女の顔  −3−




びょり 様


「…見付けるのを手伝ってくれるって言ったでしょ…?」


背後で水の滴る音が響いた。
足下の泥濘が、どんどん広がってく。
まるで氷水に浸かってた様な手…掴まれた腕から全身へと、鳥肌が伝播する。


「ゾロ早く…!!何じっと立ってるの!?何時もの馬鹿力で振り切って逃げてよ…!!!」


そうしたくても全く動けねェ。
掴んでる力は大して強くねェのに…俺は産れて初めて金縛りを体験していた。

それでも何とか首を曲げて、背後を窺う。
肩越しに女が、口からゴボゴボと水を吐き出してるのが知れた。
その水が滴り落ちて、足下の地面を泥濘に変えている。
泥濘は女と俺を外界から遮断するバリヤーの様に思えた。

「ゾロォォ…!!!」

ナミが半狂乱になって、俺と女の間に飛び込んだ。

「ゾロから離れろ幽霊!!!その手を放してっ…!!!」

女ともみ合うナミのブラウスが、濡れてくのを背中で感じる。
踏み切りの音が非常ベルみたく、頭の中で喧しく鳴り響いた。


「…幽霊?…誰が?…私が?…酷い。違うわ…」


水を吐き出しながら、女は流暢に言葉を話す。
肩越しに窺った目の玉は、白く濁っていた。


ヤバイ。
ヤバイヤバイヤバイ。
逃げろ。
ナミ逃げろ。
叫びたくても声が出せねェ…!


「見るからに幽霊じゃない!!!よしんば生きてても怪しくて関り合いたくないわ!!!ゾロから離れて!!!言う事聞かなきゃグーパンチかますわよ!!!」

「……ストレートで長く伸ばしてるから、幽霊っぽく見えるのかな?でも彼が好きって言ったから…」
「誰も聞いちゃいないわ!!!取り憑くんなら、その彼氏にでもすればいい!!無関係な私達にちょっかい出さないで!!!」

「……嫌!だってこの人、約束したんだもの…!見付けてくれるって…!」


駄目だ…ナミ。
関るな。
俺を放って早く逃げろ。
畜生、傍に居るのに…
動け…動け…動け…!


「…邪魔だから…出てって――」


ゴボボボボ…と夥しく零れる水の音がした。
「あっ…!!」と一声叫んだナミの体が宙に浮く。


「ナミ…!!!」

目で姿を捉えた瞬間、金縛りが解けた、声も出た。
飛んでく体を必死で抱留めようとしたが、物凄い力で引っ張られ、俺の体まで宙に持ち上がった。

抱き合ったまま、ゆっくりと――に感じられた――滑る様に落下する。

投げ出された衝撃を後頭部にしこたま受け、俺は意識を失った。







…………ガタンゴトンという振動が下から伝わる。

直ぐ側を電車が通り過ぎてくのが解った。


「……ゾロ!ゾロ!ゾロ!ゾロ…!!」


目を開ける、ナミが泣きそうな顔で、俺を覗き込んでいた。
後ろの空はとっぷり暮れていて、星が光って見える。


「…気が付いた!?ね!頭大丈夫!?」
「……その言い方は止せ。まるで馬鹿になったみてェじゃねェか」
「だって…ゾロ、落ちて頭打ったのよ!痛いでしょ!?血とか出てる!?」
「痛ェこた痛ェけど……」

地面に着いてる後頭部を、手でそっと撫ぜてみる。

「……瘤が出来てら。けど、出血はしてないみたいだぜ」
「良かった…!!」

ナミは心底ホッとしたように、顔をクシャクシャにした。

段々と意識がはっきりして来る。
公園の外へ投げ出された俺達は、道を跳び越し、線路とを仕切る金網の下に落ちたらしい。
道の拡張工事をしている為、金網の下は土を晒している。
それが幸いした。
もし硬いコンクリートの道に落ちてれば、俺は頭を打って死んでたかもしれねェし、金網跳び越して線路に落ちてたら、更に悲惨だったかもしれねェ。

