其処は、陰欝な暗闇と明滅する光が混在する異空間。酒の匂いと煙草の煙が充満し、一時の快楽を求める男女が集う。耳障りな音楽が鳴り響き、まともな会話すら儘成らない。
クラブ…
何故、こんな場所に…
何してるんだろ?私…
……馬鹿みたい。
一攫千金を夢見るより、地道に貯金しろっ、貯金! −1−
CAO 様
高校3年の2月中旬ともなると受験もほぼ終わり、学校に顔を出すのも稀になる。
彼女もご多分に漏れず、特別な用件でも無い限り登校はしない。
だが、今日は進学に関する重要書類提出とやらで、絶対に外せない日となっていた。憂鬱な気持ちを抱え乍ら教室の隅に陣取り、聞くでもなく数人の友人達の話に頷いていた。
彼女…ナミは、オレンジ色の肩より短めの柔らかな髪と、意志の強そうな茶褐色の大きな瞳と、誰もが羨む抜群のスタイルを持ち、加えて成績優秀な女子高生。校内では嫉妬と羨望の的である事は否めない。
クラスメート達は彼女の派手な外見から『遊び馴れした女』と判断し、彼女自身もそれを甘んじて受け入れ、それなりの対応をしてきた。…一々否定するのが面倒だし、何より言い寄る男共への牽制になった。
しかし外見と裏腹に彼女は遊び馴れどころか、ファーストキスもままならない超奥手だった。
何故なら、彼女には密かに思いを寄せる男がいたから。
蛹が蝶に変化する様に、少女から女性へと美しく変わって行くこの時期、その体の成長に伴わない淡い恋心を抱いた儘、高校生活を終えようとしていた。
昨日までは……。
2月14日。
決めてたの、その日に告白しよう!って。
ずっと優しくしてくれて、ありがとう。貴方の気持ちを受け入れるワ。…本当はずっと前から、スキだったの。素直になれなくてごめんなさい。許してくれる?…サンジ君。
朝から何度練習したかしら?
受験があるのに、ぎりぎりまでバイトを辞めなかったのは、貴方に会っていたかったから。合格発表の後バイト復帰するって、オーナーのゼフさん説き伏せたのも、少しでも近くにいたかったから。そして、今日バイトを入れたのも、チョコ渡して告白したかったから。こうして閉店後忘れ物した振りして、レストランへ駈け戻ってってるのも、二人っきりになりたかったから。ゼフさんの孫で大学通いながら店手伝ってる彼だから、いつも最後まで片付けで残ってるから…ほら、ロッカー室に明かりが点いてる。心臓がドキドキしてきた。
一度立ち止まり、小さく深呼吸する。少し開いたドアから暖かい光が漏れて、中の人影が動いているのが伺える。そっと覗いて見ると……いた。サンジ君!
店でいつも着ている黒いスーツを椅子の背もたれに置き、ネクタイを解き、白いシャツの胸元をはだけ着替えようとしているのが見えた。一瞬恥ずかしくなり、目を逸らす。その目の端に何かが通り過ぎた気配を感じ、再び彼を凝視すると。
彼の柔らかな金髪が見える筈の場所に、セミロングの黒髪があった。…女の人?
ゆっくりと黒髪に細く長いけどかっちりと節くれだった指が絡まって行く。愛しげに回されたその指の動きに瞬き出来なくなり、金縛りにあったかの様に動けなくなった。
暫くして黒髪が移動すると、その向こうに待ち遠しく思っていた輝く金髪と青い瞳が姿を現した…ただ、その視線は離れていった黒髪の女性へと注がれていたが。
そして、彼の唇から紡ぎだされた言葉…甘く優しく、けど深い響きを持つ彼の声で…
「好きだよ…ずっと貴方を大切にする。」
再度寄り添う二人を目にした時、私の手から小さな包みが零れ落ちた。
カタン…静寂を破る廊下に響き渡る音。
同時に光の中の二人が、暗闇に佇む私を見つけた。
「誰だ?」
サンジ君の手で開かれたドアから光が差し込み、私の周りの暗闇が影を潜める。突然明かりの中に放り出された私の体と、対照的に暗転する私の心。
「……ナミサン?」
「わ、私……ごめんっ!邪魔しちゃった?忘れ物あって…たいした物じゃないから。またに……続けて…か、帰るわっ。ほんと、ごめんなさいっ。」
あの時、巧く笑えてた?
どうやって家までもどったんだっけ?
渡しそびれたチョコはどこにあるんだろ?
何で涙が出ないんだろ?
