目標防衛ラインヲ越エ尚モ接近中迎撃体制ニ入ル  ―2―

CAO 様

 

「スポーツドクターになりたいの。」

ナミはグラウンドを確りとその目に捉え、何時も以上に透き通った声をゾロに聞かせた。一陣の秋風に因って揺らめいたオレンジの髪で聡明な横顔が隠され、それを不快と意識したのかナミの白い指先が髪を掻き上げ、少しの遅れ毛を残し綺麗な耳に引っ掛けた。その横顔にゲームを見ていろと命じた自分の言を否定したい誘惑に駈られる程、ナミの視線を欲している自分を知る。もう、こうして目の端でナミを盗み見るだけでは我慢ならないゾロがいた。己の無骨な手で柔らかそうな頬を掴み、小さな顔を此方に向けさせ、知性に輝く琥珀色に自分の姿だけ映していたい。
だが、ナミの言葉は先を見つめていると告げた。
その場その時の恋慕の情などでなく、歩むべき道の果てを確りと見極め、足を踏み出す覚悟があると言う。そんなナミが眩しく、動きかけた衝動を深く飲み下していた。しかし同時に、ナミの眩ゆさがまた、ゾロを惹き付けるのも事実だった。

「医者か?」
「そうよ。」
「スゲェ目標だな?」
「うん……儲かるしね?」
「!…テメェらしいな。」
「でしょ?」
「おう、ボッタクリそうだ。」
「失礼ね……ま、知り合いは安くしてあげるわよ?」
「へぇ〜、俺も診て貰えンのか?後が怖ぇーな…」
「バカね。」

ナミがグラウンドに向かってひとつ微笑み、首を回してゾロを見る。真剣な眼差しを送るナミに、一瞬腰が退けかけたが、直ぐにその表情に引き込まれた。

「…先輩達のお陰よ。」






ナミが入学とともに剣道部のマネージャーになる事は、ゾロをはじめとした既存部員全員の周知とするところだった。いや、入学前からノジコを介し、既にマネージャーとして活動していたと言って良いかもしれない。課題の手伝いから食事の世話・悩みの相談に果ては迷子の捜索まで。これがマネージャーの仕事なのかと疑問はあるものの、ナミは部員達の大概の事情に精通していた。だから、最初から全てを任され、誰もが信頼し、出来ない事は無いと思われていたのだ。しかし、そんなナミの最初で最後の失態とも言うべき汚点がある。
ゾロが2年生になり地区予選を間近に控えた練習試合の為、隣町にある強豪校へ遠征した日の事だ。授業を早めに切り上げ先着したゾロ達選手に遅れて授業を終えたナミが到着したのは、団体戦を終え残るは個人対戦のみという終盤だった。

「どぉよ?勝ってる?」
「たりめぇ〜だ!団体は負け無しだぞ。」

対戦高の格技場の入り口付近にゾロを見つけたナミから声が掛った。裸足の彼等をおもんばかってか、真新しい簀が敷いてある。その前でスニーカーを脱ぎながら、ナミが前屈みに話し続けていた。

「ゾロ、アンタ、一本取られたりしてないわよねぇ……キャッ…」
「あ、危ねぇ!」

ゾロを窺い見た視線のため足許をおろそかにしたナミが、足の指を簀の端に引っ掛け倒れ込んだ。それを反射的に助けようと手を伸ばしたゾロの上に、思いの外軽い柔らかな感触がぶつかる。一端は踏ん張ったものの、フッと香るナミの髪の匂いに気を取られ、気付けば段差のある出入口に軸足まで取られ、そのまま座り込むように倒れてしまった。

