もしもあの時、と考えたことがないわけではない。
あのまま部屋に入っていたら・・・・と。




ココヤシ医院の事情3  −4−

                                四条


たしぎは、二学年上の同じ工学部建築科で、おまけに高校までは剣道もしていたそうだ。古美術研究部というサークルに所属していて、古美術品――仏像や仏具、刀剣、甲冑、古道具など――への造詣が深い。

俺とたしぎは、昨年のちょうど今頃に出会った。その頃の俺は、自転車で近場の建築巡りに勤しんでいた。ある日、隣の市まで出向き、市内をグルグルと回りながら古そうな建物を見つけては訪れていた。そして、たしぎを行く先々で見かけた。一日のうちに何度も会うなんて。普段は人の顔なんざロクに覚えない俺でも、さすがに度重なると記憶に残る。ある寺を訪れた時にもやはり彼女を見かけ、「またいるな」とかなんとか思っていたら、向こうから声を掛けてきた。

“お好きなんですか?”

おそらく、たしぎは自分と同様に「古美術」が好きなのかと尋ねてきたのだと思うが、俺はどちらかというと寺に所蔵されてる物よりも、寺そのもの、寺院建築に目が向いているのだった。
その後、寺の休憩所で無料の茶を飲みながら少し話をした。それで、たしぎが学年違いの同じイースト大学で、しかも同じ建築科なのだと知った。

その後も何度か出先で遭遇したので、どちらともなく声をかけては、一緒に茶を飲むぐらいはするようになった。そのうち、大学でも声を掛けられるようになり、立ち話をしたり、学食で一緒にメシを食ったりもした。そうこうするうちに、古美術研究部の連中に紹介され、部員も交えて飲みに行ったりもするようになった。

たしぎは、自分の趣味関心の分野で出会った初めての女だった。話の共通点が多く、趣味も嗜好も似ていた。どこで仕入れているのか、建築に関する薀蓄もたくさん持っていて、話を聞いていて飽きない。何よりも古美術に対する情熱は相当なもので、おまけにそれを話して聞かせるのも上手かった。なんでそんなこと知ってんだと思うような面白いエピソードを交えて話すその語り口は、いつも見事なものだった。なので、さほど興味のなかった俺でも、古美術品にも多少は目が惹かれるようになったほどだ。それに学科が同じなので、勉強のことや、進路のことについて聞けるのも良かった。試験や実習の対策もできて、ありがたかった。

俺が今までつき合ってきたような女達とは違って、たしぎには派手なところが全然なかった。むしろ、珍しいくらい古風で真面目だった。ちょっと融通が利かないくらいに。そんな風なので、周囲の今どきの女子からは少し浮いてしまうらしく、「ロロノアといる時が一番落ち着きます」と何度となく言っていた。―――それが、俺に向けられた好意だと気付くまでには、かなりの時間を要したが。

秋が深まり始めた頃、古美術研究部の連中と飲みに行った帰りに、いつになくほろ酔いで上機嫌なたしぎを、彼女のアパートまで送っていった。千鳥足でアパートの階段を上がろうとする姿があまりにも危なっかしくて、思わず二の腕をつかんで支えてやった。そのまま階段を上がり、たしぎの部屋と思しき前まで来ると、急にたしぎが振り向き、抱きついてきた。

「ちょっ、」

情けないことに、それだけ言うのがやっとだった。
突然のことで、頭の中が真っ白になる。

「ロロノア・・・。」

これまで聞いたことのないような、か細く頼りなげなたしぎの声。

「・・・・・・好きです。」

瞬間、ああついに言われてしまった、と思った。
この時にはもう、たしぎから向けられた気持ちが好意であると自覚していたから。

「ロロノアは?」
「・・・・・・・嫌いじゃねぇよ。」

たしぎのことは、ずっと憎からず思っていた。たしぎは今まで付き合ってきたような女とは違って、とても気も合うし、話も通じる。いい女だった。

「では、好きですか?」
「・・・・・。」

答えられなかった。
俺の中には、まだナミがいたから。
遠く、グランドライン大学に行ってしまったナミ。
もう振り切ってしまおうと何度も思って、別の女にうつつを抜かしたりしても、未だにナミという存在を俺の中で消すことができない。

