期末考査を終えた校舎の片隅に二人の男女の制服姿があった。
普段の面持ちからは想像出来ない深刻な表情で、向かい合うオレンジ色の髪を見下ろし、彼女がもたれ掛ったポプラの幹に片手を着いて、隙あらばその腕を降ろし、オレンジを胸に納めようと、虎視眈々と狙っている男。
………と疑う。
「………ありがとう…」
小さなナミの呟きが、静まり返った中庭に谺した。
「じゃ、OK…」
一瞬相好を崩し、金髪が風に躍った。
「嬉しいけどそれは…無理だわ。」
緩めかけていた腕をもう一度突っ張り、近付き掛けた体を止めたサンジが、オレンジ色の下に隠された琥珀を覗き込んだ。
………かなり近い距離。
「付き合ってるヤツは居ないンだろ?俺は、本気でナミさんが…」
「なら、余計ダメだわ…」
「何で?」
ナミは臥せていた琥珀色の瞳を上げた。
挑むような意思を込めて、サンジの顔を確り見据える。
有無を言わせない程の迫力が、彼女の華奢な体を包んでいた。
………見惚れてしまう程。
「好きな人がいるの。」
その威圧的な態度と裏腹に、言葉には甘い匂いが香っていた。
………悔しいくらいに。
「……その人以外見えない……」
表情は硬く、苦しそうにも見える。
いや、苦しいのは自分の方かもしれない。
「彼が…その人だけが…」
これ以上は聞きたくなかった。
身を翻し急ぎ足でその場を離れた。
しかし、背中にはナミの声が響いていた。
「好きなの…」
Good Luck Teddy Bear
――キカノハイリョニカンシャスル――
CAO 様
「誰?」と相手の名前を尋ねるサンジの声も聞こえたが、その答えがナミの口から出る瞬間を迎えたくなかった。
だから、走った。走っていた。全速力で。駆け抜けた。今、自分が何処を走っているのかさえ分からなかった。胴着がやけに重かった。走っても、走っても、その場所から遠去かっている気がしなかった。
「好きな人がいる」
―――その声が耳に残って
「その人だけ」
―――その言葉が差す見えない敵に嫉妬して
「好きなの」
―――その想いが胸を締め付けて
夢中で逃げていたのだ。息が上がるまで走って、辿り着いたのは部室だった。
辺りを見回せば、皆練習に行ったのであろう、そこはしんと静まりかえり、あちらこちらに脱ぎ捨てた制服が散らばって、戦場跡の有り様だ。夏休み前の眩しい光が窓から差し込み、ギラギラと輝いて室内を照らし出している。汚れたシャツや汗臭いタオルがより一層臭い立ってくる。
「…クソッ…」
自分は一体何をやっているんだろう。自問をしている自分が、あまりに愚かに思える。
あの日………
覚悟を決めたはずだった。
崩れてしまいそうなナミの背中を眼前に捉え、己の確かな気持ちに気付き、絡まっている腕が重く、その手を振り払う決意に満ちた、春の日。
弁当を片手に校舎の屋上で彼女を見つめた。
「別れて欲しい…」
気持ちが自然に浮き上がるようなホカホカした春の陽射しを浴びた屋上は、こんな話をするには妙に不釣り合いで、ゾロ自身にもなんだかとても滑稽に映っていた。
「…………どうして?」
眼前の彼女の唇が戸惑いがちに動いていた。
「惚れてる女がいる。」
「それが、なあに?」
「えっ……」
簡単に言ってのける彼女の唇の動きに、驚いたのはゾロの方だった。
思わず緑の瞳をしばたいた。
そして、初めて彼女の顔を見た。いや、見据えた。
「私はロロノア君が好き。」
この時初めて彼女の存在を直視したのかもしれない。
「だが、俺は……」
「ロロノア君に好きな人がいても、構わない…ううん、仕方ない。」
「そんなの、嫌やだろ?」
「嫌やだけど…実際今、私達は付き合ってるでしょ?その人にも、誰にも渡したくない。」
「渡すも渡さないもねぇ。そいつは俺の気持ちを知らねぇし……言うつもりもねぇから…」
「それなら余計構わないでしょ?このままで良いでしょ?」
「良くねぇだろ?俺はアンタじゃないヤツの事を考えてンだぜ。」
「私が良いって言ってる。」
「俺は……」
「ロロノア君に好きな人がいるのなら、私の気持ちもわかるはずじゃない?好きな人の側に居たいって気持ち。」
分かる、分かり過ぎる程分かっていた。
ナミの手にサンジの手が重なっていたあの瞬間、感情が焼き切れてしまっていた。理性では止めようもない衝撃が体を走り、ナミの側に近付くな!と心が叫び出しそうになっていた。振り払った手にほんの少しだけ触れたナミの温もりが、自分の指先に残って、ずっと触れていたいともっと感じていたいと。
それは、言い変えれば、ナミの直ぐ近くに何時でも居たいという想いに直結している。
「ロロノア君は、好きな人がいるならどうして私と付き合うって言ったの?その人とは上手くいかないって分かってたからじゃないの?」
「それは……知らなかったンだ。俺自身の気持ちを。」
「気が付かなかったって事?」
「あぁ、その通りだ。」
「じゃあ、今まで通り気づかないでいて。」
「なっ!」
「その程度の気持ちなのよ。気のせい……そう思って。」
「出来ねぇ…」
「出来るわ!私はどうなるの?私の気持ち!適当に弄ばれて捨てられるなんて耐えられないっ!男が一度口にした事を、そんな簡単に翻していいの?責任ってあるんじゃない?」
言葉に詰まっていた。一度OKを口にしてしまったのはゾロだ。
人を好きになるという気持ちも、どんなものなのか、今ならはっきり理解もできる。
だから、彼女が自分を好きだと思ってくれるのは有り難い。そして、それに応えると言う意味で、自分達は付き合っているのだ。
ゾロは自分がナミに惹かれているからこそ、目の前にいる彼女の気持ちが痛い程わかった。少しでも近くに居たいと願う、その想いの形が。
もし、これが、この立場が自分とナミに置き換えられたら……自分は耐えられるのか?
