SEXUALITY & MELANCHOLY  −2−

                               ぞの様



よく考えたら、傷心旅行でタイに来てるんだもの。
少しくらいハメを外したっていいんだわ。
昨日サンジ君としたことに比べたら、真っ昼間からビールを飲んで過ごすくらいどうってことない。
彼がくれたビールは、私の中につっかえていた常識とか、体面とか、そういうものをすべて洗い流すように喉を通過していった。
ちょっと味の薄いビールも、この気候にはちょうどよくて、結局彼と同じ、3本飲んでしまった。

カオサン通りを少し歩いて、出会った日本人と情報交換をすると、私はトゥクトゥクをつかまえて出かけることにした。
車の間をすり抜けるように、今にも壊れそうなトゥクトゥクが爆走していく。
うるさいエンジンの音と排気ガスが、午後の蒸し暑さを増幅させた。
一通り有名な観光地を巡ると、ちょうど川沿いに渡し船の乗り場を見つけ、軽い気持ちで乗ってみた。
船はものの数分で向こう岸に着き、目の前には白い塔が不思議な存在感を持って佇んでいた。

それは、ワット・アルンというお寺だった。

タイルを埋め込んだような、色とりどりの塔に目を奪われ、しばらくその場から動けなかった。ようやく落ち着いて中を回っていると、どこからともなく子どもの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
導かれるように近づいていくと、小さな男の子と女の子が短い棒を持ってチャンバラごっこをしていた。
そして、二人が一生懸命に戦っている相手は、今朝私にビールをくれた、あの人だった。
彼はベンチに腰掛けたまま木の破片で二人の「剣」を軽く受け止め、楽々とやり過ごす。きっと、剣道か何かやっている人なんだな、と思った。
キャーキャーと甲高い声を上げて喜ぶ子どもたちを、とても優しいまなざしで見つめている。
その表情に、少しだけ胸がキュンとした。
「……あの」
思い切って話しかけると、彼は私を見て少しだけ驚いた顔をした。その隙に子どもたちの剣をまともに頭にくらって、「痛てェぞ!」と大きな声を出した。
「さっきは、ビールありがとう」
「あァ……別に」
ゆっくりと立ち上がり、子どもたちに「もう終わりだ」と手の動きで示すと、彼は木の破片をポイ、と投げ捨て、その代わりにベンチに置いてあった小さな花束を取り、私の方へ歩いてきた。
真正面から向かってこられると、何故かドキドキして、まともに彼の顔を見ることができなかった。
「これ、やるよ」
新聞紙にくるまれた花束は、色鮮やかな花がぎっしり詰まっていた。
男の人から花束をもらうなんて、初めてのことで、それがリボンも何もついていない質素なものだとしても、とても嬉しかった。
「……ありがとう」
「あいつらから買ったんだ」
見ると、さっきの子どもたちは小さな露店に走って戻り、こっちを指さしながら店番をしている母親らしき女性に嬉しそうに何か話していた。
彼は、そのまま何も言わず川の方に歩いていき、しばらくの間、船の行き交う様子を見つめている。
「あなたは、いつから、タイに?」
ようやく話しかけると、彼は視線を動かすことなく質問に答える。
「……4日前かな」
彼の名前はゾロといって、私よりひとつ年上の大学生だった。
どこか謎めいていて、他人を寄せ付けない見えない壁を作っているようにも思えた。
もともと無口なところもあるようで、二人で宿に帰る間も、ぽつりぽつりと話してくれるだけだった。
「まっすぐに宿に帰ってこられたのは今日が初めてだ」
宿が見えたときにそんなことを言ったので、聞けば極度の方向音痴で、いつもとんでもない場所に行ってしまうんだとか。
遠慮なく笑うと、ゾロはばつが悪そうに、「笑い過ぎだろ」と頭をかいた。
そんなひとつひとつの言葉や仕草が、私の心を掴んで、もっと彼のことを知りたい、と思わせる。

「おーい、ナミさーん!」

声のする方向を見ると、スーツ姿のサンジ君がネクタイを緩めながら手を振っていた。
その姿を見ると、昨日の人物と同じとはとうてい思えず、何かキツネにつままれたようなそんな気分になった。
「サンジ君って本当にサラリーマンだったのね」
昨日私がセックスしたのは、どこの誰だったのかしら? と、一瞬記憶があやふやになった。
「こっちが本業だって」
長い足をもてあますように近づいて来て、サンジ君はタバコに火を点けた。
「あれ、もう友だちできた? メシでもと思ったんだけど、彼も一緒にどう?」
ちら、とゾロの方を見て、サンジ君は首を傾げた。
「まァ……別に」
イエスともノーとも取れるあいまいな返事で、ゾロはそれ以上何も言わなかった。

