明日

            

おはぎ 様



 名を呼ばれていることに気付いていたが、少女は聞こえないフリを貫き通していた。誰がどういう理由でどんな顔して呼んでるかさえ判っているというのに、確認する必要なんてない。今の自分に必要なのは、眼下に広がる里山の風景であり、その向こうに控える黒さを増した山々であり、夕暮れを通り越した青黒い空である。ただ、それだけだ。
 「くいな!」
 声が無視できないほど近くにやってきたので、彼女はしぶしぶ振り返る。そこには、道場着を着たままの少年が立っていた。膝に手を置き、俯いて肩で息をしているため表情は判らないが、その緑頭のイヤと言うほど見覚えがあり、彼女はまたそっぽを向く。
 「なによ、ゾロ」
 蝿でも払うかのように素っ気なくあしらわれたせいか、彼は荒い息のまま怒鳴り声をあげた。
 「なにやってんだよ!」
 「なにが?」
 「もう、練習始まってるぞ。なんで来ないんだよ」
 「……」
 そんな時間だろうな、とは感じていたが、身体を動かす気にはなれなかった。膝を立てて頬杖を付き、わざとらしくにやりと笑ってみせる。
 「あんたは? 練習に行かなくていいの?」
 「お、俺は……」
 「あんた、ただでさえ弱いんだから、さっさと練習に行きなさいよ。あとでまた泣いたって知らないからね」
 「だ、誰がいつ泣いたっていうんだよ!!」
 口が裂けても『心配した』などという単語が出てこない少年は、直ぐに顔を真っ赤にして怒り出した。その顔を眺めながら、少女はふとこのごろ彼の泣き顔を見たことないと思う。これから先、もっと見る機会は減るだろう。成長、という簡単な単語はこんな所にさりげなく現れ、彼女に時の流れを伝える。
 くいなの思惟など知る由もなく、マメが残る掌を広げゾロは大げさに主張した。
 「今度こそ、俺の勝ちだからな! そっちこそ今に降参だって泣くようになるんだからな!」
 「……ふーん。ま、夢見るのは誰にだって出来るもんね」
 「な、なんだと!」
 先ほどまで山の端に引っかかっていた夕陽と同じ色した顔で、何やら喚く少年の甲高い声を聞き流しつつ、くいなはゆっくりと立ち上がった。
 「ところで、ゾロ。お父さんは? 何か言ってた?」
 「あ? べつに? くいなは何処かって聞いたら、多分丘の上にいるだろうから呼んでこいってさ」
 「……ふーん」
 二度目になる生返事をしつつ、傍らに置いた竹刀を拾った。べつにお腹も空いてなかったが、そろそろ限界だろう。日が完全に暮れてしまってからでは、帰り道は少々心細い。それに……。
 少女は同じように竹刀を握りしめた少年に目をやった。
 父がなぜ自ら迎えに来ずに彼をやったのか、判るような気がする。だから、帰ろうと思った。背丈が彼女の胸の辺りまでしかない小さなライバルは、頼りないようでいて彼女の一番素直な部分を引き出す、不思議な力を持っている。
 あまり黙って見つめていたせいだろう。ゾロは不思議そうに目を丸くして、彼女に問うてくる。
 「くいな? どうしたんだ?」
 「 ──── 」
 「さっきから変だぞ。夕飯食い過ぎて腹でも痛ぇのか? それとも便秘か?」
 「……あんた」
 「あ、下痢の方か?」
 捧げ持つだけだった竹刀に彼女は唐突に力を込め、思い切り水平に振り切った。
 「なんでそういう、デリカシーのないことばっかり言うのよ! このバカ!」
 「わわっ! なんだよ!」
 文句を言いながらも、少年は慌てて首をすくめて竹刀を避ける。隙を逃さず、近づいて足を引っかけた。そこまでは想定してなかったのか、少年はあっさり転ぶ。その喉元に竹刀を突きつけてやれば、勝敗は簡単についた。
 睨みつけてくる緑頭を見下ろし、なるべく嫌みっぽく見えるよう笑う。
 「はい、わたしの勝ち。2000勝目だったっけ? 記念すべき勝利、ってやつね」
 「勝手に増やすな! まだ1999……じゃねえ! 今のは卑怯だろうが! 数には入れねーぞ! だから、1998だ!」
 「そうだっけ? ま、どっちでもいいけど。どうせ、すぐに増えるんだし」
 「……〜〜! つ、次は負けねえ!!」
 1997回以上は確実に聞いていると思われるセリフを口にして、ゾロは喉元の竹刀を払った。立ち上がって砂を落とし、改めて指を突きつけてくる。
 「いいか、くいな! いつまでもずっとこのままだと思ってんじゃねーぞ! 俺はいつか強くなって、お前を負かしてやるんだからな!!」
 暗くなり始めた空へ木霊するほど大きく宣言し、彼は悔しげな顔のまま身を翻し走り出した。言うだけ言うと満足するのが彼の常だから、追いかけて慰めてやる必要もないだろう。少女はふうと息を付き、竹刀を肩に置いて両手首を預け、空を見上げた。
 幼い誓いを黙って聞いていた月と目が合う。
 「いつまでもこのまま、だってさ」
 小さく笑う。
 「バーカ」
  ──── 少年は知らない。
 彼女がどれだけ、少年の力を脅威に感じているか。
 刀を習い始めたのは彼女の方がずっと昔で、その間一度も休むことなく練習を続けてきた。なのに、ホンの何年か前に竹刀を初めて握った少年が、今はぴったりと自分の真後ろに立っているのだ。苛立たしいことこの上ない。
 軽くあしらっていたのは初めの一年ほどだけで、今の彼女は必死で少年に追いつかれないように努力を重ねている。でも、そうやって空けた距離も想像を超える速さで埋められていた。自分が習得するのに何ヶ月も掛かった技術や、勝敗を分ける一瞬の隙を見極める方法をいとも簡単にやってのけるのだ。しかもそれらを「勘」の一言で済ませ、貪欲に先を目指そうとする。
 天与の才。
 その言葉が彼女にもたらす憔悴と不安など、与えられた当人は知るはずもない。
 加えて、あの言葉。