「ナミ…お前は大丈夫なのか?どっか打ってねェか?」

地面の上に仰向けで、寝転んだまま訊く。
目の前のブラウスは何処も濡れていない。

「私は大丈夫…ゾロが…下敷きになってくれたから」

俺の上に跨ったナミは、瞬かせて答えた。

「ありがと…ゾロ…それにゴメンね…ゴメンね…!」

瞳が潤み出す。
ヤベェ泣くと思った時は手遅れだった。
鼻水をズルズル啜る音が耳に届く。
どう宥めたもんか困った。

「…謝るのは後にして退けよ。起っちまう」
「――っの馬鹿すけっ…!!!」

口に出した途端、頬をパァン!!と叩かれた。
真っ赤な顔で2回3回4回と繰り返す。
叩かれる度に飛び散った涙が、俺の頬に雨みたくかかった。

踏切りがカンカン音を打ち鳴らす。
金網越しに、電車がガタゴトと横を過ぎて行った。







明くる土曜、復活したルフィが学校に来た。
小雨そぼ降る帰り道、俺達は昨日の体験を話した。

「ズッリィの!何で俺呼ばなかったんだよ!?」

案の定ルフィは口を尖らせた。

「呼んだわよ!携帯で何度も!ところが全然繋がらなかったの!」

ルフィに傘を差しかけながら、ナミが怒鳴り口調で説明する。
「今日はお昼前から弱い雨が降り出すから、傘は忘れず持った方が良いわよ」とのナミ予報を、朝玄関口で聞いときながら、奴は「弱いんならいいや!」と言って、持って出なかったらしい。
そのせいでナミは学校に居る間中、微妙に機嫌を悪くしていた。
怒らせた当人は全く気にしてなかったが。

今も傘を差して貰いながら、煩わしそうに外へ飛び出す。
それでもナミは追っかけて傘を差してやるが、苦心の甲斐無くルフィの黒い頭も制服も、べっとり湿って行った。

「あ〜あ!俺も見たかった、腹さえこわさなきゃなァ!…何食ったのが悪かったんだろ?」
「そりゃ敢えて言うなら全部だろ」
「カレーライス5杯食べた後、アイス食ってスイカ食ってパイン缶食ってコーラ1リットル飲んで、風呂上りにコーヒー牛乳飲めばねェ〜」

普通だったら、ただの腹痛で済まないだろう。
けれどルフィは「暑さでカレーがくさってたのかも…」と、他方向を追求し原因を得ようとする。
暫く首を傾げて悩んでいたが、吹っ切ったのか、坂道を1人でどんどん下って行った。
その後をナミが一生懸命追っ駆ける。
仕方なく俺も駆け足で付いて行った。

雨のせいか、坂道を通る車は少ない。
真ん中まで下った所で坂は一旦終わり、道を分断する線路が現れた。
左角には昨日ナミと寄った蕎麦屋が建っていて、その脇には公園へと続く小道が通っている。
ルフィが店の玄関前で足を止めた。

「これから行ったら、俺も会えるかな?」

振り返って、にんまりと笑う。
…言うだろうと思った。

「馬っ鹿止しなさいって!!話したでしょ!?ゾロなんか取り憑かれる寸前だったのよ!!落ちた先が線路だったら、轢死体が2つ並んでたかも…!!」

ナミが血相変えてルフィに掴みかかる。



昨日怪事に見舞われた後、俺とナミはそのまま逃げ帰ろうとして、重大なへまを思い出した。
2人して公園に鞄を置きっ放しだ…明日通学する為に必要とはいえ、取り戻しに行く勇気は出なかった。
それで近くの交番に行き、「変質者が居る」と嘘を吐いて、おまわりに公園まで付いて来て貰い、無事取り戻す事が出来た。
おまわりは俺達が嘘を吐いてる事に気付いてたろうに、特に尋ねず怒りもしなかった。
公園に出る幽霊の噂を知ってたから、かもしれねェ。

帰り道、ナミは「クモ膜下出血の心配が有るから…」と言って、病院に連れてこ
うとしたが、俺はそれを振り切り逃げた。
今朝登校した時も、しつこく説得されたが、こうして頭が回転してるって事は、大丈夫なんだろう。



「けど、その幽霊、見つけて欲しい物が有って、ゾロに頼んだんだろ?
 じゃ、見付けてやろうぜ!」

そう言うと、ルフィは俺の顔をじっと見た。


――1人じゃ見付けられなくて困ってたの!…どうしても見付けなくちゃいけなくて。


女の声が胸に蘇る。
乗りかかった船だと、腹を括った。

「……約束したしな」

「ちょっ!?ゾロまで…あの恐怖を忘れたの!?後1度でも関ったら、あんた今度こそ取り憑かれるから…!!」
「ナミ…お前は帰れ!」

ルフィから俺に変えて掴みかかって来たナミの腕を振り解く。
けれどナミは引き下がろうとしなかった。

「嫌!!2人が行くなら私も一緒に行く!!仲間でしょ!?何よ急に特別扱いして!!水臭いわ!!」
「駄目だ付いて来んな!お前は万が一俺達が戻って来ない場合の、緊急連絡役としてアパートに待機してろ!」
「ルフィ!!あんたからゾロに言ってやってよォ!!」

