「ルフィは?」

「……ゾロッ!」

「ヤツは無事なのか?」

「わからない。…ルフィに何かあったら…」

「馬鹿な事言うなっ!」


俯くナミの肩に手を伸ばしキツク握り締める。するとナミは、今にも涙が溢れ出しそうな茶褐色の瞳を上げ、消え入る声で「ゾロ」と呟き、その広い胸に体を預けて小刻に震えた。
その体を包む様に腕をまわし、己の体で受け止めていると、ゾロの中の不謹慎な思いが、ふと頭をもたげる。


なんて、柔らけぇんだ…いっそこのまま強く抱き締めてしまえたら……。


「アイツに…ルフィに何もあるわきゃねぇだろ!」

「そ、そうよね。絶対…」

ガチャっと音がし、処置室の扉が開かれた。


「よっ!お前等どうした?」


「「ルフィっ!!」」





いつも隣にいるから  −1−

CAO 様

 

其処には、左のホッペタに大きな絆創膏を貼られ、満面の笑みで佇むルフィがいた。
酷く無機質な光に包まれた病院の廊下に不釣り合いで、其所だけが夏の炎天下を思わせる眩しい程の笑顔が、不安感で覆われていたゾロとナミの心に安堵を降り注いだ。
いつもと同じ、全ての者に安心を与える、屈託の無い笑顔。
男も女も子供も老人も…誰をも魅了して止まない、その笑顔。

その笑顔に、何度救われ癒され、何度嫉妬し憎悪した事か。

そんな相反する思いが、ゾロの中に顔を覗かせる…だが、やはりホッとしていた。
緩んだ気持ちに同調し、ナミに回した腕も力を失う。

と、同時に駆け出すナミ。

ゾロは振り払われた腕を静かに下ろし、掌を固く握り締める。あたかも、先程まであった暖かいモノを愛惜しむ様に。


「アンタ、何やってんの!平気なの?怪我は?エースから電話…」

「いっぺんに聞くなよぉ。」

「全く…なんでそう呑気なのよっ!気が抜けちゃうワ。」

「ヘヘッ、心配したか?」

「し、心配なんか…」

「心配したに決まってんだろ!」

「おっ、ゾロ!悪りぃー。」



3人は高校の時から、いや、正確に言えばゾロが高校に進学し、この町にやって来た頃から、10年来の付き合いになる。年齢も性別も家庭事情も仕事でさえも何ひとつ重なるところは無いが、気が合うとでもいうのか変わらぬ関係が続いてきた。

何も変わら無い関係……。

何時でも何処でも話題の中心で、煌めく昼間の陽射しの様なルフィ。
常に冷静で情熱を内に秘める、怜利な夜の月を思わせるゾロ。
機を見るに敏で情に篤く、柔かな木漏れ日みたいな、ナミ。

三者三様でありながら、唯一共通するモノ。それは、

……互いへの信頼

に他ならない。

ルフィとゾロが喧嘩するとナミが叱り、ルフィとナミが仲違いすればゾロがたしなめ、ゾロとナミが口論すればルフィがボケる……といった具合に。
それぞれが各々の立場と性格を理解し、自然のまま飾る必要ない関係を形作ってきた。


だがその信頼の中に、いつの頃からか定かではないが、異なった感情が生まれていた。
全員とは……確実にゾロの中には。



ゾロ自身その想いに気付いたのは、ごく最近だ。というよりも、気付かぬ振りをしてきたといった方が正しい。恐らくは、3人で共に行動する様になった当初から、その想いは彼を支配していた。ただ、認めなかっただけの事。
…認めればその先に待つのは、焦燥と苦悩だけだとゾロの本能は知っていたのだろう。本来、喜びや幸せをもたらすべき感情が、彼を苛むだけのモノだと……。


『ナミが欲しい』


ナミの瞳には、いつもルフィが映っていた。
隣に座るゾロより、向かいに座るルフィに視線が向かうのは当然だが、たまにナミがゾロの視界の正面に入ったとしても、ルフィの起こす騒ぎにあっという間にその目線から消えてしまう。……いつも。




