Destinytaka様
「ねえ、ゾロ。いいでしょ?」
「だから、何度言えばわかるんだよ。いらねえったら、いらねえ」
「だって・・・・」
まったく何度同じ話をすれば気が済むのだろう。
ナミはトレーを抱えたまま俺の前をはなれようとしない。
「ほら、おまえ仕事中なんだろ。クソうるせえ店長が睨んでるぞ」
俺は早いとこ、この話を切り上げたかった。
「誰がクソうるせえって?おまえこそ、うちの大事な看板娘のナミさんにちょっかいだしてんじゃねえよ」
「俺がだしてんじゃねえだろ。もとはといえば、こいつが・・・」
「あー、はいはい。ここまでにしてね。他のお客さんが驚いてるじゃない」
この喫茶店の店長であるサンジと俺の間にナミが割って入った。
サンジはナミの言うことには逆らえないようで、すごすごと引き下がった。
まったく、どっちが店長だかわかりゃしねえ。
「じゃあな、ごっそさん」
俺は硬貨をテーブルに置いて立ち上がった。
「あっ、もう帰っちゃうの?」
「おう、そろそろうるせえ奴らが来る頃だ」
ナミの方はなるべく見ないようにして、さっさと店を出た。
きっと、ふくれっ面をしているに違いない。
ナミがしつこくしてくる話とは、こうだ。
俺はナミが働いてる喫茶店の近所で、小さな動物病院をやっている。
入院施設もないような、本当にちっぽけな病院だ。
なんでだか、そこには子供達がわんさか集まってきていつもごったがえしてる。
診察の順番がわからないなんてことは、しょっちゅうだ。
怪我の治療も、薬を出すのも全部ひとりでやっているのでよけいに時間がかかる。
そこで、ナミが看護婦がわりに働こうと言い出したのだ。
俺とナミは、まあ付き合っているということになるのだろうか。
毎日のように店に通ってるわけだし、休みの日には一緒に出かけたりもする。
もっとも俺の仕事に休みなんてほとんどないのだが。
だからあまり会えない分、病院で働けば一緒にいる時間が増える、というのもナミの言い分だ。
しかし、もともと俺は誰かとずっと一緒にいることが好きではない。
干渉されるのがわずらわしいのだ。
これでも俺たちが付き合っていると言えるのかどうか怪しいものだが、それが正直な気持ちだった。
そろそろ午後の診察が始まるため、俺は足早に病院へ向かった。
どうやら間に合ったようだ。
Tシャツの上に白衣をひっかける。これで、準備完了。
診察を始めたとたん、ぞくぞくと子供達が集まってきた。
ここにいても待合室で騒いでいる声がよく聞こえる。
「おい、聞いたか?ゾロ先生は大学病院を追い出されたんだって」
「大学病院ってなんだよ?」
「・・・でっかい病院のことらしいぞ。母ちゃんが言ってた」
「でっかい動物病院か?」
「ううん、人間のだって」
みんな膝の上に猫だのハムスターだのを抱えているはずだ。
「へー、じゃあ人間の医者を首になったってことだな」
「私が聞いたのは、お家が立派な病院で跡を継ぐのが嫌で飛び出したんだって」
「おれは、サラ金の取立て屋から逃げてるって・・・・・」
「誰が、取立て屋から逃げてるって?」
「だから、先生が・・・・わーーー!」
俺に声をかけられた少年は、慌てて抱いていた子犬を放り出しそうになった。
「ったく、ろくでもねえ噂話ばっかりしやがって」
鋭い眼差しで、子供たちをジロリと睨むと、一瞬のうちに待合室が静まり返る。
「・・・ゾロ先生、ごめんなさい」
さっきの少年が、バツが悪そうな顔をしてあやまった。
「おめえら、本当に俺の過去を知りたいのか?」
「「・・・・けっこうです!!」」
子供達は一斉にすくみあがった。
「さて、次はどいつだ?」
「あっ、おれだ」
「えーーっ、違うわ。わたしよ!」
ちょうど同じ歳くらいの少年と少女が言い合いを始めた。
それを聞いていた俺は、思わず盛大なため息をついてしまった。
「一日に何回、おんなじ事やってやがんだ。面倒くせえから、おまえらで決めろ」
