君は船の女神、僕はその船の大工 −4−
びょり 様
麦藁海賊団の新クルー、パウリーの朝は誰よりも早い。
薄靄立ち込める夜明け前から、前の船より数倍広くなった船内を、念入りに点検して回るのが彼の日課だ。
朝起きて――(中略)――グルリと見廻る。
この日も同じだった。
杖を支えに満身創痍の体を引き摺り、甲板へ向う。
風に靡く青々とした芝生を目にした途端、パウリーの体から力が抜け、その場にどうと崩れ落ちた。
手放した杖が、彼と同じく芝生の上に、ぱったりと身を投げる。
倒れた先には女が1人、朝陽の昇る方角を、一心に見詰ていた。
パウリーの胸に昨夜の屈辱が蘇り、沸々と女への憎しみが込み上がって来る。
あれから彼は一睡もしていないのだ。
女は今日も普段と変らず、下着の様な薄い布地の、丈の短いワンピースを着ていた。
潮風がヒラヒラと裾を弄り、彼女の白い腿を剥き出しにする。
募る憎々しさから、パウリーは女に聞えぬよう、悪態を吐いた。
「何時か飼犬に噛まれて泣きやがれっ」
直後――ゴォォン!!!と、彼の脳天に重い踵が突き刺さった。
「物騒な呪い吐いてんじゃねェよ!!まだ懲りてねェのか?クソ強姦魔!」
地にめり込んだ顔を起し、不機嫌を露に振り返る。
そこには何時の間に近付いたのか、彼に負けず劣らず不穏なオーラを纏ったサンジが立っていた。
「…だから冤罪だって何度言わせる気だ?俺はあの魔女に嵌められたんだ!…お蔭でハレンチ男の称号戴くわ、親にもされた事の無ェ辱めを受けるわで、男の面目丸潰れだぜ!呪いの1つも言ってやりたくなって当然だろっ!!」
「ああ、確かにな。あれほど魅力的な女(ヒト)だ…理性が欲望に負けて、ついフラフラと押し倒したくなるのも当然。男として、てめェの気持ちはよく解るぜ」
「言ってねェだろ、そんな事!!!いいよもう、お前!キッチン戻って味噌汁でも作ってろ!」
「生憎今朝はスープだ」
「スープかよ!?朝は味噌汁にしてくれって言ったろ!!」
ちっとも噛合わない会話に焦れてパウリーが喚く。
しかしサンジの右目は、半身を起して自分を睨むパウリーを通り過ぎ、夜明間近の海を眺めて立つ女に向けられていた。
薄暗かった水平線が、何時の間にか桃色に染まっている。
間も無く朱い陽が顔を出し、海上に黄金色の橋を架けた。
女のたおやかなシルエットが、男2人の下にまで伸びる。
存在に気付いて居るのか居ないのか、彼女は黙って海を見詰ていた。
「嗚呼ナミさん!!君は女神!!麗しき船の女神…!!」
突然サンジが、感極まったように両手を広げて叫んだ。
「天使じゃなかったのか?」
「女神で天使で天女で妖精なんだ!!ナミさんは!!」
「…だからもうキッチンに戻れって、お前」
最早コックの心は、パウリーには手の届かない天上の楽園に行ってしまっているらしい。
夢見がちな瞳の中には、雲の上を散歩する天使やら、花園を舞う妖精やら、人魚の泳ぐ泉やら…言葉で表現すればロマンチックであるけれど、要は裸の美女達の王国がそこには広がっていて、中心に建つ黄金宮殿の玉座には、きっとあの女が女神として君臨しているのだ、それも裸に近い姿で。
まともな会話が成立しよう筈も無い…今更に気付いたパウリーは、芯から空しさを覚えた。
せめてもの腹いせに、精一杯の皮肉をぶつけてやる。
「そんなに汚れ無き『女神』で居て欲しいなら、もっと『男』って生物を懇々と教えてやるんだな。残念ながら世に居て取り巻く奴等の殆どは、女神と違い清廉じゃねェ。知らせず居たんじゃ、何時か泣きを見せちまうだろうよ」
てっきりまた踵を落とされるかと身構えていたが、サンジは黙ったままで居た。
無言で内ポケットを探り、煙草とライターを取り出す。
そうして頬杖を突くパウリーの横へ来ると、だらしなく足を伸ばして座った。
パウリーもそれに倣い、体を起して胡坐を掻く。
彼の横で1、2度吹かした後、サンジは火の点いた煙草をナミに向けて言った。
「…ナミさんの左肩に、刺青が有るだろ?」
問われて「ああ」と頷く。
実はそれも「気に喰わない」ものの1つだった。
綺麗に産んで貰った体を傷付ける行為に、腹立たしさを感じていたのだ。
「あれな…以前は違う図柄だったんだ。その頃の彼女は刺青を隠して、袖の有る服を着てたんだぜ」
そこで一旦区切って煙草を吹かす。
ぷかりと浮いた煙が白い糸の様になって、後ろに流れて行った。
「で、俺たちと会って……今の刺青に変えたのさ」
それ以上サンジは説明しようとしなかった。
しかし話さなくても解る。
以前は隠していたという事は、その刺青は彼女の意思で入れたものではなかったのだろう。
それがこいつらと会ったのを機に、刺青を新しく彫り直し、以来隠さず居るようになったと…
言わば今の刺青は「呪縛からの解放」を意味している訳で…
思い起せばアクア・ラグナを越えようとした女だ。
思い起せばエニエス・ロビーに喧嘩を売った女だ。
「世間を甘く見ている小娘」だなんて、どうして考えたのだろう?
彼女も荒くれた大海を渡る、海賊の1人なのに。
いたたまれない気持ちになって、葉巻を1本取り出す。
透かさず脇からサンジが火を寄越した。
「ん」と軽く礼を示して、咥えた葉巻を近付ける。
吹かした葉巻の尻から煙が糸の様に棚引き、先行する煙と絡んで消えてった。
朱かった陽の光は黄金色に変り、前に立つ航海士の髪をも金色に輝かせる。
ふと仲間だった女の姿が、彼女の姿に重なって見えた。
「肌を露にしてられるのは、信頼している証と言うなら……」
――あの女も、俺を信頼してはいたのだろうか?
呟いたのを耳にして、サンジが怪訝な顔を向ける。
慌てて首を振り、「何でもねェ」と誤魔化した。
すると彼の態度を誤解でもしたか、サンジは牽制するかのように、こう口にした。
「ま、俺だって男だ、不埒な考えを持ってなくも無い。
けど海の上で無体な真似は働かねェさ。
彼女は海から愛される、船の女神。
海の上で手を出したら、海神の怒りに触れて、船沈められちまうからな!」
ニヤッと笑う瞳は海と同じ蒼い色で、パウリーは「ああだからこいつはあの娘に御執心なんだな」といたく納得する。
きっと海神とやらの目も同じ色に違いない――そんな想像をしたりした。
仕事が済んだのか、前に立つナミが男2人の方を振り返り、明るい声を上げた。
それを合図にサンジが立上り、回転スキップしながら近付いて行く。
パウリーは胡坐を掻いたまま、片手を挙げて応えた。
海は空と陽を映して眩しく煌き、サニー号の1日は今日も始まる。
アイスバーグさん、元気にやってますか?
時々死に掛けたりもするけれど、俺は元気です。
この船の連中ときたら、毎日毎日船を壊してくれて、俺は一時たりとも気が休まりゃしません。
けど連中は笑ってこう言うんです。
『この船には女神が居るから大丈夫』
『女神が笑って居る限り、船は絶対沈みはしないんだ』ってね――
【終わり】
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