何時だったか……
毎度の事だから、憶えちゃねーが。

ナミの部屋で3人で飲んだ時……あぁ、ありゃ確か俺の誕生日だったか?シブチンのナミが、珍しく豪華な料理をテーブルに並べてやがったからな。手作りだとか抜かして、外で食べると幾らかかると思う?なんて、恩着せがましく言ってたから……。結局その飯の大半は、ルフィの胃袋に納まっちまったんだが。
俺達はよく食べて、よく飲んで、よく騒いで…酒に弱いルフィが一番に陥落するのもいつもの事。飲み比べみたいな雰囲気でナミと二人飲み続けるのもいつもの事。

あの日は、違ってた。

いつも以上に早く眠っちまったルフィ。その姿を愛しそうに見つめ、ナミが呟いた。

「…私達、いつまでこうしていられるのかしら…」

「………何言ってんだ?」

チラリとナミを横目で見れば、ジッとルフィを見つめたまま寂しそうな微笑が口許を歪めていた。

「別に……ふと、思っただけ。気にしないで。」

「………ずっとだろ。何があろうと、俺達は俺達のままだ。」

自分に言い聞かせる様に呟く俺は、この時ナミの中に自分の居場所が無いのだと、改めて気付かされた。

「そう、かしら?……そうよ、そうよね。」

そう言ったナミは、手の中のグラスを煽った後も、その瞳にルフィだけを写していたから。

いたたまれない気持ちに苛なまれ、俺は横になる。

「何?ゾロ、もう降参なの?今日はえらく早いんじゃない?…お祝いされて、嬉しくって飲みすぎたの?」

「……かもな。」

普段通りに戻ったナミの声に、胸が苦しくて瞼を閉じた。俺らしくもねぇ…そんな想いから目を背ける様に。

「なーんだ、つまんない。どいつもこいつも、ひ弱なんだからっ!」

ナミが立ち上がる気配がする。奥の部屋に入って、暫くして戻って来た。
ふと、体に暖かい重みを感じる。毛布が掛けられた。それと同時に、頬に優しい感触が……キス?
ほんの一瞬、触れる程度の。
あまりの驚きに、目を開ける暇も引き寄せる暇も無く、あっという間に離れてしまった。

「誕生日おめでと、ゾロ。」

囁かれた言葉が耳に心地良く響き、意を決して瞼を開けると…

既にナミはルフィに毛布を掛けようとしていた。そのナミを振り向かせる為手を伸ばしかける。
すると、

「ルフィ……」

切ないナミの声がした。
ナミは優しくルフィの黒髪に手を伸ばす。
撫でる様に黒髪を掬う。
手の甲をルフィの頬に当てがう。
白魚の指で唇をなぞる。
そして、


薔薇色の唇がルフィの唇に降ろされた。


「…おやすみ。」


離れた唇から言葉が洩れた時、再び俺は瞼を閉じた。固く。







それから、約一月後……

「遅いぞっ、ゾロ!…はっ、また迷子か!?」

「な、訳あるかー!自分ン家だぞっ!ったく、仕事だ……ところで、ナミは?」

ゾロは安アパートの鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込み何気なく問う。

「今日は来ないぞ。」

「何…珍しい事もあるもんだ。ただ酒だってのに。」

ナミの姿が眼前に無いのは惜しい気もするが、ルフィばかり写す茶褐色の瞳を見なくて済むと思えば、相殺された気になる…複雑な感情を少し持て余していた時。


「見合いで、実家つってたから…」


「…み・あい、だと?」


開いた扉に飛び込み気味で入って行くルフィを、ひっ捕まえ狭い玄関の壁に押し付ける。

「ルフィ、テメェー!知ってて何で行かせたっ!アイツは、お前に相談したんだろっ?お前が止めねぇで、一体誰が…アイツは、止めて欲しかったんだ…」

殴りかからん勢いで問い詰めるゾロに、怯む様子も無いルフィは、涼しい顔したままで軽く聞き返す。

「何でだ?」

「そ、それは………」

……ナミはお前に惚れてるからだ!好きな男に止めて貰いたいのは当然じゃねーか!

そう、言葉に出来るなら、当の昔に言っている。
ずっとナミを見てきたゾロには、ここで自分が話す事をナミが決して喜ばないと分かっていた。



話すなら、ナミ自身の口から…そういう女だ。


だから、惚れた。


見合いの話をルフィに振っておいて、何も自分の気持ちを告げていないという事は、まだその時期でないと判断したという事だ。


俺が出張る事じゃねぇ……


それに、今ルフィにナミの気持ちを伝えて、もしルフィが応えたら……
俺は、冷静でいられるのか?

