BED IN 3 前編
ソイ 様
その電話があったのは7月4日の午前0時を回った時だった。ナミはソファの上で寝転んだままコードレスの子機を取り上げ、訝しげに返答する。妙に遅い時間の電話はあまり心当たりがない。
『起きてたー? ナミ!』
だがその明るい声に、少し頬を綻ばせた。
「ベルメールさん?」
そして、母親の名を呼んだ。
『お誕生日おめでとう!!』
受話器の背後からクラッカーの音が聞こえる。ベルメールの甲高い声にあわせて打ち鳴らしたのは、姉のノジコだろう。『乾杯!』『Happy BirthDay!』と次々に異なる声で歓声が聞こえるのは、人の誕生日をネタにホームパーティでも開いているせいだろうか。
ナミはその声を遠くに聞きながら、しばらく呆然とし、そして次にくっくと笑い出した。
「ベルメールさん・・・・」
『はー、良かった! 今年はぴったりでしょ。去年は忘れてて、さんざん文句を言われたのよねー』
「あのね・・・・」
『プレゼントはもう贈ったわよ。届くのはしばらく先だと思うけどね。今、ノジコやこっちの友達と盛り上がってるところ! 花火でカウントダウンもしたのよ。ご、よん、さん、に、ひゅるる〜、パン! って!』
すでに酔っ払った風のある母の言葉に、ナミの笑い声はついに我慢できずに震え出した。感動や喜びとは一味違うその声に、近くのゾロが不思議そうな視線を向ける。
「ベルメールさん、・・・・違うわよ!」
『・・・・え?』
堪らず噴出してしまったナミに、とぼけた母の呟きが聞こえる。
「3日じゃないって! こっちは・・・・、日本は今4日になったとこ。まだ時差の計算、慣れてないの?」
笑い転げたナミは、あやうくバランスを崩してソファから頭を落とすところだった。
ゾロの大きな手に慌てて支えられるが、笑い声はやまない。「く、くるし〜」と息も出来ない様子に、あっけにとられたベルメールの声が響く。
『・・・・え? 4日?』
「そう。時間の計算は合ってるのに、24時間丸まるずれてるわよ!」
『・・・・もう3日は終わっちゃったってこと・・・?』
「そうよ。・・・・あー、最高よ、ベルメールさん」
『なによそれー!』
電話回線を通したカナダからの絶叫に、ナミはますます息も告げない。ひーひー言いながらようやく笑いを収めて、浮かんだ目じりの涙を指でこすった。
「・・・・プレゼントにいい笑いをありがとう・・・・」
『い、嫌味な子ね!』
「嘘うそ。覚えていてくれてありがとう。嬉しいわ」
小さく受話器に口付ける真似をして、ナミは微笑んだ。
その後はささいな近況報告と、いかにベルメール宅のパーティが盛り上がっているかの説明を受け、その間も受話器の向こうで飛び交う英語やフランス語の野次に笑って応えながら、5分ほど話してナミは電話を切った。久しぶりの連絡で、もう少し話したい気分でもあったのだが、国際電話の料金を考えるとそうそうそんなことも言えない。
ボタンを押して子機をカーペットの上に放り投げると、ナミの裸の胸にのしかかっていたままのゾロが、眉根を寄せてナミの表情を伺っていた。
「・・・・」
戯れにナミの肩を甘噛みしながら、躾の良い犬のようにおあずけを守っていたその姿にナミは小さく微笑んだ。
「はいはい、途中で止めさせて悪かったわ」
胸のふくらみに頬を乗せていたゾロの顔を引き寄せて、舌を差し入れキスを一度交わす。素肌の背中に手を這わせると、ゾロの手がナミの腰を掴み、足を絡めてそのままナミの柔らかさに身を沈めた。
だがゾロの瞳は穏やかなままで、唇を離しても、そのまま喰らいついてくる様子はない。あら、とナミは訝しんだ。ゾロの妙な表情は、てっきり突然の電話で、お楽しみを中断させていたからだと思っていたが。
