「ゾ、ゾロのバカやろー!」

うわあぁぁぁあんという鼻水混じりの泣き声が、春遠い空の元をゆくGM号の船上に響いた。
ひときわ甲高いその声は、けっして大きな声ではなかったにもかかわらず、静寂とは無縁の賑わいを繰り返すクルーたちの聴覚を一閃のように刺激した。







Turn your wounds into medicine
            

りうりん 様



今宵の宴を盛大にすべく食事の下ごしらえの合間にも抜かりなくティータイムを彩るお菓子をデコレーションする手が。
相棒とも言うべき超カルガモの羽をすくすんなりとした手が。
これから先に広がる海原を思い浮かべながら海図に線を引くなめらかな白い手が。
使用者の行動パターンを鑑みながら眇める先にある小道具を持ち上げる手が。
そして、見張り台から遥かなたの水上線を見つめる視界にかざす手が。

大声ではないけれど、大声ではないからこそ聞き逃すわけにはいかないその声にその手をピタリと止めると、それぞれの視線が小さな仲間の姿を探した。

医務室から本馴鹿の心情とは真逆の可愛らしい足音をたてながら船医が飛び出してきた。


「チョッパー!どうしたの?」
「ナ゛〜ミ゛〜〜〜〜!」


華奢な肢体にアンバランスなサイズの双丘に逃げ込むように勢いよく飛び込むピンクの帽子をかぶった小さな馴鹿。お気に入りのシャツにエグエグと涙と鼻水を垂れ流されるのを内心「あちゃー」と思ったが、思っただけで口にすることはなく、代わりにのっそりと医務室から出てきた剣士を勢いよく殴りつけた。


「いきなり何すんだよ!」
「あんたこそチョッパーに何したのよ!」


激怒するナミに


「なんもしてねぇっつうの!しかも理由を聞く前に殴るか?ふつう」
「あんたのこと言いながら泣いていたのなら、あんたが原因に決まっているじゃない!」


それが世界の理だときっぱり言い切るナミに


「だからって殴るこたぁねぇだろよ。一方的に俺だけ悪者扱いかよ」
「「「「「満場一致で」」」」」
「くぉら!」


悲しいかな、戦闘時よりもこの麦わら一味は罵詈雑言のすさまじさに加えた誹謗中傷に比例した団結力はルーキーの海賊とは思えないものがあった。それは世界一の剣豪(予定)にも容赦ないものであり、愛すべき船医の一大事とあればなおさらだ。またビジュアル的に均整がとれているとはいえ鍛え抜かれた四肢と上背を持ち、整った顔立ちとはいえ非友好的な表情を崩すことがなく、達人とはいえ物騒なものを3本も持ち歩く人間と、タヌキと間違えられるほど愛らしい容姿と微笑ましい性格の腕ききの船医では、どーーーーーーーーーしても後者に票が集まることは否めない。それが人情と言うものだ。


「弁解があるのなら、今なら麦わらメンバー特別価格の10万ベリー(税込)で聞いてあげてもいいわよ」


残念ながらこの船では申開きもタダではない。このオレンジの魔女とつきあうには国家予算並みの財布が必要なのだ。そんな彼女の性分を熟知しているとはいえ、剣術向上のトレーニングには寸暇を惜しまないゾロだったが、身の潔白を晴らすための労力は面倒らしく


「弁解することなんかねぇよ」


そう言って踵を返した。海賊狩りと二つ名をもつこの男が、この場から逃げ出すわけではない。ただ単に自己弁護することに煩わしさを感じただけだ。決して魔女との対決から逃げ出すわけではない、念のため。だがそんな簡単に解放してくれるほど麦わら一味は優しくない。「まあまあ」とウソップがその上腕二頭筋に手をかけ、「Mr.ブシドー。まずは座ってくださらない?」とビビが座を勧める。


「クソ剣士。おめえにナミさんがご下問なさっているんだ。神妙に白状しやがれ」


半ば押さえつけられるようにその場に押しとどめられたゾロにサンジがふいと煙を吹きかけた。


「白状もクソもねぇだろうが!てめえは引っ込んでいろ!」
「んだと?俺さまは今晩の下ごしらえの最中で、しっちゃっかめっちゃか、ギロギロギッチョンに忙しいんだ。とっとと吐いちまえ!」
「うるせぇっつってんだよ。てめえに指図される筋合いはない!」
「こっちだってお前のクソムカつく顔なんざ見たくねえ!今すぐ消えてほしいくらいだぜ」
「ほう。珍しく意見があったな。上等じゃねぇか」


