。
 しかし、ビビが準備した材料を使ってナミが自分のために作ってくれた料理とくれば、例えどんなモノでもいい。例え、パンの上におにぎりが乗りパスタで和えてあろうとそれは“チーズリゾット”だ。胃袋が破裂してもなお食べられる自信はある。
 そう。ある、はずなのだが……。
 サンジは、口のもう片方に残された“リゾット”を喉の奥に押し込んだ。
 ( ──── 固い)
 せめてあと10分でいい、煮込んでくれていたらもうちょっと何とかなったんだろうが、その10分がない以上、これは料理ではない。単なる、具材の寄せ集めだ。ヘタに見かけが料理っぽく整えられている分だけ質が悪い。
 作った人間がナミでさえなければ、もう一口食べようなんて思わなかったに違いない。これが野郎どもが作った料理なら、怪我をしていようがなんだろうが蹴りつけて、無理矢理本人に食べさせるところだ。サンジの葛藤に気づかず、ナミは腰に手を当てて覗き込む。
 「どう? 料理人に料理を出すのって口うるさそうで嫌なんだけど」
 何も言い出さない内から牽制され、言葉に詰まった。ここまで言われて、誉めなければ男が廃る。少なくとも、全世界の女性に優しく、をモットーにしている自分の名誉に関わる。
 彼はあえてにっこり笑い、呼吸するよりたやすい誉め言葉を持ち出した。
 「とんでもない。ナミさんが作ってくれた料理にけちを付けるようなまねなんてするわけないじゃないですか」
 「……顔が引きつってる」
 「へっ!?」
 さすがに表情に出たかと思って顔を押さえると、ナミはにんまり表情を崩した。
 「冗談。本気にしたの?」
 「や、やだなあ。ナミさん」
 我ながら引きつった笑みと白々しい笑い声が船室にこだまする。この空しい空気に気づいて欲しいとナミを伺うが、彼女は物珍しげに男部屋を眺めているだけだ。
 「ナミさんは……味見とかされたんですか?」
 「一応ね。多めに盛ったつもりだけど足りそう?」
 「は、はい。もちろん。……それで、他の連中のは?」
 「置いてきたから、適当に食べるでしょ」
 ナミらしい論理に思わず頷く。ということは、この皿の上に載ったものはすべて、彼女が「サンジのためだけに」盛りつけて運んできてくれたものだのだ。その名誉と幸福に後押しされ、もう一度、今度は噛まずに飲み込む。
  ──── が。
 桜色の幸福に縁取られた思考は、一飲みで現実に返った。とがった米粒か、はたまたよく分からない何かが舌を突き刺す。やはり、硬い。いま自分が手にしている料理と、奴ら食べているはずの料理。同じ料理のはずだが、果たして食べやすいのはどちらだろう。
 向こうには、意外と器用なウソップや一通りの家事はこなせるチョッパーがいる。ひょっとしてもしかして、自分は貧乏くじを引いたのかも知れない。
 「ちょっと。ひょっとして美味しくないの?」
 さすがに食が進まない彼を訝しんでか、ナミは足音高くハンモックに近付いた。彼があわてて口を開く前に、スプーンを奪い取ってリゾットを食べる。自分が口を付けたにもかかわらずあっさりそんな動作をする彼女に、体温が上がった。舞い上がったといってもいい。
 ナミは硬いリゾットを数回噛んで、ほんの少しだけ眉をひそめた。
 「あ、ごめん。火から下ろすのちょっと早かったかな。リゾットって芯あるし、燃料がもったいないなあとか思っちゃって。ま、食べ終わる頃にはちょうどいい具合に煮えるとおもうから我慢してくれる?」
 「そ、そうですよね」
 冷静な自分がそんなことはないと頭の片隅で必死になって否定しているのを、舞い上がった自分が押しのけて頷く。ナミはにっこり笑った。
 「それに、虫だって生で食べるし。平気、平気」
 「……虫」
 サンジの頭の中を、米櫃にうろつく黒い虫が一気にはい回った。あんなものと一緒にされる自分を思うと、それ以上に真っ暗な気分になる。
 そりゃあ、虫は生を食べるだろう。虫なんだから。だが人間は火が通ったものを食べるから人間なのだ。そして今、半生の野菜を食べている自分はなんなのか。
 痛む腰から中途半端な足が生えてきそうな気がして、サンジは何となく腰をさすった。
 「それよりさ。スープはどう? これ、自信があるのよね」
 「……スープ」
 そう言えば、生煮えに惑わされて味を確認していなかった。せっかくの手料理を一つも誉めずに終わるのはあまりに惜しい。サンジは慎重にスープだけをすくい取って口に含んだ。愕然とする。
 (これは……)
 ブイヨンだ。間違いない。
 各種の野菜の味がいい具合に集まって、おいしいだしを構成している。あと、これに塩こしょうや酒、あとミルクなんかをいれるとかなりいい味になるだろう。仕上げにチーズをふりかければ、立派なチーズリゾットのできあがり。すばらしい。ただし、問題が一つ。

