彼女にとっての長い一日

            

おはぎ 様






 夜も更けて、そろそろ日にちが変わる頃。
 「ナミ! ナミ!」
 引き上げ扉を叩く音にナミは頭を上げた。
 もう寝ようと思っていたところだったので、室内は既に限界まで明かりを落としてある。こんな時間に来客がある事自体、珍しいことだ。唯一付けてあった卓上ランプを頼りに、彼女は適当に上着を羽織った。気候か何かに変化でもあったのだろうか。
 扉を叩く、唐突で乱暴な音に犯人を想像しながら、扉を開ける。案の定、そこには船長がしゃがみ込んでいた。にこにこ笑っているところを見ると、事件ではないらしい。夜中の訪問など心臓に悪いだけだなのだが、その笑みを見ていると怒る気もなくなり、息をつく。
 「ルフィ、何か用?」
 「今な、12時過ぎたぞ」
 「……それで?」
 ただでさえご機嫌な少年は、ますます陽気に両手を高々と掲げた。
 「誕生日だ! おめでとう、ナミ!」
 思わず手元を見たが、時計は持っていなかった。机に置きっぱなしにしてあるのだが、わざわざ確認しに戻るのも妙な話だ。まあ、彼がそう言うのだからそうなのだろう。片手を振って、軽く受け流す。
 「はいはい。ありがとね、ルフィ」
 「おう。明日、じゃねえ、今日はびっくりするようなことが起こるからな。待ってろよ」
 「びっくり?」
 「ナミにはまだ秘密だから言うなってさ!」
 ナミは人差し指でこめかみを押さえ、短く瞑目した。
 ということはつまり、誕生パーティのことだろう。予想済みのことなのだが、ここでばらしてどうする、と思わず心で突っ込みを入れた。第一、この少年に隠し事をしろということが間違っている。まあ、驚くフリくらいはいくらでも出来るのだが。
 「判ったわよ。じゃ、お休み」
 「ああ、またな!」
 ぱたん、と扉を閉め、鍵を掛け、ナミはふと両手を目の前に広げた。薄暗い部屋の中で矯めつ眇めつする。
 さっきまでの自分と今の自分はどこがどう変わったかは判らない。が、ルフィが言うとおり、さっきまでの自分と今の自分には明らかな差が生まれた。つまり、ひとつ歳を取ったのだ。
 (ふうん)
 結局、何を考えればいいか判らないまま電気を消し、ハンモックに登りつく。と、それがきっかけになったのか、ビビが身じろぎした。起こしてしまったのかと注視するが、寝返りを打っただけらしい。安心する。
 王女の寝付きは信じられないほど良い。しかも、一度寝てしまったら少々のことでは起きない。まあ、時たま「少々」の度を越し、起こしてしまうこともあったがそれはそれとして、ナミが掛け布団の位置を調節する頃、隣は再び寝息を立てていた。
 さて、と目を閉じ、力を抜く。
 誕生日、ということもあってか、ナミの思考は自然、遠い昔の誕生日に戻っていく。まだ母が健在だった頃の、にぎやかで騒々しく、怒られることの方が多かった特別な日の特別なパーティの記憶。
 寝ようと思っているはずなのに、自然、笑みがこぼれた。昔を思い出すことは、宝石箱から好きだった宝石を取り出す心地に似ている。わくわくして懐かしく、それらに触れれば鮮やかに時は過去に戻り、声も匂いも暖かささえ瞬時に手の内に蘇る。そんな幸福。
 ふと、眠りに落ちかけたナミの鼓膜に異音が伝わった。目を閉じたまま、そちらに意識を集中させると、定期的に響く音は足音に変わる。重い足音だ。近づいてくる。他でもない、この扉の上に。
 素早く目を開け、体を起こした。案の定、引き上げ扉が軽く鳴る。誰かが外にいるらしい。誰何しないうちに、声がした。
 「ナミ? 俺だけど」
 「……チョッパー?」