サンジがタバコの先にたまった灰を軽く落とす。


「やるか?」


手が刀にかかるのがその返事だろう。


「ルフィ。今度のコックはもっと礼儀をわきまえた奴を探せよな」
「はあ?サンジがいるのになんで新しいコックを探さなきゃいけないんだよ。めんどくさいじゃないか」


船長の意見は自動的に無視され、コックと剣士はお互いから視線を外すことなく身構えた。日常茶飯事的に小競り合いはしているが、一味の双璧の二人が本気を出したら、このGM号も無事ではいられないだろう。ウソップはどんぐり眼に涙を浮かべ「おおおおおおおおおおおい、お前ら、いい加減にしろよ!メリーを傷つけたら、俺の8000人の部下たちが黙っていないからなら」とルフィの背後から抗議の声。

盾にされているルフィはウソップを気遣う気配は微塵もなく、鼻に指を突っ込みながら


「ゾロはなんでもないって言っているんだろ?おい、サンジ。遊んでねぇで、なんか食わせてくれよ。腹が減って死にそうだー」


餓死寸前ならともかく、いつだって腹いっぱいに食べているのだ。そんな簡単に死ぬわけがない。「勝手に死んでいろ」とは言わなかったが、船長の要望を無視してソロを鋭く睨みつける。一触即発の空気。いずれ雌雄を別けなければいけなかったのかもしれないが、寄りにもよってこんな日のこんな時にわざわざ別けなければいけないことではない。だがそんな理屈は二人には届くことはないだろう。届くものと言えば


「いーかげんにしなさい!」


ナミの鉄拳がゾロを拳で激しく殴りつけ、そのままサンジの眉間を鋭く肘で打ち込んだ。

グランドラインでは摩訶不思議なことが日常的に起きるが、グランドラインに入る前から尋常ではない戦闘能力を備えた二人が、(たぶん)常人のナミに瞬殺される光景は麦わら一味の七不思議のひとつである。


「サンジくん!こんなバカほっといて、早くキッチンに戻って!」
「ゾロ!あんたも、なんでもないことなら早く言いなさいよ!怒らないから!」


「怒らないから」というセリフを言う時点ですでに怒っているというのは、この世のお約束である。抱えられたチョッパーはすでに涙は乾いているが、いつも以上に鼻が青くさせ、馴鹿ではあるが背を丸めて猫背になっている。


「俺のことはもう診なくていいって言っただけだ」


船べりに長身を凭れさせ、水平線を横目にふて腐れたように言った。


「「「「「・・・・・・・・・・・・・」」」」」


現在の扱いに納得のいかない横顔を見せるこの男。生活パターンとしてはトレーニングと食事(主に飲酒)以外は寝ているため問題行動を起こさない代わりに、基本的に役に立たない。しかし有事の際には切り込み隊長として真っ先に敵陣に飛び出し、切り捨て、殴りつけ、蹴り飛ばして敵を殲滅させる。確認出来る限り今のところ約一名の某剣豪が相手ではない限り無敵ではあるのだが、無傷ではいられない。特に本能をベースにした船長と行動をともにした場合、ほぼ間違いなく巻き込まれ型の傷をこさえることになるのだ。そして、「寝ていれば治る」という動物的治癒方法を選択する彼に「そんなことじゃダメだろ!」とゾロよりも人間らしい船医が甲斐甲斐しくマメマメしい診察と治療を施すのだ。それな
のに「もう診なくていい」だと?

1番世話になっているのに?
1番手間のかかる患者のくせに?
どの口が?
何を言うって?

クルーたちの脳内思考は「はああ?」で埋め尽くされており、首をかしげるウソップの長い鼻先にも?マークが引っかかっていそうだ。

そして、分け隔てなく心優しいチョッパーが一番懐いているのもゾロなのだ。ルフィやウソップは遊び相手には最高だが、嬉しそうにニコニコと愛くるしく強面のゾロの後を付いて回わる姿は日常化している。そんなチョッパーに「もう診なくていい」だと?(2回目)

傷心の船医を足元に下ろすと、カツンとヒールを鳴らしてゾロの前に立った。「ん?」と視線をあげる剣豪に花も恥じらう笑みを浮かべたが、瞬間的に身の危険を感じるよりも早く


「頭冷やしてこい!」


魔女の攻撃を避けようと仰け反ったタイミングが悪く、バランスを崩してそのまま柵の向こうに翡翠の剣士がおかしな悲鳴を上げて姿を消した。



                                                  …ドボン!

