鋭い頭痛。頭の奥底がガンガンする。
その痛みのせいでルフィは目を覚ました。

身体が――――変だ。

 

水難

 

まだ視界がはっきりしない。
今、自分がどこにいるのか、何をしていたのか分からない。
段々とぼやけた視界が晴れてきて、木製の天井が見えてきた。
自分は仰向けで寝ているようだ。
無意識のうちに起き上がろうとした。
それで初めて自分の上に人が覆い被さっていることに気付いた。
温かい重み。
目の前にオレンジ色が広がる。
ナミの髪。
ナミがルフィに覆い被さっていた。
ルフィはなぜそんなことをナミがしているのか理解できなかった。
今度は力を入れて、ナミもろとも上体を起こし、ナミの両肩を掴んで身体を自分から引き剥がした。
ナミは裸だった。
それに気付いてギョッとし、ルフィは慌ててナミの身体を再び引き寄せる。その方が見えないからだ。
ナミは一糸纏わぬ姿でルフィにしがみつくような形で眠っている。
次にルフィは自分も何も身に付けていないことに気付いた。
ななな、何で。
ルフィはさすがに焦った。



***



ゴーイングメリー号がある冬島に辿り着いたのは今朝のことだった。
その厳しい環境が人間を寄せ付けなかったのか、無人島のようだ。
山々は氷河で覆われ、海も湖も氷で覆われていた。
それでも、その冬島は春を迎えはじめていて、溶け始めた流氷の間隙を縫って本土へ上陸することができた。

ルフィの冒険魂はこんな極寒の地へ来ても衰えることは決してなかった。
彼は着いて早々に船を飛び出し、島の奥地へ突き進んでいく。
クルー達はそんな彼を止めるのはもう時間と体力の無駄だと思い知らされている。
ただ、彼は天然のトラブルメーカーなので、多少でもそれを緩和させるために、御目付け役を必ず付けて、彼を野に放つようになっていた。

今回の御目付け役は珍しくナミだった。不幸にもジャンケンで負けたのだ。勝負事に強い彼女はジャンケンにも恐ろしいほど強く、御目付け制度が導入されてから今まで1度も負けたことがなかった。

それなのに、ついに負けてしまった。
一方、そんな彼女を得て、鬼に金棒なルフィは有頂天だった。
彼女がいれば自分は絶対に迷うことはない。これで安心して冒険に行けるというもの。



「ルフィ、そんなに早く歩かないでよ。追いつけないでしょ。」

「あ?悪ぃ、悪ぃ。」

ルフィは歩く速度を緩め、まだ雪深い道なき道を2人で歩く。ナミは厚手のコートにブーツ、耳マフ、手袋、マフラーに帽子という完全防備の姿で歩く。ルフィは形ばかりのコートを羽織り、足は素足に草履といういつものスタイル。見てるこっちが凍死しそうだ。
やがて湖が見えてきた。水面は凍り、春の光を反射して輝いている。それが息をのむほど美しかった。

(こういうのが見られるのが冒険の醍醐味なのかしらね。)

とナミは思った。
ルフィはキレイだ〜と叫びながら、湖を目掛けて走っていく。

「ルフィ、足元に注意するのよ。転ばないでね。」

それがなんだか小さい弟に対しての物言いのような気がして、ナミは一人笑った。

湖はまるで天然のスケートリンクのようだった。ルフィが草履をスケート靴のようにして、器用に滑って遊んでいる。

ナミは辺りを見渡し、小屋を見つけた。
無人島なのに小屋。
不審に思って窓から中を覗いてみると、簡易のベッド、暖炉、更には漁業用と見られる網が置いてあった。どうやら季節によっては人が訪れて、この湖で漁をする習慣があるようだ。
小屋の中を一通り覗いた後、目を湖の方へ戻した。
そして、気付く。

ルフィがいない。
先ほどまで確かに氷上を滑っていたのに。

(まさか。)

