目標防衛ラインヲ越エ尚モ接近中迎撃体制ニ入ル  ―1―

CAO 様

 

秋とは名ばかりの熱風がグラウンドを吹き抜け、舞い上がった土埃が今夏全国準優勝を果たした野球部員達の練習試合を一時妨げていた。三年生は抜けてしまったが、エースを中心とした新チームの練習風景に、フェンスに群がる報道陣や追っかけと呼ばれる他校生、近くの商店街の人々が日々歓声を上げていた。ここ、グラウンドから遠く離れた格技場前へも、その声は轟き、重いクーラーバッグを抱え額に汗するナミに不快感をもたらした。
一旦休憩と手荷物を地面に置き、横目でチラリとグラウンドを窺えば、一年生エースの黒髪の少年がマウンドに立ちセットポジションに入っていた。左足を高く上げ大きく振りかぶり、幾分投手としては小柄な体をしならせ、美しい弧を描いた腕から白球を放つ。遠方からでもギュンと音が聴こえるような気がする。空を切るバットと共にバシンとボールがミットに収まる音は確実にナミの耳にも届いた。

「凄っ……」

訳もなく感動を覚えた。
巻き上がった砂塵をものともせず、白球は直線を描き収まったキャッチャーミットがビリビリ震えているようだ。まるで痛い痛いと泣いているみたいに。投げたと同時にはふり落ちる汗がキラキラ輝いて、息づくユニフォームの下の鼓動が空気を通して伝わってくる。帽子の端から覗く黒髪が温い風に煽られ小さく揺れる姿が幼子の柔髪を思わせ、懐かしい気分にさせられ涙ぐみそうになる。

真っ直ぐなボール

そのスピード

ミットが発てた音


ひとつだけを見つめ、その瞬間に全勢力を注ぎ込み、精神を磨ぎ澄ませ、一心不乱に挑む姿。
ゾクリとした感覚がナミの背筋を這っていた。


一際大きな歓声がグランドを揺らしている。数多のシャッター音もそのひとつ。キャッチャーから返球されたボールに、黄色い悲鳴が上がる。受けたボールを握り締めた少年はその手を高々と挙げ、歓声に応えるようにギャラリーを見渡してガッツポーズを決めた。途端、ベンチから監督の怒号が飛び、肩をすくめひとつ頭を下げている。



「ルフィか?」



程近く、声のする方へ顔を向ければ、グランドに翠の瞳を向けた男の横顔が目に飛び込んできた。

「ゾ……主将!」

ナミの背後とも呼べる位置にゾロが立っていた。彼は切な気に眉をしかめた後、何時もと変わらぬシニカルな笑みを口許に佩く。

「よお、ナミ。部活か?」

何時からだろう?ゾロがナミを見つめる時、眉をしかめるようになったのは。何か言いたそうに、だが何処か戸惑って、そして諦めた表情を見せる。


カァーン


快音がグランドを揺るがす。センター前に転がったボールにエンドランがかかっていたのだろう一塁ランナーが交差して、二塁を蹴っているのが見えた。ボーとマウンドにつっ立っている投手に「サードカバーに回れっ!」とまた監督の怒号が響いている。

「馬鹿ね…」
「ンだとっ!」
「アンタじゃないわよ…ルフィ。」

グラウンドを見つめたままナミが答えると、さっきまで夏の匂いを留めていた秋風に、穏やかな薫りが混じったような気がした。

「やっとか…」

同じくグラウンドを見つめたままで、ゾロが溜め息を吐くようにボソリと呟いた。不思議に思いナミがチラリと盗み見れば、ゾロは唇をニッと歪めてまだグランドを見ていた。






今年の夏は……熱かった。
高校生活最後となる剣道部の試合、ゾロは地方予選に快勝した後、続くインターハイをも制した。向かうところ敵無しといった表現が大袈裟とは言い切れない程、他を圧倒する力を見せつけた。一時ナミを心配させたスランプは何処へ?という勢いだ。達観したとでも言うのか何かをふっきった感のあるゾロを、ナミは望ましく頼もしくも見つめつつ一抹の寂蓼感に苛まれてもいた。

