日曜日の昼下がり。
道場から帰ってくると、茶の間のちゃぶ台には、一人分の食事が用意されていた。
その日、ゾロは家で一人で留守番をすることになった。
家族は午前中から親戚の法事に出かけていた。
ゾロは道場での鍛錬があったし、子供だからと法事行きを免除された。
掛けられた布巾を取り払って、ゾロは一人でも行儀良く手をあわせる。
「いただきます。」
ありがとう
「ごちそうさまでした。」
食べ終わった時も、ちゃんと合掌して唱和する。
挨拶は道場でも厳しく教え込まれていて、それをキッチリ守っているゾロだった。
その直後、ゾロは腕を枕にしてゴロンと仰向けに寝転んだ。
この辺はちっとも教えを守っていない。
親から食べてすぐ寝ると牛になると言われているのだが、ゾロはそんなことを気にしたことがない。
生まれてこの方、食べた直後に寝ても、牛になったことがない。
いつも目を閉じれば10秒で眠れる特技を持つゾロだったから、牛にならないことは、今までの経験上よーく知っているのだった。
しかし、今日は寝付けなかった。
先ほどまでの鍛錬の興奮がまだ冷めやらないからだ。
また、くいなに負けた!
これで何敗目だろう。
もう数えるのも嫌だ。
どうしてアイツには勝てないんだ!
こんなに毎日練習してるのに。
アイツよりもずっとたくさん練習してるつもりなのに。
くいなのことを考えると、ハラワタが煮えくりかえる。
どうしても追いつけない。
この劣等感は、いつかくいなを剣の力でねじ伏せない限り、消えないのだろう。
ひとしきに悔しさに身を任せた後、何気なくカレンダーを見る。
今日は11月11日、ゾロの誕生日だ。
今夜はきっとごちそうだろう。
母親が法事の帰りに牛肉を買ってくると言っていた。すき焼きにするんだと。
次にゾロは、自分の誕生日より次の日付に目を止めた。
あっ、と声を発して起き上がる。
明日は一つ宿題の提出があった。
図工の宿題だ。授業中に完成しなかったので、家に持ち帰って仕上げることになっていた。それが一週間前。そして、明日の図工の時間には完成させたものを持っていかなくてはならない。
ゾロは長い廊下をペタペタと裸足で歩いて自分の部屋へ向う。
母屋とは廊下で繋がった離れにゾロの部屋はあった。ゾロの家は古い木造家屋で、無駄に広かった。
ふすまを開いて入ると、そこには四畳半の自分の城。
タンスと机が一つずつ。部屋の隅には剣道の道具類が置かれている。
部屋に入って真正面は障子が閉め切られているが、開けると縁側が続き、庭を眺めることができる。
庭は母屋を通らなくても、玄関先から回ってくることができるので、普段はこの縁側から直接出入りすることの方が多い。
ゾロは机の上に放り出してある学校のカバンの中から宿題を取り出す。重いのに、この一週間カバンの中に入れっぱなしにして学校へ通っていた。
宿題は、木彫り細工だった。手のひらに乗るくらいの大きさの木の塊を、好きな形に削るというもの。
ゾロは熊にすることにしていた。
カバンの中から彫刻刀も取り出した。
畳の上に尻をついて座り、両足の裏で木を挟んで固定させ、続きを彫っていく。
ゾロはまだ真剣の刀を持っていないけれど、刀を見るのも触るのも扱うのも大好きだ。けれど、刀は刀でも、彫刻刀は勝手が違う。
あまり器用とは言えないゾロは、手を切ったり、畳を削ったり、なかなか苦戦する。
熊の四足の部分はなんとか不恰好ながらも削り出せた。次は顔に取り掛かる。耳を作りたいけど、うまくできない。
そういえば、くいなはこんなことも上手だった。
師匠の部屋へ呼ばれた時、床の間に置いてあった木彫りの鷲は、くいなが今のゾロの歳の頃に作ったものだという。とても立派なものなので、一緒に呼ばれた先輩達が、「てっきりどこかの著名な先生の作品かと思いましたよ」と褒めちぎっていた。
紙飛行機を作っても、一番上手いし、一番遠くまで飛ばす。
それをうらやむ道場の仲間達は、みんなアイツに紙飛行機を作ってもらいたがる。
俺なんかよりも、みんな、アイツがいいんだ。
剣のことだって、アイツに教えてもらうヤツらの多いこと。
アイツは何をやっても器用で。剣も強くて。なんでもできて。人気があって。
たった2歳しか違わないのに。
アイツもみんなにはやさしいのに、俺にだけは冷たい。
いつも馬鹿にしてるみたいに言う。まるで俺がなんにもできないみたいに。
いつの間にか、苛立つ気持ちを木彫りにぶけけていた。
なかなか上手くいかなくて、力任せに刀を動かした。
(ええい、もうちょっと、こう。違う、こうじゃなくて、こう!)