そのまさかだった。湖面の中心付近に先ほどまで無かった穴が開いている。
湖の真中は岸辺と違い、氷が薄い。そこへルフィが何も知らず滑っていったとしたら。

「ルフィ!!ルフィー!!」

ナミは慌てて湖の氷面の上を駆け、途中からは慎重に穴が開いたところまで行く。
ルフィが沈んだと思われる大きな穴を覗き込み、ナミは真っ青になった。

「嘘でしょう?」

湖に落ちたとしか考えられない。
泳げないルフィは絶対に自力では脱出できない。
助けを呼ぶにはゴーイングメリー号から離れすぎている。
自分が助けるしかない。
しかし、いくら自分が泳げるとしても氷が張る水中に入るのは自殺行為に等しい。
でも、躊躇している間はない。時間を争うのだ。
ナミは着ているものを脱ぎ始める。
衣服を着ての水泳は黄泉の国へ行く近道をするようなものだからだ。
キャミソール姿になり、ブーツも脱ぎ捨て、意を決して水中に飛び込んだ。
あまりの冷たさに気が遠くなりそうになる。しかし、懸命に手足を巧みに使って水底へと潜る。
水中は透明度が高く、沈んでいるルフィを容易に発見することができた。
ルフィは完全に気を失っていた。
あとはもう必死だった。ルフィを引っ掴むと水底を蹴って湖面を目指した。



寒い。凍える。冷たい。
浮力のある水中と異なり、重力のある地上で、ルフィの全体重を背中に乗せ、小脇に自分の服を抱え、震えながらナミは先ほど見つけた小屋へと辿り着く。

困ったことに小屋のドアには鍵がかかっていた。これでは入れない。
ナミは一旦、ルフィを下ろし、辺りを見回す。針金のようなものはないか。それがあれば、この程度の鍵なら簡単に開けられるはず、そう思ったからだ。
果たして、針金を見つけた。しかし、そこからが大変だった。指がかじかんで、思うように動いてくれない。鍵穴に針金を差し込むことにすら、数分もの時間を費やしてしまった。
急いでいるのに!早くルフィを温めないと!

ルフィは水上に出た途端に激しく咳き込んで大量の水を吐き出し、すぐに自発呼吸は戻った。
それを見て、ナミは少し安心したが、ルフィの身体は完全に冷え切っていた。このまま放置したら自力では体温が戻らず、凍死してしまう。

いつもの自分なら鍵を壊すくらいの作業、ものの数秒で片付けられるのに。
指先に息を吹きかけて少しでも温め、再度挑戦する。
カチャリという金属音と共に手応えを感じた。開いた!



ベッドの上にルフィを横たえた後、ナミは暖炉の火を熾した。
少し戸惑ったが、ルフィの濡れて張り付いた冷たい衣服を脱がし、手近にある椅子の背もたれに掛けて干す。
置いてあった毛布をルフィの身体に掛けて、その上から全身を必死でマッサージした。
少しでも温まるように。

「ルフィ!ルフィ!」

懸命に呼びかけるが反応はない。それどころか益々身体は冷えていくかのようだ。
本で読んだことがある。人を温めるには人肌が一番だと。
ナミはおもむろに濡れたキャミソールを脱ぎ捨て、次いで下着も取り払った。
毛布の中に潜り込んで、ルフィに覆い被さる。

「冷たッ!」

思わず声が漏れた。それほどにルフィの身体は凍えていた。
ルフィの肌に直に触れてマッサージを施す。自分の熱を分け与えるように全身でルフィを覆う。
ルフィ!目を覚まして!死なないで!
そう心に念じながら果てしないようなその作業を続けた。



***



(そうか、俺は湖に落ちたんだ。)

やっとルフィは腑に落ちた。

(そんで、すごく寒くて、冷たくて。)
(それをナミが温めてくれたんだな。)