(私は…必要ない)

期末考査が終わった日、ゾロの稽古姿勢が変わっていた。スランプを脱したと言い切れないまでも、何か目標を見つけ心を決めた潔さとでも言うのか、彼が纏う空気からそこはかとなく漂ってくるものをナミは感じ取っていた。何かが変わった、何が彼を変えたのか?その疑問の答えを得たのは、忘れもしない地方予選決勝の日。相手に一本も取られる事なく順当に勝利を納めたゾロが、団体戦決勝を終えた直後閉会式準備の最中に姿を消した。広い会場に来れば必ず迷うゾロに、何時もの事だと慣れたもの、ナミは一通りの片付けを澄ませ迷子を探した。
ナミにはゾロが居そうな場所に見当がつく。場所がわかるというよりも、ゾロの居場所に鼻が効くと表現する方が座りが良い。この数年で迷子の生態を把握する術を心得てしまっていた所為なのか、体が勝手に方位磁針となりその場所を指し示し磁力に因って引き寄せられる。無意識に。考えてみれば、初めてノジコに誘われて中学時代に剣道部の試合を応援に来た時から、ナミの異質な能力はその力を十二分に発揮されていたような気もする。






「ノジコッ〜!連中はどう?勝ってる?」
「あっ、ナミ〜良いところに来てくれた〜」

2年前11月上旬。晩秋というには暖かで、小春日和と表現するにふさわしい高い空に薄く流れる雲が心地好い日だった。受験生だったナミは早々に学校を終え、進学塾までの空いた時間をノジコの通う高校剣道部の試合を応援に来た。普段ナミの家に集まる剣道部員達の晴れ姿を見るという高揚した気持ちと、何時もぐうたらで手のかかる男共が心配でたまらない母心の両方を抱え、疾風の如く駆け付けたのだ。
ところが……

「ゾロ探して来てっ!」
「はぁ?」
「あの馬鹿、もうすぐ個人戦決勝だっていうのに、どっか行っちゃって帰って来ないのよっ!」
「まさか……また迷子?」
「多分ね。」
「ったく!あのマリモ…でも何で私?ノジコが行けば?」
「見て分かんないっ?私は忙しいの。馬鹿部員はゾロだけじゃないのよ〜分かるでしょ?お願いよ、ナミ〜」

体育館を見渡せば無邪気にじゃれ合う部員達に混じって、目付き悪く他校と睨み合う部員の姿も見受けられる。
ナミは再びハァと大きく溜め息を吐き、ノジコに了解の意思を伝えた。

「分かったわ。探して来る。」
「速攻連れて来てっ!」
「任せてっ!」

ナミは中学の鞄をノジコに渡し駆け出した。初めて来た高校の広い敷地内に当てなど全く無かったが、走り出した足に確信があった。直ぐにゾロを見つける自信が。何故なのかは分からないが、自分の足の赴くままに歩めば必ず迷子を見つけられるはずだと導かれるまま駆けていた。
妙に秋空が美しく輝いていたのが忘れられない。
顔に当たる風がいやに清々しい気がして仕方なかった。
バカ・バカ・バカ・バカ…と繰り返し心で言葉にしていたのを覚えている。
ある校舎の角を曲がった時、目に鮮やかな翠色が視界に飛び込んだ。

「ナミッ!!」

と、自分の名を呼ぶその男の声が耳に届いた。切迫感のない間の抜けた子供みたいなゾロの笑顔が、ナミに向けられていた。瞬間、カァっと怒りで頬が赤らむ自分を感じた。

「ゾロッッ!!!」

ゾロの目の前に到着したと同時に、小さな拳を翠の頭に落としてやった。不意を衝かれたゾロは、そのまま蹲りうらめしそうに見上げてくる。

「ってぇ…」
「アンッタ何やってんのよっ!もう、試合はじまっちゃう〜」
「お前、殴ンな……」
「うっさいっ!さっさと立って!行くわよっ!」

怒りにまかせナミは強引にゾロの手を取り、グイグイ引っ張って小走りに会場への道を辿らせた。勿論その間、ひっきり無しにゾロへの悪態を止められない。容赦無くグーパンで攻撃を繰り返し、逼迫感を見せぬゾロへの口撃を立て続けに浴びせた。