俺が断固意見を変える気が無ェのを覚ったナミは、ルフィを照準に定めて縋る。
ニッとルフィが何時もの様に、歯を剥き出して笑った。

「ナミ、帰れ。おまえが居ると邪魔だ」

飄々と身も蓋も無く言ってのけた。
ナミの顔が見る見る真っ赤に変ってく。
怒っている、これは相当怒っている。
だがナミは恐ろしくブータレたまま、坂道を黙って下ってった。





「お前相手だと、あいつは言う事聞くんだな」
「それを言うなら、ナミはおまえ相手だと、つっかかるんだな!」

不平を鳴らした俺に、ルフィは同じく不平で返した。
互いに面白く思ってない事を知り、顔を見合わせて笑う。



ナミが坂を下るのを見届けた後、一拍置いてから俺達も坂を下った。
踏切りを渡り、緩やかに右へカーブする坂道を下った先に、俺達の住むアパートが有る。
俺とルフィは家に戻って昼飯を食い、準備万端整えてから、問題の公園に向った。
もっとも2人共携帯を持ってない為、危機に遭遇してもSOSは飛ばせない。
準備万端とは言い難かったかもしれねェ。
ナミに借りりゃあ良かったかと、公園に向う道の途中で考えなくもなかったが、今更頼めるほど厚い面の皮は持ってなく、結局出たとこ勝負で挑む事にした。



俺とルフィが公園に着く頃、雨は止んでいた。
地面が黒く湿っている。
ぐるりと囲む紫陽花は水滴を載せて光り、雨上がりの虹を思わせた。

幽霊が出没した奥のベンチにルフィを案内してく。
八重桜の木が覆い被さってるせいで、辺りは昼でも不気味に薄暗かった。

「お前、スコップまで持って来やがって…」

軍手を嵌めながら、呆れるように言う。
俺同様に軍手を嵌めたルフィの手には、何処から調達したのか謎な、柄の長いスコップが握られていた。
俺なんて後は精々懐中電灯くれェだぜ。

「だってよ、幽霊が見つけてっつったら……自分の死体の可能性が1番高くね?」

それは俺も先ず考えた。

「…生前大切にしてた落し物って線も有るだろ」
「でもなァ〜、ゾロの話聞いたら、必死具合から死体しか思いつかねーんだよなァ〜」
「そうまで推理して、よく見付けてやろうなんて考えたな」

「だってかわいそーじゃんか!見つけてほしくて1週間も出て来てたんだろ?
 ゾロだってそう思ったから、ここに来たんだろ?」


――約束したでしょ?


――見付けてくれるって。


「俺…幽霊がゾロ選んだの、解る気がする。
 ゾロ、何だかんだ言っても、女に優しいからな♪」

「……人聞きの悪い事言うな!」

目蓋の裏に女好きの悪友のにやけた顔が浮んだ。
あいつとは違うと自負している。

けれど確かにルフィの言う通り、俺は幽霊に見込まれたらしく、公園に入った時から声が聞えていた。
見込まれた理由は解らねェけど、知らんぷりして一生取り憑かれるのは御免だ。

「ルフィ、スコップで掘る必要は無いらしいぜ」

片方の爪先で、足下に嵌ってるそれを突く。
マンホールの蓋に似た円形金属板の表面には、「防火貯水槽」という文字が刻まれていた。

「…こん中沈められてんのか?そうか!だからズブぬれで現れたのか!」

合点がいったルフィはポンと手の平を拳で叩くと、腰を屈めて蓋をじっと観察した。

「で、どうやって開けるかだが……公園の管理に頼むとしても、理由がなァ…」

下手な事言って犯人に間違えられるのも御免だ。
しかし蓋には常時鍵がかけられてて、管理の人間しか開けられないようになってる筈…

「ゾロ、これ………開くぞ!」
「何…?」

金属の蓋の表面には、取っ手が2つ付いている。
両手で上に引っ張ってみたルフィは、真剣な顔付で言った。

「嘘だろ?……鍵かかってねェの?」
「かかってねェ……すっげー重たいけど、俺とゾロで力を合わせたら、多分持ち上がる――どうする?」

沈黙が下りたそこへ、踏切りの音がカンカンカンと響き渡った。
公園内を吹き抜ける風が、木の葉をザワザワと鳴らした。




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