「・・・・誕生日?」
その後に続いた、ゾロの低い声もまた意外な質問で。
「ああ、聞こえてた? そうよ。私の誕生日。えーと、もう昨日になっちゃったわね。7月3日」
あっさりと応えるナミの声に、またゾロの表情が険しさを増す。
「・・・・何で言わねんだよ」
「今、言ったでしょ」
「もう遅えだろうが」
「だって、別に気にしてもらうほどのことじゃないじゃない」
その言葉に、さらに剣呑な表情を見せるゾロの頭を、もう一度ナミは抱え込む。
その両頬、両瞼に優しいキスを落として、宥めるように後頭部の短い髪の毛に指を絡ませた。
「気にする、とかじゃねえだろ。・・・・言えよ。そーゆーことは」
「あら、言ったらお祝いでもしてくれたの? ケーキとか、プレゼントとか?」
にやにやと笑うナミの表情を見やって、ゾロは心持ち頬を赤らめ、それでも小さく「ああ」と頷く。その可愛らしさに口元を緩めたナミは、笑うなと言わんばかりに強引な口付けを降らせてきたゾロの唇に、「いいのよ」とかすれた吐息を直接混ぜ込んだ。
「あんたから何かもらうってのも、なんとなく悪いような気がするし」
・・・・さんざん、こんなに振り回してるのに。
最後の独白を飲み込んだまま、ナミは表情を悟られないようゾロの頭を自分の首元に埋めさせた。小さな息遣いが互いの耳元を掠める。
「お小遣いは自分のために使いなさいな」
そう呟くと、ゾロの小さな舌打ちが耳に響いた。金銭的な事柄を言われれば、親からの仕送りで生活しているゾロは何も言えなくなる。
「・・・・子ども扱いすんなって、言ったろ。じゃあ、なんかして欲しいこと言えよ。何でもしてやる」
「いいわよー。それにお祝いされても嬉しい年齢じゃ、だんだんなくなってるしね」
26歳になれば、ゾロとの歳の差も10歳になる。その事実もそう面白いことではない。
「ナミ・・・・?」
口を噤んでしまったナミに対し、ゾロは探るようにその背中を撫でた。鎖骨を小さく吸って反応を伺うその不安げな様子は、隠そうとしてもナミにはばれてしまうものらしい。くすくすと笑う小さな声に少し安堵したように、ゾロはしがみついたナミを少し引き離して、その瞳を見つめた。
ナミの手がゾロの肌をまさぐる。
「続き・・・・しよ?」
「・・・・ん」
白い首筋にゾロの舌が這い、そこからの小さな震えがナミの腰に熱いものを響かせる。左手で優しく乳房を揉みあげられると、互いを酔わす甘い声が部屋に響く。
身じろぎのたびに、二人分の重みを受けたソファがぎしりと音を立てた。
「・・・・じゃ、今日は、あと三回はイカせてやるよ・・・・」
ゾロは桜色の乳首を舌先でなぶりながら、にやりと笑ってナミの顔を見上げた。
「・・・・それ、あんたが嬉しいだけじゃない」
「・・・・嬉しくねえの?」
にやついたゾロのその頬をぎゅっと捻る。
「・・・・ばーか・・・・」
とろけそうなその甘い不平を聞いて、ゾロはさらにナミの身体を己の下に巻き込んだ。
宅配便が届いたのが数日後の土曜日の夜。受け取りに出たゾロが小ぶりなダンボール箱を担いで、ナミのいるリビングに戻ってきた。
「誰からー?」
風呂上りのまだ濡れた髪にタオルを巻いた姿で、ナミは身づくろいの最中だった。タンクトップと下着の見えそうなホットパンツという格好でぺったりとソファに胡座をかき、爪に塗ったマニキュアにふーと息を吹きかけながら、ゾロが乱暴に降ろすその箱を見やる。
「ベルメールさん」
「ああ! 電話で言ってた誕生日プレゼントだわ!」
とたん顔を輝かせて、ゾロの手を押しのけるように払い、ナミは箱を開封しはじめた。まずは一番上に入っていた封筒を取り上げ、母と姉からの手紙を確認する。ふんふんとそれを笑顔で読み進め、ゾロに向かって明るい声を出した。