「迷子になるな…」
「馬鹿すぎる…」
「心配かけんな…」
「いい加減にしろ…」

合間にゾロが幾つかの疑問を口にしようとしているのは分かってはいたが、その声を押し止め、会場へ戻る短い時間の間に、来る試合への気合いを高めるのが自分の努めであるかのように、只菅喋り続けていた。

「ナミ、お前なぁ〜」
「さあ、着いた!サッサと行ってコテンパンにノしてきなさい。」

会場の入り口に二人並んで立ち中を見渡すと、ナミはゾロの背中をバチンと大きく叩いて促してやった。勢い余ったゾロが一歩会場に足を踏み出す。背の痛みに振り返り凶悪な視線をナミに投げ掛ける。

「テメェ〜…」
「行きなさい、迷子っ!此処で見ててあげる。」
「………おう。」

仕事を終えた充足感に意地悪な笑みを湛えれば、輪を掛けて不遜な笑顔でゾロが応えていた。
もう振り返らず会場に入るゾロの胴着の背中は、「見てろバカ女」と呟いているように偉そうだった。
ナミは校内を走り抜けた息が今更ながら上がって、ハァハァと肩を揺らしていたが、その視線はゾロの背中に固定されていた。

あの時からずっと、いや、それ以前からずっと、初めてナミの家にゾロが現れて以来、視線は無意識に何時でも翠色を追っていたのかもしれない。






グラウンドでは一際大きな歓声が響いていた。三塁ランナーがホームベースに滑り込み、キャッチャーとクロスプレイを演じ砂塵が巻き上がっている。

「アウトだっ!」

何時の間にかナミの左隣に位置していたゾロが、少し高い所から掠れた低い声を荒げている。

「セーフよ。」

その声に誘われそうになる視線を無理に押し止め、ホームベース上に心奪われている風を装って、ナミは事実を語るように冷静に告げた。

ミットの中のボールを見せ付けるように高々と腕を挙げたキャッチャーは、ランナーの長く伸びた左腕を股下に敷き審判の判定を仰いでいる。同じく滑り込んだランナーも泥にまみれた顔を持ち上げ、腹這いのままじっと審判の裁定を待ち望んでいた。
主審がマスクを取り、腕を伸ばし横に……高く上へ真っ直ぐに挙げた。

「ほら、見ろ。アウトじゃねぇか!」
「タイミングは完全にセーフだったわ!」
「ベースに手が届いてねぇんだよ。」
「アンタ見えンの?」

あまりに横柄な口を利くゾロに、負けず嫌いなナミの神経が刺激され、あれほど正面から見つめ無いようにと心に決めていた翠の瞳に視線を送ってしまっていた。

「見えねぇよ、こっからじゃ…」
「じゃ何で分かっ…」

ゾロはナミを凝視していた。近すぎると感じるくらいの直ぐ側で。ナミの視線を捕え、決して反らすなと訴えている。その意思を強く感じたナミは、伏せがちになりながらも、逃れる事を良しとせず翠の瞳に己を写し続けた。
ただ、口から溢れる言葉はほんの少しだけ勢いを潜めていた。

「…たのよ。勘とか言うんじゃ…」
「違う!間に合わない事は、分かってたんだ。最初っから、間に合わないってな。俺は知ってた。知ってたんだ、ずっと。」

悔しそうに唇を歪め哀しみを瞳に湛えたゾロの表情が、グラウンドのプレーに執着している訳では無いと語っているようで、では何を想って言葉を紡いでいるのであろうかとナミの気持ちを揺さぶった。