「ししし!海にもマリモっているのかな」
「いないと思うけれど、新種かもなー」
「おい!今晩の料理に加えるから、海に還る前になんか取ってきやがれ!」


船上からの冷やかしに何か海面から怒鳴り声が聞こえるが、あいにく潮の音で何を言っているのかさっぱりわからない。面白愉快にはやし立てるクルーたちに「あんまり乗り出すと危ないですよ」とビビが声をかけた。


「チョッパー。元気出して」


小さな船医はますます体を小さくして手元の蹄を眺めている。ゾロがどうしてそんなことを言ったのかわからなかったが、あの男のことだから悪意はないと思うし、そう思いたい。掛け違ってしまったボタンを探さないと、彼ら2人の関係が残念なことになってしまう。どうしたもんだかと思いつつ、ナミはその背を優しくなでた。


***


その日が本当に自分が生まれた日なのかは知らない。だけどヒルルクもドクトリーヌも小さなトナカイのために細やかながらも暖かい夜を用意してくれた。その気持ちがすごく嬉しくてますます鼻を青くしたものだった。

そして、今夜。

初めての「仲間」との「誕生会」。それを知らされた時からチョッパーは指折り数えて待ち望んでいた。誕生日も嬉しいし、仲間とのと言うのも嬉しくてたまらない。嬉しいことが二つも重なるなんて、なんてすごい素敵な日なんだろうと。


「「「「「HappyBirthday!チョッパー!!」」」」」


黄昏を合図に樽瓶が壊れそうなくらい豪快な乾杯。主賓の好みのメニュー満載の料理の数々。思いがけない贈り物や暖かくて優しいハグやキス。仲間と過ごすことが楽しいのか、誕生日が楽しいのか。どちらがどれほど心を弾ませるものなのか。それとも重なることなのか。だけど自分のための夜なのに、心の一部がひんやりと静まり返っていた。メニューには食欲がそそられる海鮮も何品か並んでいる。海に落ちたゾロが不平を並べながらも律儀にサンジの依頼に応えたからだ。

そのゾロは皆から少し離れたところで、乾杯以降は注ぐのも面倒だと瓶をあおっていた。いつだってゾロはそうだ。皆を拒絶するわけではない。拒絶しているなら、あんなに柔らかい空気を出せるわけないじゃないか。見守られているような気持ちになり、おもわず「エッエッエッ」と笑い声が出てしまう。それなのに今夜は。

ルフィに乱暴すぎる勢いで肩を組まれながら、チョッパーはそっとその様子をうかがいながら初めてのGM号での夜を思い出していた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ペットにすんのか?このタヌキ」


乗船歓迎の宴でサンジと賑やかに乾杯したゾロを最初、ネコネコの実の能力者だと思った。変形しているわけではないが、チョッパーの動物としての本能がパトランプを激しく点滅させるくらい危険であることを訴えていた。鉄と血のにおいがする彼のモデルは虎に違いない。ドクトリーヌの本棚にある図鑑でしか見たことがない虎は大様に構えていても剣呑な空気を隠さない獰猛な生き物だった。ちょうど目の前にいる男のように。


「タ、タヌキじゃねえぞ!」


憧れていた「海賊」の「仲間」たちとの歓迎の宴のハイテンションの中、その一瞥に膝が震えるほど恐ろしかったことを覚えている。ドルトンも動物系の能力者だったが、遠くから見ていた限り、普段の彼からはバイソンの気配は微塵も感じられなかった。しかし「ふーん」と興味の薄い返事をするこの男は全身から査閲の気配を噴出させていた。

チョッパーの緊張を余所に動物とも会話が出来る特技をすごいすごいと手を叩くナミとビビに「七段変形面白トナカイだろ」とルフィがいい、「非常食だろ」と同じくサンジ。どっちも違うと抗議していると