…取り留めもない疑問が、次々と浮かんでは消え…
「ナミ?昨日はお楽しみだったんでしょ!」
「えっ。…あ、まあね。」
「今日は空いてる?たまには付き合いなさいよね。…まぁ、ナミには子供っぽいかもしれないけど…」
何も考えられない。考えるのが恐い。一人になると、どうすればいいのか分からない…
「行くわ!」
そう答えた結果が、コレ。ほんと何してるの、私?
小さなテーブルを囲む友人達は、それぞれにターゲットを見つけた様で、さっきから各々肩や腰に男たちの腕を絡ませ、しなだれ掛かっている。中には項に唇を這わせ、既にその気になっている者さえも…
私にも何人かの男達が、入れ変わり立ち変わり声を掛けて来る。其の声を遠くに聞きながら、昨夜の事ばかり考えていた。
私の肩に何人目かの男の腕か回された其の時、
「俺は、帰るぜっ!」
錆びたハスキーな声が、隣のテーブルから響いてきた。
ふと振り返ると、金色に光る三本のピアスが、目に飛び込んできた。
…サンジ君の髪と同じ色
………帰りたい。
気付いたら、男の手を払い除け、ピアスの耳下で呟いていた。
「私も帰りたいの。一緒にハケない?」
不信そうな切れ長の目が私を見つめた。其の色は、深い緑。
「なっ…」
何かを話し掛けようとしていた、其の男より一瞬早く、隣の男が私の腕を引く。
「そいつは帰るから、俺にしときなよ。」
強引に引かれた体がよろめき、思わずたたらを踏み、逃げようと藻掻く。
止めて!こんな訳の分からない場所に居たくない!帰りたいの!もう、嫌や。
言葉にならない恐怖と共に、声にならない怒りや憤りが私を支配する。何に対してなのか?この腐った場所に?強引に迫る男に?一時的な恋を求める友人達に?
…ううん、自分自身に。
「俺ンだ!手ぇ出すな。」
この喧騒の中、場違いな静寂を感じさせる声が聞こえてきた。
其の途端、引き寄せられピアス男の腕の中…何となく恐怖から解放された気がした。
そっと見上げると、顔が近付き、男の唇が私の耳に囁きを落とした。
「今の話、乗った。」
驚きながら男の目を覗くと、其処には悪戯小僧みたいな輝きがあった。
「行くぞっ!」
肩に回された腕に不快感を感じない事に驚きつつ、少し震えながらも男の腰に手を回し寄り添い、一歩踏み出そうとした時、別の男から声が掛かった。
「独り占めはねーだろ?こっちにも、回してから持ってけよ。どーせ、お前の女じゃねーんだから…。」
「…俺のだっつたろ?」
「お前に女がいるなんて初耳だ!嘘はいけないなー!ん?」
「う、嘘じゃねぇよ。」
「じゃ、証拠見せてみろっ!」
「証拠って……ちっ!」
私に向き直った男は、小声で呟いた。
「ちと、我慢してくれ。」
次の瞬間……
唇が重なった。
私の唇が、ピアス男の唇に包まれた。
いきなり押しつけられ、閉じきれなかった唇の隙間から、舌が侵入してきた。
どの位の時間が過ぎたのか……離れ際に男の唇が何か動いた様で。
「これで、納得したか?俺は、コイツと消えるから…じゃぁなっ。」
キ、キ、キスされたぁ?
えー!何で?依りによって、こんな男と!
何でこんな日に?依りによって、こんな場所で!
何でこんな気持ちの時に?依りによって、見ず知らずの…
嫌だ、嫌だ、嫌だぁー!
こんなファーストキスってあり?有り得ないっ!
信じらんない!
サンジ君に上げようって、大事にしてきたのに……けど、サンジ君はあの人と……
何処をどう歩いたのか?犇めく男女を掻き分け、時折ぶつかる他人の肩から逃れる様に、鬱蒼とした店内を右に左に幾獏か彷徨ったのは覚えている。
眼前に抱き合う男女をが居ても、私を襲った衝撃に声も出せず、寄り添う男に振り払われない様、必死でしがみ付いているしかなかった。
気付けば、街中にぽつんと置き去りにされた小さな公園に佇んで居た。
ファーストキスを奪った、憎い男と。
ずっと回されていた腕をあっさりと外し、男が話掛けてきた。
「はぁー、此処までくりゃ安心だ。アイツ等も追っちゃこねーだろうし…お前の提案のお陰だぜっ!ったく、ロクでもねー……何だぁ?」
目の前が歪んで見える。頬を熱いモノが伝っている。私から腕を外し正面から見下ろす男の姿も、ぼやけて見える。
…街灯の光を受けて暗緑色に映る髪も、不機嫌そうに潜められた眉も、不安な色を見せる深緑の瞳も、驚きつつ開かれた薄い唇も、何もかもが茫洋となり…
「な、泣いてんのか?」
其の心配そうな擦れた声に促され、瞬きすると、金色のピアスがまた目に写った。
サンジ君の髪と同じ色…
……許さないっ!