「何の話…」






剣道地方予選会場の体育館の周囲は、炎天下のサッカーや野球といった他会場とは異なり、多種多様の木々に囲まれあらゆる場所に緩やかな木漏れ日を投げ掛けていた。キラキラと足下を照らす夏の陽射しが、迷子を探すナミの仕事を応援してくれているみたいで、自然に気持ちが高揚している。何時もなら悪態のひとつも呟きながら大声で名前を呼び翠頭を探すのが日課の自分が、スキップでもするように心軽く鼻唄を零さんばかりの勢いでゾロを探しているなど有り得ない。まるでデートに誘われたような気分に酷似している。では、何故こんなに幸せな気持ちになっているのか……ひとえに、ゾロがナミとの『約束』を果たしてくれたからに相違ない。

―――絶対、負けない―――

ナミにそう誓ってくれたのは、ナミ自身がゾロへ友情以上の想いを抱いていると知った日の事だ。と同時にその想いが決して叶わないと知らしめられた瞬間でもあった。ゾロの腕に絡まった彼女の存在に受けた衝撃も去る事ながら、いかに彼女が其処にあったとしてもナミに告げた誓いは、唯一ナミにだけ向けられたゾロの真実だと確信を得ていた。

その心が形となって現われた今日の個人戦優勝。

ナミが寄せる信頼の証しとしてゾロが見せてくれた勝利を、喩えそれが仲間意識に端を発したものであったとしても、『約束』の一部に自分の存在をないがしろにしてはいないという気持ちの現れだと感じていた。
そう、友情であっても。
まだ、約束の途中であっても。
たとえ、他人(ヒト)の彼氏(ゾロ)であっても。
信頼の関係は揺らぎはしないと、ナミはゾロにとって必要な人間だと自信を持っていられる。この勝利にどんな声を掛けてやろうか、驕る事の無いように厳しく接するべきか、いや、たまには誉めてやるのもまた一興。迷子を求めて徘徊しながら、止めどない幸福感に浸っていたからこそ、無風の酷暑さえ心地良い。

ふと気付けば、今朝方会場入りした時に目に入った小さな水飲み場の近くまで来ていた。会場入り口とは裏側になるその場所は、込み合った会場内の水道から離れ、部員達のタオルを冷やすのに便利だなと思っていた。何と無く其所にゾロがいるような気がして、足を向けてみる。
水場のすぐ脇、大きな立木の木漏れ日の中、二つの影があった。どこかで見たような黒髪が吹き抜けた熱風に煽られ小さく揺れていた。その正面、向かい合う広い大きな胸までの短い距離は親密度の証。ナミの髪とさほど長さの変わらない黒髪が、今度はフワリと大きく動き薄紺色の胴着の上に落ちる。直ぐ様、ナミの良く知る大きな掌が黒髪の上を撫でた。掌の主が黒髪に顔を寄せ何か語り掛け、その翠の頭を上げ眩しい夏の青い空を見ていた。

恥ずかし気に照れた………ように。

ナミはその瞬間、必死で駆け出していた。二人に降り注いでいる木漏れ日と同じ光をその身に受けながらも、それとは異なり決して同じ温かな輝きを放っていないと感じる陽射しの中走り抜け、自分の心に宿る真っ暗な翳だけがその身を駆り立て、唯、唯、走駆を続ける。苦い嫉妬心を否定する力さえ失い、突き付けられた寄り添い合う二人の姿を真実として認めるのが怖かっただけ。逃げたのだ。ゾロがナミを必要としていない事実を否定したくて。

「ナミ…先輩?」

掛けられた声に頭を上げれば、其処は試合会場の入り口だった。ナミは余程茫洋としていたのか?心配そうにナミを見つめる後輩は、1年生ながら団体戦の次峰を努めた期待の新人。

「!…ナ、ナミ先…」

ナミの顔を覘き見て息を呑んだと言わんばかりに驚愕を走らせる後輩の表情を垣間見た。その顔に心配をかけまいとナミは渾身の力を振り絞り笑顔を作ってみた。だが、館内に流れる「個人優勝ロロノア・ゾロ、至急表彰台前へ…」というアナウンスを耳にした途端、目の前にあるゾロと同じ胴着の色したまだまだ薄い胸に飛び込んでいた。

「おめでとう、おめでとう、おめでとう、おめでとう、おめでとう、おめ…」

涙が溢れて止まらなかった。






グラウンドのざわめきが散漫なものになった。多分攻守が交代となったのだろう。マウンドから降りる投手に向けて黄色い声援がキャーキャーと飛んでいる。その隙間を縫って監督の「ルフィ!!」と怒りを交えた声が響びいていた。