 『いいかい、くいな』




 『お前は女の子なんだから……』




 道場から逃げ出す前に聞いたはずの言葉を脳裏から追い払い、くいなは目を閉じてゆっくり息を吐き、再び目を開く。先ほどより確実に暗くなった故郷の景色が目に入った。泣いても喚いても足掻いても逃げ出しても、避けられないものはここにある。だったらぶつかるしかないのか、それとも……。
 宵闇を見据える瞳がふと和み、彼女は口の端で苦笑した。
 その視界ぎりぎりの所で、ゾロが手を振っている。早く来いと言ってるらしい。片手を挙げて応え、歩き出す。
 「さ、帰ろ」



  ──── その踏み出した足のその先に、終わることのない明日が待っている。






END



 

<管理人のつぶやき>
くいなは、天与の才は自分ではなく、目の前の少年に与えられたことを誰よりもよく知っている。それでも自らを奮い立たせて稽古に励んできたのに。この日、くいなは父親からあの言葉を聞いたのでした。彼女の中で、何かが崩れてしまったのかもしれません。
けれど、この先くいなはゾロとあの約束を交わすわけで、それはゾロがくいなを対等な競争者と認めているということ。そのことは、くいなにとっては何よりも嬉しく、励みになったことと思います。

海の幸・山の幸様の2003年ゾロ誕『greenpeas』での先着1名様限定のフリー作品でしたのを、挙手して頂いて参りました!!
そうですよ、ゾロの誕生日にくいなは欠かせません(笑)。私もおはぎさんと今年もくいな繋がりができて幸せでしたv
おはぎさん、すばらしい作品をどうもありがとうございました!

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