けど、ナミが俺達以外の男の元へいっちまうのは…きっと、もっと耐えられねぇ。


ゾロは、言葉が継げ無くなってしまった。ルフィに見据えた目線を外す。
自分が想いを寄せる女が、想いを寄せる男は、自分の親友とくれば、引くのが男か?と自問を繰り返している。

言葉に詰まるゾロを、不思議そうな顔で見つめ、ルフィが言う。

「見合いしないって言ったのに、何で止めなきゃ駄目なんだ?」

「はぁ〜?」

「?なんだ?ゾロは、見合いした方が良かったのか?」

一気に力の抜けたゾロが、掴んでいた胸ぐらから手を離した。

「何で先に言わねぇ……テメェと話すと、っんと疲れるぜ……はぁ。」

「んだよぉ〜!」

ふてくされるルフィを放り出し、ゾロは脱力しきった体に鞭打って、靴を脱ぎ狭い廊下を部屋へと向かう。
ほっとした様な、だが、報われぬ想いを断ち切るチャンスを逃した様な、不確かな自分自身の心に一抹の不安を覚えていた。


「けど、ナミが見合いしなくて良かったなぁ、ゾロ!」

まさか俺の気持ちを…ルフィが知る筈は無いと思いながら、蒼白になって行く顔色を止められず、背を向けたまま問い返す。

「な…に、言ってんだ?」

「ゾロ、安心しただろ?」

喉が乾き、巧く声も出せない。

…ナミの、あんなあから様な視線でさえも、気付かないこの親友が…知られちゃなんねぇ!コイツは、黙ってられるヤツじゃねぇ。そんな事になったら、ナミが苦しむ……

必死の思いで声をだした。

「お前…何がい…」

「これからも、ナミん家で飯食わせて貰えるもんなっ!」



「………そうだな。」



なぁ、ルフィ。お前は……罪なヤツだ。
そうやって、いつも俺やナミの心を揺さぶり傷付け、だけど、その破天慌な魅力で俺達を引き付けて止まない。

テメェを嫌いになれたら、どんなに楽になるか…。



その夜は、男二人っきりで飲んだ。
仕事場の忘年会の景品で手に入れた高価な酒が、俺達の目的だ。ナミのいない飲み会は、旨い酒をじっくり味わえる滅多に無い機会だが、その日はあまり旨く感じない。さっさと潰れる筈のルフィが元気なせいか、ナミの「美味しっ!」って声が聴けないせいか…上手く酔えない俺に、ご機嫌なルフィが絡んでくる。

「ナミがいねぇと、つまんねぇなっ、ゾロ!」

やっぱ…テメェもナミの事…。そう思い、諦めの気持ちが強くなる。

「…俺じゃ、不服か?」

「んにゃ、ゾロは好きだぞっ!」

「アホか?気持ち悪りぃ〜」

「…?飲み過ぎか?」

「!テメェの言ってる事がだよっ!」

「好きだって言うのがか?なんでだよー。」

「男同士じゃ、キモイだろ?…普通。」

「女ならいいのか?」

「そ、そりゃ、まーな。」

「じゃ、ナミならいいんだなっ!」

グラスを持つ手が震えぬ様に、ぐっと力を込めて握り締めると、指から血の気が引いて白くなって行く。

「いっ、いいんじゃねぇか!テメェの思う…」


「んじゃ、ナミが好きだ。」

目の前が、真っ暗になる。浴びる程飲んでた筈なのに、喉は後から後から干からびてしまう。


「……ほ・んきか?」


ギシギシ音が立つのではないかと思う程、固まってしまった体をルフィに向けると、上等な酒に頬を真っ赤にし、上機嫌で満面の笑顔が覗いている。


「ああっ、ゾロもナミもすっげー好きだぞっ!お前ら面白ぇーもんな。けどよ、ゾロは好きって言ったらまずいんだろ…」


コイツ…なんでこんなに正直なんだよ…俺もなりてぇよ。全く…ナミには聞かせらんねーな。


「そういうのは、好きとか言わねぇンだ!」


「じゃ、どういうんだ?」


「そりゃ、信頼とか信用とか…仲間つうか…」


「ふーん。好きってのは、ゾロがナミの事思ってるみたいな感じか?」


「………ルフィ?」


グラスの酒に目線を取られてた俺は、瞬きを何度か繰り返しやっと顔を上げた。

次の瞬間、寝てやがった。



限界が来ていたんだ。

俺達の関係。

俺達の感情。

ああ、きっとそうだ。

張られた弦を更に引き絞る様に、俺達はじっくり時間をかけて張り続けて来たん
だ。何時弾けてもおかしくない程に。
誰もが誰かの気持ちに気付いて、それでも互いを甘受して、現状を維持している。
後は誰が口火を切るか…我慢の限界に達するのは、誰が最初か?
それだけの事だったんだ。


