乱暴に開かれた扉が、壁に跳ね返って騒々しい音を立てる。
それがいつも、彼女の来訪を知らせた。それと同時に響き渡る、甲高く幼い声。それもまた、彼女の特徴だ。
彼女の声は大きく、いつだって部屋一杯に広がった。
「おはよう、ゾロ!」
「まだ寝てるわけ、ゾロ!」
「いい加減にしなさいよ、ゾロ!」
「何やってるのよ、ゾロ!」
内容は色々であったが、彼女が現れただけで部屋の空気が変わる。それだけ同じだ。どんなに暑い日も、雪が世界を凍らせる日も、風が家を吹き飛ばそうと荒れ狂う日も少女の来訪は続いた。
いつからだろう。
その音を待つようになったのは。
いつだったろう。
その音が、聞こえなくなったのは。
向 陽
おはぎ 様
「おばあちゃん、おばあちゃん、聞いて!」
例によって乱暴に開かれた扉に肩をすくめ、少年は食器を洗う手を止めた。やれやれまたかと、うんざりのため息を付き、茶碗を水から上げる。少女がこの時間に来るのはいつものことで、学校の帰りに寄るのだと聞いたことがあった。
今日はいつもより少し遅い時間だ。違うと言えば、それくらいしかない。
自分の祖母でもないくせに、くいなは何かにつけて彼の祖母を頼りにする。祖母の可愛がりようも半端でなかったため、少年はいつも彼女の姿を見るとむっとするのだ。正直、ヤキモチなのだが、認めるのは少々しゃくで八つ当たりばかりしている。
少女は、片手で布の束を振り回しながら狭い家を一周し、彼の許にたどり着いた。彼が踏み台の上に立ち、たった一人で一人分の食器を洗っている様子を見て、肩をすくめる。
「なーんだ、ゾロしかいないの」
「わるかったな。婆ちゃんは先生のところ。爺ちゃんは畑だ」
「畑?」
「明日、雨になるから畑の様子を見ておくんだってさ。昼過ぎに出て、未だ帰ってきてない」
祖父の帰りが遅いのはいつものことなので、少女は気のない返事と共に手近な椅子に座り込んだ。
「 ──── おばさんは?」
「知らねえ。最近、あんまり会ってない」
そうか、と呟く声は、低く小さい。それもいつものことだと、ゾロは食器を洗う手に力を込める。
祖父と祖母と自分、そして母。それがこの家の住人だ。
母はほとんど家にいない。以前は町まで仕事をしに出ていて、朝早くから夜遅くまでずっと出ずっぱりだった。そんな生活は過労で倒れて入院するまで続き、今は隣町の病院で静養している。仕事にせよ、病気にせよ、家にいないことに変わりはない。
今、祖母が定例となった見舞いに行っている。以前は少年も付いていっていたが、遠いし、彼自身病気がちだったせいもあり、留守番の方が多くなった。母はいつだって元気で過ごしていて、すぐにでも退院したいと言っているらしいが、実際の所、入院は3ヶ月に及んでいる。
父、という存在はこの家では希薄だ。
父は彼が生まれると同時に海に出て、戻ってきてない。彼が幼かった頃は戻ってきていたらしいが、顔など覚えていなかった。元々飄々とした人間だったし、きっとどこかでのんびり旅を楽しんでいるのだろうというのが、祖父の言だ。祖母も彼も、それを疑ったことはない。
海を少年は未だ見たこと無かったが、母よりも自分よりも家よりもなお惹きつけられる存在とはどういうものか、時々考えることはある。
ともかく今は唇を尖らせ、少年はくいなを横目で睨みつけた。
「何の用だよ」
「ゾロに用じゃない。ちょっと、おばあちゃんに言いたいことがあっただけ」
言いながら彼女の手が布を引き寄せるので、興味をそそられる。真っ青な布だった。ぐるぐる纏められていて、元の大きさは判別しがたい。
「何だ、それ」
「何でもない。宿題よ、宿題」
「宿題?」
くいなはご機嫌な顔で、布の束をぽんと空に放った。受け取めて、眺めてはにやにやしていたが、やがて決心したのか机に置いて立ち上がる。
「おばあちゃんに渡しといて。見たら判るから」
「……判った」
「言っとくけど、中見たら承知しないわよ! 切り刻むからね!」
「誰がするか、暴力女!」
すべての食器を水切り桶に入れつつ、ゾロは叫んだ。
