「……もう、止めだ。」

「ゾロ?」

ゾロはナミに覆い被さっていた体を、無理矢理引き剥がした。
止めど無く溢れる欲求に、これ以上流される訳にはいかない。自分自身を抑える自信が無い。
心底欲する女を目の前にして、苦渋の決断を余儀なくされていた。

「何で?忘れさせてくれるんじゃないの?どうして止めるのよ…」

「自分を誤魔化して何になる?今のお前に必要なのは、俺に抱かれる事じゃねぇだろっ……」


これは、自分への言葉か?傷付いた気持ちに漬け込んで、あわよくばそのままモノにしてしまおう…薄汚い俺を肯定したくねぇんだ。今更だが。





いつも隣にいるから  −2−

CAO 様

 

ナミのアパートに車を乗りつけ、ゆっくりと二人で階段を上がって行く。時折触れる肩先が、何故か気恥ずかしく少し距離を開ける。すると、いつも通い慣れたナミの部屋への階段が、別の場所へ続く様な気がして、浮遊感に近い違和感をゾロは感じていた。


緊張……してるんだな、俺は。何を今更、16の時から二人っきりになるなんて数えられない程、コイツの部屋で眠った事も。
けど、今日は違う。


ナミが震える手でキーを差し込むと、幾つかの鍵同士がぶつかり合い、カシャカシャ鳴っていた音が多少緩和された。
カチャリと音を立て、ドアが開く。
先を促されゾロは部屋に足を踏み入れた。勝手知ったるナミのアパートに。
暗い中真っ直ぐ奥へ進み、電気のスイッチに手を伸ばす。いつの間にか体が憶えている行為。
いつも通りソファの定位置を目指し、足を運ぼうとした時、背中に衝撃がもたらされた。ナミに因って。


「………ゾロ。」


ほぼ不意打ちに近い状況で、自分の背中にナミの重みを受け、全身に緊張が走る。と、同時にある種の欲望がジワリと頭をもたげた。

「ナミ……お前。」

「今夜は此処にいてくれるんでしょ?」

背中からゾロの正面に移動し、その華奢な腕を襟元に絡めナミは更に問いかける。

「ベッドへ連れてってくれないの?」

その問いは誘う様な言葉でありながら、その表情は妖艶とは程遠い必死の形相だった。


「…………。」


お前が望むなら……いや、俺自身が望んだ事だ。ずうっと前から。

ただ、こんな形を望んでいた訳じゃない。

ルフィの結婚を知り、悲しみに暮れ、現実逃避の為の代償として……なんかを。
俺が真実欲しいものはここに無く、お前の心は何処までもルフィの元にある。

それでも……


「ゾロ!」

ゾロはナミの体をその両腕でスッポリ包み込み、オレンジ色の頭を胸に引き寄せ、唇でその髪にひとつキスをした。
そのまま両腕の位置を変え、腰を少し落としナミを抱き上げ、ベッドのある奥の部屋へ運んだ。
ナミも一切の抵抗を見せず、体を固くしたままで身を預けていた。

壊れ物でも扱う様に、優しくベッドに横たえられたナミは、一度祈りに似た眼差しをゾロに向け、静かにその瞳を閉じた。

戸惑いながらゾロが手を伸ばす。頬に触れ、ゆっくり一撫でする。

「忘れたいの……忘れさせて、ゾロ。」

「…あぁ。」

腰掛けていたベッドから、ナミに覆い被さり額に口付ける。そして、唇を目尻に移動させ………



高鳴る心臓の鼓動で、ゾロ自身にその欲望を知らしめていた。
ナミの体を洋服越しだが、縦横無尽に手を伸ばし撫で回し、唇で喉元や耳に口付け欲して止まぬ女を味わっていた。


叶わぬと思っていた……手に入れる事を望み続けてきた。
愛しくて、切なくなるくらい欲して……今、目の前にあるナミの全てが、俺のモノになろうとしている。
信じられない幸福と悦楽が……