 これはこれで完成品なのだ。

 一瞬つきかけたため息をすんでの所で止める。
 「あの……」
 なんと言えばいいものか。
 「とても……。とても、言葉では表せないほど見事な味なんですけど。それで、あの……。調味料とか食器とか置いてある場所って、わかりにくくなかったですか?」
 「ん、全然? サンジくんって、整理も上手よね。使いやすいキッチンだったわ」
 「 ──── そうですか」
 こういうとき、何が一番まずいかと言えば、ため息をついたり必要以上に長く沈黙したりすることだ。だから、急いで言葉を継ぎ足す。
 「でもほら、塩とかなくなりそうだったし」
 「え、そう? あれだけあったら、3年は持つと思うわ」
 最後に見た塩の瓶を記憶から呼び起こした。確か、瓶の底に少しだけ残っていた気がする。今晩の夕飯を作り終わったあと、詰め替えておこうと思っていたはずだった。あれだけで3年保たせようとするなんて、一体どういう料理を作る気なのか。
 無言の禁を犯しながら考え込むサンジに気づかず、ナミは得意げに腕を広げてみせた。
 「それに塩って、町中じゃ結構高値で取り引きされてるのよ。そんなのあっさり使うのってもったいないと思わない?」
 「そ、そうですね!」
 つられて笑いながら、思考の影で自分が絶叫する。

 ( ──── この大海原。すべてが広大なる塩水です、ナミさん!!)

 どこから何を拾おうと、使いすぎなんて起こらない場所で何をどうケチればいいというのだろう。もはや涙さえ出そうになった世界の中で、サンジはかろうじていうべきこと、言って差し障りのない単語を思いついた。
 「……薄味が好みなんですね。ナミさんは」
 薄味と言うより、それはほとんど無に近いものがあったのだが。
 せめてハムくらい入れてくれれば味が調うだろうに、かき混ぜても肉類は見あたらない。いや、そもそも「チーズリゾット」と名称をつけるなら、チーズらしき影があってもいいはずだ。だがかき混ぜてもかき混ぜても、タイトルにふさわしいものは見あたらない。
 半泣きになりながら深皿をつつくサンジを素通りし、ナミは何もない空間を眺めながら頬に指を当てる。
 「そうね。濃いのはちょっと苦手かな。あ、でも、サンジくんのは美味しいわよ」
 これと比較されても、という言葉は唇を噛んで堪えた。
「ほら、もっと食べてよ。残したりしたらもったいないじゃない」
 「は……はい」
 更にもうひとすくいリゾットを掬いとって、とある重大な事実に気づく。中には、にんじんやジャガイモやタマネギが少ないながらも入っているのが……。
  ──── 入っているのだが。
 やめた方がいいという内部の声を聞きながら、彼はおそるおそるナミを伺った。
 「あの、ナミさん。その……。にんじんの皮はむきましたよね……?」
 「やだ。何当たり前のこと言ってるの?」
 引きつった笑みにあきれながら、ナミは笑顔でサンジの肩を音を立ててたたいた。安堵の余り脱力しかかる彼に、追い打ちのように明るく言い放つ。