「また、ドヤされてんな、アイツ?」

先程までの真剣な眼差しを隠すように、ゾロが不意に話を反らした。ナミの問掛けに我に還った自嘲の笑みさえ浮かべて。

「話………ええ、そうね。直ぐ調子に乗るンだから。誰かさんと一緒よね?」

ナミに話すまでも無いと判断したのであろうゾロに、多少の皮肉を込めて反論してみる。

「テメェ、そりゃ俺だって言いてぇのか?」

不満気な声が返ってきたが、それは以前のような心易い匂いを含んでいて、ナミの耳に優しく響く。おのずと返す言葉にも他愛無い親密さが顔を覘かせた。

「あら、アンタだなんて一言も言ってないわよ〜」
「ケッ…口の減らねぇ奴。」
「ウッサイ!」

ついゾロの制服の左胸をグーで殴っていた。久しぶりにその体に接触していた。
筋肉の厚みがナミの小さな拳を簡単に跳ね返し、パンと弾かれた手があっという間にナミの腕を元の位置に戻す。
その途端ゾロがニヤリと意地悪な嘲笑を見せ、釣られてナミも苦笑を浮かべていた。些細な笑顔ではあったが、本当に久し振りにゾロと笑い合ったような気がして、ナミは胸の中が熱くなるのを感じていた。

カァーン

また、グラウンドに快音が鳴り、二人同時に頭を向けた。ピッチャーの真正面に飛んだらしい打球は、伸びきった左腕の先にあるグラブに収まっていた。マウンド上大の字に立つ投手の左手が細かく震えているのが、ここからでも見て取れた。悔しそうにバッターがバットを地面に叩き付けていた。その姿を見つめたままで、気遣うようにゾロが語り掛けてくる。

「部活辞めるって…本当か?」
「………うん。」

ナミもまた同じ方向を向いたまま、静かに頷いた。

「何で…」
「来年は受験生だし、難関大学を受験するつもりだから、早めに体制を整えなきゃ。部活は…コニスがいるし。彼女、先輩達の指導のお陰でもう安心して任せられるわ。それに、秋の新人戦まで試合も無いし、私の仕事はもう…」
「そうじゃねぇよっ!」

まるで言い訳でもするかのような矢継ぎ早なナミの言い様に、矢も盾も堪らないと声を荒げたゾロが憤怒を交えて見下ろしている。大きな掌で握った拳が震えていた。

「な、何よ急に?そんな怒んなくても…」
「何ンで勝手に決めんだ?何で何にも相談しねぇンだよ、俺に!」

普段でも凶悪と評される顔を更に怒りに染めて、ゾロはナミを恐喝するかの如く全身で問い掛けてきた。近過ぎる程の距離を体ごとナミに向き直り更に近付け、その体躯で秋の長い陽射しを妨げオレンジの髪に影を投げる。

「主将?」
「俺はもう主将じゃねぇよ…」

そうだ、インターハイの終了と共にゾロをはじめとする3年生は引退した。そして2学期が始まった時点で新チームが正式に始動しはじめている。勿論、新主将を主体としてだ。

「…………。」

急に悲しみを翠の瞳に浮かべたかと思った途端、口調を呟きに変化させ、押し黙るナミに愚痴るように語り掛けてきた。

「さっき『アンタ』って呼んだばっかじゃねぇか?やっと、『主将』から解放されたと思ったのによ。」
「ごめん……先輩。」
「だっ………クソッ!」

苦虫を噛み潰し、秋空を見上げたゾロがハアと溜め息を吐いた。暫くそのまま固まってしまったゾロの顎のラインを見つめていた。いや、ナミは見惚れていたのかもしれない。その意思の強さを現すかのような無駄の無いキリリと引き締まった美しい顎。少し骨張ったその線を、以外に薄い皮膚が覆い、繊細さを奏でている。思わず手を伸ばし感触を味わいたい誘惑に駈られる程。
でもそれは叶わぬ夢と、ナミは知っていた。
肩が触れ合わんばかりの30cmも無い場所に位置していても、その本当の距離は無限の彼方にあって、ゾロとナミの間に横たわる渠は果てしなく深い。