この想いを目の前の彼女に押し付けて良いものなのか?
「その気にさせておいて、今更放り出すなんて、そんなの許されると思ってるの?こんな事なら最初っから嫌いだって言われた方が…」
「べ、別にアンタが嫌いだからって訳じゃなく、これは俺自身の…」
「なら、その気持ちしまっておいて……」
しまえるものなら苦労はしない。だが、しまわざる得ない気持ちである。
分かっている。そんな事、気付いた時点で明確だ。
何故ならナミが欲するのは、『信頼のおける剣道部主将』であって、『ゾロ』では無いという事が分かっていたからだ。
『主将』
ナミはゾロをそう呼んだ。
昨日部室を背に待ち合わせ場所に向かう自分を「ゾロ」と呼んだのを最後に、ナミにゾロの彼女の存在を知らせて以降「主将」という呼び名に変化させた。傍若無人に振る舞うナミからは想像も出来ない配慮が窺える。
何でも自分の思い通りに事を運び、部員共を手玉に取って、不敵な笑みを浮かべるナミ。だが、そんなナミが信頼を失わないのは、あからさまには見せない思い遣りや気遣いが、その言動に何時でも潜んでいるから。ナミの照れ隠しとも取れるが、それは決して不快なものではなく、逆にナミの心根にある優しさを際立たせる。
………そんな事は疾うに知っていた。
知っていて尚、素知らぬ振りを続け、その温もりに浸ってきたのは、誰あろうゾロ自身。
その心地良さに胡坐をかいて、さも当然と高をくくって、ナミの存在の大切さを考えてこなかった。
ゾロの中で無くてはならない存在だと気付いた時、こうしてニッチもサッチも行かない状況になっていた。いや、この状況だからこそ、自分の想いに気付いたと言うべきか?
「…………」
ナミに何も伝えられない現状が、更に重くのしかかってくる。自分の気持ちの遣り場を塞ぎ、今塞がれようとしている。
例え彼女を傷付けナミを手に入れたとしても、それは自分の心に枷をかけるだけに過ぎないのではないか?例えナミに自分の気持ちを伝えたところで、ナミとっては重荷にしかならないのではないか?
例えこの現状を棄て去ったとしても、自分の心に一点の曇りなく前を向いていられるのか?
愚にもつかない思考が、ゾロの口を噤ぐませていた。
「この話はおしまいにして、お弁当食べようよ。ロロノア君?」
寂しさを湛えた瞳の彼女はにっこり微笑んでいた。
あれから……
彼女には何も話していない。汚い男だと自分を嫌悪しながら、彼女に女に他人にあんな目をさせる事は出来ないと、ゾロの些少なプライドが叫び続けている。それは偽善で偽懣で罪悪感に苛まれる事への恐怖以外の何者でも無いと知っている。
そして、ナミに拒絶される恐怖からの逃げでしか無い。
それも全て分かっていた。
(……何やってんだ、俺は……)
今から思えば、朝からテンションの高いサンジが苦手な数学のテキストを小脇に抱え、ゾロの座る机に足取り軽くやって来たのには訳があったのだ。
「よぉ〜マリモ!朝っぱらからシケタ顔しやがって…さては、テスト勉強してこなかったンだろ?俺が教えてやろうか?」
「馬鹿か?テメェに教えられる程、俺は落ちちゃいねぇ〜」
妙に機嫌のいいサンジが嚼に障り、喧嘩越しの口調で相槌を打ってやる。
「何だとっ!クソマリモ…」と返ってくるサンジの答えを身構えて待っていた……筈なのに。
「…なら、頑張れよぉ〜。これを落としたら、大会出られなくなるンだろ?折角地区予選で優勝したのに、成績悪くて地方予選に出られませんでしたじゃ、話になんねぇもんな?全国行くンだろ?」
拍子抜けしてしまった。
口を開けばゾロに罵詈雑言しか吐かないサンジが、エールを贈るような言葉を喧っているのだから。
ゾロはシキリと首を捻り、奇妙なモノでも見るような目で金髪男を注視した。
「?…熱でもあんのか…」
「なぁ〜に言ってンだぁ、このマリモ君は?人が親切に…」
「それが怖ぇーんだ…」
「ケッ!俺が、テメェの心配なんて心底するわきゃねぇだろ?」
「テンメェ〜…」
やっと、普通のリアクションが返ってきたと思ったのも束の間。
「ナミさんがよ…」
ドキリと心臓の鼓動が聞こえた。
「泣くだろ?」
(ナミが…泣く…)
「テメェが全国に行けなきゃ、ナミさんが悲しむンだよ。あんなに剣道部を愛しているナミさんが、あれだけ剣道部に尽しているナミさんが、泣くような真似してみろ!俺がテメェを許さねぇ!三枚にオロしてやるから、心しやがれっ!」
その通りだ。このエロ眉毛の言う通り、剣道部の為になら幾等でもナミは涙を流す。
「…………」
ゾロ一人の為でなく、剣道部主将の為に……
あの琥珀に輝く瞳から、宝珠のような雫を零すだろう。止めどなく。
「分かったか、クソ野郎!」
ナミだけでなく、女と名の付くもの全てに触手を伸ばすサンジでさえ、ナミの行動原理は理解されている。それ程にナミの中には確固たる信念があるのだ。
愛すべき剣道部。そのマネージャーである、部員の一人であるという誇り。
「……分かった。」
絞り出すように了解を伝えたゾロの誓いの向こうで、至極満足気な顔をしたサンジが頷いていた。
幸せそうな笑顔の裏には、放課後にナミと待ち合わせた時間を思い描いていたのだろう。まるで父親が手の掛る息子に向ける、余裕めいた表情を見せていたのだから。
少しだけ開いた部室の窓の隙間から、湿度の高い風が吹き込んできた。ヒューと音を立てた空気の塊が、ゾロの耳元を揺らし、三本のピアスに音を奏でさせた。
シャランと鳴るピアスに鼓膜が震え、ゾロを現実に引き戻す。
「………何やってンだ…」
ボソリと呟く掠れた声が全てを言葉にする前に、凜とした染み渡る声に掻き消される。
「ホント、何やってンのよ?」
振り返ればオレンジ色の髪が、軽やかに風になびいていた。
「…ナミ…?…」
先程サンジに見せていた深刻な瞳とは明らかに異なる親しげでいて、しかし、一線を画したかのように、踏み込む事を許さないといった強い意思を持った琥珀。
思わず惹き付けられ、言葉はシドロモドロになる。
「…お…お前こそ…」
「……私は…」
制服の半袖から覗く白い腕を華奢な腰に当てがい、仁王立ちしたナミを一陣の風が吹き抜けた。祈るような想いを魅せる琥珀を、オレンジ色の髪がたなびき、表情を隠した。
「…掃除当番…」
嘘だ……
サンジと一緒に中庭の片隅で話していたのはついさっき。
地方大会を目前に男と会う為、部活をサボっていたのでは無いか。
剣道部よりも大事な用があるのか?