そう言いすてて、診察室に戻った。
「先生のところも、美人の看護婦さんとかやとえばいいんだよな」
「無理無理、こんなところで働くヤツなんかいるわけねえよ」
また始まった子供達の大騒ぎを聞きながら、俺はがっくりと肩を落とした。
ちょっと目を離すとすぐあれだ。
おまえらのせいで看護婦を雇う余裕なんかないってのに気楽なもんだ。
ま、余裕があったところで、ンなもんいたって邪魔くせえだけだが。
俺が診察室に戻った後も、子供たちは話に夢中になっている。
あれだけすごんでみせても、いっこうに患者の数がへらないのはやっぱり診察料のせいだろうか。
動物の治療には保険がきかない分、よそでは目玉がとびでるような金額を請求される。
しかし俺は子供達相手には最低限しか診察料をとっていない。
つまり商売としてはまったく成り立っていないのである。
こうして午後の診察は夕方遅くまで続いた。
最後の患者であるハムスターの背中に薬を塗りながら、心配そうにしている子供に声をかける。
「ハムスターはな、縄張り意識が強いんだ。もうこれくらいになったら別々のゲージに入れてやれ」
「うん、わかった。先生・・・あのお金は」
「おめえの少ない小遣いからもらえっかよ。ちゃんと消毒してやれよ」
「ありがとうっ」
子供は持ってきた小さなカゴにハムスターを入れて大事そうに抱えると、ペコンと頭を下げて帰っていった。
本日の診察は終了。俺は大きく伸びをした。
ナミの仕事は7時までだ。
機嫌をとるみたいで気に入らねえが、晩メシでも一緒に食うか。
そもそもあいつはころころ気分のかわるヤツで、あんなのと一日中一緒にいたらどうにかなっちまうぜ。
ドアを開けて店に入ると、ナミはちょうどサンジと笑いながら話しているところだった。
そして俺の顔を見たとたんに、そっぽを向いた。
そっちがそういうつもりなら、別にかまわない。
俺は回れ右をして店を出て行った。
なんとなくむっとしている自分に気がついて、無性に腹がたつ。
しばらく歩いていると、小さな足音が追いかけてきた。
「ちょっと、ねえ、ゾロ。待ってよ」
俺は聞こえない振りをして、わざと振り向かなかった。
「聞こえてるくせにっ」
そう言って、ナミが俺の背中に体当たりしてきた。
思わずよろけたところに、ナミがしがみついてくる。
「ねえ、もしかして焼きもち?」
「ば、馬鹿やろうっ。んなわけねえだろっ」
「ゾロったら、かわいい」
「そんなこと言ってると、メシに連れてかねえぞ」
「わー、ごめんごめん。今の撤回」
いつもこのパターン。
結局、こいつに振り回されっぱなしなのだ。
俺たちは食事をした後、ぶらぶらとナミの家の側の公園まで歩いてきた。
「ゾロ、しつこく言ってごめんね」
「ああ、・・・まあ、俺も言い方きつかったな。でも、おまえがウチに来るの、やっぱ無理だろ」
「ベルのこと?・・・うーん、私はベル、大好きなんだけどなあ」
ナミは大きくため息をついた。
「あいつ、焼きもちやきだからな」
「犬でも、そういうのあるの?」
「多かれ少なかれあるだろうが、あいつのは特別だ」
ベルというのは、俺が飼っているメスのドーベルマンだ。
こいつがどうもナミと相性が悪いらしくて、ナミは会うたびに盛大に吠えられる。
ふだんはとてもおとなしい犬で、診察中は放し飼いにしているが他の動物ともめることもなく
子供達に多少乱暴に扱われても、どこ吹く風という顔をしている。
「やっぱり、第一印象が悪かったかなあ」
「まあ、自分の家を覗かれたら怒るだろう、普通は」
「うらやましかっただけよ」
ナミは喫茶店へ行く途中、毎朝のように垣根越しに俺の家の庭を覗いていた。
もともと犬好きなのだが、マンション住まいの為、飼うことができない。
それでベルに目をつけたというわけだ。
しかしベルは毎朝毎朝同じ時間に現れる女に、俺との楽しいひと時を邪魔されたと思ったのだろう。
ある朝、俺の制止を振り切って外に飛び出すと、ナミに吠え掛かったのだ。
