夜降る星

滝沢はや 様


 かつん、という靴の踵が甲板とぶつかる硬質な音が、ゾロの転寝を中断させる。
 深い眠りに引きずり込まれる直前のこの上なく心地よい時間を邪魔され、ゾロは思い切り眉を顰めながらうっすらとその重い瞼を持ち上げた。視界に広がるのは夜空の濃紺と、その片隅でひらひらと風に弄ばれる短いスカートの裾。そして、さらりと流れるオレンジ色の髪だ。
「なんか、用かよ?」
 甲板に大の字に寝転んだままのゾロは眠りを中断された不機嫌さを隠しもせず、すぐ傍に立って自分を見下ろしている女に尋ねた。女の呆れ返ったような表情が、少しだけむっとしたように唇を尖らせる。
「何よ、その言い方? 冷えるかと思って毛布持ってきてあげたの!」
 そう言うナミの腕には、しっかりと毛布が抱えられていた。ゾロが普段、男部屋で寝るときに使っているものに比べると、見るからに質の良さそうな生地でできている。おそらく、この女の私物だろう。
「ったく、いつか風邪ひくわよ」
 言って、ナミは毛布をゾロの顔めがけて投げ落とす。素直にそれを顔面で受け止めたゾロは、普通に渡せねェのかと少しむっとしつつもありがたく毛布を受け取ることにした。顔に覆いかぶさるそれを外して体を覆うと、外気と肌が触合っていた部分からからじわじわと体内へ忍び込んで来ていた冷気が遮断され、それと同時にふわっと鼻先を甘い香りが漂う。――これは、あの女がいつも身に纏っている香りだ。
「さすがに今晩は冷えると思ってた。悪ィな」
 柔らかくて心地よい肌触りに礼を言うと、ナミは驚いたように目を真ん丸くして、それからふっとその形のいい唇を綻ばせた。満足そうに笑ってちょこんとゾロの傍らにしゃがみ込む。
「アンタって、時々変に素直よね」
「あァ?」
「そんな不機嫌そうな声出さないでよ。可愛いって言ってんの」
 ナミはそう言って、にいっと嫌がらせのように笑う。ゾロはちっと舌打ちをして吐き捨てた。
「…アホか。気色悪ィ」
 ふふっとナミは穏やかに微笑む。なぜだかひどく上機嫌な様子だ。
 しばらく彼女は黙ったまま夜空を見上げていたが、やがて、何を思ったのか、ゾロの隣にやってくるとひょいと毛布の端を持ち上げてくる。
「なんだ?」
 尋ねるゾロに、
「もうちょっと、そっちつめて。私も寒いから」
 そう返して、ナミは毛布の中へ潜り込んできた。大の字に寝ているゾロの片腕に当然のように自分の小さな頭を預け、もぞもぞと自分の居心地のいい場所を求めて動いている。ゾロは呆れて溜息をついた。
「何がしてェんだ、お前? 寒いなら、部屋に戻りゃいいだろうが」
「んー? 戻れないわよ。だって、今夜の見張り、私の番だもの」
 そう言って、仰向けに寝転んだ視界にある見張り台を指差す。あそこにいたから、アンタが寒そうにしてるのにも気づいたんじゃないの、と言われてしまえば、まぁそうか、と納得する他はなかった。わざわざ、この女がゾロの様子を見に来るような筋合いもない。
「ちょっとだけ、ここで休憩。はぁ、やっぱ人肌って暖かいわよねェ」
 ゾロの顔から僅か数10センチ程しか離れていないところに無邪気に笑うナミがいる。まァ、好きにさせてやるか、と思い直したゾロも、再び静かに目を閉じた。責任感の強いナミのことだ。もう少しすれば、また自分から見張り台へ戻ることだろう。
 静かな夜の潮風が、音も無く甲板の上を通り過ぎていく。もう遅い時刻だ、他のクルーは眠りについていることだろう。繰り返す波の音が心地よい感触で耳を打ち、その優しい響きが、今ここにいる二人を外界から切り離すように包み込んでいると男に錯覚させた。空気に潜む密やかな冷気は、傍らの体温と柔らかな毛布の温もりにけして敵わず、却って心地よさを覚えるほどだ。
「…キレイね」
 不意に、ぽつりと呟く声が、ゾロの耳の中で響く波音を遮った。うっすらとまた目を開け、自分の腕を枕代わりにしている女の横顔をそっと伺う。ナミは、真っ直ぐに空を見上げていた。
「なんか、アンタがいつもここで寝てる気持ち、ちょっとわかる」
「あァ? 別に意味なんかねェぞ。広いから寝易いだけだ」
 事実をそっけなく口にするゾロに、一瞬口を噤んだナミは、小さく溜息をつく。
「せっかくこんな特等席にいるんだから、ちょっとは空でも見上げてみれば?」
「空?」
「そうよ。やっぱり、海の真ん中で見上げる星空って、格別よね」
 満足げで気持ちの篭ったナミの呟きにつられて、ゾロも夜空に目をやった。
 何も視界を妨げるものが無い海の上では、一片も欠けることの無い星空が広がる。つい先日から緩やかに下降を始めた気温のせいか、瞬く星はそのひとつひとつが自己の存在を思う存分主張していた。けして眩しくは無いが、目を閉じるとしっかりとその残像が瞼に残る。この女にこうして改めて言われるまでは、何気なく見上げていたものだが、言われてみれば、なるほど、綺麗、なのかもしれない。
「宝石みたい」
 現実主義の彼女らしくない台詞を微笑ましく思う。だが、それと同時になんとなく照れくさいような居た堪れなさを感じ、ゾロはふっと唇を歪めた。
「あそこまではさすがにルフィでも手、届かねェだろ。まァ、取れたって換金出来ねェだろうけどな」
「…あのねェ! 私だって別に、いつもお金のことばっかり考えてる訳じゃないわ!」
