このお話は『かわりゆくもの、すべて』の続編です。







ゆずれないもの、ひとつ

                              
糸村和奏 様


嵐から一夜明けた朝。
見張りを交代したゾロが甲板に下りてくると、そこにいつもの喧騒はなかった。
甲板にクルーたちはいるが、皆示し合わせたように無言で、おだやかな波の音だけが響いている。

普段ならば、船長以下数名が釣りだの何だのと大騒ぎしている時間なのに、おかしなことだとゾロは首をかしげた。
すると、すぐそばで本を読んでいたロビンがふわりと手を咲かせ、微笑んで何かを指差した。

「・・・・・・ああ、」

そういうことか、と納得する。


――ナミが、寝ていた。


新世界に入ってこのかた、落ち着きを欠く一方だった海が、ようやく機嫌を直したのは昨晩遅くのことだった。
やれ舵だ帆だロープだと駆けずり回った自分たちもくたくただったが、航海士としてずっと鋭い指示を飛ばし続けていたナミが疲れているのは当たり前だ。
気まぐれにも程がある海のこと、きっとこの凪もつかの間のことなのだろうが、それでも。
僅かに得られた眠りを邪魔するのを忍びないと思うのは、誰もが同じだったようだ。

できるだけ静かに腰を下ろすと、ゾロはデッキチェアで寝息を立てる航海士を何となく見つめた。

読みかけの本が、むき出しになった腹の上に伏せられている。心地良い風に、長いオレンジ色の髪が揺れた。

勝気な光を宿した瞳や、張りのある声が飛び出す口は、揃って閉じられている。
以前病に倒れた時は、プラス苦しげな表情を見せていたが、今はただやすらかだ。付き合いは最も長い部類に入る自分であっても、こういうナミを目にするのはめずらしい気がした。大体、普段甲板で寝ているのは自分の方なのだから。


・・・・・・黙っていれば、たしかに見目は良い女なのだと思う。


2年という歳月を経て、仲間たちは多かれ少なかれ姿形が変化していた。だからナミの髪が伸びたことくらいは、ゾロにとってはたいしたことではなかった。ナミも別段それをアピールすることはなかったし。
しかしそれでも、以前の彼女とは、何かが確実に変化していて。
たとえばこうして、寝ているところを見ても、2年前ならばそんなことは多分、思わなかった。髪の長さがどうこうというよりも、纏う雰囲気が違うのだろう。

しばらくそうして黙っていると、ぺたぺたと草履の音を立ててルフィが歩み寄ってきた。腰に手を当てて、ナミを見下ろしている。
どうした、と声をかけると、んーと生返事を返してきた。

「こいつ、やっぱり疲れてたんだなぁ」
「そりゃそうだろ。起こすなよ」
「起こさねェよ」

言うとルフィは、ナミの隣に座り込んでその寝顔を見つめる。だからちゃんと寝とけっつったのによ、などと若干不満そうだ。
そう言えば、今朝ナミが起きていたと言っていたのはこの船長だったか。

「おまえ、ナミと朝そんなこと話してたのか」
「おう」

まあ、明らかに過労気味だったナミが起きているのを見つければ、ルフィでなくてもそう言っただろう。ナミの眠りは深いらしく、一向に目を開ける兆しはない。
ルフィがその長い髪を一房手に掴んだのを見て、ゾロは顔をしかめた。

「・・・・・・おいルフィ、何やってんだ」
「ん? やっぱり髪伸びたなーと思ってよ」
「だからって引っ張るな。起きるだろ」
「引っ張ってねェよ。触ってるだけだ」

触ってる、だけ。
その言葉に、朝方に船長と交わした会話が、ふと蘇る。


――あいつ、女だったんだよな。


まるで今初めて気づいたかのように言うルフィに、ゾロは一体何を言っているのかと呆れたものだ。
ナミは最初から女だったに決まっている。いくらこの船長が馬鹿でも、そのくらい分かっていただろうに。
するとルフィは、まあそうなんだけどさ、と答えて、こう続けた。


――何か、急にそう思ったんだ。


その時は意味が分からなくて、お前それナミには言うなよ、などと釘を刺したのだが。
今、ナミの髪を指でつまんで弄るルフィを見ると、どうも間の抜けたことを言ったのは自分の方のような気がしてきた。

ルフィの顔は一見いつもと同じで、何の他意も浮かんではいない。
けれど、空気が。少しだけ、違う。
あるいはそれは、気配を感じ取るのに長けた自分だから気づいたのかもしれない。それほどに僅かな違いだった。例えるなら、透明だった水に、色が一滴だけ落ちたような。