しかしこの時、ナミと音信不通になってからもうすぐ1年になろうとしていた。

ナミからの連絡を一縷の望みを託して待っていたが、それが届くことはなかった。
意地があって、自分からは連絡はしないと決めていた。
けれども、ナミと俺の縁がこれきっりでなければ、必ずナミから連絡があるものと信じていた。このまま終わるはずがないと。
でも、何も無かった。
もうナミは、俺のことなどどうでも良くなっているのかもしれない。
もうグランドライン市での新しい生活が、楽しくてしかたがないのかもしれない。
もう・・・・恋人の一人もいるのかもしれない。
ずっと認めたくなかったが、そういうことなのではないか。

胸にたしぎの暖かい存在を感じながら、目の前にあるアパートの茶色いドアを見つめた。

このまま、たしぎの身体に腕を回せば。
このドアを開けて、部屋の中に入ってしまえば。
これまでの関係が変わるだろう。
変わってしまうんだろう。

でも、たしぎなら、いいんじゃないか。
たしぎとなら、うまくいくんじゃないか。
これで・・・・忘れられるんじゃないか。




―――ナミのことを




しかし俺は、静かにたしぎを自分の胸から引き剥がした。



***



「お久しぶりですね。」

虚を突かれた俺とは違い、やわらかく微笑んで、落ち着き払った声音でたしぎは言葉を切り出した。

「・・・院に、行ったんだっけか・・・。」

二学年上のたしぎは、現在は大学院に進んでいると、噂では聞いていた。

「ええ。うちの教授とこちらの教授がツーカーの仲なので・・・今日はスタッフに借り出されています。」

苦笑いを浮かべて俺を見た後、ゆっくりと視線をナミに向けた。

「彼女さん、ですか?」

この問いは、俺に対するものなのか、それともナミに対するものなのか。はたまた、ここは馬鹿正直に答えるべきものなのか、それともはぐらかすべき場面なのか。逡巡しながらナミの方を伺った。ナミは少し心細そうに俺を見上げている。その様子を見て、何を躊躇する必要があるのかと思い直した。

「ああ、そうだ。」

俺が力強く肯定の意を示すと、たしぎはわずかに表情を変えたが、すぐに笑顔に戻り、

「そうですか、すごく可愛らしい方ですね。」

と、ナミに語りかけた。
言われたナミはドギマギとして、照れているのか耳まで赤くして顔を伏せてしまった。

「ロロノアの好きなタイプって、こんな感じだったんですね。」

たしぎは俺に向かって、目を細めてちょっと悪戯っぽい表情をしていた。
うるせぇと言うと、たしぎは「照れてますね」と更にからかうように言って笑った。

ああ、やっとこんな風に笑えるようになったんだな。
たしぎの笑顔を見るのは本当に久しぶりだった。
そう思うと、俺の頬も緩んだ。

たしぎとは、あの夜以来、言葉を交わすことはなくなった。
たしぎが俺のことを避けるようになったからだ。たまに出くわしても、頑なな表情で気まずそうに顔を背けられた。
もちろん、そうされて当然のことはしたし、俺から何か言えるわけもなく。
けれど、あれからそれなりの時間の経過にして、彼女もようやく何か一つ乗り越えたのだろう。
また彼女とこうして笑って話しができるようになって、よかった。

その後も少したしぎと雑談を交わして、無事に受付を済ませた。
さぁ講演会の席取りをしようとナミを促すために隣を見たら、そこにはナミがいない。
あれと首を回してナミを探す。
たしぎが言いにくそうに「あそこに・・・」と指を差した。
いつの間にか、ナミは少し離れたところへ行っていて、若い男と話していた。
よく見るとそれは、“プジョーの男”だった。



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