7月3日−−−ハタチの誕生日
そんな日に、振られてしまった。
まるで、自分がこの世に生まれてきたことを全否定されたような気分になる。
今すぐ海外に飛べば、日付が戻ってもう一度誕生日をやり直せるかしら?
SEXUALITY & MELANCHOLY −1−
ぞの様
バンコク行きのチケットを取った時、日付はもう7月20日だった。
海外に行ったことがない私は、パスポートを取得するところから始めなければならず、申請書類の年齢欄に「20歳」と記入する時にほんの少しだけ涙が出た。
夏休みは実家に戻ってみかん畑の手伝いをするつもりだったけど、ベルメールさんが「20歳の夏にみかんの手入れしてるだけじゃ、もったいないわよ」と背中を押してくれたこともあり、私は初めての一人旅、しかも初めての海外旅行にチャレンジすることに決めた。
実は、飛行機も初めてだった。
離陸の瞬間に体にかかる重力の感じとか、タイヤをしまう「ドンッ!」という音とか、突然静かになるエンジンとか、いちいちドキドキして、私はずっと肩に力を入れたまま、クッションを抱きしめていた。
「海外、初めてなの?」
話しかけられて初めて、隣に座っている人の顔を見た。
さらさらとした金髪で、あご髭の整え方がおしゃれな男の人だった。不思議にうずまいている眉が気になったけど。
アロハシャツに半パン、サンダル履きという、ラフ過ぎる格好が、いかにもリゾートという感じで、私は思わず身構えてしまった。
要するに、チャラい。
「あんまり緊張してると、あっちに着いてからバテるよ?」
その人は、キャビンアテンダントに私の分の機内食も勝手にオーダーして、私の目の前にはチキンとワインが置かれていた。
「空の上は酔いが回るのも早いから、軽く食べて飲んで、後は寝て過ごすのが一番。味は二の次さ」
そう言われて、ワインを開けて飲んでみると、味は確かに普通としか言えなかったけど、アルコールが体に浸透していくのがわかって、少し肩の力が抜けたような気がした。
「……慣れてるんですね」
「まあ、1年のうち3分の1は空飛んでるから。オレのパスポート見せてあげようか?」
頼んでもいないのに、彼はパスポートを取り出してパラパラとページを見せてくれた。何重にも押されまくったスタンプは、落書きのようにページを埋め尽くしていた。
「ね、本当でしょ?」
彼の名前はサンジと言って、大手商社のエリートサラリーマンだった。
正直、その風貌からは想像もできず、私はしばらくの間彼の名刺を穴が開くほど見つめていた。
「ざっくり言うと、買い付けが主な仕事かな。ワインとか調味料とか」
ざっくりということは、本当はもっと複雑ですごい仕事をしているんだろうな、と思った。
バンコクに着いたのは日付が変わる少し前だった。
ゲートを出た瞬間、タイ語であれこれ話しかけられ、正直ものすごく怖かった。
タクシーの客引きだよ、とサンジ君はさらりと受け流し、私の肩にそっと手を置いて守ってくれた。
「ナミさんはどこのホテルに泊まるの?」
「実は……まだ全然決めてなくて。カオサン?っていうところに安宿がいっぱいあるらしいから」
「ああ、カオサンか。オレの常宿もそこにあるから、とりあえず今日はそこにする? もちろん、他を探すならつき合うけど」
とりあえずタクシーに乗り、カオサン通りを目指すことにした。
正直、右も左もわからない国で、サンジ君のような慣れた人が一緒にいるということがとても心強くて、最初はチャラいなんて思ってしまってごめんなさい、と心の中で謝っておいた。
窓の外を流れる景色は、日本のそれとは全く違って、湿気と熱を帯びた喧噪はどこか儚いようで切ないようで、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
カオサン通りにあるサンジ君の常宿は満室状態だった。
サンジ君は予約済みの部屋に荷物を置くと、私の宿探しにつきあってくれた。
通りは深夜になっても賑やかで、オープンカフェでビールを飲んでいる欧米人や、屋台で身振り手振りで注文している日本人も多く見られた。
サンジ君の宿から数分歩いた静かな場所に、良い感じの宿があった。1泊350バーツだから1000円くらいだし、シャワーもトイレもついている。オーナーは女性でカタコトの日本語も話せるから、私は即決した。
「よかったね、ナミさん」