「ベルメールさん、あんたは元気かって気にしてるわよ。育ち盛りなんだから、ちゃんと食事はしっかり取らせなさいって」
「そりゃどうも」
受け取りに出る際に中断した食器の片づけを再開しながら、ゾロは気のない返事を返した。
「でも甘やかしちゃダメだよって。居候とはいえ、ちゃんと家の手伝いもさせなさいって」
「・・・・ちゃんと、やらされてるって伝えてくれ」
生ごみを始末しながらのその言葉は、掠れた溜息を含んでいた。
皿の一枚一枚を丁寧にクロスで拭き食器棚に収め終えると、小さな鍋やフライパンは水気を切って吊り棚に引っ掛ける。大ぶりの鍋はしゃがんでシンク下の戸棚に仕舞い、最後に包丁をガスコンロの火で十分に乾燥させて戸棚の裏に片付けた。そこで一つ、息を吐く。
平日は各自勝って気ままに取る食事の支度も、週末となれば交代で行い、その片付けはもう一方の仕事になる。しかし生来雑な性格の(とゾロは口にこそ出さないが)ナミの料理の後片付けは、なぜかキッチンの床から天井までの掃除も含まれているらしい。シンク内が綺麗に片付くと、ゾロは雑巾を絞って醤油やソースの飛び散った床と壁を拭き始めた。
本来そこまでマメな男ではなかったはずだが、汚すくせに汚いのは嫌だというナミに尻を蹴られながら教え込まれた掃除の癖は、数ヶ月ですっかりこの手になじんでしまったらしい。
床の汚れと格闘する間に、使ったクロスを鍋で煮て煮沸消毒までしているくらいだ。
そんなゾロを尻目に、ナミは重ねられた便箋を一枚めくる。
「それでノジコからはねー、・・・・えーと、ゾロに伝言? 『ナミはどう考えても味オンチだから、ちゃんとしたご飯は自分で作った方が良いかもね』・・・・って、しっつれいねー!」
その言葉に、台所からゾロの笑い声が響く。
「ああ、確かにお前の料理は塩辛え」
目立つ汚れを落とした後に、少し色味が落ちたフローリングを見ながら、今度ワックスをかけなきゃなと無意識に思う。
「何言ってんのよ。あんたのが薄味すぎんのよ」
「だいたい普通、カレーに七味を入れるかよ?」
「おいしいじゃない」
「・・・・話にならねえな」
一通り綺麗になったキッチンを見渡して、ようやくゾロは一息ついた。クロスを水で洗って干し、キッチンの明かりを落とす。
その際、喉の渇きを覚えてグラスに一杯麦茶を注いでリビングに戻ると、「私にも!」という声に一つしかないグラスをひったくられた。
「ぬるいわよ?」
「・・・・さっき作ったばかりだからな」
・・・・甘やかしちゃダメだ、なんて、言う相手が反対だろ・・・・。
ゾロの剣呑な視線にそんな言葉が含まれていることに、勿論ナミは気づかなかった。
「で、わざわざ航空便で、何せがんだんだ?」
ぶつぶつと文句を言いつつも、麦茶を半分ほど飲み干したナミの向かい、ソファの反対の端にゾロは座り込んだ。手招きでグラスを促すと、素直にナミが渡してくる。後から入れた氷の冷たさの中に、ナミの甘味をゾロは感じた。
「んふっふっふっふー。ほら、これよ、これ!」
ナミは箱の中から、その中でも丁寧にビニールシートで包装された小ぶりな額を取り出し、満面の笑顔と共にゾロの前に突き出した。何重にもコーティングされたビニールを丁寧に剥いで、取り出したのは一枚のリトグラフだ。
「絵?」
「そう! カナダで有名なイラストレーターなの。昔から大ファンだったのよ!」
それは淡い彩りで描かれた、どこかの港の風景のような。白い帆のヨットがあり、青い小波があり、空でのんきに飛び交うカモメの姿があり。葉書より一回り大きい程度のサイズの楓の額に納められたそれを、ナミは嬉しそうに何度も眺めている。「結構高価いのよー」と呟くことも忘れずに。
