晩鐘



            

みつる 様


 武芸の盛んな町だ。
 流れの揺るやかな河が大きく蛇行する内側に開けた土地は水利に良く、また背を守る山々を越える街道の終着もしくは始発点になっており、商家が軒を列ねる街道沿いを離れると、豊かな地味を存分に活かした田畑がどこまでも続いている。
 水路と陸路の交差点であり、人も物資も盛んに行き交う。
 行商人たちが定住したのが町の起こりとなっており、独立独歩の気風と、異文化を受け入れる柔軟さが住人たちの特徴でもある。
 財を狙う賊にとっても狙い甲斐のある場所なのだろう、山賊海賊の襲撃は暇がなく、町は自警団を組織して対処してきたが、己の持ち物は己で守るという気概に溢れた住人たちは、自警団のことは「それはそれとして」一人一芸とばかりに、なんらかの自衛(あるいは攻撃)手段を修得するのが当たり前になっていた。
 流れの剣士が、乞われて剣術道場を構えたのは、もう20年も昔のこと。


 人気のなくなった道場に差し込む夕陽が、年月のうちにあめ色になった板床を横切っている。
 午前は隠居した老人が、午後は学校帰りの子供達が鍛練し、大人たちは夕餉を済ませた夜間に通ってくる。
 稽古にも使えるように広くとってある前庭を、赤から黄色まで色付いた桜の葉が、きりもなくひらりひらりと落ちて彩っていた。
 何事かあれば戦場にもなるだろう。各種道場や学校には、周辺地域の住民がしばらく立て籠られるように備えがされてある。
 竹帚を手に、少し空を見上げて、重くはない息を吐き出した。
 そろそろ冬支度をしなければ。男の一人所帯とは言え、毎度近所の奥さん方の手を煩わせてもいられない。
 
「先生、柿食わねェ?」

 道場と母屋の間から、最近声変わりを経てぐんと背の伸びた少年が顔を出した。
「やあゾロ、また裏の塀を越えてきたね?」
「近いんだよ」
 屈託のない笑みは、小さな子供の頃から変わらない。
 肩に担いだ刀の鞘の先に、手拭いで包んだ荷物がぶら下がっていた。
「柿もそろそろ終わりだね、頂こうか」
 陽が当たって温まった濡れ縁で、骨っぽくなってきた手が包みを解いた。
 小振りの柿がころころと転がり出て、黒い斑の散った橙色が、尖った先端を中心にヘタで円を描いて止まる。
「これはまた、随分可愛らしい柿だね」
「初生りだし、何も世話してたわけじゃねェから…実がついただけで驚きだ」
 片手で軽く握れば収まってしまうほどの大きさについ笑ってしまうと、大真面目な顔で柿を弁護する。
「きみが植えたのかい?」
 手の中で転がしながら問うと、少し戸惑ったような顔をした。
「ああ…俺と、くいなと、皆で。うんとガキの頃に」
「そういえば、頂き物の柿がひと箱全部なくなったことがあったなぁ」
 この子が当道場に入門した頃の事だ。
「あれは確か、息子がお世話になりますと言って、ロロノアさんの奥さんが持って来て下さった」
「‥‥‥そうだったかな」
「そうだよ。きかん気な子なのでお騒がせすると思います、とね」
「覚えてねェな…」
 露骨にしまったという顔をした後で、目がうろうろと宙を泳ぐ。
 腹芸までは当道場では指導しないので、己で身につけてもらうしかない。
「まあ、いいじゃねェか先生。昔のことだろ」
「そうだね。こうしてようやく私の口にも入る事だし」
 下を向いて頭を掻く様が弱り切っているので、声を立てて笑った。

「しかし、種をそのまま地面に植えたのかい」
「ああ、穴掘って。実がついてるのを見るまで忘れてた」
 彼らしい。服で実を拭いて口へ運ぶので、慌てて止めた。
「待ちなさい、渋いはずだよ」
「へ?」
「柿は、種植えからは渋柿しか実らないんだ。甘い柿は挿し木で増やすんだよ」
 干し柿に作れば、梅干しほどの大きさになってしまいそうな小さな柿だ。
「焼酎で渋抜きをしてからにしよう。今すぐは食べられないね」
「でもこれ、甘いぜ。俺もう食ってきたし。皮は固いけどな」
「本当かい?」
「ホントだって」
 締まった固い実にかぶりつき、咀嚼するのを見てから口に運んだ。
 なるほど、渋みは感じない。格別甘い事もないが、かりかりと噛み砕いていると素朴な甘さが舌の上を転がっていく。
「甘いだろ?」
「そうだね。渋いと決めつけてしまったのは良くなかったな」
 得意そうに笑う顔はまだ少年のままだ。
「それでさ先生。俺、明日行く事にした」
「ほう。急な話だね」
 とは言ったものの、突然のことというわけではない。
 彼が世界一の剣士を目指して修行を積んでいることは、町の者ならば誰でも知っている。
 子供のたわごとだった目標が、それなりに周囲に認められるようになったのは、ここ1年のことだ。
 その頃からずっと、いつ飛び立とうかと機会を伺っていたのを知っている。
 繰り返される当り前の日常が、彼に決断を許さなかったのだ。彼がいなくなる事で変わるものが、確かにある。