 ハンモックから羽織るモノを探し、冷たい床に素足を下ろす。一瞬で目が覚めたと思ったが身体は正直なもので、ついついあくびが出た。瞼に残る眠気を追い払いつつ、扉に近づく。他の連中が来るよりマシだろうし、何か事が起きたのなら大変だ。
 「もう寝たか?」
 「ううん、まだ起きてるわよ」
 薄く扉を開けると、チョッパーはにこにこ笑って先ほどのルフィと同じ位置に座り込んでいる。脱力した。どうやらこちらも事件ではないらしい。
 「今、12時過ぎたんだ。おめでとうを言おうと思って」
 「今って……」
 もう電気は消したが、ルフィの言が確かならもう12時は過ぎているはずだ。何処の時計を見たのだろう。心持ち口唇を開いて質問を練っていると、馴鹿の身体から石鹸の匂いが漂ってきた。何処にいたのか推測がついて、ナミは短い呼気と共に問いを風に還す。
 風呂場の時計は湿気が多いだけあって、故障も多い。あそこの時間が狂ってるのか。はたまた最初の『12時』に間違いがあったのか。
 「そう。ありがとう、チョッパー。わざわざ嬉しいわ」
 「れ、礼なんかいらねえぞ!」
 でれでれと相好を崩す馴鹿に苦笑する。そろそろ扉を閉めようかと思っていると、彼女と倉庫の扉の双方をきょろきょろ見比べていたチョッパーは、急に真顔になって首を傾げた。
 「ところで、ナミ。誕生日って、何するもんなんだ?」
 「……何って?」
 「俺、そういうのあんまりしたことないし、ゾロに聞いたら、分からないから本人に聞けっていうし」
 船医はとまどいがちに両手を彷徨わせる。そういえば、彼はずっと一人きりだった。共に住んでいた医者も、誕生日だからといって特別な行事なんて考える性格でもなさそうだ。祝い事に縁などなさそうな剣士は言わずもがな。
 ここは一応真剣に考え、ナミは昔の記憶を引っ張り出した。
 誕生日。
 改めて問い直してみると、特に何も思いつかない。そもそもルールがない無礼講、というところが誕生日の面白さなのだ。
 「そうね、みんなしたいようにすると思うけど。歌を歌ったり、食べたり、飲んだり」
 「いつもと同じか?」
 何となくつまらなそうに、馴鹿は鼻に皺を寄せる。
 「じゃなくて……。わたしに贈り物したり貢いだり誉めたり、んーと、わたしの言うことを聞いたり、聞かなかったときは殴ってもよかったり……」
 「ふーん。やっぱりいつもと同じなんだ」
 その反応にはいまいち納得しがたいものを感じたが、指摘する前にチョッパーは意気揚々と顔を上げた。
 「ま、いいか! がんばるからな。楽しみにしてろよ!」
 「……はいはい」
 誕生日に何かしろと、他の連中から言われたに違いない。さぞ、馴鹿はとまどったり困ったり悩んだだろうと思うと、つい笑みがこぼれる。それを主賓に尋ねるなんて、ばれやすい企画もあったものだ。
 扉を閉め、彼女は鍵をかけ直した。チョッパーのものとおぼしき足音も離れていく。小さく彼の声も聞こえた。戻りながら、ナミは何となく楽しくなってきて、誕生日の定番を鼻歌でなぞり始める。彼にも言ったが、誕生日といえばやはり歌が付き物だろう。
 音楽は母が好きだった。
 当時の自分にとっては騒がしいだけの音楽を、彼女は好んで聴いていた。ただ聴くだけならいいのだが、料理を作りながら踊ったり振り付けを真似たり、娘たちに参加を強制したり、とかなり迷惑な好み方をしていた。
 彼女の好きだった音楽を本当にいいものだと思えるようになったのは、ごく最近のこと。ハンモックに横になると、たちまち眠りの精霊が彼女を誘う。夢の世界に入っていくのを自覚しつつ、ナミは中でも特に好きになった曲を頭の中で鳴らし始めた。
 記憶の中の母がレコードを取り出し、セットする。盤が回り始める一瞬は、何時だってドキドキした。
 そう、あの曲の出だしは確か……。