「・・・・そーゆーのが好きなのか?」
「ん? そう! この人の描く海の・・・・港の絵が好きなのよ」
隣で覗き込んできたゾロが、ふとその額を取り上げる。興味があるのかないのか分からぬ様子で「ふーん」と呟いた。
「カナダのどこかの港なんだけど、この人の故郷らしくて、いくつもこういうポートの絵がシリーズ化されてるの。なんだか、私が昔住んでた所に似てて・・・・、だから好き」
「昔住んでた?」
「うん。中学生くらいまでね。まだうちのお父さんが生きてた時。・・・・ゾロ、あんたも子供の頃、来た事あるじゃない」
「俺が?」
「覚えてない? ・・・・まあ、私が中学生ならあんたは4、5歳だものね」
くすりと、ナミは微笑んだ。
ゾロの一家がその家を訪れるのは、大抵夏休みの真っ最中だった。小さなゾロを連れて家族で海の休暇を過ごした帰りに、ゾロの父の従妹であるベルメールの家へ顔を出す。長居するわけでもなく、簡単な墓参りを済ませる程度の時間を潰して、そして日が暮れる前にと立ち去っていくのだ。
ほんの簡単な親戚づきあい。
が、その割には、妙にナミは当時のゾロの印象が強い。
「あんたはまさに『暴れん坊将軍』だったわよ」
大事に大事に育てられた一人息子の腕白坊主。わがままで乱暴できかん坊で、その上甘ったれで泣き虫で。
他所の家のめずらしさにはしゃぎまわっていたずら三昧。そのくせ少しでもこちらが咎めようものなら大騒ぎして両親のもとに逃げ帰る。いつもいつも面倒を見させられていたナミにしてみれば、まったく堪ったものではない子悪魔だった。
「覚えてねえよ・・・・」
過去の可愛らしい罪状を次々に言い連ねられて、ゾロは憮然とした顔で、それでも少し頬を赤らめた。
「どっかで拾ってきた棒で人に殴りかかるわ、止めるのも聞かずに外に飛び出して迷子になるわ、火のついた花火に飛びつこうとするわ、植えたばかりの花を引っこ抜くわ、人の学校のノートに水ぶっ掛けるわ・・・・」
「知らねえよ・・・・。お前、話作ってねえ?」
「あらあ、失礼な言い草ね! ・・・・そうそう、私はあんたのせいで怪我までしたんだからね!」
「怪我!? なんだそりゃ」
とたん、ゾロの顔色がさっと変わる。その眼前に、ナミは長く白い足先をふふんと曝け出した。
ペデュキアを施そうと思っていた矢先だったので、小さな指先は綺麗に手入れされている。器用にそれでゾロの鼻先をくすぐると、ゾロの視線が白い肌が剥き出しのふくらはぎ、大腿を伝って己の肢体に向けられるのが分かりやすく見て取れた。
「怪我って、どこだよ・・・・」
少し、そのゾロの声に艶が響くのは、きわどく切れ込んだホットパンツのせいだろうか。
「爪。つーめ」
「つめ・・・・?」
もう一度、鼻先を軽く掠めるように蹴り上げた。
「親指の爪。割れちゃったのよ」
********
「ゾーロ、もういい加減、お家帰るわよー」
潮風が爽やかに頬を打った。カモメの鳴き声に合わせて、穏やかな潮騒がさざめきを広げる。どこかで拾った木の棒をずりずりと引きずりながら小走りに前を走るゾロに、うんざりしながらナミは声をかけた。
「いや、いーや。あっちにいく!」
ヨットや小型船舶が横付けされている小さな埠頭の先端に、いったいこの子供を惹きつける何があると言うのか。ゾロが小さな手で指差す先は、ただ見慣れた青い海しかないというのに。
「海に落ちても、拾い上げてやらないわよー」
「おちたりしないよー」
落ちるといって落ちる奴はいないわよ、というナミの溜息混じりの諦めは、もちろん幼いゾロに通じるわけもなく。
ナミは差し込む日差しに目を細め、麦藁帽子を深々とかぶり直した。