ナミの唇にキスを落とそうと、ゾロが喉元から顔を上げる。想う女を覗き込んだ。
その時ナミは、固く閉ざしていた筈の瞳を開け、一心に壁を見つめていた。
見つめるというよりも、其所に貼られた一枚の写真から目を離せないでいた。


『三人で写した写真』


満面の笑顔のルフィ。
真ん中で嬉しげに微笑むナミ。
その隣で仏頂面のゾロ。


やっぱり、俺じゃ駄目だ……。







ベッドから立ち上がり、ゾロは話し続けた。

「……第一、抱かれてても、何ひとつ忘れちゃいねぇだろ。」

「そ、それは…」

「そりゃ、俺が下手くそだってのもあるけどな……今、お前を抱いたところで、お前の癒しなんかにゃなんねーのは事実だろ?」

苦笑い気味のゾロは、自分の言葉に傷付いていると感じていた。

「で、でも、忘れたいの…」

「だから、忘れる必要なんかないっ!…ちゃんと受け止めろ。逃げてんじゃねぇよ……お前らしくない。」

「私らしいって何よ?」

「解決方法を必ず見つけるだろっ?いつだって、どんな時だって、お前は。違うか?」

これまで押し隠してきた感情の一部が、ナミの顔に姿を見せ、悲痛の色を走らせる。

「でも、これは…ルフィはビビと……ムリよっ。」

「あの二人から目を反らして、自分の気持ちから逃げんなっ!」

ナミはゾロの腕を掴み、少し潤み始めた瞳で見上げ、震える声で語る。

「…だってどうしようもないじゃない。私はただの友達でしか…」

その様子を見て、ゾロは後押しする言葉を続けた。

「それでいいんだよ。吐き出しちまぇ、気持ちを……お前は、自分の頭ん中だけで完結させようとし過ぎなんだ。」

「だって、結果は見えてるのに…何を言っても無駄じゃない?」

「無駄じゃねぇ!お前は特に本心を隠したがるだろっ?…時には箍を外して、気持ちを表に出しちまえ。」

「そんな事…」

「出来ないってか?やれるさ、お前なら……泣きゃいいんだよ。泣きたいくらい辛れぇんだろ?」

「何で……解るの?」


俺も同じだから…


「……仲間だから。」


そう言うしかねぇだろ。
お前がルフィを想う様に、俺もお前だけ見てきた。
だから解る…なんて、今傷付いているナミに聞かせられる程、俺は図々しい男じゃねぇ。
いや、勇気がねぇだけかもな……

「見られたくねぇだろ?俺は帰る…ゆっくり泣いたり叫んだり、心行くまで暴れりゃいい…」

青ざめたナミの顔色に、一瞬朱が走り、続けてたどたどしい言葉を発した。

「約束……忘れたの?」

「…………?」

何言ってンだ。

「今夜は一緒にいてくれるって。」


今更抱ける訳ねぇだろ?俺がどんな気持ちで、止めたと思ってんだ!
……抜け殻のお前を抱くのは、行きずりの女抱くのと訳が違う。肉体的欲求に負け抱いたとしても、そこに残るのは、心を手に入れられぬ苦痛だけだ。俺はそれに耐えられる自信がねぇ。