主将である自分より……
「本当か?教室行ったが、居なかったじゃ…」
自分は一体何を口走ろうとしているのだろうか?
さっき校舎の陰から偶然見つけたナミの姿。
ポプラに寄りかかり背を預け、うつむき加減の白い顔。
制服から伸びた綺麗な四肢。
少し曲げた右足は膝から下が軽く揺れていた。
オレンジの髪がフワリと動き、上げた瞳に写る男の姿。
眼前のナミに重なった。
カアっと頭に血が登る感覚で、ゾロはナミを見つめていられなくなる。
「中庭の当番だったのよ…ゾ…主将こそ、私に何か用?」
反らした目線の片隅で、何かを言い淀むナミの声音に胸が軋んだ。
だから口調が横柄になる。
我心を悟られぬ為に。
「何で分かる?」
不機嫌さを露にしたゾロに、責める口調で、悲し気な瞳でナミが答えてきた。
「今、教室に来たって…」
「あ…あぁ…」
自分で言ったはずだった。それにさえ気付かぬ程に、何を舞い上がっているのだろう。
あの後ナミは何と答えたのだろう。
サンジに問われた「誰?」の言葉に。
知りたいと思う。反面、知りたくないとも思う。
知るのが怖い。知るべきかもしれない。知る必要があるのか?知らぬ幸せに徹すべきなのか?
知れば何かが変わるのか……自分が?ナミが?今が?過去が?明日が?
取り留め無い思考が頭を過ぎり、生返事を繰り返していた。
「何の用?」
憤りに響くナミの声に導かれ視線を戻せば、其処には憂いを潜ませた琥珀があった。
部室の窓から射し込む夏の光に照らされて、眩く輝く聡明な顔に、一点の陰りが映る瞳にあるゾロの姿。何か問掛けられているようで、何か拒んでいるようで、それが不甲斐無い自分への戒めにも感じた。
そして、踏み込んではいけないのだと、その瞬間閃く自分に気がついた。
サンジの告白にナミは答えていたではないか。
「好きな人がいる」と。
想いが届こうが届くまいが、自分の心に正直にありたいと、サンジの申し出を断っていたナミ。
自分を想う相手に感謝し、応えられない気持ちを正直に告げ、これ以上相手を傷付ける事は不本意であると、頭を下げていたではないか。
何処までも信念を貫くその姿に、教えられていた。
これがナミだと。自分が心から惹かれている女の姿なのだと。
(…それに較べて、俺は何だ…)
「か…監督が明後日の日程表作ったから、お前に印刷させろって……これだ。」
右手でギュッと握り締めていた原稿を差し出す。
「何よ、コレッ!クシャクシャじゃない…も、良いわ。直してコピーしてくる。」
ハァと溜め息を吐き、ガックリ肩を落としたナミが、出入口に佇むゾロを擦り抜け部室に入ってくる。ゾロの背に回り、両手で背中を押して外へ追いやった。
「後はやっとくから、早く部活へ行きなさい。」
ほんの一瞬、背中に感じたナミの掌の熱。
背を押した力に、心を推された気がした。
「コ…コピーすんじゃねぇのかよ?」
慌てて振り返れば、ナミは背を向けていた。
両手を握り締めていた。
「この惨状を放っておける?片付けてから行くわ…」
その背中は怒りなのか、震えているように見えた。
「そうか…頼む…」
ピクリとナミの肩先が動いたように感じた。
「俺は…」
導かれるようにその肩先に手を伸ばしかけたが、ふと我に還り急いで引っ込めた。
「行く。」
待っててくれ…心が勝手に呟いていた。
ナミが自分を待っている訳では無いと知っている。それでも、ナミの居る場所へ辿り着く決意を持つには十分で、真っ白な制服のか細い背中に誓いを立てる。
(…ありがとう、ナミ…)
クルリと身を翻し、また、廊下を走った。
目的地は格技場。
今度こそ、迷わず行けると確信していた。
「おっはよ〜〜ナミさぁ〜ん!」
期末考査最終日の朝は、酷く晴れ渡っていた。睡眠もソコソコに眠い目を擦りつつ登校するナミの背中に、異常なくらい爽やかな声がかかった。立ち止まり声のする方へ視線を遣れば、満面の笑みを湛えた金髪が大きく手を振っていた。
ツラレて笑顔を返せば、更に幸せそうな素振りでサンジが隣に並んだ。
「おはよう、サンジ君。」
「テスト前の憂鬱な時間に、君に出会えたなんて…俺はとんでもなく幸福だぁ〜。きっとナミさんのお陰で、テスト問題もスラスラ解けるような気がするよ!君は勝利の女神だ………って、どうしたの、ナミさん?」
「どうって……何かおかしい、私?」
「元気がないよ。」
「そ、そう……」
サンジの片方だけ見える瞳がいぶかし気に初夏の光を映していた。
「テスト前に元気がある方がおかしいンじゃない?」
漸く絞り出した言葉は宙に浮いていた。
「そりゃそうだ!流石ナミさん………」
考査前で部活はこのところ休み状態だった。地区予選を勝ち抜いた剣道部員の数人は、貴重な時間を惜しんで自主練習に取り組んではいた。しかし、正式部員とは言い難いナミは参加を許されず、彼等の仕上がり具合いに不安を抱いていた。
中でも心配なのは、ゾロの事。地区予選は難無く個人戦優勝を果たしたが、その後の練習ではどことなく精彩を欠いていたように見えた。部員の殆んどは気付いていなかったが、ナミの目から見ると、特に部活休止前の状態は酷く、集中力に欠けていて、得意の乱取りの最中に一年生から面を取られたりもするゾロの姿に、心此処に非ずといった印象を受ける事も屡々だったのだ。
ゾロの不甲斐無い印象を持ったまま、一週間の休部。今日の考査が終われば、ゾロに会えなかった日々も終わる。
正直、会いたく無かった。会うのが怖いと言った方が正しいのか。