爪先立ちで庭を見ていたナミは驚いてバランスを崩し、尻餅をついた。
しかしベルは吠えることをやめず、俺が駆けつけた時にはナミは頭を抱えてうずくまっていた。
「ねえ、あの時。ほら、私が初めてベルに吠えられた時にゾロはあの子に何したの?」
「何したって?」
「すぐに吠えるのやめたじゃない。でも別に怒ったんじゃないみたいだったし」
「言ってやったんだ」
「え?」
「ベルの方がかわいいってな。そしたら鳴きやんだ」
「えーー、ベルと話せるの?」
「言わなかったか?」
その後、俺はしばらくナミの質問攻めにあってしまった。
確かに他のヤツよりは、動物の気持ちはよくわかるような気がする。
だから獣医なんてやってるわけだし、ただベルはやはり俺にとって特別な存在なのだ。
あいつは俺が初めてこの手でとりあげた三匹の子犬のうちの一匹だ。
しかし、ほとんど仮死状態で生まれたため、飼い主が連れて帰るのをしぶった。
きっとうまく命をとりとめたところで、なんらかの障害が残るとでも思ったのだろう。
でもベルは生き延びた。
そして俺のパートナーになったのだ。
「もうここで大丈夫。送ってくれてありがと」
「ここでいいのか?」
「平気よ。ちょうどお母さんが帰ってくる時間なの。もし会ったら困るでしょ?」
「べ、別に俺は困らねえけど・・・」
「私が困るの。だって、いずれはきちんと紹介したいし」
「うっ・・・じゃあ、また明日な」
「おやすみっ」
突然ぐいっと腕が引っ張られ、ナミが頬にキスをしてきたので俺は面食らってしまった。
「・・・・・・・」
「付き合ってるんなら、これくらいしてもいいんじゃない?ゾロは奥手すぎなの」
あっけにとられた俺を残して、ナミは手を振りながら走っていった。
俺だって、そろそろと考えていなかったわけではない。
こうなったら明日の夜こそ、と決心をかためてその場をあとにした。
火照った顔に夜の風が気持ちよかった。
暗くて助かったぜ。
家の近くまで来たところで、遠くで救急車のサイレンが聞こえ、それに反応するようにベルが吠え始めた。
やべえ。あいつのメシのこと、すっかり忘れてた。
俺は慌てて、家に駆け込んだのだった。
翌朝、俺は庭でいつものようにベルと一緒に遊んでいた。
面白いことに、最近はベルでさえその時間が近づくとそわそわと垣根の方を気にするようになっている。
来たら来たで、大いに吠え掛かること間違いなしなのだが。
しかし、今日に限っていつもの時間になってもナミはいっこうに現れなかった。
珍しいことだったが、寝坊でもしたのかと思っているうちに午前中の診療時間になってしまった。
なぜだか気になって仕方がなかったので、俺は昼休みになると飛ぶように喫茶店へ向かった。
「あら、ゾロ。いらっしゃい」
そう言って、ナミは迎えてくれるはずだった。
しかし、ドアを開けて飛び込んだ俺の目に入ったのは、物音に気が付いて店の奥から
心配気に視線を投げかけたサンジの姿だった。
「くそっ、おまえかよ」
「おい、ナミはどうした?」
「それを聞きたいのは俺の方だ。おまえ、ナミさんに何かしてねえか?」
「どういうことだよっ」
「・・・ナミさんから連絡がないんだ。今までこんな事はなかったのに」
「家に電話したか?」
「ああ。誰も出ねえ」
ナミに何かあったのだろうか。
それともただの思い過ごしだろうか。
俺はサンジと相談し、とりあえずナミの家に向かうことにした。
心配していた通り、何度チャイムを鳴らしても返事がない。
しびれをきらせて、ドアをたたきナミの名を呼ぶ。
なんでこんなに不安なんだろう。
ただ、店を休みたかったとか、そんなことじゃないのだろうか。
突然、隣の部屋のドアが開き人のよさそうな女性が声をかけてきた。
「あんた、隣の人の知り合い?」
「はいっ。あの、なんかあったんでしょうか?連絡がとれなくて」
「気の毒なことしたねえ・・・」
気の毒?