けどよ、こんな弾け方するとは誰も予想してなかったに違いない。

……少なくとも俺には、分からなかった。







病院の廊下は無機質なリノリュウムに囲まれ、感情の無い蛍光灯の光が、立ち込めた様々な想いを打ち消す様に冷たく輝いている。

ルフィを囲みゾロとナミは、一様に安堵の表情を見せた後、いつもの如く気安く声をかけていた。

「心配かけんじゃねぇぞ!」

「へへっ。」

「笑い事じゃ無いわよっ!このバカ。」

ぼかっ!
ナミがルフィの頭を殴った。軽く。

「イテェ〜。」

「おい、ナミ止めとけ。一応、救急車で運ばれた怪我人だぞ。」

「だって、頭にくるのよっ!…心配して損したわ。こんな元気な怪我人なんて、初めて見るわ。…頭痛くなってきた。」

「なら、ナミも診て貰えよっ!あそこのドアの向こうに、いっぱい医者いるぞっ!」

後ろ手に指差しながら、ルフィが話し終えた時、パタンと音がした。



「ルフィさんっ!勝手に帰っちゃ駄目でしょう?」



音の発生源である処置室のドアから、空色の長い髪をした女性が怒った顔で現れた。
ナースではない。
何故なら、その姿は清楚なドレスに包まれ、いかにもパーティを抜け出してきた様な格好だった上に、男物のジャケットを羽織っていたからだ。……多分、ルフィの。
気を付けて見れば、ルフィも普段は滅多に着ない白いYシャツに黒のスラックス、はだけた襟元には解いたネクタイを引っ掛けていた。

「やばっ!」

ルフィは、ゾロの後ろに隠れようとするが、一瞬早く彼女が追い付いた。
そしてルフィを責める様に、その両腕を取り肩を揺すった。

「まだ、診療途中でしょう…どうして我慢してられないの?ちゃんと診て貰わなくっちゃ。」

「ビビ……ごめん。」

ビビと呼ばれた女性は、緊張が解かれたのか、急に幸せそうな微笑みを浮かべ、うるんだ瞳でルフィを見上げた。
そんな彼女の様子を見たルフィは、今迄見せた事の無い柔らかい笑顔を見せた後、その胸の中にそっと彼女を包み込んだ。


「ルフィさん……」


ルフィに包まれたビビは、嬉しそうに名を呟いていた。




俺とナミの目の前で起きている光景が、真実だと気付くのに多少の時間が必要だった。

あまりに絵になる抱擁が、現実とは思えず、まるでドラマのワンシーンが切り取られている……そんな感想しか湧いて来なかった。

暫く言葉を失っていた俺は、すぐ隣に佇むナミの僅かな震えを伝える肩が目の端に入らなければ、何時までも馬鹿顔晒したままでいただろう。

目の前の暖かな空気と、隣から発せられる沈鬱な空気を読み取る、無駄に敏感な自分の神経を呪った。

(このままじゃ、ナミの心が壊れちまう!)

恐怖に捕われた俺は、驚きをひた隠し声をかけた。
発した声は思いの外淡々としていて、気安い感じになり、この現実を以前からさも知っていたかの様に響いたに違いない。

(ナミにこの二人を見せたままにしておけねぇ。)

その思いでいっぱいで、何か手だてを考えていた訳では無かった。


「ルフィ、サッサと終わらせてこいよ。車で送ってやるから。」

「おぅ、サンキュ。……ビビ、一緒に来てくれよ。」

「はいっ。」


二人は寄り添ったままで、再び処置室の扉に向かった。


ビビという名の女性が現れてからというもの、ナミはその饒舌な唇から一つの音も洩らしていなかった。
ゾロがそんな彼女に掛ける言葉を模索している内に、ルフィ達は扉の向こうへ姿を消してしまった。


ナミが…コイツが今受けている衝撃を思えば、何を言ったところで何の助けにもならない。そんな事は重々承知している。
俺自身コイツを意識していると自覚した時には、すでにコイツの気持ちはルフィに向いていたから…
そしてルフィだけのナミになる事を無意識に想像し、何度恐怖したか…

置き換えれば、俺が考えるだけで済んでいた事が、ナミの身には現実として起っている。

俺なら耐えられるか?
ナミは耐えられるのか?