  ──── ギギギィ


 想像とはまるで違う、脳味噌の裏を爪でひっかくような雑音に、思わず目を開けた。夢から現実に還る時の、軽い失墜感に目眩がする。額に手を当て引き上げ扉を伺ったが、歌っているのは非常用の扉だ。それも前奏だけでなく、歌付きで。
 「ナミさ〜んv」
 熱烈な呼び声に、彼女は思わず頭を抱えた。間違えるはずもなく、この声は緊急ではない。
 無視して寝てしまおうかと思ったが、ビビを起こすのは問題だ。出来るだけ足音を殺してハンモックから降りる。先ほどのようにすんなり眠気は引かず、片目を閉じおぼつかない足取りで非常用扉を開いた。
 半分閉じた視界の中、唐突に涼やかな芳香が広がる。
 「誕生日、おめでとうございます!」
 男部屋が酷くまぶしい。暗闇に慣れた目を瞬かせつつ、彼女は差し出されたものを受け取った。二度三度こするうちに、ようやく手の中のそれは見慣れた形に代わる。
 「……バラ?」
 それはいい香りを放つ一輪のバラだった。たいていの場合幸せそうな料理人は、両手をこすり合わせてなおも続ける。
 「ええ、バラです。ナミさんの美しさには到底及びませんが、今日、誰よりも先に貴女に渡したかったんです!」
 「まあ……」
 何もこんな時間に。という言葉はすんでの所で飲み込んだ。好意というものは、出来るだけ無にしたくない。彼女は苦労してバラの香気を胸に吸い込み、怒声を追い払った。少々眠気が残った声で呟く。
 「ありがとね、サンジくん」
 「いえいえ、12時過ぎるのを待っていた甲斐がありました」
 バラを鼻先で回す手を止めて、サンジを伺った。
 「……ちなみに、どこの時計で12時?」
 「俺の腕時計です!」
 自信を持って断言され、彼女は額を押さえる。男が時計を持ってたなんて思ってもみなかった。第一、時間がずれている時計など時計ではない。羅針盤にもならないただの装飾品、もしくは飾り、若しくは置物だ。
 それらのせいで真夜中に起こされるなんてたまったものじゃない。
 体内に鬱積した眠気が瞼の裏や脳皮をしくしく侵食しはじめ、不快感はそろそろ臨界点に差し掛かろうとしている。ナミは何度も深呼吸し、バラの甘い香りに縋った。
 バラはいい。
 バラはいいんだ。
 「ところでナミさん。明日、いや、今日のことなんですが、料理は何にしましょうか? 何か食べたいものとかありますか?」
 「任せるわよ」
 「いや、俺もそう思ったんだけど、いつもの様な料理じゃ物足りないでしょ? なんたって誕生……いやいや、これはまだ秘密でした。にしても、前菜から攻めていった方がいいですよね。前菜は暖かい方がいいですか? それとも冷たい方? もう暑くなってきたから、冷たい方がいいかな。あ、その前にワインを決めた方がいいか。白と赤とロゼの年代物を仕入れましたからね。三種類どれも最高級品に間違いはないですが、どれをお好みでしょう? 俺としては、白をお勧めしたいなあ。よく冷えた白ワインは最高ですよ。ミカンを沈めたスパークリングワインでもいいかもしれませんね。まあ、あいつらにワインの違いなんて判るはずもないですけど、ナミさんなら……」
 「 ──── サンジくん」
 それほど声音に力を込めた気はなかったが、何かを感じ取ったのだろう。サンジは口を半開きのまま、吐きかけた息を飲み込んだ。ごくり、と妙にリアルな音が二人の間に落ちる。
 にっこり微笑むと、料理人は急速に青ざめ2、3歩後退した。その隙をついて、扉に手をかける。
 「お休み!」
 「……あ、ナ……!」
 明日、時計のネジをまき直しておこうと固く拳を握りつつ、ナミは力を込めて扉を閉めた。
 (まったく。なんだってのよ、一体)
 今日は誕生日。めでたいのはいい。祝ってくれるのは嬉しい。だが、奴らは一人一人でも祝われるのは自分一人なのだ。なんだって夜中に、それもようやく眠りかけた瞬間を見計らったようなタイミングでやってくるのか。
 苛々しながら、バラを机に放り代わりに時計を掴む。掌でかちかち音を立てているそれがどうしようもなく憎らしくて、壊してやりたい衝動に駆られた。だが、ここでそんなことをすればビビは起きるし、時計は壊れるし、修理するには金がいる。
 穏やかに響くビビの寝息を聞き流しながらじっくり計算し、ナミはゆるゆる力を緩めた。何とか呼気を整えて、ハンモックに戻ろうとした途端。