「おいナミ。おまえ、病み上がりだよな。まだ、ちっとさみぃから、こいつの毛皮でなんか作ったらどうだ?マフラーくらいならビビと二人分、作れんじゃねぇのか?」


冗談とはとても思えない真顔での提案に新任の船医が激しく後ずさった。


「あはは!そうねえ。冬毛だから暖かそうだけれど、ちょっと毛質がゴワゴワしているかも」
「うわあぁぁぁあん!」
「うそうそ!うそよ、チョッパー!誰もあんたのことをマフラーにも夕食の材料にも非常食にもしないし、漢方薬の材料に売り飛ばすこともないから!」
「おい。使用目的がさり気に増えているぞ」
「あらそう?」


ずれたフォローに呆れた声。制止を無視した「肉肉肉〜♪」という妙なリズムで歌う声に「トナカイ料理のレシピで最高のものを」と思案する声。乗船は間違っていたかもしれない。波間に隠れてしまい、もう見えない故国の方角に思わず視線を向けた。

動物は縄張りというものを持つ。少し意味合いが違うが、人間にもパーソナルスペースと呼ばれるものがある。平均値はあるが、もちろん個人差はある。たぶんルフィに関しては「なんだそれ?」というレベルだろうが、ゾロに初めて会った時のあの緊張感はこの男のパーソナルスペースのどのエリアまで踏み込むことを許可できるかという確認のようなものだったのだろう。言葉数が少ないどころか、全く足りないこの男のパーソナルスペースの特定の域まで踏み込む許可を取り付けることが出来た相手に対して、この男は甘かった。とことん甘かった。人によっては血糖値が危ぶまれるほど甘かった。そしてその甘さには、居心地のよさを伴っていたのだった。

冬島生まれのチョッパーに入浴習慣はない。能力者ということもあり、入浴と言う行為はある意味命がけとなる。そんなことはおかまいなしに、ゾロはトレーニングが終わるとシャワーを浴びる道すがらチョッパーを掴みあげると、そのまま連れて行く。入浴と言う恐怖に暴れるチョッパーに「グルーミングは必要だろう」とニヤリと笑った。悲鳴と怒号と派手な水音が浴室で響いた後、ぐったりとしたチョッパーを抱えたゾロが日当たりのいい甲板で豪快にタオルでわしゃわしゃとすると、体を覆っていた毛皮の感触が変っていることに気が付いた。

その感触に爽快感を実感して以降ゾロとの入浴を楽しみにするようになり、タイミングがずれて一緒に入れなかったときには、あからさまにガッカリするまでになった。天気のいい日のミカン畑の片隅で寝転がるゾロの腹の上で思いっきり洗われてホワホワの毛になったチョッパーと昼寝する姿は、オレンジの魔女も笑みを浮かべる光景だった。たまに涎を垂らしてしまい殴られることもあったが。

仲間になったこの海賊はみんな大好きだった。ケンカをすることもあったけれど、一人ぼっちだった寂しさが夢だったのではないかと思えるほどの毎日だった。


――――― おれゾロに何しちゃったんだろう


小さな頭で一生懸命考えたが、思い当たることが何もない。何もかもがいつもどおりだったハズだ。そういえば一昨日の夜、ゾロのハンモックに潜り込み、寝ぼけて人化してしまい巨大化したチョッパーとゾロの重さにハンモックが耐え切れずに落下してしまい、下段で就寝していたサンジに蹴り殺されそうな目にあった。巻き添えを食った形となったゾロには悪いことをしたが、ちゃんと謝った。苦笑いしていたゾロもチョッパーを撫でながら許してくれたはずである。

夢のような毎日の中で、自分が慢心していなかったとはいいきれない。「もう診なくてもいい」とゾロに言わせてしまうほどの何かを自分がやらかしてしまったのだろう。

誕生日はとても楽しみにしていた。楽しみにしていた分、心の底から楽しむことが出来ず、その原因を作ってしまった自分が悲しかった。また一人ぼっちになってしまうかもしれないと言う恐れもあり、箸を鼻に突っ込んで踊るルフィたちを見てもガラスの向こう側の景色のようにしか思えなかった。仲間といても寂しいと思う気持ちが出てくることもあることをチョッパーは知った。世の中の人すべてに好かれようなんて思っていない。思っていないけれど、好きな人たちに囲まれていても、たった一人の人に拒絶される辛さもあるのだと。孤独は辛いけれど、背を向けられる痛さの方が辛かった。

ジュースが入ったグラスを持ったままハイテンションパフォーマンスをボンヤリ眺めていると、近づく軍靴の音に顔をあげた。踊り狂うルフィたちに視線を送ったまま隣にドッカと座ると