正面きって顔をあわせる勇気が、今のナミには欠けていたのだ。
たった一週間顔を合わせていなかっただけで、会いたい想いが、話したい気持ちが募っていた。
ゾロに彼女ができてからも、ナミはその彼女より近い場所にいられた。それは同じ部活に所属するという特権とも言えるもので、密かにゾロを想う心を満足させる為の小さな優越感でもある。
それを強制的に排除されて、ゾロを目にする機会を失って、想いは逆に加速し募って行くのが、手に取るように分かった。大きくなるばかりの自分の気持ちを持て余し、ゾロと晴れて顔を合わせた時に、果たして自分の気持ちを抑える事が出来るのだろうか。今までのように自然に会話をする自信がなかった。あの時、自分自身に誓った、ゾロの負担とならない為に自分の想いを潜める決意を守り徹せるのか、疑問を感じる程だった。
そんな、ナミが……
コンディションを整えてやるべき自分の仕事を果たせるのだろうか?会えない一週間で調子が戻っていれば良いのだが、もしあれ以上に悪い状態であったならば、今、マネージャーでしかないナミに何をしてやる事が出来るのか?もし、不調の原因が肉体的疲労等ではなくメンタル面に関する事が原因ならば……一方的な想いが溢れ出してしまうかもしれない。そんな恐怖がナミを自然にうつむかせていた。
「…じゃあ、放課後?」
「エッ?」
「やだなぁ〜ナミさん、聞いてなかった?」
「ご、ごめん…ちょっと部活の事考えてて…」
「いいさ、仕方ないよ…試合前だしね。で、部活に行く前の少しの時間で良いか
ら、話したいんだ?ね?」
元気をあげるとでも言いた気なサンジの笑顔が、胸に痛いくらい眩しかった。
「でも、私、掃除当番なの。中庭の。」
「じゃあ、俺がそこ行くよ。それなら構わないだろ?」
正直サンジと話すのは、今のナミにとって苦痛と言える。
彼はゾロに最も近しい存在だった。部活の用向きを携え1つ上のクラスへ向かえば、必ず彼等はじゃれ合う仔猫の如く戯れ、ゾロの近くにいてナミを観察すると言えば語弊があるが、愛でるような眼差しを送って来る。
「ええ…でも今じゃ駄目なの?」
普段ならゾロを想う心を知られない為、サンジに、その眼差しにすがり、軽くあしらいつつも、面白おかしく過ごせる時間に感謝の念を抱いていた。
だが、今日は、しかも二人っきりという状況は、ナミにとっては心底苦痛でしかない。何故なら、サンジが寄せる視線の中に、ナミ自身が映し出されて見えたから。そう、ゾロを想う気持ちをひた隠し、人知れず見つめ続ける自分と同じ匂いを感じていたからに他ならない。
「大事な話だから。」
校門をくぐるやいなや、サンジはスクッと立ち止まり、ナミを正面から見据えた。其れまでの会話とは明らかに異なる、真摯な蒼い瞳で、一瞬の決意を垣間見せた。
「分かったわ……放課後ね?」
一瞬の威圧を受けた。逃れられない、逃げてはいけないのだと、心の中に覚悟が芽生えていた。
ナミの行動や言動にサンジなりの解釈を得て、それを形にする機会を狙っていたのであろう事は明白で、ナミ自身にも分別のある行為を重ねてきたとは言い難い思いもあった。
(……甘えてた。)
そう感じたからこそ、サンジの申し出を無下に断われはしないと。
了承した時、サンジは既に寂しそうな微笑みを口許に佩いているように見えたのは、ナミの一人よがりでは無かったのだろう。二年生の玄関前で別れ行くサンジの白い制服の背中は、朝日を浴びた校舎の影を受け少し翳りを帯ていた。カラ元気とも取れるクネクネと動く肩先が、妙に哀しく映るのはナミの心が投影されただけかも知れなかったが。
ザッザッザッ……箒で土埃を巻き上げ、まだ青い落ち葉を掻き集めていた。舞い上がる深緑が高い夏の陽射しに、きらめいて眩しかった。フワリと空中に泳いで、直ぐ様地に落ちる。それが何だかこそばゆくて、これからやって来るであろう金髪の男の存在を暫し忘れさせてくれた。
キラキラ光る深緑の向こう側に、それと同じ色を持つ愛しい……
「ナミさん?」
ハッとしてオレンジの髪を振り乱し、頭を上げればサンジが満面の笑みでナミを見つめていた。
「…サ…サンジく…ん…」
心此処に非ず状態だったナミに、不意打ちをくらわせるように優しい声で語りかけられ、思わず頬に朱が上ってしまった。
その顔色を視界に捉え、満足そうにサンジが頷く。一歩近付いた彼に気推され、後退ればポプラの幹に足を止められた。
仕方なくその木に身を預け、もう一歩近付くサンジを受け入れる。
「…驚かせた?」
「ううん。ちょっと、ボーとしてたかも?ごめ…」
「謝らないでくんない?」
被せるように言い放ったサンジの言葉は何処か悲し気で、その先に見える大事な話というものの結末を既に暗示している気がした。
「…………。」
だから、頷いたまま、瞳を上げられず、息を飲み込み、只管サンジの言葉を待っていた。
「俺、ナミさんが好きだ。」
ナミがもたれかかる幹に、トンとひとつ小さな衝撃音が響いた直ぐ後、サンジの声がオレンジ色の頭の上から降ってきた。
「俺の彼女になって欲しい。」
サンジは今ニッコリ笑っているのだろう。その優しさを前面に押し出す、あの温かな笑みを湛えているのだろう。だが声だけ聞いていると彼の真剣さが、苦しいくらいに伝わってきた。
「………ありがとう…」
真摯な声音に導かれ、ナミは正直にサンジと向き合う決意を持った。
「じゃ、OK…」