  ──── トントン。


 もはや怒りしか運ばない物音が、跳ね上げ扉に響いた。
 猛ダッシュで扉を開け、倉庫を見回す。ビビの寝顔が浮かんだせいで、力を込められないのがつらいところだ。その不満も相まって、怒りは増長する。ナミは倉庫に顔を出し、精一杯の音量で怒鳴った。
 「何の用よ!! 化粧した海王類の群がど派手な衣装着てラインダンスでも始めたわけ!? それとも、海の底に穴が開いて、『始めに戻る』の看板でも見えたわけ!? 言っとくけど、“誕生日”とか“おめでとう”とか一言でも言ったら、その場で死刑よ! その辺、覚悟して口利きなさいよね!!」
 彼女の怒りに同調するかのように、室内は異様な静けさに包まれていた。
 薄明かりに連中が拾い上げたり釣り上げたり、貰ってきたり何故かここに持ち込んできたりした粗大ゴミや彼女自身のお宝たちが雑魚寝しているのが見える。部屋は暗く、それらは更に暗かった。いっそすべてを海に投げ捨てて、最初からやり直した方がいいんじゃないかという欲求が強く胸の奥からわき起こる。
 自身の声を奥歯ですりつぶしながら、ナミは倉庫の扉を睨みつけた。
 確かに閉めたはずの扉は半開きになっていて、月が薄く影を落としている。倉庫の品物には生き物の気配はなく扉の外も静かなものだったが、彼女は目を凝らしうなり声を発した。
 光と影の区別も付きにくい世界の中で、唯一くっきりと浮かび上がっているのは見間違いようもなく、長くて細いご自慢の……。
 「 ──── ウソップ」
 びくりと床に落ちた鼻の影が揺れた。睨みつけていると、がたがた震えながら茶色のバンダナが姿を現す。続いて縮れ髪の下から人の良さそうな瞳が姿を見せ、小さく手を振った。
 「よ、よお、ナミ。ぐぐぐ、偶然だな」
 「なにが……、偶然?」
 「いや、俺ももう寝ようかと思ってたところだったが、おまえもそうだったんだな。そりゃそうだよな、もう12時になったし。お前は夜早かったんだ。いやー、それにしても、ここは男部屋じゃなかったんだなあ、はっはっは。じゃあそういうことで!」
 「待ちなさい」
 低い声音に、引っ込みかけた身体が縮こまる。指先でこちらに来るよう指示すると、ウソップははいつくばって僅かながら近づいてきた。
 「誰がこういう馬鹿げた企画考えたのよ?」
 「さ、さあな。企画? 何のことだか」
 目をそらしながら言われても、説得力なんぞ無い。ナミがまなざしに力を込めると、益々ウソップの顔は青ざめていく。
 「正直に吐いた方が、はやく楽になれるわよ?」
 「いやでも、あの……、お前が何をそんなに怒っているのか見当も付かないし……」
 「 ──── へえ。じゃ、なんでここに来たわけ?」
 「そそそれはだなぁ。えーと……」
 「……」
 「今夜12時過ぎたらナミの誕生日になるっていう神のお告げがあってだな……」
 ぴくりと肩が引きつり、置き時計を掴んだままの手に力が入った。気づかないまま、狙撃手の言い訳は続く。
 「こんなありがたいお告げは、みんなで共有したほうがいいだろ? だから、お前にも知らせてやろうと、それで……」
 「他の連中には?」
 「そりゃもちろん……」
 「……そう」
 ゆっくりと片手を頭上に持ち上げた。緊張かそれともそれ以外の理由に依るものか、腕は細かく震えている。口を閉ざし息を詰め、ウソップは額に汗を滲ませたまますべての動きを止めた。ぎぎぎという効果音と共に、首が直角に曲がる。
 茶色の瞳がナミを見つめた。その腕を見つめた。その手が掴んでいる固そうで飛距離がありそうで破壊力もありそうな物体を見つめていた。
 時間が止まる。
 狙撃手の爪先が、空しく宙を掻く。