「だから、それは出来ない…」

「そうじゃないわ。……私一人で泣くのは、嫌や。」

頭を大きく振りながら、縋る様な茶褐色の瞳が揺れる。

「ナミ。」

「仲間なら、ここにいてよ。」


そうだ。仲間だったよな。俺達は、今までも、これからも。



「……あぁ。いてやる。テメェが笑える様になるまで、ずっと隣にいてやるよ……仲間だからな。」


ゾロは去りかけた体を翻し、ナミのベッドに座り込む。
隣で寄り添う様にナミの手を取ると、優しく握り締めた。

自然にナミは握られていないもう一方の手を、ゾロの胸に寄せ頭をもそこに埋める。


「ゾロ…………」


最後に呟き、その後聞こえてきたのは、慟哭だけだった。
いつまでもいつまでも、その声は部屋に響き、ゾロの胸にも響き続けた。







翌朝、ゾロはルフィの自宅へ向かった。
確かめなければならない……そんな衝動にかられ。



昨夜、ナミの部屋で一晩中泣き続ける彼女に寄り添い、震える体を抱き締め続けた。
悲しむナミを労る内に、様々な思いがゾロの身を齲んだ。

なんでルフィはナミを悲しませる?
ナミが好きだと言ったじゃないか?
まさか俺の気持ちを知って身を引いたのか?
…有り得ねぇ、ルフィに限って。
じゃ、なんで結婚なんて大事な話忘れた?俺達に知らせない?……仲間だろっ?
仲間なら尚更、ナミの心ズタズタにするなんて赦さねぇ!アイツから、最高の笑顔を奪いやがって…アイツを上機嫌にさせるのは、ルフィの役目じゃねぇか?……アイツの笑顔は最高なんだ。例えそれが、俺以外のヤツの手でもたらされたとしてもだ!……あの魔女が幸せそうに笑う顔は、正に値千金で、こっちまで幸せになる。俺はそれを見てるだけで、良かったんだ。
返せよルフィ、アイツの笑顔を!



八つ当たりに近い怒りを、ルフィにぶつける為、ゾロはインターフォンを押す。
昨夜泣き疲れ眠ったままのナミの姿を胸に秘め、彼女に笑顔を取り戻せるなら我が身を棄てる覚悟を決めて。


『ピンポーン』


暫く待つが、反応は無い。
少し苛立ちを込め、再度インターフォンに手を出そうとすると、

「…はいっ?…あっ、ミスターブシ…じゃない、ゾロさんですね。い、今開けます……ルフィさんっ、ルフィ…」

ビビが出た。

解っていた筈だった。

昨夜、二人を此処まで送って来たのは、自分だ。

知っていたのに、完全に失念していた。


内側からセキュリティロックが外され、自動ドアが静かな音を立て開いて行く。
そのドアに引き込まれる様に、ゾロが足を踏み入れる。
ぼーっとした頭で、正面のエレベーターのボタンを押し、最上階のペントハウスへ向かう。
これも、体が勝手に覚えた仕草の一つに過ぎない。

気付くとゾロは、エレベーターの出口から直接玄関に繋がる、ホールスペースに立っていた。

足元からの淡い燈火に包まれ、自分が此処を訪れた目的を失いかけていた。


ビビが此処にいるんだな。
なんて言えばいい?
彼女には、何の非も無い。
ルフィに言いたいだけなんだ。

だが、彼女の前で……


迷い逡巡する内に、逃れられない相手が現れる。

「ゾロさん、昨日はご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。どうぞ上がって下さい。」

「………あ、いや…」

「何してんだ?ゾロ、早く上がれよぉ〜」

眠そうな顔したルフィが、ビビの後ろから現れ、彼女の小さな肩に頭を乗せ、抱き締めながらゾロに話しかけてきた。

「やっ、やだ、ルフィさん…人前で…私、お茶入れて来ますっ。」

可愛らしく頬を染めたビビが、慌てた様子で奥に引っ込んで行った。

「あ〜んだよぉ〜。チェッ!……上がんねぇのか?」

「おっ、あぁ。」


似合いの二人の甘い空気に当てられて、ゾロの中の決意が崩れて行く。


ナミの姿を思い此処まで来た筈だった。
だが、何の非も無いビビを前にして、ルフィに何と問正すのか?
いや、それ以前にナミは、俺に其れを望んでいるのか?
……望んじゃいねぇ。そういう女なら、こんなに惚れたりしやしない…