「主役がこんな端っこにいていいのか?」


片手に持った瓶から琥珀色の液体を喉に流し込むと、傍らにゴトリと置いた。昨日までだったらゾロの肩に上り、みんなと騒ぐことが出来たかもしれない。だけど


「うん…いいんだ、おれはここで」


どこか寂しそうな声音に「腹でも痛いのか?」と翡翠色の頭が振り向いた。


「別に痛くないよ」


自嘲するように笑った。痛いのは腹ではなく、心だ。


「この一味は手ェやくからな。あんま無理するんじゃねぇぞ」


揶揄はあるが温もりのある温度を伴ったその言葉に視界がぼやける。


「おれ…」


普通に話そうとしているのに、涙が混ざったような声になってしまう。海賊になったのに、仲間がいるのにメソメソしたらダメだ。憧れていた海賊になったのに。欲しかった仲間が出来たのに…!!

堪えようとしても涙が溢れそうになる。堅く目をつぶると


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この船に乗っていてもいいのかな」


言ってしまってから胸の奥がキュッと痛くなるような刺激が走った。みんなの笑い声がやけに遠くに聞こえる。この距離だ。ゾロに聞こえなかったわけではないだろう。顔をあげることはとてもできなかったが、驚いた気配そのままに自分を見下ろしているのがわかった。ゾロは何も答えない。やはり聞こえなかったのかもと思った時間は、どのくらいだったのだろう。刹那とも永劫とも感じられた後、ボソリと


「おまえを仲間にすると言ったのはルフィだ。納得できる理由がなければ、船長の許可なく降りることなんて出来ねぇぞ」


そこにチョッパーの乗船にルフィ以外の意思がないように聞こえた。ルフィの指先ひとつで自分の運命が決まってしまうような。そんなきっかけだっただろうか。あんなに欲しくてたまらなかったはずの仲間というものは、そんなものだったのだろうか。包丁を振り回して追い立てられ、ロクな別れを言えなかったドクトリーヌにたまらなく会いたかった。俯く床板に灯りが鈍く反射していた。ポツリ、ポツリと落ちる水滴を黙って見つめる。


「ひとつ、頼まれてくれねぇか」


ため息のように大きく息をつくと告白などなかったような声で、よく鍛えられた手が帽子ごとチョッパーの頭をポンポンとリズムよく叩かれた。


「俺は…まだ甘い」


一瞬何を言われたのかとゾロを見上げる。前を見据えたままのゾロの視線はここではない所を見据えるように見つめており


「剣を振り回すことしか出来ねぇ」


噛みしめる言葉は自身に言い聞かせているようだった。

だけどその太刀筋は剣術のことなどわからないチョッパーにも惚れ惚れとする美しさと気持ちのいい緊張感があった。


「まだそこに辿りつけねぇ」


寂寥感も感じるその言葉にゾロはひどく傷ついているようだった。海賊狩りとも、血に飢えた野獣だとも呼ばれ、ルーキーとは思えない賞金がかかっていても、悶えるほどの焦燥感が彼の内側を食い荒らすように蝕んでいた。


「だから、生み出すことが出来るあいつらを、正直すげぇと思っている」


ナミは海図を引き、航路を示す。
ウソップは軽妙な口調と武器への日々研鑽している。
ビビは民を思って国を背負っている。
サンジはそんな彼らの夢を支えるために包丁を握っている。
そして、ルフィ。

皆、叶えたい夢がある。叶えなければいけない夢だ。その時まで倒れてはいけない夢なのだ。

剣の道を選んだことに後悔はない。後悔はないが、刀を振り下ろした先に生はないのだ。新しく何かが生まれることもなく、明るい何かを作り出すものでもない。師匠が言った『何ひとつ斬らない剣』を身につければ違うかもしれないが、未だ豪剣しかないゾロにとってクルーたちとは目指すものの種類が大きく違う。そして、夢と現実の間に横たわるものの前に、届かない一本の太くて深い亀裂が入っていた。