  ──── カチリ


 手の中で、彼女の時計が彼女には判らない時を一つ先に進めた。その音が彼女の中の堰を切る。今まで押し込めていたすべてのものをその一投に託し、ナミは時計をウソップめがけて投げつけた。
 「あんたのせいか ──── !!!」
 「ヒイィィ! 誕生日おめでとうーー!!」
 ウソップがかろうじて避けたため、時計は倉庫の柱に当たって粉々に砕けた。時計の砕ける音が収まりきらぬ間に、悲鳴を残してウソップはおたおた逃げていく。追いかけていく気力もなくて、ナミは床にのめり込んだ。
 (あいつら……)
 眠いやら腹が立つやらビビを起こして八つ当たりしたくなるやら、ウソップを追いかけて完膚無きまでに叩きのめしてしまいたくなるやら、様々な衝動が一息に身体の中を駆けめぐり呼吸さえままならない。
 頭の中では船を越え、故郷に届くほどの罵声が鳴り響いている。この船に乗ったこと、いやそもそも生まれてしまったことをこれほど呪ったことはない。それでも何とか呼吸を繰り返しているうちに、最後に残ったのはやはり眠気だった。
 (眠ってやる。今度こそ、眠ってやる)
 扉を閉じ、しっかりと鍵をかけ……。
 否。
 かけようとして、彼女はふと手を止めた。目を閉じてしばし考え込む。ついでに指を折ってみた。
 今ので4人目。
 まだ後一人、船には残っている。もう一度起こされるより、寝ずに待っていた方がいいだろうか。でも……。
 ナミは目を閉じて、きっと何処かでどでかいバーベルを振り回しているか、刀を振り回しているか、酒瓶を振り回しているに違いない男の姿を想像する。あの、人生万事が反抗期の、何事に付けても斜に構えた態度しか見せない、ひねくれ者で協調性皆無の男がここに来る?
 あり得ないと鼻で笑い飛ばそうと思ったが、そうは見えても剣士は意外なところで意外につきあいが良かったりする。とにかく押しに弱いから全員から「行け!」と言われれば来るかもしれないが……。
 来るか、来ないか。
 ナミはとりあえず扉を閉め直し、机に戻って考えこんだ。
 ここで「来ない」にかけてまた寝入りばなに起こされてはたまらない。かといって、「来る」にかけてずっと起きているうちに、朝になったなんて事態になったら逆さ吊り程度じゃすまされない。いっそ探しに行こうかと思ったが、探しに行って祝いの言葉を請求するのも妙な話だ。大体、それなら着替えなければならないし、めんどくさい。
 まったく。普段、時計なんて気にもしてない連中がどうしてこういうときに限って、やたら時間に正確になるのだろう。正確な時刻を知りたかったが、時計はさっき壊してしまった。確認する術はない。
 逡巡しているうちに、気が付けばナミは船を漕ぎ始めていた。うつぶせになって身体の力を抜き、ゆっくり息をつけば、苛立ちもたちまち夢に溶ける。
 そう言えば、昔もこんな風にいつ戻ってくるかとやきもきしながら母の帰りを待っていた。いつの間にか自分は船を漕ぎ始めていて、もう寝なさいという姉の言葉にだけ反抗し、机にしがみついていた。
 机の上には二人で精一杯準備した、ごちそうの数々。冷え切ったそれらを今更食べるのも口惜しくて、空腹を訴えるお腹を抱え、二人で黙り込んでいた。
 あれはいつのことだっただろう。誰の誕生日だっただろう。
 いつしかナミはあのときの食卓に座り、あのときと同じ気持ちで扉が動くのを待っていた。肘に当たる机の感触も、懐かしい故郷のそれだ。隣に座る姉の気配もまるで本物そっくりに近く感じられる。目を開けてしまえば魔法は解け、船にいる自分が戻ってくると思いながら、小さな自分の目はいつまでも扉に注がれている。
 どれくらい時間が経ったことだろう。
 やっと扉が軋み声をあげ、微かに動いた。
 それまで幾度も風や獣の声に惑わされていたが、今度は違う。ぱっと顔を輝かせ、姉が立ち上がった。二人で争うように扉に進み、ノブを掴んで引くと ──── 。


 ♪我らがナミは今日も最強〜


 およそ、母とは縁もゆかりもない、割れ鐘を叩き壊しその上から金槌で砕き、すり鉢で擂っているような歌声が、何の前触れもなく女部屋に響き渡った。


 ♪見かけは可愛いが中身は魔物
 ♪血も涙も量り売る



 「な、な、な……!」
 あまりの衝撃に椅子から転がり落ち、かろうじて小指の先だけ机に引っかかった状態でナミはきょろきょろ左右を見渡した。部屋を揺るがす声が、一体どこから響いてくるのか寝ぼけた頭では判断が出来ない。


 ♪ああ、愛すべき
 ♪我らの守銭奴航海士
 ♪誕生日おめでとう〜



 わーっと響き渡った拍手と笛だかコップだか判らない騒音に、彼女はようやく事態を飲み込んだ。あの、非常扉だ。
 非常扉の向こうで、男どもが歌っているのだ。


 (よーし、いくぞ、2番!!)