「それでは、バンコクの夜に乾杯!」

たくさんの客でにぎわっている海鮮料理店で、私たちはグラスを合わせた。
サンジ君が、バンコクで3本の指に入ると絶賛していた料理は、確かにどれもとてもおいしかった。
ゾロはかなりのハイペースでビールを飲みながら、顔色ひとつ変えずに私とサンジ君の会話を聞いていた。
「ナミさん、突然で申し訳ないんだけどさ、明日オレにつき合ってくれない? 取引先のパーティーに呼ばれちまって、パートナー役お願いしたいんだよね」
「パーティー?」
「そう、ドレスとかはプレゼントするから、隣でニコニコ笑っていてくれるだけでいいんだ」
「商社マンって、噂通りチャラいんだな」
横からゾロがそう言うと、サンジ君は少しひきつった顔で、「社会人になると、大人のつき合いってもんがいろいろあるんだぜ? マリモ頭くん」と言った。
ゾロはだからどうしたと言わんばかりにその言葉を無視して、ビールを飲んでいた。
「大学生は夏休みで遊び放題か。うらやましい限りだ」
サンジ君が皮肉たっぷりにそう言うと、ゾロはギロリとサンジ君の方を睨んだ。

……もしかしたら、この二人を同席させたのは間違いだった?

どう見てもソリが合わない二人は、お互いに牽制はするものの、会話らしい会話は全くしていなかった。
「あ、あのね……私、もうすぐ誕生日なんだ! 8月3日」
慌てて、ウソをついてしまった。
「あさってか」
ゾロがそうつぶやくと、サンジ君が身を乗り出して、「じゃあ、あさってはお祝いだな」と言った。
「……お前は何でタイに来たんだ?」
突然ゾロが独り言のように聞いたので、私は一瞬言葉に詰まってしまった。
答えに困ったのもあるけど、いきなり「お前」って呼ばれたことに戸惑って、急にドキドキし始めた心臓を落ち着けるためでもあった。
「……実は、彼氏に振られちゃって……」
今思えば、何の取り柄もないつまらない男だってわかるのに、振られるその瞬間まで大好きだったなんて。
なんだか悔しくて、話している途中でテンションが下がってしまった。
「あーあ、マリモ君が変なこと聞くから」
「オレのせいかよ」
相変わらず険の立った言い方でサンジ君とゾロは私を挟んで睨み合っている。
「ナミさん、いいこと教えてあげようか?」
サンジ君が指をパチン、と鳴らしてニヤリと笑った。

「いい女の条件は、色気と憂いなんだよ」

やっぱりチャラいな、とゾロが毒づくまで、私はその言葉に心を掴まれて何も言えなかった。
「色気と……憂い?」
「そう、sexuality and melancholy」
流ちょうな英語で言われると、意味はわからないのに的を得た表現のような気がして、なぜか感心してしまった。
「大丈夫、ナミさんはすっげーいい女になるってオレが保証するから!」
「余計うさんくせェだろ」
ゾロは呆れて新しいビールを追加した。
「まあ……色気はわかるとしても、憂いって?」
「それは、やっぱり素敵な恋を経験することさ」
「……ふうん」

色気と憂い、か。
私にはどちらもほど遠い言葉のような気がして、なんとなくその場は聞き流してしまった。

「それじゃ、ナミさん、明日よろしくね!」

タバコをくわえたまま、サンジ君はまだ賑やかなカオサン通りの中へ消えていった。
私とゾロはゆっくり歩きながら、宿に向かう。
ゾロは不機嫌そうに口角を下げ、真っ直ぐ前を向いたまま歩いていた。
「あの……ごめんね?」
「あァ? 何が」
「なんか、サンジ君と合わなさそうだったから」
「……どっちかつーと嫌いなタイプだけど、まあ、世の中いろんなヤツがいるなって思っただけだ」
「それならいいけど」
そしてしばらく二人とも無言のまま歩いていると、ふと、あることを思い出した。
「ねえ……ゾロはどうしてタイに来たの?」
ゾロは一瞬立ち止まりそうになったけど、またゆっくりと歩き出して、話し始めた。
「……小さい頃からの親友が、この間事故で死んだんだ」
「……え?」
それを聞いて、私の方が立ち止まってしまった。
「その弔いってわけじゃねェけど……何か日本にいたら息苦しくなっちまって」
「……そうなんだ」
その親友は女の子? 男の子?
もしかして彼女だった?
聞きたいことはたくさんあったけど、それ以上何も聞くことができなかった。
振られて傷心旅行なんて、ゾロに比べたら、バカみたいな理由だわ。
「……なァ、明日の朝、ちょっとつき合ってくんねェか?」
宿の前でゾロはようやく立ち止まって私を見た。
「今日、お前と会ったあの寺……暁の寺って言うらしい」
「暁の寺?」
「あァ、だからあそこで夜明けが見てみたいと思って」
「うん……いいよ」
正直、次にゾロと会える約束ができたのが嬉しかった。
「もし、明日の朝オレがいなかったら、起こしに来てくれよ」
「いいけど、ゾロから誘ったんだからね?」
そう言って、部屋の扉に手をかけたところで、後ろから肩を掴まれ、振り向いたときにはゾロに唇を奪われていた。
唇を合わせるだけの、素っ気ないキスだった。
ふう、とゾロが吐き出した息からは、ビールの香りがした。

「……悪りィ……今日は飲み過ぎた」

瞬きを忘れて呆然としている私を置き去りにして、ゾロはがしがしと頭をかきながら部屋へと戻っていった。



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