自然と右手が拳を握る。
力を入れて、目の前の男の腹へ打ち込む!
「ぐほっ……てめぇ〜」
腹部を押さえ前かがみになった所へ、間髪入れず緑色の頭目がけてハンドバッグを振り下ろす。何度も何度も何度も……
「や、止めろっ!イテェ!」
片手で私の腕を掴み、ようやく攻撃から逃れ、怒りに満ちた目が向けられた。
「何なんだよ、てめぇは!何で殴らんなきゃなんねーんだっ!」
「……死ねっ!あんたなんか、死んじゃえ!」
「んだとー!必死な顔してっから、あそこから連れ出してやったんだろ!礼の一つも無しか?」
無我夢中で腕を振り払い、男の胸ぐらに拳を叩き付け乍ら叫ぶ。
「キスなんかしてっ!許さないっ!」
「イテェ!…今時それくらい中学生だって…止めろっ!イテェって!」
「フザケないでっ!初めてなのよっ!どうしてくれんのっ!それを、それを…アンタみたいな名前も知らない、人相の悪い男と。」
「初めて?……いや、そりゃ申し訳…痛っ!」
「謝っても許さないっ!返してよっ!私のキス、返してっ!バカッ、返せないなら死になさいよ!私のファーストキスは、アゲル人決まって…決まっ…決ま……何で?私じゃないの?どうして?あの黒髪の……」
もう、言葉にならなかった。丸一日ぶりに溢れだした涙に私自身が溺れて、男を殴っていた両手でその胸のシャツを握り締め、嗚咽を洩らし続けた。
どうして?いつも綺麗だって、素敵だって、可愛いって言ってくれたじゃない?
デートしたいって、スキだなーって、全部嘘だったの?……天使だ、女神だって……
「お、おい……ったく。」
誰かが、私の背中を優しく叩いている。掌で宥める様に。トントントン……?
「ちったー落ち着いたか?」
まだぼーっとする頭で、声を便りに顔を上げる。飽きれた様な困った様な不思議な色に染まった目が、私を見つめていた。
「……うん。」
「何があったか知らねーけど、まぁいい…もう離してくんねーか?」
何時の間にか男の胸に身体を預けていた。胸元のシャツは皺くちゃで、少し湿っていた。我に還った私は、男を突き飛ばす勢いで離れた。
「な、何すんのよっ!」
……少し、寒くなった。
「な?てめぇから抱きついてきたんじゃねーかっ!」
「私が気付かないと思って、エロい事したんじゃないでしょうねっ!」
「する訳ねーだろっ!ガキには興味ねー!」
「ガキじゃないわっ!18よっ!こんなナイスバディつかまえて、何言ってんの?バカでしょ、アンタ。」
「バカって、言うな!年や身体の事言ってんじゃねぇよっ!」
「じゃ、何よ?顔?そりゃ私は愛くるしい顔してるけど…」
「お前アホか?自分で言うか?普通…」
「何ですってぇ〜アホ?誰が、アホ?アンタにだけは言われたくないわっ!この、泥棒野郎!」
「俺りゃ、なんも盗んでねーぞっ!」
「私の唇盗んだでしょっ!」
「謝っただろっ!まだ、んな事言ってのか?だから、ガキだっ…」
「そ・ん・な・事、ですって〜!アンタ、女にとっては大切な事なのっ!ファーストキスは大好きな人と、思い出に残る場所で、愛の言葉を囁き乍ら…」
「さぶっ〜。夢見てんじゃねーよっ!」
「なぁんですってぇ〜」
再度、胸ぐらを掴み、履いてたブーツで男の脛を蹴り上げた。
「かっ……☆◇○▽※!」
「夢じゃないわっ!凄く素敵な人にアゲル予定だったんだからっ!アンタみたいなオヤジじゃない…格好良くて、背が高くって、スマートで、足が長くて、お洒落で…」
「見た目ばっかじゃねー?」
「ちがっ!いつも私を笑わせてくれて、優しくしてくれて、辛いときは励ましてくれるし、いつだって私を誉めてくれるし……」
「そりゃ、おめーの親父か何かの話か?」
「好きな人の話に決まってんでしょ!…何聞いてんの?」
「いや、家族の自慢話みたいに聞こえんだが…?」
「どこが?バカねー、どういう頭してんの?…兎に角、理想的な人なのよっ、彼は!私にピッタリで、人が羨むカップルに…」
ちょっと涙が滲んだ…
「……それって、マジで惚れてんのか?」
「…!あ、当たり前じゃないっ。理想を絵に描いた様な人なんだからっ!スキになって当然でしょっ!」
「そうか?なら、他にもっと理想に近いのが現われたら、そっちに乗り換えんのか?」