 
「やめんかぁ!!!」



 同居人の存在も忘れた絶叫と共に、彼女は非常扉を開けた。
 案の定、そこには指揮棒を振っているウソップと思い思いの楽器を持っている船員全員の姿がある。来るか来ないかで悩んでいたはずのゾロの姿もある。なおさら怒りをかき立てられ、ナミはびっくり眼の男たちに指を突きつけた。
 いっそのこと指でなく刃物か銃が、でなければ何処かの魔物のように一にらみで相手を石に変えられる特殊能力が欲しいと、これほど願った瞬間はない。
 「なんなのよ、一体! 五月蠅い! 喧しい! 耳の毒! 何のつもりよ!? わたしはね、眠いの! 眠りたいの! 夢の世界に入って、あんた達の事なんてすっっっかり忘れて、穏やかで静かでなんの悩みもないところでのんびりしたいの! なんでそんな簡単なことが判らないのよ!!」
 「……いやだって……」
 ぽりぽりウソップが鼻の横を掻きながら、言い訳する。
 「真の企画はこれからだし」
 「するな!!」
 「誕生日は歌うんだろ、ナミ」
 「歌うな!!」
 「びっくりしただろ?」
 「しすぎ!!」
 「心を込めて歌います!」
 「心がこもってても、才能が籠もってなきゃ意味なんて無いわよ!!」
 「……俺は止めたぞ」
 「なんつって!?」
 「“中身は魔物”じゃなくて、“中身は魔女”にしたほうがよかったじゃねえかってな」
 「それのどこをどうハカリまちがったら『止める』って単語になるわけ!?」
 「“魔王”の方が良かったのか?」
 「論点が違う!!!」
 怒鳴りすぎで白く燃え尽きそうになった我が身を鼓舞して、ナミはかろうじて非常扉に手をかけた。
 「大体、今何時だと思ってるのよ!?」
 コレには全員がきょとんとして、口を揃える。
 「12時」
 「……は?」
 「安心しろ、ナミ。お前が随分怒ってたから時計は見たぞ。そしたらまだ12時だったから大丈夫だと思って」
 「 ──── 何処の時計で?」
 これにも全員が唱和した。
 「そこの時計だ!」
 指さす先には確かに時計があった。ソファーに鎮座ましましている。古い時計だ。六角形の台座に可愛らしい花柄の絵が描かれているのがかろうじて見えた。四角い箱が中央に穿たれているのを見ると、からくり時計であるらしい。その中で意匠を凝らした針がおのおの頂上を指している。
 確かに、12時だ。見間違いようもない。
 しかし。
 ナミはどこからどう突っ込んでいいのか判らず、そもそもこの船にどうして自分が乗ろうと決意したのかさえ判らないまま、瞼を強く押さえ、声を絞り出した。
 「……ちなみに、その時計どうしたの?」
 「今日、俺が釣りで拾った!」
 元は白かっただろうと思われる時計の台座は、長い間の漂流に晒され黄色く変色し、所々にコケが生えている。
 「その時、時間とか見た?」
 「うんにゃ」
 おもりや振り子といった部品は既になく、長方形の箱だけがかつての栄光を止めている。実のところ、形が残っていること自体、奇跡に近いのかもしれない。
 「そういや、12時だったな。その時から」
 「え、じゃあその時から誕生日だったのか!?」
 以前ガラスが填め込まれていたに違いない小さな扉の先には、びっしりと海藻が生えている。もちろん、鳥の姿などあるはずもなかった。
 「うわー、すげえな、ナミ! ずっと誕生日だったのか!」
 「おめでとうございます!」
 ひっくり返せば、もしかしたら魚が出てくるかもしれない。ひょっとしたら、100年ほど前に生きていた魚が。
 「…………」


 ( ──── ああ)


