リミット・ブレイク ―2―
糸村和奏 様
「あ、あんた……起きてたの?」
「まァな」
「い、いつから!」
「おまえが入ってきた時から」
「最初じゃない! 何狸寝入りしてくれてんのよ!」
うかつだった。今や常に閉じられたままの左目からは、起きてるのかどうか分からないのだ。
気恥ずかしさからまくしたてると、ゾロは大きなあくびをして、うるせェなあ、と言った。
「こうでもしねェと逃げるだろ」
「……は? 何言ってんのよあんた、私がいつ逃げたっての」
「逃げてんじゃねェか、2年前からずっと」
その言葉にぎくりとする。
いや、まさか、ね。気づいてるわけないわ、こいつが。
「バカ言わないで。私があんたから逃げる必要がどこにあるのよ」
「そいつはこっちが聞きてェな」
負けじと強気に言い返すと、きっぱりとした言葉が返ってきた。
ゾロは体勢を変え、正面から私に向き直る。
「まだ、はぐらかすつもりかよ」
「え?」
「2年も経ったっつーのに、まだ待たせんのかって聞いてんだ」
鋭く細められた瞳に、絶句する。
ゾロは小さく舌打ちして、おもむろに私の方に向かって手を伸ばしてきた。
思わずびくりと震えた身体を引こうとすると、「逃げんな」と鋭い言葉が飛んできた。
頬に触れたのは、大きくて固い手の平で。
その感触に頭がくらくらとして、完全に言葉を失ってしまう。
ねえ、何を言ってるの?
まさか、こいつ、気づいて……?
「いつもいつも、勝手に自己完結してんじゃねェよ、てめェは」
「だから、何言って……!」
「聞け」
短く反論を封じ込めて、ゾロはまっすぐに私を射抜く。
「おれが、気づいてねェとでも思ったか」
物騒な、という表現がぴったりな、人の悪い笑顔。
言葉を失った私に、からかうような口調で。
「ったく……追えば逃げるくせに、待ってりゃいつまで経っても落ちねェときたもんだ」
「……ッ!!」
「いい加減、覚悟決めやがれ。おれはそう気が長い方じゃねェ」
「か、くご……って、何、」
「……こんだけ言っても分かんねェか。なら……」
頬に添えられた手が、つ、と滑る。
一気に身体を硬くした私に、ゾロはまた口角を上げた。
そのまま熱の籠った目が近づいてくるのを感じ、思わず手で押しとどめてしまう。
「ちょ、待って……!」
「…………あんだよ」
「こっちの台詞よ!! な、何よあんた、急に、こんな……」
こんな。
……そうよ、これじゃ、まるで。
触れ合った部分は、何もかも熱くて。
ふわふわと、浮き上がるような幸せな想いは。今や、うるさいほどに鳴り響く鼓動に形を変えていて。
混乱の極致にいる私を見下ろしながら、ゾロは眉間に皺を寄せていたけれど。
やがて一つ息を吐いて、小声で言った。
「急に、じゃねェよ」
「……え?」
「こっちはなァ、2年前から……」
生殺しにされてんだよ。
低い呟きが、鼓膜を、全身を震わせる。
思わず目が離せなくなった私の隙を付いて、ゾロは手を引きはがした。
「な、や、やめ……待って、ってば……!!」
「断る。ここまで待ってやっただけ有難いと思え」
「!!!」
「……嫌なら、本気で抵抗しろ。雷でも何でも落としゃいい」
必死に肩を押し戻そうとするけれど、2年前よりさらにがっしりとした身体はびくともしなかった。
顔を背けたくても、大きな手の平はそれを許してくれない。
恥ずかしくて、混乱して、もう、どうしたらいいか分からなくて。
とうとう、目をぎゅっと瞑った直後。
小刻みに震えていた私の手が。ふと、温かなもので包まれた。
いつも力強く刀を握りしめている、ゾロの手に。すっぽりと包みこまれている。
まるで、大丈夫だ、とでも言うように。
痺れるような感覚が、じわりと這い上がってくるのが分かった。
「……ナミ」
名を呼ぶ声は、何かを待っているようで。
ああ、ゾロが笑ってる。そう思うと、なんだか無性に満たされて。
口元が綻んで、気づいたら、ごく自然にその二文字を口にしていた。
「……好、き」
「あァ、」
おれもだ、と言ったのか。
知ってた、と言ったのか。
それとも、全く違う言葉だったのか。
聞き返したい衝動に駆られたけれど、それは叶わなかった。
瞬間、触れ合った唇から与えられた熱に。
ぞくり、と感じたことのないざわめきが、身体を貫いたから。
「……ねえ、いつから気づいてたの?」
「あ?」
「とぼけないでよ。知ってたんでしょ、あんた」
さっきまで刀が収まっていた腕の中。広い胸板にもたれかかったまま尋ねる。
何を、とは言わなかったけれど。背後のゾロにはちゃんと伝わったようだった。
「何となくだ。確信まで持ってた訳じゃねェ」
細けェことは忘れたが、結構前からだな、なんて。
さらっと言うあたりがまた憎たらしい。
「……なんで、黙ってたのよ」
今更だとは思うけれど、聞かずにはいらなれなかった。だって気づいてたなら、そっちから言ってくれたっていいじゃない。
けれど、恨めしそうに言った私に、返事はなかなか返ってこなかった。
不思議に思って後ろを振り向くと、そこには何とも複雑そうに頭を掻く顔の男。
「……。まァ、気分の問題だ」
「気分?」
「別にどーでもいいだろ、そんなことは」
「よくないわよ!」
誤魔化すような言葉にかちんときて、思わず言い返す。
私は死ぬほど恥ずかしい思いをしたんだから、このくらい言ったっていいはずだ。
「男なら潔く自分から言いなさいよね。こっちが言うまで黙ってないで」
「……てめェ、自分のことを棚に上げて何ぬかしてんだ」
「上げてないわよ! 結局言ったの私じゃない!」
「切っ掛けを作ってやったのはこっちだろうが!」
「どんな切っ掛けよ! 人が待ってって言ってんのに無理やり……」
「おれは変質者か!! てめェだって抵抗しなかっただろ!!」
「私があんたの馬鹿力に叶うわけないでしょ?! 抵抗してたわよ、あれでも!!」
至近距離で怒鳴り合ったら、なんだか笑いがこみ上げてきた。
何を心配してたんだろう、私。
ゾロはやっぱりゾロで、私もやっぱり私で。何も変わることなんてなかったのに。
「何笑ってやがる、てめェ」
怒ったような、呆れたようなゾロの声。どんな顔をしてるかなんて、見なくても分かる。
「ね、ゾロ」
――待ってる時の気分は、どうだったの?
ひとしきり笑ってから問いかけると、少しの沈黙の後。
背後から回された腕の力が、強くなった。
「……言ったろ。『生殺し』だ。だが……」
悪くは、なかった。
小さく吐き出された声に、私はまた笑い声をあげて。力強い背中に、身を預けた。
FIN
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