この少女は最近、木刀だけでなく真剣も触らせてもらえるようになったと大はしゃぎだった。よほど嬉しいらしくゾロの家までわざわざ持ってきた位だ。本人はそれでいいだろうが、見ている周りは大変だ。
今度から木刀を避けるだけでなく、斬られないように注意しなくてはならないのだから。
くいなはぷっと頬を膨らませ、不満げにうなり声を上げた。
「何よそれ! あんたなんて、弱虫で弱っちろくてちびのくせに!」
こうなると売り言葉に買い言葉だ。彼は踏み台から飛び降りて、少女を見上げて精一杯威嚇する。少女との歳の差はわずかに二つ。しかし、その差は埋めきれない身長の差となって少年と少女を分けている。
「俺はすぐ大きくなって強くなって、てめえなんか踏みつぶしてやるからな!」
「へえ、やれるもんならやってみなさいよ」
「俺がこの家より高くなったの見てから泣くんじゃねえぞ!!」
喧嘩腰に睨みつけていた少女がふと瞬きをして、不思議そうに首を傾けた。
「この家?」
「じいちゃんが、そこの鴨居にぶら下がってたら家よりでかくなるって教えてくれたんだ。だから、すぐにでっかくなるぞ!」
「………」
くいなは真っ黒な目に限りなく冷たいものを含ませて、両手を天に向けて肩をすくめた。
「 ──── ガキ」
「な、なんだよ!!」
怒髪天を突く勢いの少年の頭をぐちゃぐちゃかき混ぜて、ため息を付く。
「そういう馬鹿ばっかりやってる暇があるんなら、おじいちゃん迎えに行こう。ほら、おいで、ちっこいの」
「ちっこいは余計だ!」
なおもブチブチ文句を言いながら、それでも差し出された掌を握った。彼女の手はいつも乾いていて、所々まめが当たって痛かったが、全体的に柔らかく心地よかったので、手を繋ぐのは嫌じゃない。くいなは笑いながら、彼を屋外へ促した。
彼はこの頃病がちで、他の少年達より線が細く体も小さく、遊び回ることも少なかった。そんな彼を外に引っ張り出すのは、いつも少女の役目だ。人一倍外を好み、駆け回っていた少女はまた、人一倍この村を愛していた。この時も思いついて指を鳴らし、目を輝かせる。
「この時間だとね、夕焼けがすごく綺麗よ。高いところからだと、夕日が地平線に沈んでいくのが見えて、そりゃもういいんだから。見せてあげる。いいとこ知ってるのよ、わたし」
「……くいな」
「なに?」
「明日は雨だから、夕日は見えねえぞ」
祖母の言をそのまま踏襲すると殴られた。
それを機に再び乱暴女、弱いやつ等の口げんかが始まったが、事実は事実。外はすっかり雨雲に覆われ、夕焼けどころか太陽の姿さえ確認できない。それでも、繋いだ手は離さないままずっと歩き続けた。
彼の祖父は結局畑ではなくて、数軒隣の家で酒を飲んでいるところを発見される。二人は始め呆れかえっていたが、ほろ酔い気分でご機嫌だった祖父にそのまま酒や食べ物を振る舞われ、なし崩し的に宴会に参加してしまった。
そして、今度は夫と孫を探しに来た祖母に発見され、三人纏めて叱られることとなる。
祖母の小言を聞きながら横目で少女を伺えば、彼女もこちらを見つめていて、二人で目配せしあって笑った。
「聞いてるのかい、ゾロ!」
「うん、ばあちゃん!」
叫んだ途端、祖母の拳が飛んできた。どうやら、何一つ聞いてなかったことを見抜かれたらしい。つくづく、自分の周りの女性陣は暴力好きが多いと、彼は子供心に理不尽さを感じた。
──── 翌日。
再びけたたましく開いた扉の音に、ゾロは首をすくめた。
その日も彼は一人きりでやや早い夕飯の準備にいそしんでいる。祖母は母の見舞いに行っていて、祖父はいつの間にかいない。帰ってくることを見越して、鉄鍋に大量の水を火に掛けている。
「ゾロ! ゾロ、いるんでしょ! ゾロ!」
「なんだよ!」
気安く名前を呼ばれ、むっとしながら怒鳴り返した。その足音はいつもより高く乱暴に響き、急いでるのだと判る。現れたのは、案の定くいなだった。頬を赤く染め、息を切らしたその様子は、今の今まで走っていたのだと暗に伝えている。