「嬉しいけどそれは…無理だわ。」
一瞬かなり近い距離でサンジの匂いを感じたが、ナミの言葉に躊躇しているのが分かった。
「付き合ってるヤツは居ないンだろ?俺は、本気でナミさんが…」
追い詰めるように繰り出されたサンジの想いのかけらを、情に流されそうになるナミ自身を戒める為、更に強靭な言葉で遮った。
「なら、余計ダメだわ…」
「何で?」
間髪入れず返された時、本当の覚悟を決めた。
ゾロだけを想う自分を改めて知ったと言っても良い。
こうしてサンジに告白を受けている今も、ナミの胸の中にはゾロの姿しか無かった。瞼を閉じていると、サンジから発せられた好きだと言う言葉が、ゾロの唇から紡がれているような気持ちにさえなっていた。
どんなに欲しくても、決して望んではいけない、望む事を許されない言葉を。
だから、自分と同じようにナミを見つめるサンジに、期待などという浅はかな気持ちを抱かせるのは反って罪であり、自分の彼への甘えを容認する事にしかならない。いや、ナミ自身、サンジに逃げ場を求める事は、自分への偽りになる。
謝罪と共に感謝を伝えよう…
「好きな人がいるの。」
キッと顔を上げ、サンジの深い蒼を正面から見つめ、キッパリと言った。
「……その人以外見えない……」
蒼い瞳に翳りが宿っている。
いや、自分の心が映し出されたのかもしれない。
「彼が…その人だけが…」
祈りに近い告白に聞こえただろう。満たされない想いの行末をナミ自身が一番良く知っていたから。
「好きなの…(ゾロが)……」
口にはしないと誓った名前が、ナミの胸中で谺している。
「誰…それは、誰なんだい?」
苦しそうに唇を噛み締めながらサンジが問った。
ナミはニッコリ笑い、殊更静かに答える。
「言えない。」
その名前を口にすれば想いが形になって溢れて来るのを知っていた。自分でも止められないだろうと分かっていた。
それに、ゾロにとても近い場所にいるサンジに伝えれば、優しい彼だからきっとナミの気持ちをゾロに教えてしまうだろう。
「ナミさん、それは無い…」
「言えないの。」
言い募るサンジの口に蓋を被せる。あくまでも、静かな声音を装って。しかし、毅然と。
「納得出来ないよ!せめてどんな奴なのか…」
「サンジくんが納得出来無くても、これだけは言わない。誓ったのよ、自分に。」
ナミの琥珀に漂う悲哀を読み取ったサンジは、まるで自分がナミになったかのように切ない表情を見せた。
「じゃあ、まかさ、ナミさんはその気持ちをソイツにも言わないつもりなのか?ずっと抑えたままでいるつもり?」
「ええ。」
「何で!」
「重荷になりたくないの。」
ポプラから掌を離し、肩をすくめたサンジが一歩後退る。うなだれていた金髪を持ち上げた途端、珍しく怒りに似た色を瞳に宿した。
普段は決して女性には見せない表情だ。
そして呟いた。
「………らしくねぇ。」
「え……」
その眼光はほんの一時だった。夏の光が見せた陽炎だったのかもしれない。
「そんなのナミさんらしく無い!」
ただっ子のようにも聞こえるサンジの声。
「かもね?でも…」
けれどもそれは、サンジの温かさを感じさせるものだった。心を隠して気持ちを抑える苦痛を、ナミに味わわせるのは忍びないと、夏風に煽られた金髪が悲し気に揺れていた。
「あの人に苦しい思いをさせる方が、私にとっては辛い事なの。それに、自分の気持ちに正直でいたいし、決めた事を守り通したい。。だからゴメン…サンジくんの気持ちには応えられない。」
「ナミさん……」
「でも、本当にありがとう。私を好きって思ってくれて嬉しい。」
心の底から笑えた。
沈んでしまいそうな心に、まだ自分には魅力的な部分があるんだと教えてくれたサンジに感謝していたからだ。
「行くわ…」と一言告げて、傍らの箒に手を掛ける。佇むサンジに背を向けて、校舎に向かって歩き始めた。
「ナミさんっ!俺、そんなナミさんも好きだっ!」
夏の陽射しと同じくらい明るい声が中庭に響いた。
それは、何時ものふざけておどけた声で、ナミの胸に一際鮮やかに聴こえた。
「知ってるわ〜」
振り返り軽くウィンクをすれば、何時もみたいに瞳をハートの形に変えて、クネクネ踊るサンジがいた。
何時の間にか駆け出していた。
何時の間にか箒も手にしていなかった。
何時の間にか部室に足が向いていた。
(ゴメンねサンジくん、ゴメン、ゴメン、ゴメンね…)
心が叫び出しそうだった。
偽りを語った訳では無いのに……
サンジに応えられないと分かっていたのに……
傷付けると知ってたのに……
苦しかった。
苦し過ぎて、逃げ出すように走っていた。
最後に聞いたサンジの声があまりに普通で、それ故ナミの心に負荷を与えないようにと配慮した彼の優しさが嬉しくて、悲しくて。
写し鏡に映る自分の姿を見ている様で、苦しくて堪らなくて。
廊下の角を曲がると部室が正面に見えた。
立ち止まった。
扉が開いていた。
枠の中に胴着に包まれた広い背中があった。
翠色の頭が少しうつむいていた。
正面の窓から射し込む陽光に照らされていた。
(…ゾ…ロ…)
微動だにしない後姿に、ナミの揺らいでいる心が引き寄せられそうになった。10m程離れているにも関わらず、ゾロの背中が間近にあるように感じている。
その薄紺に輝く胴着に手を伸ばし、背に頭を打ち付けるように取り縋り、何のわだかまりも無く泣けたなら、どんなに幸福だろう。
ナミはゾロを見つめたまま立ち尽し、自然と伸びる白い腕を感じていた。瞳には先程まで我慢していた涙が滲んでいた。