 ナミは深く深く空気を求めた。
 今この時に感じる絶望をどう現したらよいか判らない。思考を放棄し、ただ息だけを吸った。どう贔屓目に見ても数十年前に活動を停止したに違いない時計が、そんな彼女を見つめ返している。
 「なんだ、ナミ。どうした?」
 息を吸う。
 「眠いんじゃねえのか?」
 息を吸う。
 「なんだ、そうだったのか。怒ってるのかと思った。びっくりした」
 息を吸う。
 「じゃあ、とっておきの子守歌があるから、あれ行くか?」
 息を吸う。
 「よし。愛の子守歌でナミさんに穏やかな眠りをプレゼントするぜ」
 息を。


  ──── ♪ああ、ナミよ。安らかに眠れ〜


 その曲が始まった瞬間、彼女はかっと目を開き、今すべきことのすべてを悟った。
 今すべきこと。
 そう、それは……。




*****




 朝。
 天が最奥に描いた青が透けて見えるほどに澄んだ空の下、ビビはすがすがしい心地で伸びをした。あくびをすると少しだけ耳が痛くなり、耳鳴りがする。どうしてだろうと首を傾げた。ひょっとして風邪でも引いたのだろうか。
 まだ誰もいない船は静かで、相談相手といえば自分だけだ。仕方なく肩をすくめ、いいことにする。空は益々故郷のそれに近づいているようだ。そう思えば些細な心配事などたちまちに消えた。青い空が愛おしくて楽しくて、同時に切ない。
 朝の見回りをしているビビの足がふと止まった。
 みんな寝ていると思っていたのに、ミカン畑の影に見慣れた背中を見たのだ。
 心の中で寝室の様子を思い出す。そう言えば、ハンモックが空だった。彼女も朝が早い。いつもは自分の方が先に起きるのだが、今日は逆だったのだろう。
 「おはよう、ナミさん」
 普段通りその背中に声をかけた。
 頭の中で呼びかけに対する答えを作りながら、続いての会話を考える。やっぱり少しだけ耳が痛い。どうしてだろう。彼女なら何て答えてくれるだろう。
 風邪かしら、と心配してくれるだろうか。
 寝てる間に蟻が耳に入ったのよ、とかいって脅してくるだろうか。
 それとも気圧の変化がどう、とか嬉々として説明し始めるだろうか。
 それとも……。
  ──── が。
 想像すれど、一向に背中はこちらを向かない。
 訝しく思い、ビビは一歩近づいた。
 「……あの、ナミさん?」
 階段を上って、背中越しにナミの手元を覗き込む。あぐらをかいたその先には、半端でない数の時計が転がっていた。小さいもの大きいもの、見慣れた時計もあり、どこからとってきたのか判らない時計もあり、どう見てもがらくた寸前のものや、苔むしたものや、腕時計まである。
 動いているものや止まっている時計に一度に見つめ返され、ビビはいささかたじろいだ。
 この船の一体何処にそれだけの時計が、と驚くのはもちろんだし、何をしているのか聞きたいような聞きたくないような気持ちになったのももちろんである。
 ナミの左隣には時計の山。右隣にはそれらの残骸とおぼしき鉄くずの山。左の山から抜き出した時計を、一つ一つ丁寧にナミが分解している。彼女の左脇に成果として残っている山の高さで、彼女がどれだけこの行為に没頭しているのか伺い知れた。
 朝っぱらからこの図式は、かなり怖い。
 「あの……、ナミさん。何を……」
 「 ──── 何、ですって?」
 ようやく、ナミから反応があった。
 背後に闇を抱え、ゆらりと振り返る。
 ビビは思わず数歩、後ずさった。
 目の前にいるのは確かにナミであるはずなのに、ナミでない気がする。ナミの皮をかぶった幽霊が目の前にいて、自分に取り憑こうと待っているのだと説明された方がよっぽどしっくりくるような気配に、冷や汗が浮かんだ。
 彼女のその……、血走った眼。どす黒い隈。痩けた頬。ぼさぼさの、艶が失せた髪。やつれた気配。そのすべてがすさまじい鬼気を発し、周囲を暗くするようだ。
 「な、ナミさん……?」
 「見りゃわかるでしょ、ビビ。時間を合わせてるのよ」
 「時間……」
 「そうよ」
 とてもそうは見えない、とか、でもどうしてそんなことを、なんて問いは逆さに振っても出てこなかった。ただ幾度も頷いて、頼むから仕事に戻ってくれと目線で懇願する。ビビのかかとは階段の端にかかっていて、これ以上後退できない。生命の危機さえ感じて、彼女は固く両手を胸の前で組んだ。