それはどういう意味だ。
やっぱりナミに何かあったのだろうか。
俺の頭は最悪の事態を想像して、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
「昨日の夜、亡くなったらしいよ。なんでも暴走族のバイクにはねられたって」
「亡くなったって・・・ナミが、ナミが死んだんですかっ?」
「ええ?いや、亡くなったのはお母さんの方だよ。娘さんも怪我したらしいけど命に別状はないそうだ」
「・・怪我・・・・・」
俺はガクガクと膝が震えてくるのを感じた。
「ちょっと、あんた大丈夫かい?真っ青だよ」
「・・・・はい。・・・・あの、病院はどこですか?」
その女性が教えてくれたのは、この辺では一番大きな救急病院だった。
俺は礼を言うのもそこそこに、走り出した。
走りながら俺は思いだしていた。
昨日聞いたあのサイレンは、ナミを乗せた救急車ではなかっただろうか。
俺が、あの時ちゃんと家まで送っていれば・・・
ナミは確か、母親と二人暮しで他に身寄りはないと言っていた。
ならばあいつはひとりぼっちになってしまったのか。
今、たった一人の肉親の死をどんな思いで受け止めているのだろうか。
心臓がヒュウヒュウと音をたてて、今にも焼ききれそうだ。
だが、俺は病院につくまで走る速度を落とさなかった。
看護婦に教えられた病室で、ナミは眠っていた。
頭に包帯が巻かれている。
しかし、規則正しい寝息はナミが生きている証拠だ。
そっとベットの側に寄り、寝顔をのぞきこむと、小さいが顔のあちこちにスリ傷ができているのが痛々しかった。
─こいつの寝顔、見るの初めてだ─
こんな時なのに、俺はなんでこんなことを考えているのだろう。
布団の外に出ている右手に、そっと手を重ねあわせる。
その暖かさに、ほっと安堵のため息をもらした。
この目で見るまで安心できなかったのだ。
「・・・・ナミ・・」
しかし、その呼びかけに答えはない。
小さくノックの音がして、先ほどの看護婦が顔を見せた。
「あの、Dr.くれはがお話があるそうなんですが」
「Dr.くれは?・・・俺にですか?」
「はい。他に身内の方がいらっしゃらないようなので」
「・・・・わかりました」
案内された部屋には、そこらじゅうにうず高く本が積まれていた。
その中から現れたのは、そうとう歳のいった女医だった。
「ああ、来たかい。まあ、ここにお座り」
俺が言われたところに座ると、早速という様子で話し出した。
「あのナミって子は眠っていたかい?」
「ああ」
「あんたは、あの子の恋人なんだろうね」
俺は躊躇せずに、そうだと答えていた。
「いいかい?まず命に別状はない、これだけは断言できる。頭のCTもとったが異常はなかった」
そしてDr.くれはは、ナミの怪我について簡単に説明すると、今度は少し難しい顔をした。
「というわけだから、一週間もすれば退院できるだろう。ただ」
「ただ、何だっていうんだ?」
「まだ原因ははっきりしてないんだが、あの子はどうやら一時的に記憶を失っているようだ」
「・・・それは記憶喪失ってことかっ?でも一時的なものなら、すぐに治るんだろ?」
「それについては何とも言えないねえ」
ナミは病院に運ばれて、しばらくしたら意識を取り戻したようだ。
その頃には全ての検査が終わっていて、怪我は軽傷程度のものばかりだった。
しかし、名前は?と言う看護婦の問いかけに答えられず、その後パニックをおこしたらしい。
自分が誰なのかわからない、そんなことがナミにおこったなんて俺は信じられなかった。
「事故の目撃者の話によれば、あの子が暴走族に囲まれているところに母親が駆けつけてきて
そいつらが、腹いせに母親をバイクで跳ね飛ばしたらしい。犯人はすぐに逮捕されたが
その一部始終を、どうやらあの子は見ていたらしいんだ」
ナミが暴走族にからまれた?
俺と別れた後に・・・・いったいなんでそんなことが。
「たぶん母親の死を目の当たりにしたショックから、逃れようとしたんだろうね」
いつ頃か、そしてどうすれば治るのかははっきりしない、そう話す女医の声を俺は遠くで聞いていた。
ナミが記憶喪失だと?