きっとそれは、これからも繰り返し、落ちていく。
そうしてある日突然、とっくに色がついていたことに気づくのだ。


・・・・・・気づいてみれば、何と言うこともない。


船長が、この航海士に対して少しだけ違った意識の向け方をしていたのは、かなり前から分かっていたことだ。
ルフィは、男女の差というものを全くと言っていいほど意識していない。ゾロはフェミニストでもなんでもないが、それでも男と女という性別の間には、歴然とした違いがあることは分かっている。それが分かった上で、基本的に区別しないのがゾロであり、明確に区別しているのがサンジだった。
ルフィはそのどちらにも当てはまらない。一見ゾロと同じスタンスに見えるが、そもそもほとんど差を感じていないのだから、区別がどうこうという話ではないのだ。まるで小さな子供と変わらない。

しかし、ナミに対してだけは。ルフィはごくたまに、その枠をはみ出すことがあるように感じていた。

アーロンに傷つけられたナミが泣いて助けを求めた時、魚人の巨体を吹っ飛ばしてルフィが言い放ったのは、「うちの航海士を泣かすな」という言葉だった。あれは、ナミがもし男だったならば、出てこない台詞だっただろうと思う。
およそ性差などというものを意識していない少年が、それでも無意識のうちに大事なものとして認識し、守ろうとしてきたもの。それが此処に来て、ほんの少しずつ変わろうとしているのだとしても、不思議はない。

何かを象徴するように、胸のど真ん中に大きな傷を負った以外は、2年経ってもほとんど変化がなかった船長。
しかし、離れ離れになって過ごした歳月は、確かにこの少年の中の何かを変えたのだろう。

それはとっくに決まっていたことのようでもあって、実際とてもしっくり来る流れでもあって。
・・・・・・あまりに自然すぎて見落としていたことでもあって。


――無防備に眠るナミは、分かっているのか、いないのか。


隣でくるくると髪を弄ぶ船長の、瞳の奥に灯ったものに。
そしてそれを見ている自分も、また。

「・・・・・・まァ、分かってねェだろうな」
「あ? 何か言ったか、ゾロ?」
「いや」

あのコックならばいざ知らず、まさかこの船長に気づかされるとは思わなかった。

2年前より格段に露出が増した上半身に目を移す。
あいつまた胸デカくなったぞ、などと言っていたのはウソップだったか。いやに確信を持った口調だったので、サンジが目を剥いて突っかかっていたのを覚えている。

そのサンジに対してならば、警戒心の一つも持っているだろうナミも、この船長にはほとんど壁がない。当たり前だ。ルフィをよく知る人間ならば、まさかあいつが、と笑い話になって終わりだろう。自分だってそう思う。

・・・・・・けれど、この分だと、そうも言っていられないようだ。

「おい、ルフィ」
「なんだ?」
「まだ、しばらくはやんねェぞ」
「は??」

訳が分からないという顔で、目をぱちくりさせた船長に、にやりと笑う。

「そう簡単にモノに出来ると思うな、ってことだ」
「・・・・・・ゾロ、何言ってんだおまえ? 意味分かんねェぞ?」
「分かんなくて結構だ」

できればそのまま分からないでいてほしいくらいだ、とは言わないでおく。

ルフィのナミに対する思いと、自分のそれは同じものではない。
好きなのかと言われても、誰が好きになんかなるかと返すだろうし。ナミもきっと、同じように言う。あんな金の亡者で、人をこき使って容赦なくぶん殴って、挙句本物の雷を落とすような女などまっぴら御免だ。

しかし、それでも。
この航海士が誰か一人の男のものになってしまうのは、どうにも胸のおさまりが悪い。
例えそれが、近い将来海の王になるであろう、自分が認めたこの男であっても、だ。

ならば誰ならいいのかと言われると、自分が名乗りを上げるつもりは毛頭なく。
船長以外の男だったら、そもそも「まだしばらく」どころか、永遠にやるつもりなどないのも確かで。いずれルフィは、求めるものを手に入れるだろうということも薄々分かっている・・・・・・が。

「なー、どういう意味だよ、ゾロ」
「・・・・・・。ま、てめェが海賊王になったら教えてやるよ」
「・・・・・・はァ??」
「とりあえず気張っとけってことだ、キャプテン」
「・・・・・・? おう、分かった!」

何にせよ、やすやすと独り占めさせる気はない。きっとウソップもサンジも、そう言うだろう。

それくらいには、自分もこの航海士を気に入っているのだと、気づいてしまったから。



<完>






<管理人のつぶやき>
ルフィの変化を敏感に感じ取り、それに触発されてゾロもその気持ちに気づくことになりました。ナミを大切に想う気持ちがとても嬉しい。どちらかというと今は兄のような目線のようですが^^。

【閏月の庭】の糸村和奏様の、『かわりゆくもの、すべて』の続きです。
糸さん、もひとつ素敵なお話をどうもありがとうございました〜〜!



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