「っ…」
「ご、ごめん。大丈夫?」

まるで抱き抱えるように胸元にあったナミの顔が、至近距離からゾロを覘き込んでくる。

「お…おぅ。それよりお前は?」
「うん、平気。ゾロのお陰よ、助かったわ〜ありがとね。」

そう言いながらナミはゾロの胸に軽く両手をついて体を起こし、ゆっくりと離れて行った。少し惜しいような気持ちになったのは、多分気のせいだ。

「…痛っ!」

気を取り直し立ち上がり掛けた時、右足首に鈍い痛みが走り、ついゾロは声を上げてしまった。

「ゾロッッ!どうしたの……」

突然蒼白となったナミが心配そうに問掛けてくる。

「や、なんでもねぇ…軽く捻ったか?」

ゆっくり立ち上がってみる。少し痛みはあるが試合に支障があるほどではない。
気にしなければ大した問題も無いように感じ、軽くジャンプしてみた。違和感はあるが問題は…

「駄目っ!暴れちゃ、駄目っ!」
「ナミ…」

命令調のナミの言葉に反応して彼女の顔を覗き見れば、言葉と反した心配気な表情に一時息を飲んだ。

「こんくらいハンデだと思やいい。」
「そんなの駄目っ!試合に出て酷くなったら、本戦に影響するわ。棄権しなきゃ…私のせい…」
「棄権はしねぇぞ。」
「ゾロッッ!」
「俺は負けねぇ。テーピングで大丈夫だ。いける。だから、お前のせいじゃねぇ。」
「ゾ……ありがとう。ならせめて私が巻くから、足出して。」

慌ててバッグからテープを取りだしたナミが、少しだけ不安そうに綺麗な眉をしかめている。

「出来ンのか?やった事ねぇだろ?」
「うっ…で、でも…」
「良いから貸せよ。お前は袴押さえてろ。」

ナミは渋々頷くとテーピングテープを渡し、ゾロの右側に座り込んで袴の裾を持ち上げた。ゾロの手捌きをじっと見つめるようにうつむいて、無言で肩を震わせていた。
高校に入るまではマネージャーなど居なかったのだから、自分の体調管理は自分でやってきた。テーピングなど目をつむっていても出来る。
普段は無器用なゾロが鮮やかにテーピングしていく指遣いに、痛いほどの視線が集中しているのを感じる。年下の生意気なマネージャーに、少し、優越感を覚えていた。

「ゾロ…」

テーピングが終わるのを待つように試合の声が掛り、足を向けた途端ナミが珍しくしおらしい声でゾロを呼んだ。

「本当にごめん。迷惑かけて、何もしてあげられなくて。」
「気にすんな…誰だって出来ねぇ事もある。」
「…………」

ナミは何とも言えない切ない表情を湛え泣きそうにさえ見えた。

「…悔しいなら、出来るようになりゃいいじゃねぇか?」

ゾロはグッと握り拳を作ってナミの目の前に上げてみせた。
その姿に息を飲むナミの顔は、戸惑いをチラつかせた後、直ぐに何時もの魔女の笑顔に変わっていった。

「!……教えなさいよっ!」
「高けぇぞ。」

試合は問題なく圧勝だった。怪我ともいえない痛みなど足枷にもならない。
ただ、翌日からナミの攻撃は凄まじいものになり、片手にテーピングの本を抱え、練習中に転んだりした時にはその部員のところへ飛んで行きテープまみれにした。勿論休憩時間にはゾロの下へやって来て、質問攻めは当たり前、負傷してない箇所も実地と宣いテープでガチガチに固められた。唯一、安心できるのは授業中くらいで、休み時間もクラスに押し掛けて来たりもした。そんな事が一月ばかりも続いた頃か、ナミの抱えていた本がスポーツ医学の本に変わっていた。






ベンチから歓声が上がった。冷静そうに座ってゲキを飛ばしていた監督さえも立ち上がり、胸元に小さくガッツポーズを決めている。観衆の歓声は更に凄まじく、まるで逆転した勢いだ。打った二塁ランナーも真っ黒に汚れたユニフォームを見せ付けるように万歳している。ネクストバッターサークル上では、ルフィが持っていたバットを投げ出し、両手を挙げてジャンプを繰り返していた。
そのグラウンドのお祭り騒ぎが遠くに聴こえる。それほどにナミの声が間近に響き、ナミの真剣な瞳しか見えなかった。

「俺……達の?」
「ええ…」

ナミはチラリと視線をグラウンドに送る。直ぐに戻ってきた琥珀には幸せそうな色が浮かんでいた。

「先輩達が剣道の、いいえ、スポーツの素晴らしさを教えてくれたから。」
「…別に、俺達ゃ何も……」
「冗談なんかじゃないの。私、ずっと皆を見てきたから分かるのよ。目標に向かって誰もが努力をしてる。研鑽を重ねて、邁進して、鍛え上げてく…凄く素敵で美しいと思う。」
「………俺もか?」
「勿論!アンタが一番………」
「一番何だ?」