 「そ、そそそ、そうなの。がんばってね」
 「 ──── ……ありがとう」
 いっそ胸ぐらを掴まれた方が楽なんじゃないかと思えるようなどす黒くも穏やかな返答に、頭が白くなる。ここは逃げた方がいい。本能がそう告げている。
 「じゃ、わたしはこれで。後でサンジさんにお茶でも差し……」
 「来ないわ」
 「……え?」
 ナミはうっとりと、死の淵にある患者が最後の夢を見ているような微笑みを浮かべる。
 「まだみんなよく寝てたもの。起こさない方がいいわ」
 「そ、そうなの。残念だわ」
 なぜだろう。
 とっさに、“この逃げ場のない大海原で二人きり……”というフレーズが胸を過ぎった。男部屋を覗けば他の船員がいるに決まっているのに。すぐに騒がしい日常が始まるに決まっているのに。なんだろう。この焦燥は。この恐怖は。
 ナミはまた、新しい時計を手にしてドライバーを取り出す。その時計を持つ指先が、普段よりずっと赤いことに気づいた。光線の加減か、思いこみか、それはなぜか血痕に見えた。くず山を見やると、何処かしら赤っぽい。朝日のせいだろうか。朝日のせいだと思いこもうとしてるせいだろうか。
 (せいじゃなかったら……、なに?)
 背筋をすうっと撫でるのは、恐怖。よく冷やした布が、彼女のうなじに押し当てられているようだ。耳鳴りがひどくなる。
 「それじゃあ、えーと……、み、水でも汲んでくるね」
 とにかく一刻でも早くこの場から立ち去りたい。その一念でもって、ナミから背を向けた。なるべくさりげない動作に見るよう努力して、力の入らない足で階段を下りる。気合いを入れるために、頭の中で自らを叱咤した。
 何がどうなっているのかはしらない。だが、ここにいるのはナミなのだ。今日誕生日で、皆から祝われる予定のナミなのだ。誰にも負けない笑顔を振りまいて、祝いの歌や言葉を受けるに違いないナミなのだ。
 だから……。
 「そうそう。昨日はつい寝ちゃったんだけどね」
 せめて話題だけでも明るいものにしたくて、ビビは声の調子を変えた。声はどこかしらうわずって震えていたが、何もしないよりましだろう。
 「一番に言おうと思って」
 「 ──── 何を?」
 「今日はた……」
 一番最後の階段に片足を残した状態で、ビビは異様な雰囲気を感じ取った。朝日はちょうど彼女の背後、要するにナミの向こうから登っている。甲板には彼女の影がぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。立ち上がり、手に何かを携え、階段の上に立っている。
 王女はからからに乾いた唇を舌で湿らせて、冷え切った息を呑んだ。
 「た……」
 どうしてだろう。後ろを振り向けない。
 地雷をついに踏んでしまったような気がする。首の根を見えない炎が灼き、ちりちりと彼女を焦がしていく。そのきな臭さを、彼女は確かに鼻の奥で捕らえていた。
 船は静かだ。静かすぎる。
 「 ──── 何を、忘れてたんですって?」
 あくまでも穏やかで優しい声は、砂嵐前の静寂にも似ている。耳鳴りは酷くなり、頭の中で悲鳴に変わった。幾重にも重なって何通りもの悲鳴に聞こえる。歌のようだ。夢の中で聞いていた、あの歌のようだ。
 「……ビビ?」
 カツン、と階段がナミのヒールの音で鳴る。




 日付が変わるまで、あと68,384秒。




  ──── 長い一日となりそうだった。









END



 

<管理人のつぶやき>
最初は、「ああ、みんながナミにおめでとうって言いにくるんだ」とだけ思っていたのですが、さすがはおはぎさん!そうは問屋が卸さない!
微妙な時間のズレから、こんな恐怖のお話になっていくとは、誰が想像するでしょうか。
歌は、実にナミを知る者の作詞って感じですね(^.^)。剣豪のボケも効いてます♪ラストのナミには鬼気迫る雰囲気が。あとはビビの幸運を祈るのみ…。

海の幸・山の幸様で出されましたフリー作品ですv
おはぎさん、ステキにホラーな作品を、どうもありがとうございました!

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