人もまばらな小さな港の、白いペンキで塗られたコンクリートの埠頭。ゾロは毎年この港で遊びたがった。船が珍しいのか、ヨットが格好いいのか。親たちの大人同士の話にすぐ飽ると、一番年の近いナミを毎回駄々をこねて連れ出すのだ。
確かに幼稚園児を一人でこんなところで遊ばせるわけにはいかないが、どうせ遊ぶのならもう少し大人しくしてくれれば文句も出ないのに。
「・・・・ゾロ! ダメ!」
ふと視界に飛び込んだ先に、知らぬヨットの係留ロープを力任せに引っ張ろうとするゾロの姿が見えた。
慌てて駆け寄り、耳を引っ張って手を離させる。
「いたいー! いたいー! ママー!」
「ああそう! じゃあママのところ帰るわよ!」
「いやだ! まだ遊ぶ!」
「どっちよ!」
あんまりうるさい悲鳴を上げるので、しぶしぶナミは手を離す。すると先ほどの泣き声をはどこへ行ったのやら、また笑顔でゾロは走り出した。
「・・・・もう、子供なんて面倒くさいったら・・・・、ちょっと待ちなさい!」
「やー!」
追いかければ面白がって、全速力で逃げていく。しかし変に蛇行するその走りに細い埠頭から今にも落ちそうで、ナミは気が気ではない。その上癇に障るゾロの高い雄叫びが、ナミの苛立ちをさらに押し上げた。
「待てって言ってるでしょ! 落ちるわよ!」
「やだよー、きゃー!」
「・・・・待て! 西中ソフト部のイチローと呼ばれたナミさんを舐めんじゃないわよ!」
履いていたのがビーチサンダルにも関わらず、県大会で絶賛されたスプリント力を発揮し背後からタックルをその小さい体にかましたナミは、ゾロを掬い上げるように肩に抱きかかえた。その衝撃でゾロが手にしていた木の棒が音を立てて地面に落ちる。
「あー、棒! 棒!」
「うるさい! もう帰るの! 暴れるんじゃないわよ!」
「や! 放して! ナミのバカー!」
「バカ、なんてどこで覚えたのよ」
もがくゾロの身体を、ナミはもう一度抱え直した。子供は遠慮も手加減も知らなくて、ゾロはどかどかとナミの腹を足で蹴り上げ、ばんばんと手で肩や背を叩く。
「はやく家に帰らないと、お母さん達ゾロを置いて行っちゃうわよ」
「え?」
それでも、親の名を出すと急に大人しくなるのは微笑ましい。
「それとも、このままうちの子になる?」
「いやー。帰る!」
即答なのね、という呟きはたとえ聞こえていても意味までは分かってもらえないだろう。
ようやく大人しくなってくれたゾロを抱きかかえたまま、ナミはくるりと方向を変えて歩き始めた。手放さないのはまたゾロの気が変わることを恐れてのことだが、それにしても、4歳の子供というのはこんなに重いものなのか。よいしょ、よいしょと歩きながら数度抱き直して、それでもようやく埠頭を出ようとした、その時。
「あー! 船!」
海に背を向けていたナミは気づかなかったが、沖から一隻のクルーザーが港に入ってきたらしい。ナミの肩越しにそれを見やったゾロは、また耳元で大声を立て始めた。
止まっている船より、動いている船の方が興奮するのか。
少しの間でも静かに黙っていたゾロに、ナミの油断があったのか。
先ほどよりなお一層の力を込めてもがきはじめたゾロの身体を、ナミは急に支えきれなくなった。落とすわけにはいかないと踏ん張るが、意外と重いその身体に足元がふらつく。
気づいた時、ナミの足は埠頭の縁を滑り落ちていた。
「きゃあ!」
一瞬の浮遊感。
1mほど下の段差に、何とか両足で着地する。
が、鋭く走った痛みに、小さく声が漏れた。
「痛たぁ・・・・」
じん、と痺れた足先に耐えかねて、ナミはそのままゆっくりと膝をついた。自然、抱きかかえていたゾロも尻餅をつきながら、こてんと地面に座り込む。ゾロは声もなく、驚きの為に目を丸くしてナミを見やっていた。