暫くルフィを見つめていたゾロに、声がかかる。


「来ると思ってた。」


突然、ルフィの瞳に真剣な光が宿る。


「ゾロ、上がれ!」



……逆らえねぇ。

全てを見通す漆黒の眼に見据えられ、何度偽りを読み取られた事だろう。
時に全幅の信頼を見せ、時に真っ直ぐな純真さを見せ、誰をも赦し、癒し……けれども折れない信念と強い意思を持つこの目。

この目に魅せられてきた。
俺も、ナミも。




通されたリビングは十畳以上は十分にある広い空間で、中央にある造り付けの座卓は10人位は軽く座れる程の大きな一本木で造られている。
今までは、リビング全体に細かいゴミや雑誌や菓子類等が散らばり、足の踏み場もなかった。
しかし、今はキチンと片付けられ、部屋の隅には大きな花卉が鎮座し、この季節に似合った桜が飾られていた。
知らない場所にやって来た様な気持ちになったが、それでも何時もの自分の場所に、ゾロの体が自然に陣取ってしまう。

そしてルフィも何時もの場所へ、腰を降ろす。

大木で出来たテーブルを挟み、ゾロの真正面に。

互いに何時もの場所にいる筈なのに、何故だか遠くに感じているゾロは、ルフィの顔を直視できないでいた。


「ナミの話か?」

「……ルフィ、お前?」

一瞬の間を置き、ルフィが続けた。

「やっぱ、そっかー!」

ゾロに緊張が走る。

「……知ってたのか?ナミの事…」

「?……何だ?」

恐る恐る水を向けるゾロに、ルフィの素っ頓狂な返事が戻って来た。

「あ、いや……じゃ、何でそう思ったんだ?」

「勘だっ!」


そうだ、そういうヤツだよっ……テメェは!


「お前なー!そりゃ、理由になんねぇだろっ……ったく!」

「だってよー、何時もそうじゃねぇか!ナミが変な時は、必ずゾロは俺ンとこくんじゃねぇか!だから、ゾロが一人で俺ン家いるって事は、ナミがどうかしたんだって思ったんだ。……違うのか?」


コイツは……


「ナミ、どっか悪いのか?何があったんだ?痛いとこあんのか?」


確かに痛い思いをしてるのは事実だ…


「いや、そういう類の話しでなく……」

ゾロは口にすべきかどうか戸惑い、口ごもりながらも言葉にしようとした。


「ナミさんどうかなさったんですか?」


そこにタイミング良く、ティーカップを携えビビが入って来た。

「な、ゾロ、ナミ病気か?」

「そうじゃ無いっ。」


そうじゃねぇンだ……けど、言えねぇだろっ?今は。


「私達を心配させない様にって思って…」

「水臭いぞ、ゾロ!」

「違げーよっ!……水臭いってんなら、オメェの方じゃねぇか?ルフィ。」

「……俺かぁ?」




その後、三人は他愛も無い話を続けた。

昨夜の事故はルフィの実家のパーティ会場から抜け出し、普段運転しないルフィが調子に乗って車のタイヤを側溝に落としただけで、一緒にいたビビが驚いて救急車を呼んでしまったらしい。
ルフィの語る話はかなりの部分が支離滅裂ではあったが、ビビの気の利いたフォローで大方の概要が掴めた。
かと思えば、一生懸命説明を続けるビビに、横から相槌のつもりでトボケタ話を聞かせるルフィを叱り付ける姿が、余りにも自然で微笑ましく見えてしまう。

それはもう、何年も連れ添った夫婦の『阿吽の呼吸』の様で………


ゾロは何も言えなくなってしまった。


仲間として、ルフィの幸せを願う気持ち。
仲間として、ナミの幸福を望む思い。

ゾロにとっては、二つとも同じモノで、重みに違いが無いと気付かされていた。

ただ、ルフィに感じる思いのベクトルとナミに対するそれとは、大きく異なってはいたが。



気付くと既に昼過ぎになっていた。
ランチをと奨めるビビを制し、ゾロは席を発つ事にした。
これ以上此処に居たとしても、目的を果たせないと判断したからだ。
正確に表現するなら、目的を果たす意思を見失ってしまった。