 「そんなもったいないことするわけがないじゃない!」


 「……は?」
 今度こそ、サンジの笑みは数秒間固まった。
 どうみても皮がついたままのにんじんや、芯がとれていない緑色のタマネギや、芽が生えたままのジャガイモなどがスプーンから転がり落ちる。視線も合わせて落とせば、その先に色とりどりの華やかなリゾット。
 そう、目を凝らせばすぐに判ったことだ。彼ならば問答無用で残飯行きにするか、こっそり男どもの野菜炒めに混ぜられてしまうかする食材たちはこぞって彼に食べられるのを待っているのだ。
 冷たく光るスプーンが、深皿の中から彼を責めた。食料を大切にしろと責め立てていた。それはあるいは、遠い昔のとある男の影かも知れない。彼の女神はどう思ったのか知らないが、腕を組み怒った口調で幻をはねのける。
 「だいたいね、サンジくん。今まで言わなかったけど、皮だって茎だってちゃんと、食べようと思えば食べられるのにそれを捨てちゃうなんてもったいないわよ」
 「……もったいない」
 「そうよ」
 威嚇するように姿勢を正し、堂々と頷くナミから目をそらして彼は瞑目した。そういえば、自分はこの短い時間の間で何度その単語を聞いたことだろう。きっと片手では足りないほどだ。再び内心の軋み声を無視して確認をとる。
 「ナミさん。……金持ちになる秘訣ってなんでしょうね?」
 彼女はなにをいまさら、といった風に肩をすくめた。
 「使わないことに決まってるでしょ。なによ、いきなり」
 「いえ、ナミさんの口からその言葉を聞きたかったんです」
 無性にため息をつきたい要求についに屈服して、彼は深々とため息をついた。耳に聞こえる自分のため息はひどく切なく、寂しげにひびく。
 8年という長すぎる苦難の年月が彼女にもたらしたのは、雄々しい強さだけではなかった。考えてみればすぐに判ることだ。1億ベリーなんてとんでもない額のお金をためるためには必要以上の節約が必要なのだ。
 その節約精神が、今も彼女の中に脈々と息づいている。なんだか無性に哀しかった。どうして今まで自分たちがナミの手料理を食べることが出来なかったのか、その理由がいま、分かりすぎるほど分かったことも哀しい。
 自分たちは所詮、ナミに養われている身。贅沢など望めるはずはない。節約に重ねるものといえば、節約しかないのだ。金がないと美味いものは食べられない。当然の摂理だ。貧乏は苦しい、つらい。更に言うなら、空腹は耐え難い。
 (いやいや、ここでくじけるんじゃない!)
 果てしなく闇に転がり落ち始めた思考を、彼は頭を振るって払い落とした。持ち前の楽観主義で拳を握りしめる。
 彼女は確かに以前、苦しい生活をしてきたかもしれないが今は違う。自分が側にいるのだ。ひとかけらも苦しい思いをさせるはずがない。低料金で高蛋白。贅を極めた価格破壊の食事。朝昼晩のご飯はもちろん、スポンジケーキにタルト、パイにゼリー、アイス、酒の肴に至るまで、なんだって思いのままだ。苦労させるはずがない。
 (そう、俺が必ず彼女を幸せにしてみせる!)
 その結論は何かが違っているような気はしたのだが、サンジは怒濤の勢いで彼女の手を両手で握りしめた。膝の上で陶器の皿が甲高い不協和音を奏で、リゾットの飛沫が服に散る。そんなもの、あとで洗濯すれば済むことだ。
 「ナミさん……!」
 「な、なによ。泣くほど美味しいの?」
 自然、彼を避けのけぞる身体を引き寄せ強く手を握る。
 「ナミさん、俺は……!」
 「おかわりいるなら、今度は有料で作るわよ?」
 そんなこと聞く必要もないので頭を振って、ナミを見据えた。
 「俺はコックです!」
 「……そうね。で?」
 「だから、あなたを幸せにします!!」
 「はあ?」
 「もう苦しまなくていいんです!!」
 「えーっと……」
 「長い間の苦労がついに実を結ぶ日が来たのです! いえ、あなたが待ち望んでいた水と光が今、あなたの目の前にあるのです! あなたは蕾だ! 花のタネだ! 俺という大地の中で、自由にその美しい花びらをほころばせてください!!」