「ゾロ。今から外に出られる?」
「……外?」
「夕日見学。行く約束だったでしょ。今から行こう」
肩で息をしながらも、少女の腕が伸び、自分の手首を軽く掴んだ。困惑する。今は夕暮れ時だ。夕日なら窓を開けても見られるのに、どうしてわざわざ外に行かねばならないのか。
「夕飯が……」
「うちで食べればいいよ。今日はごちそうだから」
口早にそう告げ、強引に引っ張る。その腕が擦り切れ、血が滲んでいるのを見て、ゾロはぎょっとした。
「どうしたんだ、くいな」
「……なにが?」
振り返った少女の顔をまじまじと見て、更に驚く。腕だけでなく、顎や頬、更に膝に至るまで少女の身体は擦り傷だらけだ。とても今、外に行く、とか暢気なことを言っていられる状況ではない。
「転んだのか?」
くいなは一瞬、何を言ってるのか判らない、といった風にきょとんとし、自分の身体を見下ろして頷いた。
「ああ、うん。転んだの。まあ、舐めたら治るから平気」
腕はともかく、顎をどうやって舐める気だろうと彼は場違いな疑問を抱く。が、他の問いを考える前に、再び腕が彼を捉え動き出した。
「それより、出発! ほら、行くよ!」
「なんでそうなるんだよ」
「いま決まったから!!」
強引極まりない誘いにそれでも乗ったのは、馬鹿にされるのが嫌だったからだ。指摘したことはなかったが、少女は人のあしらいが巧い。自分だけが手玉に取られているのか、親たちもそうなのかは知らないが、とにかく巧い。
少女は人が苛立つ部分をこの上もなく知っていて、道ばたから石を拾うよりたやすくむっとする言葉を吐きかけてくる。そして、馬鹿にされて腹が立ち、もう口も利いてやるものかと思った辺りで、急に素直に誉めだすのだ。
曰く、一人で留守番できて偉い、好き嫌いがなくて良い、火がおこせるなんて凄い、等々。呆気にとられて、戦意も何も失ってしまったこともしばしばだ。振り返れば、それは少女が指摘するまで出来なかったことで……。
自分が少女に乗せられたと気づいた頃には、何もかもが終わっている。
くいなはいつもそんな風だ。
だからゾロはいつだって少女が苦手で、でも頭が上がらなかった。
外に出ると、暮れ始めた空が赤に侵食され、雲も地も風も赤い水槽につけ込んだようだ。今出てきた二人もたちまち赤く染め抜かれ、服と言わず髪と言わず等しく同じ色に変わった。足元を見ると、二人分の影が長く伸び、ほぼ同じ長さになっていて少々満足する。
くいなに報告しようとしたが、鼻で笑われるだろうと思いとどまった。どう考えたって、子どもっぽすぎる。他の日ならまだしも今日、それを指摘されるのは嫌だ。それに彼女は先を急いでいて、とても話を聞く余裕などなさそうだ。地面をちらちら見ながらも、黙りを決め込む。
所々で細いトンボが飛んでいて、鼻先を楽しそうに泳いでは彼らを誘う。場所によっては、酷くいい匂いが漂い興をそそられた。その度に、すっきりした顎の線を下から眺めたが気づかれることはない。
結果、二人はだた黙々と丘を上っていった。
裏山は、子供の足では少々きつい。ましてや体の弱い彼なら、なおのことだ。ただでさえ少女と歩幅が違うので遅れがちなのに、悪条件が重なり、ゾロはたちまち息が上がった。些細な石に転びそうになり、何度もくいなに縋る。
何度か休憩を求めて上目遣いに彼女を伺ったが、無駄だった。歩がゆるむことはなく、口を開くこともなく、腕を掴んだ掌が力を増すだけだ。仕方ないので、ただひたすら付いていくことだけに没頭した。
当初の余裕をかなぐり捨て、足下だけを見ながら、どれくらい歩いたことだろう。
不意にくいなが足を止め、彼の手を離した。バランスを崩し、少女の身体にぶつかって彼もまた足を止める。
「 ──── 着いたのか?」
「うん。着いた」
頷く少女を訝しみながら顔を上げ、ゾロは言葉を失った。
そこにあるのは、余りに美しい絵だった。