――ブスッ
鈍い音。嫌な手応え。
じっと手元を見ると、彫刻刀が太股の内側の部分に突き刺さっていた。
(うわぁ)
わずかばかりの彫刻刀の刃が、自分の太股の肉に埋もれてるのは異様な光景だった。
見て驚きはしたが、不思議と痛みを感じない。驚きで感覚がぶっとんでしまったのかもしれない。
ゾロは、彫刻刀を抜いてしまう。
やはり気が動転していたのだろう。
刀を刺したら、むしろ抜いてはいけないと教えられていたのに。
抜けば、返って出血が多くなると知っていたはずなのに。
時既に遅し。だらだら〜っとゾロの太股から血が吹き出した。
続いてじわじわと鈍痛がやってきた。
(止めなくちゃ)
傷口を手で押さえる。しかし、指の間から溢れるようにして、血が出てくる。
(ちりがみ!ちりがみ!)
ちり紙を2、3枚重ねて押さえるが、すぐに追いつかなくなった。あっという間に血で濡れる。
次にちょっと手を伸ばして道場の稽古袋から、手ぬぐいを引っ張り出して、傷口に当てた。
それも見る見るうちに赤く染まっていく。
そして、痛みが急速に鋭利なものへと変化していく。
ドクドクドクドク。
脈打つたびにあふれ出る。
血が、血が、血が、血が止まらない。
いつもなら出ても、ちょっと押さえてたら止まるはずの血が、どうしても今日は止まらない。
人間は1/3の血が流れたら死ぬという。
どうしよう、このまま止まらなかったら。血がなくなってしまったら。
俺、死ぬのかな。
嫌だ、嫌だ!
まだ死にたくない!
俺はまだやりたいことがあるんだ。なりたいものがあるんだ
くいなとも戦って、勝たなくちゃいけないのに。
誰か―――
「ごめんください。」
天の救いか、玄関先で訪問を告げる声。
微かに聞こえた。
確かに聞こえた。
「ごめんください。」
再度、声が響く。
早く入ってきて。
そして自分を見つけて。
どうか、この血を止めてほしい。
ゾロは大声を上げた。
助けてー!助けてー!と。
(・・・・・・。)
けれど、その後は何の音もしなくなった。戸を開けた音も閉めた音も、何も。
訪いを入れる声も、もうない。
もう耳を澄ましても、コトリとも聞こえない。
ゾロは、自分の声が玄関までは届かなかったことを悟る。
もう誰もいない。誰も助けに来てくれない。
血は止まらない。
手も足も手ぬぐいも真っ赤だ。
見てるだけで目まいがする。
これが、現実に自分の身に起こってることだなんて信じたくない。
(ううっ)
このまま誰にも気づかれず、血が全部流れて死んでしまうんだ。
家族が帰ってきたら、冷たくなった自分を発見するんだ。
まだ、くいなに一勝もしてないのに。
もっと強くなりたいのに。
それなのに、こんな死に方。
悔しくて、情けなくて。
「うわぁぁぁぁ〜〜ん!」
「ごめんください。」
ゾロの部屋と庭の縁側を仕切る障子が、カラリと開いた。
そこに小柄な少女―――くいなが、風呂敷包みを抱えて立っていた。
障子戸に手を添えたまま、始めはキョトンとしてたくいなだったが、半ベソをかいた、血まみれのゾロを見て、アッと小さな声を上げた。
くいなは急いで部屋に上がりこむと、手にした風呂敷包みをほどき、風呂敷を引き裂きながらゾロに尋ねる。
「どこから出てるの?」
出血場所はどこなのか。こう全部が赤く染まってると、どこが出血場所か分からない。
ゾロはおののきながら自分の太股に視線を落とすことによって、くいなに出血の場所を教えた。
くいなの声は緊迫していた。
そのことがゾロの恐怖を殊更煽った。
ふだん冷静沈着にしている分、くいながこんな声を出すということは、ヤバイのだ。
くいなはゾロの手と手ぬぐいを除け、風呂敷の布で血を拭き取る。手を探り入れて傷口の場所を確かめた。次に風呂敷で傷口に包帯を巻くように巻きつけると、ぎゅうぎゅうと縛り上げる。その上から更にくいなは手を押し当てる。あまりにきつくて、ゾロは堪えきれずにわあわあと泣き出した。
「我慢して。だいじょうぶだから。こうしてたら、血は止まるから。」
くいなの大きな黒目がちの瞳が、ひたとゾロの瞳を覗き込む。恐ろしいほど真剣なまなざしだ。
ゾロは後ろに手をついて自分の体を支え、両脚を前に投げ出して座り、もうされるがままになっていた。
頭の中がうすぼんやりとしてきて、何も考えられないまま、その瞳を見返した。
ただ、くいなの手にも、もうあちこち赤い色がついているのだけはハッキリ覚えいてる。
その手の白さのせいで、赤い血の鮮やかさがいっそう際立っていた。