ナミを覗き込むように頭をかしげれば、秋の光がナミの頬に反射して少し紅く染まった。

「…す………凄い。」
「だと、思った!」

染まった頬に過大な期待を持たなくて良かった。ナミの返事は、これまでの悪態を吐きながら親交を深めてきた二人に取って、気恥ずかしくなるような答えを、理性を放っておけば塞いでしまいたくなるその柔らかな唇から紡ぎ出したのだから。

「図々しいわね?相変わらず…」
「それが、俺だ。」
「知ってる…でも、本当に感謝してるのよ、私。毎日汗まみれになって練習して強くなってって。怪我にも負けないで。何時も前向いてて。試合の時なんて、動きのひとつひとつに感動したわ。そんな皆を見て力になりたいって思うようになったの。」






「一本!」

剣道地方予選個人戦決勝。ゾロは二年生ながら見事な面を決め、優勝を果たした。昨年も同大会に於いて新人であったにも関わらず、優勝をして注目を浴びていたが、今回の優勝はまた格別の喜びがある。一回戦から相手に一本も取られず、全試合を無傷で決勝まで勝ち上がり、決勝に至っては開始1分という瞬く間に2本先取を決めて見せた。一分の隙もない、正に完璧と呼ぶにふさわしい勝利だった。

「「「「おめでとうっ!」」」」

試合場を下りた途端、待ってましたとばかり大勢の部員達が一気にゾロを取り囲み、口々に祝いの言葉をがなり立てている。ここぞとばかり普段の恨みを晴らすべく、どさくさ紛れに頭を数回叩く者もいた。汗臭い男共にガッチリ周りを囲まれて一頻り礼を述べていると、少し離れたところにオレンジ色の頭がうつむいて小刻に揺れているのが目の端に入ってきた。

「ナミッ!」

ワサワサとするムサい胴着の波の中心から彼女の名を呼び、人垣を掻き分けてマネージャーの元へ赴いた。

「勝ったぞっ!」

正面にナミを見据え居丈高に告げれば、頭をすくっと上げて潤んだ瞳を隠そうともせず、ニィと唇を意地悪に歪めて彼女は笑顔を見せた。

「こっ、これっくらいで、偉そうに言ってンじゃないわよっ!」

強気な言葉の向こうに嬉しくて堪らないと言いたげな表情が見えて、つられてゾロもニヤニヤと口許が弛んでくる。

「お前なぁ〜少しは誉めろよっ!連覇したんだぞ、連覇!」
「だから何よ?アンタの目標はこんなモン?まだまだ始まったばっかでしょ?浮かれてんじゃ無いわよ。」

少し遠撒きに二人の会話を見守る部員達に緊張が走っていた。しかし、ゾロには分かっていた。ナミの顔色が唯一窺える場所に立つ自分には。何より口調はいつもより穏やかで、とても注意を喚起しているようには感じられない。

「言われ無くてもンなこたー分かってる。」
「どうかしら?浮かれて男同士で抱き合っちゃって、気色悪いったらありゃしない。見てるこっちが汗臭くって堪んないわ〜」
「へぇ〜汗臭いのが嫌やなのか?」
「当たり前でしょ!いつも洗濯してやってンのは誰だと……」

ゾロの顔に凶悪を通り越した恐ろしい笑みが自然に浮上して来た。そして、振り返り部員達を見渡してこう告げた。

「おい、お前ら!ウチのお偉いマネージャー様は、汗臭いのがお嫌いだそうだ!」

その場にいた全員が悪い顔で笑った。それを合図とばかりゾロはナミに向き直り、汗臭い胴着の胸にオレンジの塊を引き寄せる。

「ちょっ、止め…」

苦しそうにもがくナミの耳元で小さく「ありがとう」と呟いた。ナミは顔を上げゾロを見ると一瞬固まり、直ぐ後大声で泣き出した。

「おっ、おっ、おめで…と…」
「お前のお陰だ。」

ゾロの腕の中で歓喜の涙を流すナミにその言葉が届いたのか否かは定かでは無い。陰に日向に自分を自分達を支え続けてくれるナミの存在に、素直に感謝を覚えていたから言葉にしただけだ。伝える為と言うより、心が零れたのだろう。分厚い胴着の外側にナミの涙が染み渡る前に、ドッと押し寄せた男達の波で二人はもみくちゃとなり、終いには泣きながらナミが胴上げの腕に踊っていた。
その綿毛ほどにしか感じない体の重みが宙を舞う姿に、笑いながら泣いていたナミの表情が瞼に焼き付き中々離れなかったのを忘れられない。