そう思うと感謝の気持ちが込み上げてきて、ルフィはナミを抱きしめる。
最初は感謝の行為だったのに、抱きしめた途端に別の感情がルフィを支配した。
目の前には固く閉じられた長い睫毛。規則正しい呼吸音。しなやかな身体。肌はきめ細かく、吸い付くような感触。そして、自分の胸元に感じる柔らかな膨らみ。
一気にそれらが意識されて、ルフィは先ほどまでの頭痛とは別に眩暈を覚えた。
好奇心が頭をもたげ、少しナミの身体を離し、ナミの胸元を覗く。

(うわ、こんなことするんじゃなかった。)

見た途端に、網膜に写った映像の刺激の強さに焦って、ルフィはまたもや力強くナミを抱き寄せた。
その力でナミは少し身じろぎし、やがて目を覚ました。

「ルフィ・・・?」

「ナミ・・・。」

ナミは始めはあいまいに視線を彷徨わせていたが、次の瞬間、ガバッと身体を起こし、ルフィを真っ直ぐ見つめる。

「ルフィ!気が付いたのね!大丈夫?ああ、良かった!一時はどうなることかと・・・!」

感極まってナミはルフィに抱きついた。
ルフィはナミの背中を擦りながら、

「ありがとな、ナミ。助けてくれて。」

とナミの耳元に囁いた。

「もう馬鹿なマネしないでね。」

少し涙声のナミ。

「ああ、しない。」

そう言ってルフィはナミの背に置いていた手を回し、強く抱きしめた。

ある程度、感激が過ぎ去った後、ナミははたと自分の格好に気付いた。
確かに無我夢中だったことは認める。しかしだからと言って、恥ずかしさが半減するものでもなかった。

「ナミ、あったかいなー。」

ルフィはそんなナミに気付かず、のん気にいつまでも背に両手をまわしてナミにしがみついている。

「あの、ルフィ?私、服を着るから。あんたも着なくちゃいけないし、ちょっと離してくれる?」

「あ?ああ。」

名残惜しさを感じつつも、ルフィはナミを離した。

ナミが辺りを見回すと、自分の服はベッドからやや離れたところに散乱していた。
できれば毛布で身体を隠してそこまで行きたいが、凍死は免れたとはいえ、死の淵から生還したばかりのルフィからたった一枚の毛布を取り上げるのは躊躇われて、ナミは裸のまま服を取りに行くことにした。
ナミは恥らうようにして両腕で胸を隠して、

「ルフィ、悪いけど、ちょっと向こう向いててくれる?」

と呟く。

「あ?うん。」

ルフィは素直にナミとは反対の方向へ身体ごと向けた。
それを見てとって、ナミはベッドから離れて、散らばった自分の服を拾い集めた。



背後から衣擦れの音が聞える。
ナミが服を拾い集めているのか。
ルフィは少し頭をずらして、後ろを盗み見る。
一糸纏わぬナミの後姿がそこにはあった。
ルフィだって女の裸くらいは見たことがある。サンジが持っている本の中にそればっかりのがあって、皆で回し見をしたことがあるから。
しかし、生身の女のソレを見るのは初めてで。ましてやそれが仲間のナミとあっては。

(なんか・・・桃みたいだ・・・。)

とルフィは思った。
以前、食卓にも上ったことがある。
白くて、瑞々しくて、やわらかくて、甘くて、そして美味しい桃。

ルフィの視線には気付かずに、ナミはそのまま服を身に付け始める。
豊満な胸にブラジャーをあて、ショーツを穿き、セーターを着た。
今ではセーターの裾から白くて長い両足がスラリと伸びているのだけが見える。
どんどん、桃の部分が見えなくなっていって、それがルフィは惜しいと思った。
ズボンを穿く時にナミは前屈姿勢となり、セーターの裾からそれまで隠れていた下着がチラリと覗いた。
今までは全裸を見ていても平気だったにもかかわらず、今度は強烈な信号となってルフィの脳天に突き刺さった。


(ぶっ)