伸ばしきった腕が空を斬る。
その時、届かないと初めて悟る。
この距離を縮めてはいけないのだと、改めて知る。
涙が頬を伝った時、ナミは腕を自分の胸に引き戻し、自らを抱き締めていた。
震える体を自分自身で固く包み、零れる滴が夏の陽射しに乾くまでジッと佇んでいた。
乾いた涙の跡を拭ったナミは、ゾロの背中を目指し、ゆっくり静かに歩を進める。
開け放たれた部室の前に辿り着き、胴着の背中に手が届く距離まで近付いた。
「………何やってンだ…」
ボソリと呟く掠れた声が、取り散らかった部室にぼんやり響いた。それを掻き消すべく凜とした声で、何時ものように叱咤を飛ばした。
「ホント、何やってンのよ?」
驚きに振り返った翠色の頭に付属して、シャラリと三本のピアスが音を奏でた。
「…ナミ…?…」
一週間振りに会ったゾロは、以前より苦悩に満ちた表情をしていた。その眉間にある皺はゾロの精神的苦痛が未だ癒えていない事を、ナミに知らしめるには十分で、自身の仕事を思い起こさせる呼び水となった。
「…お…お前こそ…」
先程遠い胴着の背中に誓い直した決意は、間違いではなかった。
サンジと交した会話の中で述べた想いは本当だった。
何とも推測し難いゾロの苦痛を眼前に、ナミとして、マネージャーとして、同じ部員として、主将の力になるのが、今の自分に出来る最大の愛情表現に他ならない。
「……私は…」
一陣の風が吹き抜けた。琥珀色の瞳をオレンジ色の髪がたなびき、翠色の表情を隠した。
決意が新たになった瞬間だった。
「…掃除当番…」
サンジと一緒だった。中庭にいた。嘘ではない。
その内容を伝えたい。
けれどもそれは、自分の誓いに泥を塗る。
何より主将であるゾロに話すべきでは無い……
「本当か?教室行ったが、居なかったじゃ…」
ナミを探していた?
そんな馬鹿な…と、込み上がる期待が眉をかすめる。
「中庭の当番だったのよ…ゾ…主将こそ、私に何か用?」
剣道の事以外に興味を示さない男の心の片隅に、ナミという名がある事だけで、こんなに心が踊ってしまう。
だから、思わずゾロの名を口端に上らせそうになってしまった。
愚かだ…と瞬時に我に還り、つっけんどんな態度になっていた。
スネたようにソッポを向いたゾロの横顔に、胸がキュウと痛んでいた。
「何で分かる?」
その言葉に不機嫌さを増したゾロの様子が見て取れた。つい責める口調で、でも痛む心は隠し切れず、縋がる気持ちが面に現れていたかもしれない。
「今、教室に来たって…」
「あ…あぁ…」
ちぐはぐな受け答えに、ゾロの心が此処に無いと知った。
ゾロは今何か苦悩を秘めている。それが何かは分かりはしないが、彼には今やるべき事がある。それだけは確実に理解していた。
ナミに誓ってくれた『全国制覇』
それはおいそれと実現するものではない。相応の努力と研鑽、充実した心と体。
それに才能も。
全てに恵まれている筈のゾロに、今必要なモノは何か?苦し気な顔を少しでも和らげるのに、ナミにしてやれる事、それは、環境を整えてやる事だ。些細な事象に煩わせる事の無いように、ナミに出来る全てで力を尽そう。
メンタルケアはゾロの彼女がやってくれるだろう。
何時ものように悪態を吐かせてやるのも、自らの仕事だ。
「何の用?」
憤りを演じるナミの声は、ゾロに届いた。
ナミが見据えるゾロの瞳に、夏の光に照らされた自分の姿が映った。
――自分は今、ゾロの中にいる――
それを確信して、この時間の永遠を願ってもいた。
「か…監督が明後日の日程表作ったから、お前に印刷させろって……これだ。」
ゾロが右手で握り締めていた原稿を差し出した。
「何よ、コレッ!クシャクシャじゃない…も、良いわ。直してコピーしてくる。」
ハァと溜め息を吐き、ガックリ肩を落として、出入口に佇むゾロを擦り抜け部室に入った。ゾロの背に回り、両手で背中を押して外へ追いやった。
「後はやっとくから、早く部活へ行きなさい。」
ほんの一瞬、触れたゾロの背中。
その隆々とした筋肉の厚みが、愛しさを募らせた。
掌を握り直ぐに背を向ける。一瞬の熱を自分の手の中だけに納める為に。
「コ…コピーすんじゃねぇのかよ?」
ナミの背にゾロの掠れた声が問い掛ける。
両手をギュウと握り締めた。
「この惨状を放っておける?片付けてから行くわ…」
震えているのを気付かれているかもしれない。
幾ら誓っても、止めど無い想いが溢れ返ってくるのがわかる。
「そうか…頼む…」
ピクリとナミの肩先が動いた。
ゾロがこうして他人にものを頼むのは稀だ。大方の事はゾロ自身で解決し、些細な事でさえ滅多に人には頼りはしない。孤高と云えば聞こえは良いが、素直でなく無器用な男。
だが、そんなゾロが唯一ナミには素直に頭を下げる。下げさせているのかもしれないが。信頼に裏打ちされた絆を見せてくれる瞬間がある。それが、今。「頼む」の言葉に集約されていた。
言葉がナミの心へ染み渡っていく。
「俺は…」
ふと、ゾロが醸し出す空気が変わったような気がした。
「行く。」
そうだ……ゾロがナミに寄せる信頼は微動だにしていない。
ゾロに彼女が出来る前も、出来てからも。
ナミがゾロを好きだと気付く前も気付いた後も。
サンジにナミが告白される前もされた後、今も。
何も変わっていない。
ナミは一体何を欲しがっているのだろうか。
ゾロの彼女になりたいとでも思っていたのか?