「どした?」

互いの戦果を讃え合い勝利の美酒に酔いしれて、学校へ戻る部員達の背中には、少し傾き始めた陽射しが輝きを失わないで閃いていた。
その沢山の背中を見つめ一緒に歩くナミの顔色が気になった。

「別に。」
「別にって顔じゃねぇだろ?言ってみろ。」
「何で分かるの?」
「何でって…」

何故ナミの様子がオカシイと感じるのか、それに理由などない。強いて言うなら、勝利した試合結果を目の前にしたナミなら、大騒ぎしてテンションが上がり捲っているはずで、今こうして一歩下がるようにゾロと平行して歩いたりなどしない。率先して先頭を歩み多くの部員に次々と声を掛け、勝利を味わっているのが常。今日も確かに胴上げの後、変わらず人一倍元気であった事には違いなかったが。

「別に訳なんてねぇ…」

言葉に出来るほど明確な違和感があるとは言い切れない。
ただ、空気が違う、そんな気がしていた。

「なんとなく情けない…ううん…」

まどろっこしそうな表情で、独り言みたいに小さな声でナミが呟いた。酷く微かなものだから、聞耳を立てていなければ聞き逃してしまいそうだ。
なのに、ゾロの耳にはハッキリと届いてくる。

「皆、素敵だった…」

嬉しいのに哀しみを秘めた囁き。

「勝ったヤツも負けたヤツも…」

もどかしいような、けれど答えを知っているような。

「味方だけじゃなくって、敵も…」

前方で部員達が一際騒ぎ立ている。

「神々しい気がした……なのに…」

ナミがふと笑みを溢す。
とても悲しそうに。

「見てるだけだった。私。」

声は西日の中に溶けてしまいそうで。

「お前がいなきゃ、俺は勝ってねぇ!」

光に溶けてしまわないように、西日と同じ色したナミの髪をグシャっと掌で捕まえた。指に力を込めてワシャワシャと掻き混ぜた。「何すんのよっ!」と上がった非難の声を耳にして少し安心した。何時もの生意気なナミだ。

「俺は、俺らは、テメェに叱り飛ばされないように頑張ってンだよ!」
「ばぁ〜か…」
「ウッセ。だから、しっかりしやがれ。まだまだ、これからだろーが。」

ナミの笑顔が嫌に眩しく見えたのは、優勝を手にしたゾロの高揚した気持ちが見せた幻影だと思っていた。

「うん……そだねっ。」

今度聞こえたナミの返事には、もう消えてしまいそうな気配はなかった。
制服に着替えた男共の背中に、微笑ましい視線を傾けたナミが、その人々の中に足を進める姿を頼もしく見送っていた。






グラウンドの歓声はどよめきに変わっていた。今や学園だけでなく全国規模のアイドルに変身を遂げたルフィが打席に立ったのだ。一見するとヒョロヒョロに見える体で、でもユニフォームの下には鍛え上げられた筋肉と強靭な精神力を隠している。誰もが知る満面の笑顔に不屈の闘志を宿して、誰をも惹き付けて止まないカリスマを持っている。
ブンブンとバットの素振りの音が、どよめきを静謐へ徐々に変えて行く。
主審のプレイ再開の声と共に、バットを構えたルフィがキッとマウンドを見据え、ピッチャーに圧力を掛けた。対するマウンド上では、キャッチャーのサインに首を振る背番号1。何度も繰り返されるサインへの不同意。そして、やっとなされた、了解。振り向き二塁ランナーを軽く牽制し、セットポジションについたピッチャーがバッターを睨む。
微動だにしないルフィが其処にいた。

「懸命な姿って、格好良いと思わない?」

静かにグラウンドに目配せしたナミが、少し照れ臭そうに言う。
ゾロもその視線の先にルフィを捉えた。
何時も真っ直ぐで純粋な皆のアイドル。多少馬鹿な面もあるが、愛さずにはいられない後輩。その真剣な姿は遠く離れていても、輝くオーラを常に放って一回りも二回りも大きく見える。

「そうだな。」

ナミの視線は憧れにも似て、少しだけ羨望をゾロの心に宿した。
くだらないとは分かっていながら、ナミがサンジに告げていた『好きな人』と言うのはバッターボックスで息まいている野郎じゃないのかと、ほんの一瞬ではあるが不謹慎にも頭を過ぎるゾロがいて、自分の浅はかな思考に苦笑いが零れていた。
例えナミが誰を想っていようとも、自分の気持ちに変わりはないと知っていた。
例えナミに彼氏と呼べる人間が現れたとしても、自分が寄せる信頼が揺るぐものでもない。
例えナミの近くに居られなくても、培った関係は時間も場所も問わないと信じていた。
だから、小さな嫉妬心如きで、僅にでも動揺する自分が愚かしい。