 最大級の賛辞の前に、ナミは笑みを貼り付けたままなぜか硬直している。額を伝う汗は見なかったことにして、彼は一層声を高めた。
 「いや、もしかしたらあなたは鳥なのかも知れない。殻に閉じこめられたままの鳥だ! 今すぐ、俺の愛であなたを卵から孵し、広い空へ放ってあげます。だからもう、何の心配もしないで。この大海原へ共に旅立ちましょう!」
 「はぁ……」
 どうあっても彼女の手を離そうとしない男に、ナミは首を傾けつつ大人しく話を聞いている。とりあえず静観を決め込むことにしたのかどうなのか。ともかく、これほどの好機はない。
 サンジは華奢な手を自分の胸に押し当て、彼が夢見る豊かな楽園を描写し始めた。
 「そこでは、何もかもが無料で」
 「 ──── 無料?」
 ナミの目がきらりと輝いた。
 「何もかも取り放題」
 「 ──── 取り放題」
 唇がすうっと舌なめずりの形に歪む。
 「その上、使いたい放題」
 「 ──── 使いたい放題!」
 サンジを握る手に突然力がこもる。爪が食い込んでちょっと痛かったが、彼は気にせず同じくらい強く握り返した。
 「そう。お金なんて、貯めたいだけ貯められるんです! そんな世界に俺が案内してあげます! もう、何の苦労もかけません。だから、あなたは何も気にせずそこで遊んでください。俺だけが、あなたをそこへ案内できる!」
 「素敵ね、サンジくん!」
 互いの額がぶつかりそうな位置で、激しく頷き合う。やっと共通の認識を持てた喜びが彼の胸に満ちた。
 それと同時に、今の状況に気づく。
 愛しい人と二人きり。手を取り合い、互いの息がかかるほどに密着し、互いが描く幸福の図に酔いしれている状況。すとんと肩の力が抜け、彼は柔らかく手を握り直した。それに感じたのか、ナミの表情が変わる。
 「そして……」
 畢竟、言葉は小さくなった。口ごもった訳ではない。言葉が行動に追いつかなくなったのだ。代わりに、ナミの琥珀の瞳を覗き込む。彼女の瞳は潤んでいて、今まで見たことのないほどの輝きに縁取られていた。その美しさに、しばし魅入られる。
 「もし、いつか俺のことを思い出してくれたら……」
 「 ──── ええ」
 「俺のとこへ戻ってきてくれるなら……」
 「 ──── ええ」
 言いたかった言葉も言うはずだった言葉もすべて消え失せ、ただ一つの言葉だけが彼の中に渦巻いていた。いつの間にかからからに渇いたのどを潤すため、唾を飲む。
 「その時は……」
 日は射し込まぬはずの室内に、なぜか今は光が満ちていた。彼女から端を発する光は、ほのかな香気と共に彼を静かな世界へと運んでくれる。本当に必要なとき、人は言葉をなくすのだと初めて気づいた。
 「その時は……」
 「その時は?」
 ナミの声がこれほど優しく耳に響いたことなどない。
 奇跡のような一瞬が、飴のように長く甘く引き延ばされるのを感じながらサンジはゆっくりと微笑んだ。




 「……ついでに塩、もってきてもらえます?」




 空だけが昼間の残滓を残す夕暮れ。彼の中であこがれのオールブルーは遠く、チーズリゾットは更に遠かった。





END




 

<管理人のつぶやき>
どうしてサンジは料理を作れなくなったかの経緯が面白い〜!
ゾロがナミと見つめ合う、もとい火花を散らし合うところを当サイトでは薄味ゾロナミと勝手に認定いたしました(←オイ)。
それにしても、サンジくん、もう少し根性出せば、プロポーズもいけたのに・・・。でもそこがサンジくんのサンジくんたる所以なのかな。

海の幸・山の幸』様の新年アンケートに答えましたら、このような素晴らしい作品を頂ける栄誉を賜りました。おはぎさん、ありがとうございました!

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