「そうか? なら当然、この毛布の賃料はナシだな」
「う…」
 言葉を失うナミを小さく笑って、ゾロはそっとまた彼女の横顔を伺った。こんな間近で見ているというのに、その視線を感じているのかいないのか、ナミはじっと夜空に見蕩れていた。瞬きの度に揺れる睫の長さに少しだけ驚く。昼間は船長たちに向かってきゃんきゃん騒ぎ立てている女も、夜の闇の中でみるとそれなりにしっとりして見えるから不思議だ。普段、女が化粧をしているかしていないかということを判別できないほどその行為に関心の無いゾロだったが、今はこれほど近くに居るせいなのか、ほんのりと差す頬の赤みの自然さに少しだけ心が動いた。時折遠慮がちに通り過ぎる潮風に弄ばれる彼女の柔らかな髪が、ゾロの腕を擽ると、その度になんだかもどかしいような居た堪れないような気分になる。
 どうすればその気分が解消するか、なんて、分かりきっているのだけれど。
 少しだけ迷って、ナミの頭を預かる片腕はそのままに、半身を軽く起こした。自分を見下ろす男を驚いたように見やって、ナミは眉を顰める。
「どういうつもり?」
「…知るかよ」
 自分の行動を自分でも説明できずに投げやりに答え、ゾロはそっと体を沈めた。鼻先で彼女の柔らかな髪を掻き分けると、その絹糸のような優しい感触にあわせて甘い香りが擽る。なんだか胸が詰まった。
「アンタって、何がきっかけでスイッチ入るのか、未だに分かんないわ…」
 特に動じることもなく、呆れたような呟きが耳を打つ。飽くまで独りごちる、という感じだったので敢えて返事はしなかったが、耳朶のすぐ下に鼻先を埋めた途端、慌てたような声が飛んできた。
「ちょっと待ちなさいよ! 私は見張りなのよ! …それに、星だってまだ見てたいし!」
「ヤってたって、星は見えるだろ」
 今から引き下がることなんて想像も出来ないゾロは、即物的な一言で彼女の言い分を切り捨てた。いつになく切羽詰った男の様子に思うところでもあったのか、ナミは小さく諦めたように溜息をついてから、ふと強張っていた体の力を抜く。昼間より少しだけ穏やかで優しい声が、ゾロの耳に心地よく響いてくる。勿論、それは憎まれ口ではあったけれども。
「見えるけど…。アンタって、ほんっとにムードとか無い男よね」
「うるせェな。んなもん、別に必要ねェだろ」
「普通は要るの! ちょっとはサンジ君を見習いなさい」
 こんな時にあまり聞きたくない男の名前だ。ゾロはむっとして眉を顰めた。そんな心の中を見透かしたようなナミの微笑も癪に障る。ゾロは少し体を浮かせて、上から女を睨みつけた。
「…もういい加減黙れ」
「…黙らせて見れば? 方法ぐらい知ってるでしょ?」
 そう挑発的に問うナミは、先ほどわずかに見せた動揺などとうに消え失せた顔で笑う。その大きな瞳にまっすぐ見上げられると、先ほど感じた衝動が再びじりじりと体の内側を焼き焦がすのをまざまざと実感させられた。
「…だったら、目ェつぶれ」
 こんな関係に勝ち負けがあるとしたら、自分は間違いなく敗者だ。ゾロは苦く心の中で呟きながら言い捨てる。だが、勝者から返るのは余裕を滲ませた笑みだった。
「目、閉じたら、星が見えなくなるわ」
「…口の減らねェ女…」
「不満?」
「いや…悪くねェ」
 本当に、呆れる。この女に、そしてそれ以上に、簡単に篭絡された自分に。
 ナミの頭を支えるのと反対の手で、そっと彼女の瞼を覆った。視界が閉ざされたことに、あ、と不満げな声を漏らしかけたその形のいい唇の上に身を伏せる。そんな自分の静かな動作に気づいて少しだけ驚いた。この女に会うまでは考えもしなかった。自分が、こんなふうに穏やかに女と寝たいと思うようになるなんて。
 身を離すと、じっと自分の顔を見上げる女のけぶるような眼差しとぶつかった。長くしなやかな腕が迷い無く伸ばされて、ゾロの体を捕らえる。首に廻した腕で引き寄せられ、合わさった胸からは低く、確かな鼓動が流れ込む。
「…ゾロ」
 喘ぐように名を呼ばれ、ごくりと喉が鳴った。
「上、見てろ」
 ぶっきらぼうな囁きに、うん、と頷き返す声。
 夜は静かに、彼女の瞼の上に星を降らせる。毛布の内側で溶け合う体温と、それを優しく包み込むような穏やかな波音のクベース。
 願わくば、この夜が僅かたりとも二人を妨げることのないように。




END



<管理人のつぶやき>
読み始めでは、いつもの調子で言い合う二人が微笑ましく描かれていくのかな・・・と思ってたのに、いつの間にかこんな艶っぽい展開になっていくとは誰が想像したでしょう。この見事な展開と、あくまでも自分のスタイルを変えず自分らしさを貫くゾロとナミに、一読した時から惚れてしまいました!!

【そらのうす青】の滝沢はやさんから頂戴したお話です。
はやさんは
かつて「Glacapa.」の管理人様でしたが、2004年末でコンテンツからワンピースを外され、それに伴いワンピの作品を下ろされたのです。私はこの作品をもう二度と見られないのがすごく悲しくて、メールで「ください!」とお願いしたところ、ご快諾をいただけたのでした♪
はやさん、ご無理言いましたが頂けてとても嬉しいです。大切にいたしますね。
本当にどうもありがとうございましたーーー!

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