コニスを部活に誘ったのはナミだ。ひとつ年下の彼女はナミの家の近所に住み、小学生の頃から良く知っていた。素直で真面目な娘だが内向的なところがあって、近所の年かさの子供にイジメられたりする事も屡々で、その度ナミが助けに行くのが常。そんな彼女はナミを慕って今春同じ高校に入学を果たしていた。不安を覚えるコニスが、ナミと一緒に下校を求めて剣道部の練習終わりを待つ事を続けるうちに、どうせただ待つのもどうかと一緒に剣道部のマネージャーにならないか?と勧誘したのは5月の連休明けの頃だ。
元来の生真面目さに加え気も回るコニスは、剣道部が地方予選を終える頃には一通りの仕事を憶え、インターハイの時期はゾロをはじめとした3年生につきっきりでその世話に努めていた。今では剣道部には無くてはならない存在となっている。

「コニス……まだ泣いてるの?」
「だってナミさん…ヒック…優勝ですよ…優……も、嬉しくって…ヒック…嬉し…」
「あーもう、分かったから。そんな泣かないでよ〜」
「涙、止まんないんですよ…ナミさーん…エーン…」

インターハイ個人優勝を決めたゾロや団体戦でベスト4まで勝ち上がった剣道部員達を宿泊施設に残し、ナミとコニスは一足先に地元に戻るべく電車に揺られていた。明日帰る彼等の為、祝賀会準備をしなければならない。まだ全国区となった部活マネージャーの仕事は多忙を極めている。だが、コニスにとっては全てが初めての経験で、遮二無に続けてきた仕事の集大成ともいえるこの全国大会、それが輝かしい結果を得る事になったその感激は一潮なのであろう。ナミも去年の大会でゾロがその表彰台に立った時には溢れる涙を止められず、自慢気に賞状をチラつかせる迷子男の胸に飛び付き翠頭をポカポカ殴ったものだ。


――あの頃はゾロの胸が近くにあった。


「………コニス、話があるの。」

隣り合う席から身を乗り出しナミの豊満な胸に長い金髪を埋めるコニスを、労りを込めて撫でながらナミは静かに話かけた。

「何で…ス…か?」

鼻をすすりながら頭を上げたコニスは、その鼻頭を紅く染め、イジメっ子から救い出してやった日を思い起こさせる。


「私……私ね、部活辞めようと思ってるの。」


余りの衝撃の為かコニスは普段から大きなな目を一層見開き、ナミの肩先を掴んだままワナワナと震えている。

「……なっ…何でっ?」

見捨てられた子犬を思わせる不安を纏ったコニスの声は、隣接する乗客の頭を二人に向けさせた。

「しぃー、コニスっ!」
「ご、ごめんなさい。でも、ナミさんが急にオカシナこと言うから…」

ナミが唇に人差し指を当ててコニスの口をゆっくり塞ぐと、彼女は語尾を段々小さくして黙った。

「急じゃないわ。ずっと考えてたの……受験はまだ先だけど、私、進路を決めたのよ。スポーツドクターになろうって。それには半端な勉強じゃ無理でしょ?少しでも早く初めないと。だから…」
「剣道部は?剣道部がどうなってもいいんですか?ナミさんの気持ちは分かります。でも、それに、まだ、主将には国体だって…」

秋まで走り続ける――そう、ゾロは言った。宣言したあの階段で、彼は決意を言葉に艶やかにも見えるオーラを放っていた。ナミにはそう見えるほど眩しい瞬間だった。
今、インターハイが終わったとはいえ、ゾロにはまだ国体という大きな目標がある。今日、試合場の上で見せた彼の姿は、鬼々迫る緊張感を体躯にみなぎらせ、面の奥の瞳に静謐な闘志を浮かべ、流れる水の如く淀み無く足を運び、轟く雷鳴にも似た一撃を対戦者に浴びせた。神々しいばかりのあの一瞬を、更なる大舞台で演じるはずのゾロが、心身ともに充実している今を信じているからこそ、ここで醜い心を持つ自分が身を退くべき刻なのだと思っていた。高い目標に邪な恋慕は不要と。