ビビが手土産を取りに席を外し、ゾロは玄関へ向かっう。

「じゃ、またなっ!」

「ん。ゾロ、ナミを頼んだぞっ!」

「……何っ?」

爆弾発言とも取れる言葉に、ゾロは履きかけの靴を落としてしまい。


「ナミ、元気ねぇんだろ?ゾロが元気にしてやれ。」

俺に出来るなら、今此処にいやしねぇ…悔しいが。


「…そりゃ、ルフィ、お前の仕事だろーが。俺は……お前にゃなれねーよ。」

「ゾロが俺だとキショイぞ。」

「テメェー、キショ……」


フザケやがって!お前になりたくても、成れないから……


「ゾロはゾロだろ!だからいいんだ。」


……何っ!


「ナミはナミだし、俺はルフィだっ!」


「ルフィ?」


「だから、それでいいんだっ!そうだろ?」


クソッ…天然野郎がっ!

だから、俺はテメェに腹が立つンだ。

だから、俺はお前が好きなんだ。

…男同士はキモイって。


俺は俺の方法で、ナミを元気にしろってか。

難しい事、簡単に言いやがる……

俺はアイツを笑顔にさせられねぇが、笑顔になるまで近くで見ててやるよ。

それが俺のやり方だ。

それでいいだろ、ルフィ?


「……お前にゃ、勝てねーよっ。」

「俺のがつえーからなっ!」

「あー、俺が強いに決まってんだろっ!」

「なんだとー、絶対俺…」

「どうしたんですか?二人とも大声出して。」


「「なぁビビ、俺の方がつえーよなっ!」」






車に乗って直ぐ、携帯が鳴った。
ナミからだ。
少しは楽になったか?
礼のひとつでも言うつもりか?
深呼吸して、通話ボタンを押した。

「ゾロ、アンタ何処いんのよっ!傷心の美女ひとり置き去りにして、どういう了見?しかも、鍵も掛けないで…私に何かあったらどう責任取るつもりよっ!全く使えないヤツなんだから。許して貰いたいなら、直ぐ戻って来なさい。私、お腹ペコペコなのよ。置いてった罰として、美味しいランチで手を打ってあげる。だから、今直ぐ迎えにきなさいよっ!迷ったりしたら承知しないわよ、分かった!」

「おいっ、ナミ!ナミ?」


…………………


切れてる……。

あの女っ!
言いたい事言って、勝手に切りやがって。

バカ女っ!
俺を、迷子扱いしやがって。

アホ女っ!
もう……元気な振りしやがって。

ったく!いちいち腹立つけどよ……約束したからな。
行ってやるよ。

今日は休みだし…

桜も咲いてるし…

お前ン家は知ってるし…


……会いてぇし。

けど、飯は奢らねぇ!











桜が散って、つつじも終わり、紫陽花が咲く頃になって、やっとナミは薄く笑顔を見せる様になった。


ルフィとビビの関係を知ってからの彼女は、表面上は良く話し、良く怒り、良く笑って……笑った様な表情をしていた。
ひとつ変わった事といえば、ルフィと会う時は必ずゾロと一緒だという事。

改めて初めて四人で飲んで時は、ルフィとビビが戯れる度に、ゾロの手をテーブルの下でキツク握っていた。
つつじが咲く頃、その力は変わらないもののその回数は減り、紫陽花の頃には緩く戯れるものに変化した。
ゾロが気付くと、瞳はまだ寂しげではあったが、その口許が柔らかく微笑みを称える様になっていた。時折だが。


少しは立ち直ってきたな……。


そう安心しつつも、何処か一抹の寂廖感を持つ事も事実。


笑顔が戻れば、この手は必要無くなる……。


ナミの手が触れて来る度、引き寄せたい衝動と支えたいと願う心の狭間で、微妙に揺れ続ける気持ちをじっと抑えている。



梅雨に入ったある日、ゾロはナミに呼び出され、ルフィの家に向かっていた。
朝から泣き出しそうだった空模様が、ゾロが駅に降り立つ夕刻には小雨に変わる。歩いても五分程の距離と、濡れるのも厭わず小走りに道へ飛び出す。