「そ、それは……そうなった時でないと。」
「はっ。やっぱガキだっ!理想通りだからって、そいつの事何も見てねーだろっ!だから、ファーストキスがどうだのこうだの、下らねーシュチュエーションにばっか拘ってんだろ?…あぁ〜、恋に恋するってヤツだ?」
「……そんな事ないっ!」
だって、だってあの時、
「彼がキスしてるとこみたら、ビックリしたもん!彼が告ってるの聞いたら、ショックだったもん!彼が私を見付けた時、その目があんまりにも普通だったから、眼中に無いみたいで、何も考えらんなくなって…」
「だから、憂さ晴らしにクラブで男漁り…か?それとも、振られたハライセか?どっちにしろ、馬鹿馬鹿しいな。」
「どっちも違うわよっ!……アンタみたいなセクハラ野郎に、ナイーブな女の子の気持ちが分かってたまるもんですか!」
「あぁ、分かりたくもねー。んな下らねーの、願い下げだ。」
コノ男〜こんな最低なヤツと、キスしたなんてっ!あー、もう頭にきたっ。
「何が、下らないのよっ!大切な事でしょっ!」
「解んねーの?マジで?」
「な、何よ。そのバカにしたような顔は!」
「はー。要は、お前の憧れの君とやらが女といちゃついてるトコ見て、お前自身凹んだもんで、クラブで男引っ掛けようとしたけど、恐くなって逃げ出しました。ついでに、ファーストキスも失くしました。思い通りに行かないから、近くにいた俺に殴る蹴るの暴行と罵倒で、当たり散らしています……終わり。だろっ?」
「…………。」
悔しかった。さっき会ったばっかりの、名前も知らない男に全て言い当てられて、二の句が告げない自分が。
「一番下らねーのは、自分の気持ちから逃げて、わざわざ自分の身を危険に曝すとこへやって来る馬鹿さ加減だ!お前なー、キス位で済んで良かったと思え。俺の近くいた奴ら、かなりやべぇことやってるらしいからな〜薬とか使ってるって、噂もあるし…。」
「く、薬って……」
今更のように、足が震えてきた。ぞっとして、何だか悪寒が走った。急に立ってられなくなり、その場にヘタリ込む…突然伸びてきた太い片腕が、私の身体を軽がると支えた。
「今頃ビビってどうすんだ?震えてんぞっ!」
ガタガタする奥歯をぎゅっと噛み締め、覆い被さる様に私を支える男を、睨み付ける。
すると、また、金色のピアスが揺れていた。
思わず身体が硬直した。
「おい、俺はお前に興味はねーぞっ!」
「誰も、そんな事言ってないでしょっ!」
…何か、ちょっとムカついた。
「まっ、兎に角座ろうぜ。立ってンのも、支えてンのも疲れた。」
男が空いた片手で指差した先に、ぽつんと小さなベンチがあった。
外灯に照らされ、其処だけスポットライトが当たっている様に明るくなっている。
震える足を男に悟られぬよう、懸命に堪えながら近づくと、古ぼけたベンチにようやく辿り着いた。
夏場なら、ホームレスのベッドになってるんじゃないかしら?場違いな考えが浮かぶ。
「…座れよ。」
「何か……汚い。」
「お前なっ…たく!はぁ〜……ほらよ。」
男は左腕に巻いた黒いバンダナを解き、ベンチに敷いて促がした。
「コレ、大丈夫?」
「てんめぇ〜!さっさと座れ。重いんだよっ!」
「重くないわよっ。羽の様に軽いでしょっ!」
放り投げる感じで座らせられる。
「痛っ…レディは優しく扱うものよ。」
「どこが?レディ?……ガキの間違いだろ。」
口の減らない男だ!言ってやんなきゃ…
「アンタねー!こんな美人目の前にして、よくそれだけ間抜け台詞吐けるのか、頭かち割って覗いてみたいモンだわ!」
文句を言うと、震えが止まった。
「ちと、元気になったみてーだな?」
皮肉な笑いを浮かべた男に、頭を撫でられた。
子供扱いされたみたいでムッとしたけど、何だかちょっとホッとしてる自分がいて、不思議な感じ。
会ったばかりの変な男に、気を許してる自分がやけに可笑しく思えて…少し笑った。
「泣いたり、怒ったり、ビビったり…笑ったり。忙しい女だな、お前。」
そう言った男も、呆れた様に頬笑んでいた。
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