「だからあいつらのことを頼みてぇ」


そう言うこの男は、彼らしからぬ笑みを浮かべていた。こんな笑い方も出来るんだ。こんな笑い方が出来る奴なんだ。


「俺は丈夫なことだけが取り柄だからな。寝れば治る」


だから「俺のことは診なくていい」のか。ようやく得心がいった。あのときとは違う意味の涙が溢れそうになる。真っ黒な目をパチパチさせたらつられて鼻水が出そうになった。


「お゛、お゛れ゛、万能薬になりたいんだ」


涙につかえながら言葉を紡ぐ小さな船医の頭に、鍛えられてもなお暖かい手を置き


「ああ。おまえならなれる。つか、おまえにしかなれねえ」


だからと、ゾロは言う。


「あいつらの夢がかなうよう面倒を見てやってくれよな、ドクター」


じゃあお前は?皆のことを頼むというお前のことは?お前にだって叶えたい夢があるじゃないか。


「俺はちっと斬りすぎているし、これからも斬っていく。後悔とかはねぇけど、たぶんロクな死に方はしねぇ」


それはそれでいいんだと男は言う。その方がいいのだとも。

どうして他人事のように笑うんだよ。
どう言えばいいのだよ。
何て言えばいいんだよ。

たくさん言わなければいけないことがあるのに、どれもあやふやな形にしかなっていなく、どれを差し出してもゾロはきっと受け取らない。万能薬となったチョッパーですら拒否するだろう。そして、こう言うんだ。「あいつらを頼む」って。自分を大事にしない奴は何も守れないとドクトリーヌは言っていた。だけど、ドクトリーヌ。差し出すことしか出来ない人間に何て言えばいいんだよ。たくさんたくさん、いろんなことを教えてももらったはずなのに、おれは肝心な時に大好きな人に何も言ってやれない。


――――― なんとなくわかった。


初めてゾロを見て震えたのは怖かったからじゃない。ゾロだって死にたいわけじゃない。かなえたい夢もある。だけどその夢に寄りそう死というものの影も見つめ続けなければいけないのだ。忘れられたときに人は死ぬのだとドクターは言ったが、それでもいつか必ず訪れるその時を常に見つめ続けるとはどういうことなんだろう。その日まで享楽的に過ごすことなく見つめ続けると言うことは。そんな生き方を選び、そんな生き方しか出来ないゾロが、たまらなくゾロらしくって。たまらなく悲しくって。差し出している手を取ってくれないゾロに、たまらなく寂しかった。

チョッパーと座る反対側に長身を伸ばすと「ほれ」と細身の瓶を小さな蹄の手に持たせた。冬の晴れ間にひと時だけ見せる優しい空のような色の瓶の中に、精霊のようなピンクの影がいくつか踊っている。


「おまえんとこの島の桜も最高にきれいだったけど、そいつも桜だ」


鼻水がつううっと垂れる。

あれは桜ではない。桜じゃないよ、ゾロ。

年中冷たい雪と氷に包まれた彼の国で桜を咲かせることは困難だ。彼の養父が、その命を削った代償ともいえるそれは、桜に似せた別のものだ。だけど、これから先どれほど見事な桜を見ても、チョッパーにとってはあれが桜なのだ。ヒルルクの桜はその後、生国の名前となることをチョッパーはまだ知らない。彼の桜が小さな胸の奥に永遠と言う文字と一緒に刻まれていることを、この男がどこまで知っているのかは知らないが、あの永遠ともいえる光景を血にまみれているというこの剣士も大切に思ってくれている。


「・・・・・・・・・・ありがとう、ゾロ」
「俺たち、海賊なんだからよ。綿あめもいいけど、これくれぇ飲めるようになってもらわんとな」


この男にしては稀有と言ってもいいほどの満面の笑みは、ぼやけてよくわからない。


「ルフィのあんなアホな勧誘にもかかわらず、お前がこの船に乗ってくれてよかったよ」


わからないけれど


「誕生日、おめっとさん。これからも頼むな、ドクター」


おれは、絶対、この夜のことは、忘れない――――−。




=== おわり ===


(2015.01.21)


<管理人のつぶやき>
チョッパーの誕生日に、チョッパーの叫びが響き渡る・・・。一体何事かと思ったら、ゾロは身も蓋もない言葉を告げていた^^;。なんだかんだとチョッパーに味方してくれる仲間たちの存在が嬉しい。後に、ちゃんとゾロはフォローを入れてくれて、チョッパーも納得。それにしても、チョッパーのゾロへの懐きっぷりが実に微笑ましかったです^^。

最近、ワンピースにハマられたりうりんさんが、昨年のクリスマスイブにこの作品を贈ってくださいました。まさしく、すごいクリスマスプレゼントがキターーーー!ってカンジでした(笑)。
りうりんさん、素晴らしいお話をどうもありがとうございました!!!