「一生懸命な姿を見てるだけなんて、とっても悔しいじゃない?」

再び戻ったナミの視線に、ゾロの心が洗い流されて行くようだった。自分達が己を鍛える為に費やした時間と同じだけ、ナミは心を費やしてくれていた。それは周知の事実でナミ本人も十分理解していると思っていた。照れ臭いながら何度か感謝を述べりもした。
だが、ナミはそれでも足りないと言うのか。

「お前だって、懸命だったじゃねぇか?」
「…先…輩…」
「俺達の為に努力してきただろ?」

今バッターボックスに立っているアイツにだって負けないくらいに、ナミは縁の下の力持ちとして、如何にすれば良いかを常に心に据え、その方法を考慮しその為に学び続けてきた。そして、その姿は選手である部員達の誰よりも輝いていたと思う。そのナミが居たからこそ、ゾロは頑張ってこられたのだ。その不屈の輝きに負けないようにと。

「でもね、やっぱり何もして上げられない自分が悔しくって…」

貪欲な魔女がゾロの目の前にいる。常に先を見据え、掲げた夢に歩む足を止めないナミ。彼女の源動力は、自身への限り無い渇望だ。
この女に惹かれない訳が何処にある?

「…まだ足りないって、まだ勉強しなきゃって…」

負けてはならないと思った。この先もナミと共に歩いて行きたいと望むなら、自分も更なる高みを目指す心構えが必要なのだ。ナミの輝きをしっかり瞳に焼き付けても、眩しいと感じなくなるまで。その光の中で立ちすくみ影を作るのではなく、共に輝いて行く自分の力を持たねばならない。その上で初めて対当になれるに違いない。
そして出来る事ならこの想いを忘れぬ為にも、もう少しだけでいいナミの光を間近に感じていたい。

「お前は、良くやってる。俺が保証してやる。」

鏡でも使わない限り、自分の事は自分では見る事は出来ない。否、正確には鏡でさえ、自分の正しい姿を写してはいない。左右が逆に投影されると言う意味ではなく、己の視線はあくまでも自分自身の中にあるのだから。ナミの懸命に輝いている姿をナミ自身が正しく評価できるはずがない。だから、ゾロが彼女の目に代り、教えてやる必要があるのだ。お前はルフィよりも、剣道部員の誰よりも、美しく懸命であると。勿論、この自分よりも。
そう、思っていた。

「ゾ……分かってるわよっ!私が居なきゃダメダメじゃない!当たり前でしょ?」

ナミに笑顔が還ってきた。自信に溢れた、そして、少し邪悪な、ナミらしい悪戯な笑み。

「なら、も少しだけ居ろよ。」
「……………」
「お前が何で部活を辞めるのか、理由も気持ちも分かった。」
「…じゃ…」
「これは、俺の我儘かもしんねぇ…お前に居て欲しいンだ。」

ナミが虚を衝かれたといった様子で、ゾロを無言で見つめている。
半開きになった唇が驚きで微かに震えているのが分かる。

「せめて……国体まで。」

ゾロの声は自信無さ気に掠れてはいたが、切実な想いが込っていて、染み渡る秋空の薄い雲に酷似していた。

「駄目か?」

翠の瞳に宿る懇願が真っ直ぐナミに注がれていた。



「引退した俺には誰もついててくんねぇンだぞ。」

「俺、一人で会場に行かせるつもりかよ?」

「約束したじゃねぇか?」

「秋まで走り続けるつっただろ?」

「まだ、秋は始まったばっかだ!」

「まさか、負けるとでも思ってンのか?」

「どうしても辞めるってんなら、俺だけのマネージャーやれよ!」

「俺を見届けろよ!」

「………きっと、凄いぜ。」


グラウンドからの喧騒さえ心地好いBGMにすり変わる程、ゾロの言葉はそれ自体が強い意思をもって、ナミの聴覚を深く震わせ沸き上がる胸中の想いに刺激を与えていたのを、ゾロは知る良しも無かった。
ただ、ただ、止められぬ想いを零れるがまま、必死で伝えたくてもがいているだけだ。