俺のことも忘れてしまったなんて、そんなことが本当にあるのだろうか。
自分自身の目で見るまではとても信じられそうになかった。
病室の前に立ち、ドアをノックすると懐かしい声がそれに答えた。
「はい。・・・・どうぞ・・」
「ナミっ、目が覚めたのか?」
病室に飛び込んだ俺が見たのは、いぶかしげな眼差しを向けてくるナミだった。
「あの・・・どなた、ですか?」
「・・・ナ、ミ・・・・・」
「あなた、もしかして私を知っているの?私・・・」
やはり、Dr.くれはの言ったことは本当だったのだ。
「・・・ああ、・・・まあ、ちょっとした知り合いだ。おまえの事は医者から話を聞いた」
「そう・・・・」
そう言ったきり、ナミは口をつぐんでしまった。
目の前にいるのは自分を知っているという男、しかし見覚えはない。
そんなヤツと話せという方が無理というものだろう。
「また見舞いに来る。・・・大事にしろよ」
結局、その日は病院は開けずじまいだった。
その足でサンジのところへ行くと、何の連絡も入れずにいたことに思いっきり文句を言われた。
しかし、俺の話を聞くうちにサンジの顔から血の気が引いていった。
「まさか・・・・ウソだろ?」
「こんな時に冗談なんか言ってられっかよ」
「ナミさん、これからどうすんだ」
「とりあえず一週間は入院するみてえだが、退院してからは・・・」
「俺のところに連れて行く!」
「馬鹿やろうっ。おまえのところになんか預けられるか。・・・・俺が面倒をみる」
「そんなこと言ったって、おめえはさんざんナミさんのこと邪険にしてたじゃねえか」
「場合が場合だろ。とにかくナミは俺のとこに連れて行く」
俺にも不安がなかったわけではない。
連れて行くといったところで、一緒に暮らすことをナミが承諾するとも思えない。
なにしろ俺はあいつにとって「知らない人間」なのだから。
そんな俺がナミに何をしてやれるのだろう。
しかし、その答えは一週間後にあっさりと出た。
「あの・・・ゾロ、さん。私をここで働かせてくれない?」
「ここで働きたいって?」
「ええ。・・・・・どうしてもここにいたいの。なぜだかわからないけど・・・そうしたいの」
退院した足で、とりあえずナミをここへ連れてきたのだった。
「わかった。そうしてもらえれば俺もありがたい。それから・・・ゾロ、でいい・・・」
その日からナミは俺の病院で働くことになった。
心配していたベルは、なぜかナミにいっこうに吠える気配もなく俺は取り越し苦労を笑った。
ナミはすぐに病院の仕事になじんだ。
誰も診察の順番でケンカすることもなくなり、薄汚れた診察室や待合室が目に見えてきれいになってきた。
ここにやってくる子供達も動物達も、誰もが一度でもナミに接したらそれだけで元気になるようだった。
あいつの周りにはいつも笑い声が絶えない。
そんな環境の中で、ナミはどんどんと元気をとりもどしていった。
「ねえねえ、お姉ちゃんってゾロ先生の彼女なんでしょ?」
「もう同棲してるんでしょ?」
「ねえ、いつ結婚するの?」
今日も今日とて、あいかわらずの大騒ぎだ。
「誰が誰の彼女だって?」
「「わーーーっ出たーーーーー!!」」
蜘蛛の子を散らすように子供達が逃げていく。
「ったく、あいつらちっとも変わらねえな。おまえもいちいち相手にすんなよ」
急に静かになった待合室で、俺たちはさっきまでの幸福な時間から取り残されたようだった。
「ねえ・・・私はゾロの何だったの?」
「な、何って・・・いや、その・・・」
「ただの知り合いだったら、こんなに親切にはしないでしょ?」
ナミが不安な色の眼差しを投げかけてくる。
退院してから今まで、きちんと話したことはなかったのだ。
俺が当たり障りのない話ばかりをして、逃げていたからだ。
いつのまに現れたのか、ベルがナミの足に鼻先をすりつけてきた。
ナミはベルの首を抱きしめて、聞き取れないくらい小さな声で言った。
「私、怖いの。ゾロが優しいのは私が病気だからでしょう?でも、もしこのままずっと何も思い出せなかったら・・・」
「いつまでだって、いればいいだろ」
ナミはうつむいたまま首を振った。
「そうやって優しくされると、胸が苦しくなってくる。なんで俺のこと忘れたんだって責めないの?