サンジ君は飛行機の中で我慢した分、ここぞとばかりにタバコを吸い続けていた。くわえタバコでにっこりと笑いかけられると、すっかり警戒心も解けて、なんだかこのままさよならするのは名残おしいような気がして、何か彼を引き留める言葉はないかしら、とあれこれ考えていた。
「とりあえず、何かあったらマイペンライで」
「マイペンライ?」
「大丈夫、気にしないって意味。困ったときに使えばどんな意味にでもなる」
その言葉は、コロコロと空気を転がすようで、とても心地よい響きがした。
「ま、変な男に引っかからないように! 特にオレみたいな……ね」
灰皿でタバコを消すと、サンジ君は熱帯の風がふわりと額を撫でるように、ごく自然に私にキスをした。
少し蒸し暑い部屋の中で、天井のファンだけがカタカタと回っていて、体が勝手に汗ばんでくるのがわかった。
「……第一印象って当たるものなのね」
「どんな?」
「チャラいって思った」
「はは……それはこのアロハのせいかな?」
「脱いでも同じよ」
「マイペンライ」
なるほど、この言葉はこんな風に使うのね、と思いながら、私はサンジ君のアロハを脱がし、サンジ君は私のティーシャツの中に手を入れた。
そのまま、ピンと張った真新しいシーツの上になだれ込んで、私と彼はかなり濃厚なセックスをした。
天井のファンがぼやけて見えなくなるほど、部屋の中の湿度は高くて、まるでバスルームにいるかのように私の声は部屋の中に反響していた。
旅の恥は……っていうけど、海外に来たその日にこんなことしてるなんて。
でも、まあいいか。マイペンライ。
元彼は私のことをいつも束縛していた。そのくせ、「お前は自由すぎるんだよ」って、愛想つかして去っていった。
あんたのために、私がどれだけ我慢してきたか、知ってるの?
飲み会も、友だちとの旅行も、実家に帰るのだって、全部あんた優先で断ってたんだから。
次に会うときは、あんたが地団駄踏むくらいにいい女になってやるんだから。後でいっぱい後悔すればいいんだわ。
「さて……そろそろ出勤だ。バンコクの朝は早いんでね」
まだ薄暗い中、サンジ君は耳元でそう言ってベッドを抜けていった。
私は目を閉じたまま、サンジ君の気配を探り、部屋の扉がパタンと閉まる音を確認してから、また深い眠りについた。
「ヒウマイ?(おなかすいてない?)」
午前10時を過ぎてようやく起き、だるい体をひきずるように宿のカフェに入ると、給仕さんらしき女性がお腹をさするようなジェスチャーで話しかけてくれた。
メニューは日本語で書かれていたので、私はそれを指さして、パンと卵焼きとマンゴージュースを頼んだ。
「ビア!」
私の背後で大きな声がして、人が通る気配がした。
給仕さんは満面の笑みで「カー(はい)」と返事をして、大きな冷蔵庫からビールを取り出し、私の側を通りその声の持ち主に届けた。
プシュ、と缶を開ける音がして、ごくごくと液体が喉を通る音までよく聞こえてくる。
ハーッと吐き出す息とともに、また「ビア!」と大きな声がした。
朝からビールなんて。
変なところが真面目な私は、背後にいる人物の顔も知らないのに、その行為について軽く軽蔑してしまった。
私の料理と、2つ目のビールが同時に届き、またしても後ろの人は数秒でそれを飲み干していた。
生ぬるい空気の中、後ろの人が喉をごくごく鳴らす音は爽快感すら感じさせる。
目の前にあるマンゴージュースが、やけに甘ったるそうで、私はえげつなく喉をごくん、と鳴らして、「私も……ビア」と給仕さんに言ってしまった。でも、給仕さんは気づかずにキッチンの中へ入っていく。
「ソン、ビア!」
背後からまた一段と大きな声がして、給仕さんがいそいそと冷蔵庫から2つのビールを取り出した。
「あ、あの私も……」
風を立てて私の横を通り過ぎていく給仕さんに声をかけようとしたその時、私のすぐ側でビールを受け取る気配と、「コップン・クラップ(ありがとう)」と言う声が聞こえた。
トン、とテーブルの上にビール缶が置かれ、驚いて見上げると、体つきのいい背の高い男の人が立っていた。
緑の短髪、鋭い目つきのその人は、ほんの一瞬だけ私のことをじっと見た。
「飲めよ」
そう言って、自分の持っている方の缶を開けて、ごくごくと飲みながらその人はカフェを出て行った。
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