いや、違う。そんな形が欲しい訳ではない。
ゾロが時折見せる絶対的信頼が欲しかったのだ。
ナミとゾロの関係が部活の先輩後輩の間柄であっても、この信頼に裏打ちされた絆は、彼女という形などより数段上にあるものだ。これを失いたくない。これが一番大事な事。
気付けば、ゾロの遠去かる足音が廊下に響いていた。背中に木霊するその音に答えるように、小さく本当に小さな声で呟いていた。
「…ありがと…ゾロ…」
ナミの想いの原点に立ち還えらせてくれたゾロに、感謝を捧げていた。
取り散らかった部室に改めて目を遣ると、ゾロが脱ぎ捨てた白いシャツが床に落ちていた。それをそおっと拾い上げ、胸に抱いて頬を寄せてみた。
「臭っっ!!」
笑いが込み上げてきた。
ククッと笑い始めると止まらなくなって、ついでに涙も止まらなくなっていた。
「…臭いのよっ…ばぁ〜か…」
窓から射し込んだ夏の陽射しが眩しくて、当分涙が止まらなかった。
「おめでとう、ロロノアくん」
「ありがとう…」
夏の地方予選会場は、ゾロの通う高校からは電車とバスを乗り継いで約一時間程かかる大きな公営体育館で行われていた。会場は広い運動公園が併設され、野球やサッカーなどの競技も同時に開催されている。多くの高校生が行き交い、あちら此方にデートを兼ねた応援やら他校との交流にいそしむ人々で溢れ返っていた。
そんな中、早々と優勝を決めたゾロは、表彰式までの時間を応援に来ていた彼女と、体育館の片隅にある水飲み場の木陰で話をしていた。
ひとつの決意を実行するつもりで。
「態々出向いて貰って…」
「ううん、全然!ロロノア君スッゴク格好良かったわ。」
とても幸せそうに語る彼女の声がある。しかし、陽光に映し出された儚な気な姿に、つい視線を反らせ気味になる自分が、些か情けなかった。
「ルールとか分かんねぇだろ?」
「ええ…まぁ。」
「つまんなかったんじゃねぇか?」
「…それほどは…」
「なのにこんな時間まで付き合わせちまって、すまねぇ。悪かった…」
今しかない。全国への道を開いた、今。
自分の初志を貫徹させるには、今を於いて他に無い。とても独善的な物の考え方だとは解っていたが、自分の原点を見極め、後戻りしない為にはこの時が最良だと信じていた。
「実は…」
「ロロノア君…もう止めて…」
急に沈んだ声音に変わった事に気付き、ゾロは漂わせていた視線を彼女に戻した。
木漏れ日が彼女の上に降り注ぎ、その斑な光と影が表情を曖昧に見せていた。
「…終わりに…したいんでしょ?」
「エッ…」
探るみたいな、それでいて酷く悲しそうな彼女の問掛けに、驚きを覚え息を飲んだ。
「ずっと…屋上でお弁当食べた日から、ううん、もっと前、付き合ってくれるって言った日からずっと分かってたの。」
諦めを含んだ苦し気な言葉が聴こえてきた。
自分から切り出そうと思っていた事を、先手を打って彼女から口走しられ、策略ともいえない小さな計画が見事に崩れ去って行く。
「や、あの時は…」
「自分でも気付かなかった?」
「ああ。」
「私は知ってた。ロロノア君が一人の人しか見てないって。」
「…だったら、何で?」
彼女が今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「意地悪したかったのかも…ね?」
その表情に深く胸が痛んだ。
「…………」
不意に彼女の瞳に暖かな色が浮かぶ。
「私、入学した時からロロノア君の事見てたのよ?一年の時同じクラスだったの、知ってた?」
「……いや……悪りぃ…」
「やっぱりね。ううん、いいのよ、そんなのは…私だってその頃は付き合ってた人がいたし。」
「そうか。」
「あれは…一年の秋、冬だったかしら?うちの学校で新人戦があったでしょ?あの時、胴着姿で体育館の回りをウロウロしてたロロノアくんを見たの…」
夏風にそよいでいた頭上の深緑が動きを止め、騒がしかった蝉の声も一時の静寂を迎えていた。
無音の世界が広がり、その中で彼女の声だけが響いていた。
「普段教室で恐い顔してる貴方が、迷子みたいに不安な顔してたから。それで、声を掛けて上げようと思って近付いた時…」
覚えている。あの日、自分の高校だというのに、迷っていた。いや、迷ったつもりは無いのだが、気が付けば自分が何処にいるのか分からなくなっていたのだ。
柄にもなく不安が募り、アチコチ歩いてみたものの試合会場が見付からず、出番まで時間は無くなるしで、かなり焦っていた。
首を捻り辺りを見渡すと、ふと目の端をオレンジ色が掠めた。
「ナミッ!!」
高校(ここ)に居るはずのないセーラー服の中学生の姿。何故だかその姿が酷く頼もしく感じて、ゾロも気付かぬ内に安堵の笑みが洩れていた。
「ゾロッッ!!!」
短目の濃紺のプリーツスカートを振り乱し全力で駆けて来るナミ。ゾロの目の前に到着したと同時に、小さな拳を翠の頭に落とした。不意を衝かれたゾロは、そのまま蹲った。
「ってぇ…」
「アンッタ何やってんのよっ!もう、試合はじまっちゃう〜」
「お前、殴ンな……」
「うっさいっ!さっさと立って!行くわよっ!」
ナミは強引にゾロの手を取り、グイグイ引っ張って、小走りに会場への道を辿らせた。勿論その間、ひっきり無しにゾロへの悪態は続き、容赦無い攻撃と口撃が嵐のようにゾロを襲っていた。
「迷子になるな…」
「馬鹿すぎる…」
「心配かけんな…」
「いい加減にしろ…」
何故こんなところにナミがいるのか?と言う疑問を差し挟む余地すらない程、ナミの激昂は凄まじかった……
「初めて見たの。ロロノアくんが笑った顔。スッゴク可愛かった。本当に安心した子供みたいな顔してた。」
(…笑って…たか…?)