どうも爪先から落ちたらしい。足の指を変に捻ったような感触があった。ナミはおそるおそる、痺れた足首を掴んで目の前にそれを出す。
左足の、親指。
「ひゃー・・・・」
「ぎゃー!!」
同時に覗き込んだ四つの瞳が、二つの口から発せられた大小二つの悲鳴に反応して瞬いた。
「あらー・・・・ぱっきりいったわね・・・・」
どこか他人事のように呟くナミの声を、ゾロの絶叫に近い泣き声が覆い被さった。
「血! 血! いっぱい出てる!」
爪先から、ぽたぽたと流れる赤い血が、白いコンクリートの地面に垂れた。ゾロはその大元を指差して、見てられないという風に顔をそむけ、しかし顔を覆った指の間から、目が離せないとばかりに視線だけは送ってくる。
「いたい! いたい!」
「いや、痛いのは私だから」
そんなゾロと、血だらけの指先を同時に眺めながら、ナミはこの日一番大きな溜息を吐き出した。
いっそ潔いほどにまっ二つに割れた爪先が、紅く怪しく陽光に煌めいていた。
********
話が進むにつれ、面白いように赤みが増してくる顔を、にやにやしながらナミは眺めていた。その鼻先に伸ばした左足の爪先は、もちろん今ではすっかり完治して、ゾロがそっと触れても、つややかな指ざわりを確かめられるだけなのだが。
「覚えてないのぉ?」
ナミは覗き込むように、真っ赤に染まったゾロの顔を見やった。
「・・・・ちょっと、は、覚えてる」
一文字に結んだゾロの口元から、ドスの利いた、しかし少し上ずった声が漏れた。
「ちょっと?」
「・・・・持ってた棒を、イイ感じに気に入ってたってことだけは・・・・」
「そこかい!」
頭に手刀で突っ込みを入れて、ついでに広いおでこにかるくでこぴんをくれてやった。
「もう、あんたの方がわんわん泣き喚いてて。家に連れて帰ったときは、みんなゾロが怪我したものだと思い込んで、私が怒られたんだからね。・・・・まったく」
ナミは溜息混じりに、ゾロの短い頭髪をわしゃわしゃと撫でる。何気ない仕草だったが、その柔らかい感触に4歳のゾロが重なって、ナミはどきりとして慌てて手を引っ込めた。
「・・・・悪かったよ」
そっと、ゾロはナミの白い足を手に取った。自分から鼻先に晒していたとはいえ、その突然の感触にナミはびくりと震える。
「・・・・なんだ?」
「う、ううん。なんでもない・・・・」
ナミの左足はそのままゆっくり持ち上げられて、不意をついた隙にぱくりと咥えられた。
「ひゃ!」
慌てて手のひらでゾロの頭を押しのけようとするが、力でかなわないのはいつものことだ。ゾロは丹念に舌先で親指を舐め上げ、そのままちゅっと音を立てて吸い上げた。
「な・・何すんのよ」
ナミは足からゾロを振りほどこうとしても、がっちりと捕まえられた足首は動かすこともできない。暖かい感触が爪を縁取る。その感覚に、ナミは小さな震えを隠すのに精一杯だった。
「や・・・・、やだ。汚いよ・・・・」
「風呂上りじゃねえか」
こともなげにそう言うゾロは、そのまま唇を足の甲に這わせ、他の指を口に含み、踵にまで舌を伸ばしてゆっくりと丹念にナミの足を味わっている。じれったく触れる舌先の暖かい感触と、すこしかさついた唇が、普段触れることのない肌を欲しがり、熱を伝えてきていた。
「これで勘弁しろよ」
「え・・・・?」
「俺のせいの怪我なんて言われたら、そりゃちゃんと手当てしてやらねえとな・・・・」
足先で、ゾロの瞳が怪しく光った。
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(2005.07.22)