「…全国区になった部活にマネージャーが一人なんて無理ですよ!」

ゾロが目指す道の先、拓ける未来に力になれる人々はもう十分に寄り添ってくれている。勝利への意思を確実にしてくれる為の全国に散らばるライバル達、技術を向上させる努力を惜しまない監督、基盤となる環境を整えるコニスというマネージャー、そして、ゾロの心の平穏を支える『彼女』の存在。

「大丈夫手の掛る3年生はもう引退、新人戦まで時間もある!新マネージャーを入れてコニスが指導すればいいわ。」

―――私の出番は終わり

「でも、私、自信が無い。」
「私も予備校が無い時は応援に行くわ。だから、頑張って。コニス、貴方なら大丈夫。私が保証する。」
「ナミさん…」

全幅の信頼を寄せているとの期待を込めて、ナミはニッコリ笑った。






グラウンドがどよめいている。暫くゾロだけを見つめていたナミには、何が起きているのか分からなかった。

「エッ、何?」
「見て無かったのかよ?」

「あ、う、うん。ちょっとボーっとしてた。」
「お前らしくねぇな……」

そう言ったゾロは遠くにあった視線をナミに向け、諭すように、命じるように、願うように告げる。

「見てろ。」

ゾロに焦がれの眼差しを送っていた自分に気付き、慌ててグラウンドに目を凝らした。
9回裏点差は1、アウトカウントも1。バックネット裏にある大きなスコアボードには、二つ目のアウトカウント表示がついたところだ。
例え練習試合とはいえ、仮にも全国準優勝をしたチームの初ゲームだ、おいそれと負ける訳にもいかないのだろう。ネクストバッターサークルでバットを振っていた次の打者は緊張を隠せない。肩に力が入った彼には監督のサインも目に入っていない様子だ。ガチガチに固まった体でバッターボックスに入ろうとしていた。

「…あれじゃ、駄目ね。」
「どうして分かる?」
「だって、あんなに緊張してたら打てるものも打てないわよ。」
「そうか?やってみなきゃわかんねぇだろ……ほら?」

ゾロの促す声に誘われて再度ゲームに集中すれば、フラフラとルフィがバッターに近付いて行っていた。肩に腕を回し一言二言耳元で話し掛けている。直ぐに監督の罵声を浴びパッと離れた。その途端、バッターに笑顔が戻っていた。


「ナミ…どうして辞めちまうんだ?」


ヘルメットを取りにベンチに戻るルフィが監督からまた叱られている。打席に入ったバッターが一度ベンチを見て、バットを構えた。先程とは打って変わってリラックスした構えだ。


「嫌やなら無理にとは言わねぇが…俺は…」


ルフィがバタバタとネクストバッターサークルに戻っていった。ヘルメットを斜めに被り、ブンブンバットを振り回している。
やる気満々闘志をみなぎらせ、どっからでもかかってこい!と、遠目には華奢にも見える体全部で、敵対する相手チームに見せ付けている。まだ、バッターボックスに立っている訳でも無いのに。自分の打席が回ってくるとも限らないのに。


「…知りたい。」



カァーン



バットが快音を響かせた。ボールは綺麗な放物線を描いて左中間ど真ん中に飛んでいる。バッターは一塁を蹴り、二塁を目指し懸命に走っていた。シフトを取っていたのか思いの外早くボールに追い付いたレフトが、中継に入っていたショートの頭上を越えてダイレクトにセカンドへボールを投げた。
二塁ベース上はクロスプレイだ。
土埃が大袈裟とも思える程盛大に上がっている。


「予備校に行くの…」


二塁塁審が両腕を大きく横に広げた。


『セーフ、セーフッ』


二塁の上はまだまだ土埃が大量に舞って、打ったランナーとセカンドの重なった姿に遮を投げていた。




「スポーツドクターになりたいから。」




→2


(2007.10.06)

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