***
くいながお医者さんを呼んでくれた。そしてお医者さんが血が止まったのを確認してくれた。
お医者さんはゾロへの注意を忘れなかった。処置が遅かったら、危なかったんだよと。
それから、くれぐれも刃物の扱いには気をつけるようにと言い置いて、帰っていった。
ゾロは泣き過ぎて、疲れて、ヘトヘトだった。身体が鉛のように重かった。
そんなゾロを見て、くいなが押入から布団を引っ張り出す。
布団を敷いてくれようとしていると悟って、ゾロはやめろと叫んだ。
くいなの前で寝るなんて、恥ずかしくてたまらなかったから。
でも、段々とそれを気にする余裕もなくなってきた。体がだるい。
大人しく布団の中に入る。入ったら、背中に根が生えたようになって、身体が布団に沈み込んだ。
くいなはゾロを寝かしつけると、その体でふくらんだ掛け布団の上をポンポンと叩いた。
やがて、白い手が、ゾロの額に当てられた。
「熱は無いね。」
最初ひんやりしてると思ったくいなの手から、段々とじんわりと温かい熱が伝わってくる。
そこから何か目に見えない力が、ゾロの身体に染み込んでいくみたい。
さっきあんなに泣いたのに、また目の奥が熱くなってきた。
安心する。
母親の手みたいで。
この手が、いつも自分をコテンパンに倒しているなんて、信じられない。
こいつは、こんな手も持っているのか。
覗き込む顔はやはり心配気だった。伏し目がちな黒い瞳が静かにゾロの様子を窺っている。
こんなやさしい表情のくいなを、あまり見たことがない。
彼女と相対する時、彼女はいつも厳しくまなじりを決した表情をしている。
くいなはゾロを相手にする時、決して手加減しない。真剣勝負だ。
そうだ、くいなはいつも真剣にゾロに向き合ってくれていた。
奢らず、欺かず、まっすぐに。
偽らない。ごまかしがない。誠心誠意、心を込めて。
なぜ、自分に冷たいなどと思ったのだろう。馬鹿にしてるなどと感じたのだろう。
彼女はそんなことはしない。
今だって、ゾロはかっこ悪いところを見せたのに、くいなは決してからかったりしない。
今日のことを道場の仲間に言いふらすなど、そういうことも絶対にしない。
それが分かる。
それは、彼女のいつもの姿勢を見れば自ずと分かることだった。
くいながそうやってゾロに向き合ってくれることを、とても嬉しく感じていたのに。
分かっていたのに、分かっていないことだった。
いつの間にか、ゾロは眠りに落ちていたようだ。
母屋の玄関から聞こえる賑やかな音で目を覚ました。
顔を横に向けると、くいながそばに座ってこちらを見ていた。
「おばさん達、帰ってきたみたい。じゃ、私は帰るわ。おばさんには今日のことは私から話しておくからね。ゾロはこのまま寝ててね。」
そう言って、くいなは膝立ちになって、もう一度ゾロの顔を覗き込む。
その顔をまぶしそうに見返して、ゾロは思った。
(寝てる間も付いててくれたんだ・・・・お礼言わなくちゃ)
(今日は、ありがとうって・・・・)
そんなことをブツブツと考えているうちに、くいなはふすまを開けて、サッサと出て行ってしまった。
結局、お礼を言えなかった自分にガックリきた。
ゴロリと寝返りを打って、大きなため息をつく。
その時、枕元に布のふくらみがあるのに気がついた。
腹這いになって、そのふくらみに手を伸ばす。
ピンで手紙が留めてあった。
ゾロがいない時に、道場のみんなと一緒に作りました。
私が代表で届けに来ました。
これから寒くなるけど、これ着てがんばれ。
誕生日おめでとう。
今日、くいながやってきた時、手にしてた風呂敷包みの中身がこれだったのだ。
ゾロは起き上がり、布を持ち上げて広げてみた。
たっぷり綿の入った半纏(はんてん)だった。
明日はきっと、ありがとうって言おう。
FIN
<あとがき或いは言い訳>
遅くなったけど(まったくだ)、ゾロの誕生日記念小説デス。
ウソップの村での坂道の攻防で、刀を足蹴にしたナミにきちんと「ありがとう」って言ったゾロ。とても印象に残ってマス。初登場の時もリカちゃんのおにぎり食べてちゃんと「ごちそうさま」って言ってたよね。実に礼儀正しい奴やと思います。そういうことちゃんと言えるのは、こういうことがあったから・・・って結局過去捏造話かい(汗)。
ゾロの話といいながら、くいなが活躍してるんですが・・・まーこれもいつものことですね^^;
因みに、今まで少年ゾロ話をいくつか書いてますが、その中でこのゾロが一番幼いですー。
11月はゾロ月間やとしみじみ思った。月の最後に堂々と言おう。ゾロ、誕生日おめでとう!