足下には村の集落が黒い影を落として寄り集まり、更に濃い影が山の形で村を取り囲んでいる。丘陵に沿って茜色が広がり、まだ青を残す天頂と勢力争いを繰り広げていた。いつ果てるとも知れない戦いを余所に、細くたなびく雲は茜色に輝き、輪郭だけを琥珀色に輝かせ、黒く夜を引きずって流れつつ空を彩っている。
彼らの周りを取り囲む空気も、風も、匂いさえ、夕焼けに染まっていたのに立ち止まった今はもう、そこかしこに闇が忍び寄っていた。耳をそばだてると虫の音が聞こえ、目の前の光景を更に鮮やかに見せる。
針の先で描いたような月もまた、西の空で天蓋に別れを告げようとしていた。今夜は星だけが夜を埋め、無数の細かな明かりで夜道を照らすのだろう。目を凝らせば一番星は既に輝き、見つめているとどこからともなく他の星々まで姿を現す。
昼の世界と夜の世界。その久遠の昔から続けられている争いが、今もまた彼の前で展開されていた。その狭間に立ち、両方の世界を手にしているようなそんな幻想さえ頭の中を過ぎる。
こんな綺麗な夕焼けを、彼は生涯見ることはないだろうと思った。
少女がどうしてそこまで急いでいたのかも判って、少しだけ感謝もした。多分、後少し遅かったら何もかもが台無しだったろうから。
「すげえな……!」
思わず漏らした感想に、返事はない。
ただ、少女の手が彼の頭にぽんと載せられた。子供扱いされたと、またむっとして顔をしかめる。振り仰いで、言葉を失った。
少女の横顔は夕日を受けて輝き、まるで一枚の絵のように夕陽にしっくりと溶け合っている。その頬に笑みはない。感動の色さえなかった。ただ、落ち行く夕陽を睨みつけ、挑みかかるような気迫で睨みつけているだけだ。
夕陽と戦っているようにも、夕陽に己の思いをぶつけているようにも見えた。とても、ただ鑑賞しているようには見えない。見えない敵か、あるいは他の何かに向かって闘志を燃やしているように感じた。
少女が刀を振るうところを幾度か見たことがある。その横顔にも似ていた。凛として、静謐であり、揺るぎないようでいて儚い。そんな横顔。怖いほどに真摯な、集中したまなざし。無数の擦り傷さえ、彼女を彩る飾りにしか見えなかった。
その美しさに、視線が吸い寄せられる。
くいなは、ようやくぽつりと呟いた。
「強くなろうね、ゾロ」
低い調子の声は真剣そのものだ。
「……誰にも負けないくらい、強く」
「大剣豪くらい?」
その存在を知らせてくれたのは少女だった。その単語を聞くと、少女は少しだけ肩を震わせた。何が可笑しかったのか、声が明るくなる。
「うん。大剣豪みたいに、強くなろう」
「 ──── 判った」
少女が小指を差し出す。
「約束」
「約束だ」
いつまでも繋いでいた手は汗ばんでいて、風に冷たい。なのに、絡めた指だけは熱くて、少しだけ痛く、妙な気分がした。微笑む少女の瞳が、いつも以上に黒くしっとりと煌めいて見えて、どぎまぎする。
「よしっ!」
少女はようやく満足したのか、大声で一息ついて歩き出した。帰り道と違ったので、急いで呼び止める。振り返った顔は、整ってはいるものの、気の強そうな感が前面に押し出されたせいで少年のように見える、いつもの少女の顔だった。
「なによ。こっちでいいんだって。今日あんた、誕生日でしょ? うちでお祝いしてあげるから、おいで」
手招きして笑う。
「びっくりすることがあるんだから」
その通りだった。
その夜、少女の家で開かれた誕生会には、彼の母も姿を現していた。病院から一日だけ退院の許可を貰ったらしい。久々に家族が揃った上、厳かにくいなの父親から彼の経営する道場への入学を許可すると告げられ、彼の喜びは頂点に達した。
渡された青い胴着は、どこかで見たことある色だった。記憶のままに振り返ると、くいなは満足げに笑っていて、「宿題」の意味がようやく判明する。
「ゾロは、これからわたしの子分だからね。言うこと聞きなさいよ」
「ふんっ、すぐに負かしてやる!」
「やれるもんなら、やってみなさい」
いつもの口げんかも楽しくて、散々やり合った後に二人で大笑いした。