俺なら何と声を掛けられたい?
ナミに何と声を掛けりゃいい?

何も聞こえないだろう…


妙案が思い付かないまま、ゾロは隣にいるナミへ視線を送る。
本当は見たくは無かった…

何故なら、ナミの視界に無い自分の存在を、確認する作業でしかないから。

その瞳に唯一写っていた男、その目に写るのは自分以外の女であると知らしめられ、その事実に傷付いている時、俺の存在などその心に微塵も在りはしない。

それどころか、俺ではない男で心をいっぱいにしているナミを見る事で、俺の一方通行な想いが現実から真実に変わってしまうだろう。


傷付いた彼女を救ってやる術の無いもどかしさが、ゾロの心を苦しめていた。
それでも、無駄とは分かっていても、ナミを見ずにはいられない己の衝動に坑いきれず、体を動かした。

其処には、一度足りとも見せた事のない、蒼白な表情のナミがいた。

蛍光灯の純白の光に照らされ、普段以上に白い肌と色を喪った唇が、ナミの感情を全て物語っている。
僅かな震えが体全体を侵蝕し、何も写さない茶褐色の瞳に、ゾロは苦汁を舐める。
何もしてやれない不甲斐無い自分とナミを失わずに済んだと心の奥底で安堵する自分もいると発見した。
そんな自分勝手な思いを知って、自分自身にヘドを吐きそうになった。


…汚ねぇ。俺は何て汚い男なんだ!


ゾロは声を掛けるのを躊躇した。

暫し見つめていると、想いが溢れそうになる。


小刻に揺れるナミを自分の胸に引き寄せ、渾身の力を込め抱き締め支えてやりたい。
俺がいる、ルフィの代わりに一緒にいてやる。誰にも指一本触れさせず、お前を傷付ける全てのモノから守ってやる。だから、俺を見ろ。お前の為なら何でもする。お前を……


意を決し、ナミを呼ぶ。


「………ナミ…」


呼ばれた方へ、機械的に首を回すナミの視線が、ゾロを捉える。
その硝子玉の瞳にゾロの存在が、認識を与えた瞬間、

「わ…私…。エ、エースに、連絡しなくっちゃ…事故の連絡くれたのエースだし、き、きっと心配してるわ。携帯……あっ!病院の中はダメよねっ……外から電話してくる。早くし、知らせなきゃ。ルフィが……無事っ……ルフィ…」

そう言うと、振り向き様に駆け出した。
ゾロが伸ばし掛けた腕にも気付かず。

あまりの早業にナミを留める手だてもなく、独りうわ言のように語るナミが痛々しく…

追えなかった。

追う事が出来なかった。



ゾロは、崩れる様に長椅子に腰を降ろした。
廊下の壁に沿って並べられた、ビニール貼りの椅子は、クッションがとうに失われ固い座り心地がする。
病人をこんな所に座らせるのはどうなんだ…と、無意味な思いが沸き上がり、ゾロは独り苦笑う。
時折、ジジーと蛍光灯が音を立てる。切れかかっているのだろう。
下らない些細な事ばかりが気になって、掌を固く握り締めてみた。ゾロの拳はみるみる内に、血の気が失せ、指の一本一本が白くなって、カタカタと震え始める。拳の中で深く切っている筈の爪が、自分自身の皮膚に痛みを与える。


……今頃アイツは泣いているのか?
いや、辛ければ辛い程明るく振る舞うアイツだ、悲しければ悲しい程笑う女だから………泣かずに、涙を溢しているに違いない。
弱い自分を否定したがるナミ。そして、強い自分を見せたがる女。
だから、側にいちゃなんねぇ。誰にも今の自分を見せたく無いに決まってる。
今、俺が近付けば、アイツのプライドはズタズタになるだろう。アイツをこれ以上苦しめちゃなんねぇんだ。