ズボンのベルトを締めている時に背後に変な音が響いて、ナミは振り返った。
見ると、ルフィがベッドの上で、ナミに背を向けたまま、前のめりに突っ伏している。

「ルフィ?どうしたの?」

何事かとナミが飛んでルフィの傍に駆け寄る。前のめりになったルフィの身体を起こし、顔を覗き込む。
ルフィは左手で鼻口を押さえて、顔を真っ赤にさせていた。

「苦しいの?吐き気がするの?」

「はなひはへた。」

「え?」

「は・・・鼻血が・・・出た・・・。」

「ええっ!?」

ナミは驚いてルフィの顔をまじまじと見た。
これは何か身体の変調の兆しなのだろうか?凍死しそうになったショックが身体に現れて・・・?
しかし、次に目に入ってきたもので、ナミは少し合点がいった。
ルフィの右手は毛布の上から懸命に下半身を押さえ込んでいたから。

(こいつ・・・。)

ナミは安心半分、呆れ半分といったところで。

「あんた、私の着替えを盗み見してたわね?」

ビクビクッ。
素直なルフィの反応。

「私の裸をタダで見るなんていい度胸じゃない。」

「いや!見てねぇぞ!俺は!」

怒られると思い、咄嗟に嘘を付く。

(そんなバレバレの嘘をつかれてもね。)

「ま、いいわ。助けたことと、裸鑑賞料をあんたに貸しということで。」

ちゃんと3倍にして返すのよ、とナミは笑いながらルフィの頭を小突いた。

「うん・・・。」

ルフィは納得できないものの、思っていたほどナミに怒られなかったので気が抜けて、強く拒否もできず、ナミの言いなりになった。

「もう少し寝てなさい。私、ちょっと船まで行って、皆にこのこと知らせてくるわ。」

窓に目をやると、もう夕陽が湖面に沈みかけている。出かけたのが朝だったから、そろそろ戻らないと仲間達が心配するだろう。応援を呼んで、本調子ではない(かもしれない)ルフィを運んでもらおう。
ナミはルフィをベッドに寝かせ、ベッドから離れて、小屋のドアへと向かった。


遠ざかっていくナミ。
その姿が窓から射し込む夕陽に照らし出されて、髪の色と違わぬ茜色に染まる。
ナミという輪郭がぼやけて、そのまま夕陽の光の中に溶けていきそうだ。
ひどく儚く見えるナミ。

そんなナミの後姿を見て、ルフィはなぜかひどく焦燥感に駆られた。
なぜこんなことを思うのか分からないが、もうナミに会えなくなるような気がして。
そして夢中で言葉を紡いだ。


「ナミ!!」

「なに?」

「その、俺も一緒に行く!」


振り返り、ルフィの顔を見つめて、何言ってるの、とナミは言おうとした。
しかしルフィの目を見て思いとどまる。
ルフィの目が行かないでくれと言っている。今は一人になりたくないと。



どうしたのかしら。こいつでも心細いことなんてあるのかしら。
それともこれがあの水難がもたらした身体の変調の一種なのかしらね。



「分かったわ。船には一緒に戻ろう。でも、もう少し身体を休めてからね。」

やはりナミは弟にでも諭すような口調になってしまい、一人苦笑いした。

「うん!」

と、これには元気一杯にルフィは返事をし、そんなルフィを見て、ナミは微笑んだ。

ナミは暖炉の前にひざまづき、薪をくべる。
続いてルフィの服の乾き具合をみてから、畳む。
食べ物は無いか辺りを物色する。
テキパキと行動するナミ。

そんな様子をルフィはベッドに横になったまま見る。
心の中は先ほどと違って安心感に包まれていた。
毛布を自分の口元にまでひっぱりあげて、しししと笑う。



―――ナミが側に居る。それだけで俺は鬼に金棒なんだ。


FIN


 

<あとがき或いは言い訳>
「遭難」を書いた後、すぐに「水難」話が思い浮かび、書きました。
溺れるといえば、この人しかないでしょう。
それにしても、私、鼻血ネタが好きなのだな・・・。

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