彼の日常はいつだってそんな風で、少女はいつだって傍にいて笑っていた。昨日も変わりなかったし、明日も今日と変わらない。そんな生活がいつまでも続くのだと思っていた。そう。いつまでも。
……いつまでも。
──── 知らなかったんだ。
決して家の近い訳でない自分を、少女がどうしてそんなに気にしていたのか。尋ねてみたこともなかった。理由があるなんて思ったこともなかった。気が付けば、自分たちは頻繁に互いの家を行き来し、姉弟のように親しくなって。
事実を知ったのはかなり後になってからだった。
母が実は重い病であったこと。伝染性の病であったため、彼との面接は極力避けられていたこと。代わりに、彼の便りを持って少女が足繁く病院に通っていたこと。くいなの母親は彼女が幼い頃に死に、彼が「父」に憧れたように、彼女は「母」に憧れ続けていたこと。
母がいつも、体が弱い彼を心配していたこと。自分の病が移ったのではないかと、恐怖さえ覚えていたこと。彼の母を安心させたくて、少女が自分の父親に問うたこと。
『どうして、ゾロはいつも病気ばっかりしてるんだろ。身体を鍛えればいいのかな?』
『さあねえ。よく判らないけど、それだけじゃない気もするね。ゾロはいつも一人だろ? だから、寂しくて病気になることもあるんじゃないのかな?』
『寂しいと病気になるの?』
『なる人もいるね』
『じゃあ、寂しくないと病気にならない?』
『そうかもしれない』
『……お父さん。明日、ゾロの誕生日なんだけど』
娘の言外のお願いに、父は笑う。
『判った。連れておいで』
飛び上がって喜ぶ少女に、新品の胴着が渡された。
『ゾロの家に行くのなら、それもついでに渡しておいで。今度から、うちの道場に来るといい』
──── そんな会話があったことも。
当日。ゾロを迎えに行く途中の道ばたで、大人たちが会話していた。
母の病名とその余命について。父について。身体の弱い子供について。両親はもちろん、その子供も長くは生きないだろうと。
そこまで聞いたくいなは、血相変えて食ってかかったという。
『そんなことない! ゾロは強くなれる! 絶対、大剣豪みたいに強くなる!』
『な、なんだ、この子は』
『ほら、あそこの道場の……』
『ああ、なんだ。道理で乱暴だと思った。女の子のくせに』
『これだから、片親の子供は……』
──── そんな会話があったことさえ。
何も、知らなかったのだ。
それを知った頃には、彼は病気一つしない丈夫な子供になっていて。どんなに手を尽くしたって、治らない病気があることを知るようになっていた。どんなに強い人間でも、泣くことはあるのだと知ってしまっていた。
その日から彼は、大剣豪みたいになりたいと思ったことはない。
「大剣豪になる」のだと、誓った。
*****
「ゾロ、ゾロ! ちょっと、起きてみろよ、いいから!」
明るい声にたたき起こされ、ゾロは片目だけ開けて周囲を確認した。
狭い小舟に、最近、というか今日仲間になったばかりの少年が立ち上がり、楽しげに笑っている。彼はたしか、悪魔の実とやらを食べたせいでカナヅチだったはずだが、立っても平気なのかと、自分の方が不安になった。
が、もっぱら少年の注意は余所にあるらしい。しきりに空を指さして、彼を招く。
「なんだよ」
「夕日だ、夕日! すげー綺麗だ!!」
「 ──── ああ」
言われて初めて気づく。
彼が昼寝を開始したのは、昼下がりだった。あのころは直視できなかった太陽が、今では水平線ぎりぎりまで降りてきて、真円の赤を描いている。時間が経つのは早いものだと、妙なところで感心した。
空は一面薄雲がかかり、巧い具合に太陽光線を拡散して、空全体を淡い朱色で染めている。彼らが今まで進んできた僅かばかりの距離も、これから進むべき広大な進路もすべてが夕焼けに染まり、完璧で且つ脆く崩れやすい美しさを見せている。
瞬きをすれば、その一瞬で形が変わり、息をすればその一時で美しさも変化する。自然が描く果てのない芸術の下で、少年は心底幸せそうで自慢げな笑みを浮かべた。その笑みも夕陽色で、彼の服の色と相まって赤一色となり可笑しい。
