【イースト菌】
パンの酵母菌。パン生地の中の糖分を分解して、アルコールと炭酸ガスを作り、パンを膨張させる。また、このアルコールと炭酸ガスがパン独特の香りと風味となる。
イーストの効能
パンの在庫が切れた。
久しぶりに自分で焼くとするか。
パンは何と言っても主食だから、切らすわけにはいかない。
しかし、この船には飢えた獣が4匹も存在する。
しかもそのうちの1匹は朝駆け夜討ちで在庫を荒らす。
昨夜ちょっと熟睡したばかりに、今朝、見事にやられていた。
ウソップの罠にも引っ掛からなかった。
証拠も残さなかった。
ヤツめ、段々と学習してやがる。
名前がサルだから、頭もザルだと思っていたが、そうでもなかったようだ。
仕方ないから、今朝から当分の間、自前でパンを焼くことにする。
1回目、試しで焼いたら、塩味が足りなかった。それ以外にもいろいろと気になる点が。
船上での限られた材料であることや、次いつ補給できるかを考えれば、このまま食卓に出すべきなのだろうが、これで出すには俺の料理人としてのプライドが許さねぇ。
どうせ、食品や材料の在庫の管理は俺がしてるんだから、これくらいの無駄使いなら誰にもわかりゃしねぇだろう。
1回目のパンは…そう、罠のエサ、囮に使えばいい。それなら無駄使いとも言えまい。
と、こんな風に正当化するあたり、1回目のデキが相当に納得できないものだったんだな、と自分で痛感する。
次は成功させるべく、2回目のパン生地をこねている時、ナミさんがキッチンに入ってきた。
「うわ、すごくイイ匂い!」
朝のあいさつよりも早く、彼女は開口一番そう言った。
その後、あいさつを交わす。
焼き芋の匂いと同じで、パンを焼く時のイーストの香りは女性を誘惑するものなのか、ナミさんはふらふらと俺の方に近寄って、手元を覗く。
「ここでパン焼くの、初めて見るわ。」
「夕べ、ネズミに全部やられちゃってさ。」
「ああ、麦藁帽子を被った大きいネズミね。」
そう言いながら、ナミさんはクスクスと笑った。
しばらくナミさんは俺のそばでパン生地をこねている様子を見ていたが、
「おっと!こうしちゃいられない、進路の変更しなくちゃ。」
と言って、俺から離れた。
「何?また方向がずれたの?」
「そうよ。こう日に何度もだと、たまんないわ。」
グランドラインの気まぐれな潮流は、相変わらず小さなGM号を木の葉のように翻弄する。
でも、俺にはそれも天の恵みだ。
方向がずれる度に、たいていはナミさんが操舵のためにキッチンにやって来るから、つかの間の逢瀬が実現するというわけだ(時々、ウソップがそれをやりに来て、ガッカリする時もあるが)。
ヨッコラショと言いながら、ナミさんは舵を操る。
俺の身体にも船の向きが変わったことが伝わってきた。
ふう、とナミさんは息をつく。
いつもなら、ナミさんはこれが終わると、出て行ってしまうのだが、今日はそうではなかった。
再び、ナミさんは俺のそばに近寄って、俺の作業を覗き込んでいる。
これもイーストの効能か?
この香りが、ナミさんをここに留めていることは間違いなかった。
「何か手伝うことない?」
これまた非常に珍しい。
訳もなくうれしくて、舞い上がってしまいそうだ。
しかし、手伝ってもらうほどのことは何も無かった。
それで、こう言った。
「じゃあさ、袖、捲り上げてくれるかな。」
作業の始めに捲り上げていたシャツの袖が、段々と下がってきていたことが先ほどから気になっていた。
了解、と言って、ナミさんが俺の腕に触れてくる(正確には服の袖だが)。
ナミさんは、俺の右側に立っていたので、まずは右腕から。
一旦、袖を全部下ろし、袖口から丁寧に折り畳む。ゆっくりと袖が腕の上を上っていく。
折り畳む所作の度に、ナミさんのひんやりした手が俺の肌に軽く触れる。
ただそれだけのことなのに、まるで愛撫されているかのような錯覚に陥る。
「次、反対の腕、貸して。」
俺は右腕を下ろすと、ナミさんの方に向きなおって、今度は左腕を差し出す。
俺の目のすぐ下にオレンジの髪。彼女のみかん畑の移り香が俺の鼻孔をくすぐる。
彼女は顔を俯き加減にして、ひたむきに俺の袖を捲くってくれている。
伏せられた長いまつげが魅惑的だ。
警戒心の強いナミさんがこんなに容易く接近してくれることはあまりない。
めったにないチャンス。
所在無くなった俺の右腕。
手が粉だらけでなければ、抱きしめていたかもしれない。
それでも、やはりたまらなくなって、衝動的に俺はナミさんの髪に、軽くキスしていた。
ナミさんはビクッとした反応を返して、顔を上げた。
俺も同時に頭を少し下げたので、もう鼻も触れんばかりの距離にナミさんの顔。
大きな瞳が俺をまっすぐに捉える。
俺たちはしばし見詰め合った。
琥珀色の瞳が俺の顔を映している。
俺は期待に胸が膨らむ。
時間よ止まってくれ。
このまま、ナミさんが瞼を閉じてくれたら。
そしたら俺は―――
しかし、情けないことに、先に目を逸らしたのは俺の方だった。
「できた。」
ナミさんはそう言って服の袖を捲くり終えると、何事も無かったかのように、俺から離れた。
じゃあね、朝食できたら呼んでねと軽く手を上げると、部屋を出て行った。
パタンとドアの閉まる音が虚しく響いた。
「ああ〜。」
自然と情けない声が漏れた。
あんなことしなけりゃ、今ごろ、もうちょっとこの部屋に居てくれたかもしれないのに。
馬鹿!俺の馬鹿!
でも、たまんないんだ。
ナミさんに必要以上に接近されると、舞い上がって、興奮して、それであんな行動に出ちまうんだよ。
けれど、いざとなると怖気づいて、あのザマ。
「ああ〜。」
再び情けない声が口を突いて出る。
俺がうなだれて、パン作りに戻った時、不意にドアが開いた。
振り向くと、ちょこんと顔だけを覗かせたナミさんだった。
戻ってきてくれた!
その事実がうれしくて、一瞬涙が出そうになる。
きっと俺の顔は輝いていたに違いない。
しかし、ナミさんはニッコリと微笑んで、
「サンジくん、それ以上、材料の無駄使いはしないでねv」
とだけ言うと、またパタンとドアを閉じた。
見透かされいている。
俺が内緒で材料を使い込もうとしたこと。
「ああ〜。」
俺の口から、本日三度目の情けない声が漏れた。
FIN
<あとがき或いは言い訳>
またやっちまったよ、情けなサンズィ。でも好きさv(←鬼)
先日、デパートの地下を歩いていたら、パン売り場から、それはそれはパンのいい匂いが。それで思いついたのがこのお話。サンズィファンには石を投げられそうですが・・・。
ところで、最後、ナミがどうしてサンジの使い込みが分かったかというと、サンジがまだパン生地を捏ねている段階だったのに、すでにパンを焼いた匂いがしていたから、ということなんですけど、どうでしょう?(訊くな) こんな説明しないと分かんない話ですんません(汗)。