けどな……俺の胸で泣けよ……本音はそうだ。






再び『カチャ』っと音がした。
腰掛けたままでゾロが顔を向ける。

「終わったのか、検査?」

「おっ!異常無しだ。…ナミは?」

「電話かけに行った。テメェの兄貴んとこだ!……お前も一本連絡入れとけっ。」

「……何でだ?」


多分ナミは連絡しちゃいねぇ……。


「…心配してんだろっ!声聞かせてやれよ。」

「おっ、わかった。」

ゾロはゆっくり立ち上がり、ルフィを見つめる。

「……帰るか?なら、ナミ呼んで…」

「ルフィさんっ!何で置いてくんですか?」

先程とはうって変わり、あどけなさの残る顔に膨れ面を滲ませ、蒼い髪の女性がルフィに甘えた様子で近付いて来た。

「先生のお話、ちゃんと最後まで聞かないと駄目じゃないですか?」

ルフィもまた、気心が知れた態度で応酬する。

「ビビが聞いてたから、いいじゃねーか…どーせ、分かんね!」

甘い空気を漂わす二人の会話を押しとどめる為に、ゾロが口を開く。二人には、
そのつもりが無いのは分かってはいるが、かもし出される親密な匂いに苦痛を感じ、ナミの前に晒す訳にはいかないと一種強迫観念に囚われていた。

「コイツにゃ、無理だ。」

「あっ!……は、はじめまして…」

「ゾロだ…」

「私、ネフェルタリ・ビビと言います。お噂は……」


「ナミよっ!よろしくね。」


突然沸いて出たナミに、視線が集中した。ゾロの背後から覗き込む形で声をかけたナミは、少し引きつった笑みをその口許に称え、それでも明るく振る舞っている。
深く傷付いた心を拒むかの様に。

「あっ!ナミさんですか?お会いしたかったんです。ルフィさんから、素敵な方だって伺ってて…私こそ、よろしくで……」

おもむろにルフィが割って入る。

「なぁ〜帰ろうぜ!」

「そうだな。立ち話もなんだ…送るから、車ン中で話せよ。」

精一杯の虚勢を張るナミの姿に、ゾロの意識は釘付けになっていた。
此処を離れた数分の間に何を決意したのか、その顔は笑顔を見せてはいたが、隠し切れぬ緊張感を含んでいる。それを窺い知るのは、ゾロだけかもしれないが。



駐車場迄の道のりは、前を行くルフィに寄り添う様に歩くビビと、彼を挟んで数歩分幅を開け並行するナミを後方から見つめるゾロ……おかしな道行きだった。

ゾロの運転する大型の四駆に到着すると、何の異を唱える事なく自然と後部座席にルフィとビビが乗り込んだ。
いつもなら助手席に乗りたがるルフィが、後部ドアを開けビビをエスコートする。笑顔で乗り込むビビと無垢な顔ではしゃぐルフィを、息を飲み見守るナミの横顔を目の端に捉えゾロは、

「ナミ、ナビしろよっ!」

「…当たり前でしょ!アンタに任せたら、朝になっても帰りつけないわ。」

「そうだなっ!ナミたのんだぞ。」

ルフィが調子に乗って、相槌を打つ。

「テメェらいい加減に…」

「なんでもいいから、乗るわよっ!」

「なんでもじゃねぇ……」

ナミがゾロの手を取り、車へ促す。ほんの一瞬触れた華奢な手が、震えているのに気付き、ゾロは後に続く筈の不平を飲み込んでしまった。

「……行くぞっ!」





ルフィの自宅に車をつける。かなり豪華なマンションに一人住まいしている。
謂わゆる『いいところの坊っちゃん』であるルフィは、普段の並外れた言動からは考えられないが、実家の経営する会社内でも一目置かれる存在だった。

その家の前に停車すると、車からルフィとビビが一緒に降りる。

車中ルフィの起こした事故の巓末や普段の馬鹿騒ぎの話題で盛り上がり、かなり打ち解けていたので、ゾロが気を利かせ話しかけた。

「おい、遠慮しねぇでいいぞ。ビビの家まで送ってやるから…」

「ここでいいぞ。」

ルフィが事もなげに返事を返した。
ゾロは意味が分からず、運転席から助手席のナミを挟んで乗り出し気味で再度声をかけようとした。すると、そこだけ太陽が差している様な笑みでルフィが語った。