「……綺麗なもんだな」
「だろ!? だよな! 俺、こんな綺麗な夕日は生まれて初めてみた!」
幸福な声にただ、そうか、と頷いた。
遠い昔に見た夕陽が過ぎる。少しだけ、胸が痛んだ。昔の自分と同じように、ただ無心に夕焼けの美しさに感嘆する少年の姿に、遠い記憶を呼び起こされて目が眩む。固く結ばれた小指の痛さが不意に蘇った。
「なんだよ」
急に黙った男を、ルフィは不審げにとがめる。
「いや……」
誤魔化そうかと思ったが、それより先に言葉が出た。あのときの、愚かで何も知らなかった自分に苦笑する。
「色々、知らないことが多かったな、と思ってな」
「そうか。そりゃ、よかったな」
時折、頭の構造を疑いたくなるほど単純な少年は、あっさり一蹴して船縁に腰掛ける。振動で揺れる小舟を調節しながら、ゾロは片眉を引きつらせた。
「……よかった、ってのは何だ?」
「知らなかった、ってことは、今は知ってるってことだろ? よかったじゃねえか、今は知ってるんだからよ」
足の上で頬杖を付いて、ルフィはにんまり笑う。
夕日に染まるその笑みが、自分の内面を見透かしているようで面白くない。反論の言葉を思いつかないことも、それを大して不快に思ってないことも、面白くなさに拍車を掛ける。
自然、ため息が落ちた。
「てめえは時々、馬鹿みたいに頭がいいな」
「ししし、そうか?」
「誉めてねえよ」
「なんだよ、それ」
なおも抗議をしようとする少年を放って、彼は再び横になり目を閉じた。再び眠りに落ちようとする彼の足下で、暢気な声がかかる。
「なあ、ゾロ。腹減った」
「あ? コビーたちに貰った食料があるだろ。それ喰えよ」
「もう喰った。腹減った」
「……ちょっと待て」
嫌な予感に背を押され、飛び起きる。眠る前には確実にあったはずの食料が、綺麗さっぱり無くなっていた。2、3日やそこらは保つだろうと思われた食料も、何より大切な水さえも入れ物ごと無くなっている。まさかあれまで食べたのかと思うと、呆れ果てて怒るどころではない。
「 ──── 俺は今、心底てめえの仲間になったのを後悔してるぜ」
「ししし、そうか?」
「だから、誉めてねえっつってるだろ! どうするんだよ、これから!」
「知らねえ!」
「威張んな!!」
今までの自然に感嘆する気分は何処へやら。二人はたちまち争いを開始する。お互い本気の、血を見かねない争いは疲れ果てるまで続き、結局引き分けに終わった。倒れ込んだ視界の先はすっかり暗く、満点の星が広がっている。
夕焼けは何処に行ったのかと考え、今しがたの深刻な、しかし馬鹿馬鹿しい争いを思い、彼は笑った。笑い出すと止まらなかった。
「何笑ってんだよ、ゾロ」
「知らねえよ」
「そうか。そりゃ、面白れえな」
船の反対側に倒れ込んだ少年もまた、そう言って笑い出した。今度は笑い合戦とばかりに、腹を抱えて笑った。頭の下で軽く小指に触れてみる。まだ微かに痺れて痛かった。それも可笑しくて精一杯声を上げて笑った。
目を閉じると、あの日の夕焼けがまざまざと思い浮かぶ。
(約束)
あの日の笑顔で、少女が小指を差し出した。少女を思うとき、自分はいつでも小さな子供のままだ。しかし、今の彼はその言葉の意味するところを知っている。だから、しっかりと小指を握り返せる。
「 ──── 約束だ」
微かに、己だけに聞こえるようにそう呟いて、ゾロは再び眠りの世界に落ちていった。
END
<管理人のつぶやき>
複雑な家庭環境と病弱な身体のゾロを気遣うくいなのやさしさがすごくよく伝わってきます。また彼女はそんなゾロを揶揄する大人たちに対し、大声で怒るまっすぐな心と強さを持っています。彼女に見守られた少年時代、ゾロは幸せだったにちがいありません。
二人連れ立って夕陽を見に行くシーンが大好きですv そして、夕陽に向けるくいなの強いまなざしに心を打たれました。
海の幸・山の幸様のゾロ誕企画『まりも玉〜ゾロ誕生祭〜』で出されましたフリー作品第2弾です!
おはぎさん、すばらしい作品をどうもありがとうございました!