どうしていつも優しい目で私を見てるの?私が悪いのに・・・ゾロのことを忘れてしまったのに」
こらえ切れずに流れ出た涙をベルが何度も舐めとった。
その涙を俺がぬぐってやらなきゃいけないのに、何もできずにそのまま立ち尽くすしかなかった。
ナミに俺のことを思い出して欲しかった。
前と変わらぬ笑顔で俺の名を呼んでほしかった。
でもそれは・・・ナミの記憶が戻るということは、こいつが母親の死を受け止めなきゃならないってことだ。
記憶をなくしてまで忘れたかった悲しい現実に、ナミが嘆き苦しむさまを俺は見たくはない。
それならば、いっそこのままの生活を続ければそれがナミにとって幸せなことなんじゃないか、そう思っていた。
「無理に思い出すことはねえよ。今のままのおまえで充分だ」」
「本当にそれでいいの?ゾロとの事を全部忘れてしまった私を受け入れられるの?」
「全部忘れたわけじゃねえだろ」
「え?」
「おまえはな、前からここで働きたいってずっと言ってたんだぜ。そりゃもう、うるせえくらいにな」
「そうなの?」
「ああ、だから心配すんな。いつか思い出せる。それに俺はおまえがいてくれれば、それでいいんだ」
「・・・それって、もしかして・・・・告白?」
「お、おまえはっ・・・そういうところ、ちっとも変わってねえな」
「ゾロ、ありがとうっ」
そう言って体当たりをするように抱きついてきた。
あの夜のことを思い出して胸がちくりと痛んだが、俺は首をふって忘れることにした。
そうだ、きっとこれでよかったのだと。
ナミが買い物に出て行った昼下がり。
俺は庭で、ベルとたわむれていた。
「なあ、あれでよかったんだよな?おまえがナミに吠えなくなったのはあいつを受け入れたってことだろ?」
ベルは咥えていたボールをはなし、じっと俺をみつめた。
「忘れたままでもいいよな。あいつと俺との思い出なんて、たいしたことなかったし・・・どこに連れて行ってやったわけでもないしよ。
楽しい思い出なんて、これっぽちも・・・・・なかっ・・・た・・」
頬にざらざらしたベルの舌を感じた。
ベルが俺の顔を一生懸命に舐めているのだ。
くすぐったさに「やめろ」と手を伸ばして、初めて自分が涙を流していることに気が付いた。
─俺、なんで泣いてんだ─
しかし、止めようとしてもあとからあとから溢れるように涙が流れ出し、俺は途方にくれてしまった。
自分はこんなにもナミとの思い出を大切にしていたのだということに、今やっと気づいたのだ。
「ゾーロっ」
垣根の上から、ナミが顔を出した。
突然のことだったので、俺はそのままナミの方を向いてしまった。
ナミが俺を見て、顔を固まらせた。
慌てて顔をごしごしとこすったが、間に合わなかったようだ。
すると俺の側に座っていたベルが、すごい勢いで外へ駆け出していった。
続いて聞こえたのは、けたたましい鳴き声。
そして垣根の上から覗いていたナミの頭が見えなくなった。
─あいつ─
急いで外に飛び出すと、ベルに吠え立てられているナミが頭を押さえてうずくまっている。
これは・・・・
俺の姿を見ると、ベルが吠えるのをやめた。
それでも顔をあげないナミに、声をかける。
「悪かったな。大丈夫か?」
恐る恐る顔をあげたナミが俺の伸ばした手につかまろうとした瞬間、その指先がピクっとふるえた。
その直後、ナミの表情がめまぐるしく変わっていくのがわかった。
そしてそのままの姿勢でいたナミの瞳から、大粒の涙が次から次へと溢れ出した。
「ナミっ!」
思い出してしまったのだ。
すべてを。
最愛の母が自分の目の前で、ひき殺されてしまった瞬間を。
次第に大きくなるナミの泣き声に、俺はただ強く抱きしめてやることしかできなかった。
「お母さんは私をかばったの。私のせいなの・・・」
ナミの目は痛々しいほど、真っ赤になっている。
「私も一緒に死ねばよかった。お母さん・・・あんな・・遠くに跳ね飛ばされて・・・」