「俺たち一緒に、ここで暮らしてるんだ!」



「………………?」

すぐ隣にいるナミが、固まってしまう気配を感じた。



「8月に結婚するからな。」



続く言葉を耳にしたゾロは思わず、ナミの膝の上にある手を握り締めた。
そして、呟く。憤りを含んだ声で。

「…聞いてねぇぞ。」

「言ってなかったかぁ? 」

悪びれた様子もなくルフィは続けた。

「お前っ……そんな大事な話……」

「ル、ルフィさん?話してなかったんですか?」

「そうだったけ?……悪りぃ忘れてた。」

本当に忘れていたんだ、コイツは…と納得させる口調だった。

「悪いって、テメェ……」

ゾロの掌の中にあるナミの細い手が、裏返り、ゾロの手を握り返してきた。



「おめでとっ!」



「…ナミ…」

「サンキュー、ナミ!」

「ありがとうございます。」

更にナミの指に力が篭る。

「どういたしましてっ!式には呼びなさいよっ!…ゾロ、邪魔しちゃ悪いわ…帰
りましょ。」

「あぁ……」

「じゃあね、おやすみ。」


惜しみつつゆっくり手を離し、ゾロはハンドルを握りアクセルを踏んだ。


一刻も早く此処を離れよう。
コイツの心が折れてしまわない内に。
独り心置きなく泣ける場所へ連れて行ってやろう。
お前の気持を知らぬ振りして。

……俺に出来るのは、そんな事くらいしかねぇ……悔しいが。



暫く走ると、ナミがボソリと呟いた。

「……知ってたのね?」

ゾロは急ブレーキをかけそうになったが、何とか押し止まり、なるたけ平静を装い言葉を返した。

「何の話だ?」

「ルフィの…」

「結婚の話なら、知らなかったぞ!今、聞いた。アイツもそう言ってた……」

ゾロの言葉を遮る様に、ナミが言う。

「そうじゃないわっ!私が……」

その先は聞きたくない、言わせたくないと、ゾロも矢継ぎ早に言い募る。

「何の事かわかんねぇなっ!俺は、自分の預かり知らぬ話をするつもりはねぇし、興味もねぇ。お前が何を言いてぇのか分かんねぇが、運転に集中させろ…道分かんなくなるだろっ!お前は、ちゃんとナビしてりゃいいんだよ!」

「…いつに無く饒舌ね、ゾロ。アンタ……分かり易いわ。」

「何だとっ!馬鹿にしてんの……」

「ううん、違う。ありがとうって、言ってんのよ。」

「………ナミ?」

助手席にいるナミの顔は見られない…しかし、車内に漂う空気が変わって行くのをゾロは肌で感じていた。

「知らない振りしてくれてるんでしょ?」

「意味が分かんねぇ……」

「もう、いいわ……アンタ、見掛けに因らず優しいから……さっき、手握っててくれたでしょ。嬉しかった。アンタがああしてくれなかったら、私、声も出せなかったわ。」

諦めの境地、否、投遣りな空気…ナミの口を塞ぎたくて仕方のないゾロは、言葉で足掻く。

「俺は、礼を言われるような真似、何もしちゃいねぇ…あれは、ただ驚いただけで…思わずやっちま…」

決然とした声が響いた。

「ゾロ、聞いて!………私、ルフィが好きだった。ずうっと前から。……言わなくても、知ってたのよね、ゾロは。」

最もナミの口から聞きたくない言葉が、発せられてしまった。
認めなければならない事実を呈示され、ゾロの中で結末が見えた。
決して自分へ向く事の無いナミの心が、厳然たる事実として認識させられた瞬間。
そして、覚悟を決める時でもあった。


お前を失いたく無いばかりに、お前の欲する幸せに手を貸してやれなかった。このナミの言葉は、醜い自分への戒めなんだろう。


「……………済まねぇ。」

「何でアンタが謝るの?」

「力に……なってやれなかった。」

切ない衝撃に一番動揺しているであろうナミが、未だ毅然とした態度でゾロを慮る。

「誰がそんな事頼んだ?私、そんなつもりはないわよ。そんな、そんな情けない事。……それでも悪いと思うなら、今夜一晩一緒に居て……お願い、ゾロ。」

ナミに対する懺悔の気持ちが、ゾロに決意をもたらした。


「……解った。」


お前が望むなら、俺の想いを封印しよう。
仲間として、お前に寄り添っててやる。
罪深い俺自身への、これは罰だ……そうしなきゃなんねぇ!


済まねぇ………ナミ。




2へ→


(2006.04.28)

Copyright(C)CAO,All rights reserved.


戻る
BBSへ