「春まで待ちなさい」
「なんでだよ」
「あなた、お金がないでしょう」
「‥‥‥‥」
「父さんは出すつもりはないわよ」
「わかってる」
「冬の間はお店の手伝いをなさい。働き分のアルバイト代は出します」
「‥‥‥‥」
「生きてるのか死んでるのかも分からなくなる前に、少しくらいの親孝行があってもいいと思うのよ」
「面倒臭ェ…」
「働いてお金を溜めて、しばらくはごはんの心配をしなくてもいい状態で出かけた方がいいでしょう」
「うー‥‥‥」
「明日から倉庫に入ること。いいわねゾロ」


 有無を言わさぬ優しい口調で弟を諭していた美しい座り姿勢が、この濡れ縁にあったのはつい先週のこと。
「お姉さんとの約束はどうする?」
「約束なんかしてねぇ。とりあえず言う事聞いてただけだ」
「それで通じる相手かどうか、君の方が良く知ってるだろうに…」
「はは、女が男より弱ェって、絶対に嘘だよな!!……まぁ、いくらなんでも追いかけては来ねぇだろ‥‥多分‥‥‥」
「そうだといいけどねぇ」
 溜息と苦笑の裏に漂う薄ら寒さを振り捨てるように、彼は立ち上がり大きく伸びをした。
「何をぐずぐずしてるんだって、どやされたような気がしたんだ。柿だって実をつけるのに何やってるんだってな」
「…そうかい」
「その種を植えた日に、初負けしたんだよな」
 沈むばかりの残照を受ける身体は、一つの完成型でありながら更に伸びる可能性を秘めた、美しいものだ。
 伸び盛りのこの時期に一人の生活を始めるのは、自己管理が甘くなりがちで勿体無いという気もしたが。
「怠らず修練を積みなさい、ゾロ。思い上がらず、畏縮せずに」
「はい、先生」
 素直な返事を返して照れたように頭を掻くと、じゃあ、と背を向ける。
「河口の港についたら、虎の看板のついた酒場を訪ねるといい。その刀を見せてコウシロウの紹介だと言えば、何か仕事にありつけると思うよ」
 振り向かず、私から娘へ、娘から彼へ渡った白鞘の刀を軽く振って応えた。
 若い時分に手に入れた、稀代の名刀。幾多の血を吸ったそれを娘に渡す時には逡巡があったが、こうして彼の手にあるのを見ると、そういう運びだったのだろうと思えてくる。
 天国まで名を轟かせると誓った幼い彼の姿が、小さくなる後ろ姿にかぶった。
 事故の夜、涙を拭ったのだと明らかに分かる埃の筋を頬につけて帰ってきた娘は、ゾロに負けないように頑張るのだと笑った。そうすれば自分もゾロも、どんどん強くなるだろう、と。
 子供の約束の持つ、強い拘束力。
 頑固だがしなやかな精神は、分別と共に重くなるはずの誓いを踏み台にして、より大きなものを手に入れるだろう。何ものにも変えられない大切なものを得て、そうして育っていくのだろう。

 小さな柿の実を娘の陰膳に供え、齧った実の中から出てきた種を、庭の日当たりの良い場所に埋めた。
 八年後には甘い実がつくといい。待つ楽しみもまた良しとしよう。
「どちらが先かな?」
 呟くと、傍らで娘が笑ったような気がした。





END



 

<管理人のつぶやき>
ゾロの旅立ちの日の情景。たんたんと描かれながらも、とても印象深い。柿をめぐっての師匠とゾロのやりとりが微笑ましいですね。それでいて、二人の間に流れた歴史を感じます。また、今は亡きくいなの姿が垣間見えるのが少し切ないです(;_;)。

ぜんまい稼動様で出されましたゾロ誕DLフリー作品です!
みつるさん、すばらしい作品をどうもありがとうございました!

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