流れ出てくる涙をもうぬぐおうともしない。
「おふくろさんは、命をはっておまえを守ったんだろ。そんな簡単に死ねばよかったなんて言うな」
「だって・・・」
「第一、おまえが死んだら俺はどうすりゃいんだよ。俺たちはまだ、始まったばかりじゃねえか」
「・・・・ゾロ・・・」
「月並みな言い方だがよ、おまえはおふくろさんの分まで生きて幸せになるんだ。きっとそう願ってたはずだろ」
ナミが母親の死を乗り越えるのには、しばらく時間がかかるだろう。
それでも思い出してしまった以上、乗り越えるしかないのだ。
その夜、庭に出ていた俺の背中にナミがぴったりと身体を寄せてきた。
「なんだよ」
「さっきね、ベルに吠えられてうずくまっていた時、ゾロが手を伸ばしてくれたでしょ?」
「ん?・・・ああ」
「悪かったな、大丈夫かって。あの時、思い出したの。お母さんのこともだけど・・・ゾロとのことも全部ね」
「そうか」
「初めてここでベルに吠えられたときも同じだった。ゾロは同じように手を差し出してくれて・・・・。あの時、私は恋をしたの」
「・・・・・・」
「あの時、私はゾロに恋をしたのよ。お母さんのことは悲しかったけど、思い出してよかった」
「おまえは、記憶をなくしたままの方がよかったと思わないのか?」
「ううん、だってゾロとの大切な思い出、全部なくしちゃうなんていやだもの」
「そうか」
「うん、そう」
そして、俺たちは初めて抱き合った。
月明かりの下で、しばらくそのままお互いの体温の心地よさを確かめ合っていた。
いつの間にやってきたのかベルが俺たちの間に割り込もうとしている。
「おまえは、やっぱり焼きもちやきだな」
「でも、ベルに感謝しなきゃね。全部思い出せたのはベルのおかげだし」
「こいつ、やっぱり俺の言ったことわかってたんだな・・・」
「ベルに何を言ったの?あっ、そういえば、ゾロあの時泣いてたでしょ?」
「馬鹿やろうっ、おまえ、余計なことまで思い出すんじゃねえよ」
振り上げたゲンコツをさらりとかわし、逃げ出すナミ。
その後をベルが追いかける。
大騒ぎしながら庭中を駆け回るあいつらは、どちらもとても幸せそうな顔をしていた。
俺はなんだか胸を熱くしながら、その光景を眺めていた。
ナミがハァハァと息を切らしながら地面に座り込む。
俺もその隣に腰をおろした。
「私ね、ここに来てゾロに優しくしてもらって、そしてゾロのこと好きになったの。おかしいよね、前から好きだったのにもう一度恋したなんて」
「おまえ、よくそういうこと恥ずかし気もなく言えるな」
─聞いてるこっちの方が照れるじゃねえか─
「じゃあ、恥ずかしいついでにもうひとつ」
「今度はなんだよ」
「もし、私がまた全てを忘れてしまったとしても、きっとゾロのことを好きになると思う。私達は結ばれる運命なのよ」
「おまえ・・・つくづく恥ずかしいやつだな」
俺は赤くなった顔をごまかすために、ナミをぐいと引き寄せて唇を合わせた。
キスをしている間中、ベルはキャンキャン吠えながら、俺たちの周りを嬉しそうに走りまわっていた。
END
<管理人のつぶやき>
幸運にも「seafood」さんで3000打を踏み抜いて、書いていただきました。
私のリクエストは「パラレルゾロナミ」。それまでtakaさんはパラレルものを書かれたことがなかったのに、随分と無理なお願いをしてしまいました。けれど、この作品からお分かりのように、とても素晴らしいお話が出来上がりました。リクエストして本当に良かった!!
このお話を書かれる前に質問を受けました。好きな動物は何ですかと。私は犬と答えました。だから、ベルは犬なのよ(ちがう?)私が「さる」と答えていたら、ベルはおさるさんだったのかしら・・・。犬と答えてよかったよ(いやまったく)。
takaさん、素敵なお話をどうもありがとうございました!