「バカ…」


もう、成す術なく言葉を詰まらせたゾロは、暫く瞬きもせず自分を見つめ続けていたナミから漏れてきた甘ったるい響きに、ホッとして頬が弛んでしまった。

「承知なら、ひとつ…」

安堵と共に襟を正した。

「頼みがある…」

小さな咳払いをひとつ。

「俺を…」

寸分外した目線を琥珀に置き直す。




「名前で呼んでくれ。」




戸惑いと嬉しさをない混ぜにした表情がナミに浮かぶ。

「俺はもう主将でも、部活の先輩でもねぇ…」
「…ゾ…」




カッキィ〜ン




痛快な音が響き、放物線を描いた打球がグングン加速してライトの頭上を遥かに越えていく。野手は一歩も動けず、その白球を視線だけで追った。高いネットを悠々と飛び越え、打球はグラウンドを後にする。大地が鳴動するような歓声が沸き起こり、お祭り騒ぎのグラウンドから、それを一喝する勢いで一層大きな声が発せられた。



「あっぶねぇ〜ぞぉ〜〜」



少年らしさの残る良く透る声は、ルフィのものだ。



ポンッ



その声とほぼ同時にボールの跳ねる音が、見つめ合うゾロとナミの真ん中に。二人を別かつようにバウンドしたボールは、見事に高く舞い上がり、格技場の軒下にぶつかって折り返し、再び二人に突進してきた。
思わず立ちすくむナミが、目をつむる寸前に大きな掌が視界を塞いだ。と同時にパシンと耳元で鈍い音がして、フワリと上体が傾いだ。

「つ…」

囁くように痛みを訴える声がナミの頭の直ぐ上から聞こえる。ゆっくり閉じた瞳を開ければ、正面に白い制服に刺繍された校章が見える。頬はとても厚い胸に押し付けられて、トクトク鳴る心臓の音が心地好い。そのまま視線だけ声のする方へ向ければ、眉を歪め握った白球を睨みつけるゾロがいた。
忽ちナミも鼓動が激しく脈打ち、何時の間にか握っていた白いシャツの袖口にある指が震えた。

「アンニャロ…」

ボソリと呟くゾロの薄い唇が怒りに染まっていくのを、とても心強く感じたのは何故だろう。

「…締めるっ!」

宣言したゾロの凶悪な顔が、凄くオカシク感じたのは何故だろう。

「不可抗力じゃない?」
「アアン…テメェあいつの味方かよっ?」
「そじゃないけど…」
「ありゃ絶対ワザとだ!」
「いくらルフィでもそれは無いわよ。」

ナミを打球からかばい、胸に引き寄せた形のまま、二人は不毛な会話を続けていた。喧嘩とも言えない少し甘い匂いに満ちて、たまたま陥ったこの疑似抱擁の時間を楽しんでいるようだった。

「ありがと。離して…」

ナミが離れ難い現状を否定するように軽く礼を述べると、それに相反して背に回っていた太い腕に力が入った。胸元を押して囲いから逃げ出そうとしていた体が止まる。細やかな緊張が走り、戸惑いがちにゾロを見上げれば、何時に無く真剣な面持ちに息を呑んだ。

「まだだ。」
「…へ?」
「まだ、返事を聞いてねぇ。」

ほんの十数cmの場所にゾロの顔がある。その背後は高い空が広がるばかり。放っておけば、その高みへ一人で昇って行ってしまいそうなゾロを、此処に繋ぎ止めているのはナミ自身だと言わんばかりに、翠の視線が痛い程注がれている。
共に高みに続く階段を昇っても良いのだろうか…