「で、ドキッてしたの。凄く凄く、素敵で…」
既に2年近くも前の話。その時自分が笑っていたのかどうか定かではない。それどころか、只菅中学生のナミに叱られ捲った事しか憶えていない。
「あの笑顔がもう一度見たいって思ったの。それからロロノア君が気になって、何となく見るようになって、好きになったんだと思う。でも……」
懐かしい思い出に心を駆せていた彼女の優し口調が、とても悲しい声に変わった。
「…私と一緒にいる間は、あの顔、見せてくれなかったよね?」
「…す…すまねぇ。」
「ううん、謝って欲しい訳じゃないのよ。それは、仕方ないわ。ロロノア君の所為だけじゃないよ。」
「けど…アンタに辛い思いをさせたのは俺だ。謝る。本当に悪かった。」
「いいの、もう、いいから……考えてみれば、あんな風に笑えたのは、彼女だったからでしょ?私が居た所から顔は見えなかったけど。違う制服だったし、誰かは分からなかったけど…」
頭上の小枝がざわめいた。
風が吹き抜けたのだろう。
「オレンジ色の髪が綺麗だったわ。」
煩い蝉の鳴き声が戻ってきた。
陽射しの照り返しも暑い。
「別れましょう?」
「なっ…」
彼女の唇の端が小さく震えているのが見て取れた。
「ロロノア君から言うつもりだった?」
「……ああ。」
「やっぱりね…だから今日呼んでくれたのね?最後の雄姿をみせる為に?」
「そんな大袈裟なもんじゃねぇよ。」
「ありがとう。私、こんな格好良い人と付き合ってた事があるって、自慢できるわ。」
「格好良くなんてねぇよ。俺は他人の気持ちも、自分の気持ちも分からねぇクソッタレ野郎だ。」
「そんな事ないよ…私が別れたくないって言ったから、今まで付き合ってくれた
じゃない?ロロノア君は優しいよ。顔に似合わず…」
「……褒められてるのか?」
「そうよ。」
彼女が笑った。
釣られてゾロも苦笑いを零した。
彼女の心が今初めて見えたような気がした。
「ひとつお願いがあるの。」
「何だ?」
「私がロロノア君をフッた事にして。」
「実際、俺がフラレてんじゃねぇのか?」
「!そっか…そうよね。私から言ってるものね……」
「だろ?」
「じゃあ、友達に聞かれたら『剣道ばっかでつまんない男だからフッてやった』って、言って良い?」
「ああ、勿論だ。」
「ありが…とう…ロロノアく…ん…」
彼女の語尾は涙で聞こえ難かったが、「胸借りて良い?」と言う問掛けに、静かに胴着に黒髪を押し付けてやった。
ゾロは胴着の下に隠された胸の中で、ありがとうの言葉を何度も何度も呟いていた。
この思い遣りを忘れない。
傷つけた事も忘れない。
アンタを決して忘れない。
俺みたいな奴を好きになってくれてありがとう。
それは、表彰式に遅れると痺れを切らした後輩が、迷子のゾロを呼びにくるまで続いた。
頭上の木陰の隙間を縫って、夏の陽射しが雨の様に降り注いで、身をよせ合う二人を祝福しているようにさえ見えた。
(終)
但し、彼等はその時、体育館の陰にオレンジ色が消えて行ったのには、気付いてはいなかった。
何時もなら、ゾロが姿を消すと必ず探しに現れる、あのオレンジ色だという事に……
終
(2007.08.12)Copyright(C)CAO,All rights reserved.
<管理人のつぶやき>
付き合ってる彼女と別れられず身動きが取れないゾロ。
互いへの信頼関係の方がずっと大事だと考えるナミ。
相手のことが好きなのに、その想いを封じ込めて向き合う。それは心に不正直であるし、とても辛いこと。
それでもゾロはようやく件の彼女と円満に(笑)別れることができて、一歩前進と思いきや。
ちょっとー!ナミー!これは誤解だってばー!ああ、切なさが加速してしまった・・・!(T_T)
前作「本艦は只今より潜行を開始する」の続編で、CAOさんの14作目の投稿作品でした。
このままなんてせつな過ぎます;;。マジで続き、プリーズです!!!