「駄目よ……」

背中の腕が力なく下ろされる。

「彼女に叱られちゃうわヨ。」

悪戯っぽく呟く言葉と裏腹に、胸板を押す白い掌は名残りを惜しんで震えていた。

「アイツには…」

やり場の無い太い腕を持て余したゾロが、躊躇しながら短い頭髪をガリガリ掻いている。


「疾うにフラれた。」


バツの悪い、いやに恥ずかし気な、それでいて照れ臭さそうな奇妙な笑みがゾロを覆っていた。


「「ゾロッ!!」」


驚きに上げたナミの声は、高いネット越しに響く声に綺麗に重なった。その良く透る少年の声に促され、そちらへ体を返す寸前、ゾロの笑みはとても満足気に変わっていた。

「ルフィ!テメェ〜、先輩を呼び捨てたぁイイ根性してやがるな?」

ナミとルフィの間を阻むように立ち塞がった広い背中は、振り返る前の表情とは打って変わって怒声を聞かせた。

「ええっ〜別にいいじゃんよ〜」
「つか、危ねぇだろっ!」

飛んできたボールを突き出して、ゾロが肩を怒らせる。ルフィは今気がついたと言わんばかりの驚きを見せた。

「当たったのか?」
「当たってたら今頃倒れてるっ!」
「なあ〜んだ無事なのか?チッ……」

今度は至極残念そうに肩をすくめ、両手をヒラつかせてルフィが言う。

「チッってなんだぁ〜」

ゾロは怒りに委せてボールをネット越しのルフィに投げつけた。殺意を込めたボールは、ネットが緩衝しなければルフィの鼻面にヒットしていた事だろう。

「ちょっと、よしなさいよゾロ!」

不毛な会話を聞くのに飽きたナミが、そっとゾロの背中から顔を覘かせる。

「バカ同士で何やって…」
「バカ言うなっ!コイツが…」
「おっ、ナミ!怪我してねぇか?」
「うん、大丈夫よっ!」
「ごめんな、ナミ〜。」
「うをい、俺には詫びは無しかっ!」

綺麗にスルーされたゾロはかなり不満顔だ。

「良いわよ、ワザとじゃないんだし。それに、ルフィ、サヨナラホームラン、格好良かったわよ。」
「そっかぁ?やっぱ俺ってスンゲェ〜だろ!」
「うん、凄い、凄い。」
「じゃあさ、俺の彼女にしてやってもいいぞっ!」

ゾロの眉間に深い深い皺が刻まれた。

「駄目だっっ!!!」

途端に話に割って入ったゾロの声が多少上擦っていたのは、勝手に進む会話に憤りを覚えたからに違いない。ナミは面白そうにゾロの瞳を覗いて、一瞬息が詰まるほど驚きを感じていた。

「えー、ゾロは関係ねぇだろ?」
「コイツは、マネージャーだからテメェと遊んでる暇なんてねぇンだよ。」
「部活辞めるってコニスが言ってたぞ。」
「部活は関係ねぇ!コイツは…ナミは今日から…」

ゾロの顔は余りにも必死の形相を湛えていたから。



「俺の専属マネージャーになったンだ!!!!」



確かめるように向けられた視線は余りに切実な色をしていたから。

「だろ?ナミ?」

秋風が優しくナミの髪を撫でていた。
その心地好さに胸の中まで震えてしまった。


「……………うん。」


ゾロが投げたボールはコロコロ転がり続けて、格技場脇の小さな側溝に消えていった。
何処まで転がり続けるのだろう。

「文句あっか?」

不敵な笑みを浮かべるゾロの横顔がとても頼もしく見えるのは何故だろう。
この顔をもう少しだけ見ていたいと思うのは、ナミの我儘なのかもしれない。
でも夢を諦めた訳じゃない。力になりたくて、夢を見つけたナミがいる。それを教えてくれたゾロがいる。ゆっくり歩いて行こう。一緒に夢見て一緒に歩んで。
その先にも、その途中にもゾロがい……ればいい。

「ゾロ、部活行くわよっ!」
「オゥ!」

並んで立ち去る二人の背中に、ルフィの雄叫びが響き渡った。




「ナミくんねぇなら、せめてボール取ってくれよぉ〜〜」








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(2007.10.06)

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<管理人のつぶやき>
秋になり、ゾロは剣道部の主将を引退、ナミは部を辞めるという――移り変わる季節と同様、いつまでも同じままではいられない。でもゾロの熱く率直な気持ちがナミの心を動かし、ナミはまたゾロのそばにいることになりました。けれど、二人はお互いの気持ちにまだ気づいてワケで。でもそれよりもまずは一緒にいることが二人にとっては大切ですね。「ゾロ」という呼び名も取り戻せたし!
紆余曲折ありましたが、ふたたび共に歩み出す二人。これからどんな未来が待ち受けようとも二人なら乗り越えられるに違いありません^^。

本艦は只今より潜行を開始する」「Good Luck Teddy Bear ――キカノハイリョニカンシャスル――」の続編にして完結編でした!このシリーズは題名が特徴的でしたね。全て軍隊的な言葉でカッコよかったです(笑)。
CAOさん、最後まで書き上げてくださいましてどうもありがとうございました!!



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