前方にオレンジ色の頭を見つけ、更に足を速め駆け寄った。

「…ナミ?」

オレンジ色の頭上には、赤い傘が差し出されていて、その傘の下には黒い頭が平行して歩いていた。

ルフィと愉しげに歩くナミは、久しぶりに見る柔和な表情で、左手には自分のモスグリーンの傘をたたんだまま手にしている。


ルフィにあんな顔出来る様になったんだな。
笑顔とまではいかねぇが、いい顔になった……けど、これはルフィの力だな、きっと。
……俺は…


「ゾロッ!」

「何だ?傘持ってねぇのか!」

「大した雨じゃねぇしな…」

「こっち入んなさい。私、傘あるから。」

「いや、いい……お前の傘貸せ。」

「嫌よ。ルフィちゃんと差さないから濡れるんだもん!」

「俺だって嫌だ!男同士の相合傘なんか、気持ち悪ぃだろー!」

「んじゃ、こうする。」

ルフィは持ってた傘をゾロに手渡し、その手でナミの傘を取り上げた。自分はナミの小さな傘に収まり、先に歩き始める。

残された二人は、仕方なく派手な大振りの傘に身を寄せた。


「悪りぃな、ナミ……タイミングが……すまねぇ。」

吐き出した言葉に嘘はない。ただ、折角の笑顔を潰してしまった、自分の愚かさを呪った。

「バカ……この貸しは大きいわよっ!覚えてなさいよ。」

そう悪態を吐くと、ナミは傘を持つゾロの手に腕を絡め、先を促した。

多少驚いたゾロが、彼女の顔を覗き込む。申し訳無さそうな顔して。

ナミは何ともいえぬ可愛らしい笑顔をひとつ見せた後に、

「ほら、ボサッとしてないで行くわよ。早くしないと、美味しいビビご飯、全部ルフィに食べられちゃう。」

「………あぁ。」

それっきり、前を向いてルフィに話し掛けるナミに、心の中ですまねぇと呟き続けた。


ただ、絡められた腕の熱は、解かれた後も中々引かなかった。






季節は初夏を迎え、ナミの誕生日を祝う頃には、かなり頻繁に自然な笑顔を、彼女は見せる様になった。
まだ、何かのキッカケで、ゾロの手を握る事に変わりはなかったが。

不思議なもので、笑顔を見られると嬉しい反面、自分が必要無くなる恐怖も芽生え始めた。
同じ様に握られた手を感じる時、自分に負けるなっ!とナミを励ます思いと、この手を離したく無い想いに苛まれもした。

そんなゾロの隣で、日々明るく眩しくなって行くナミ。
最近では、ビビと二人で出掛ける様にもなった。


「私、ビビみたいに素直になれない……」


そう呟いて、悲しい瞳を見せていたのは、随分前の様な気がする。


あの時俺は何と答えた?
他人になる必要は無い!
自分のままでいろっ!

とか、なんとか。
……全部、ルフィの受け売りだな、と思いつつ。
それは『俺自身への戒め』に他なら無い。
俺はまだ、ルフィになりたがっている自分を否定できないでいる。

……俺は、俺なのにな。



そんな情け無い毎日を送るゾロに、一本の無粋な電話が届いた。



ルフィと二人っきりで、ゾロは豪華なマンションで馬鹿話に興じていた。
結婚式を一月後に控え、ビビは今日もまたナミと出掛けていた。
一人で暇だと呼び出され、ルフィの子守りの真っ最中だ。


「ヤッパリ、ゾロはバカだなー。」

「テメェにだけは、言われたくねぇっ!」

「……!じゃ、大バカだ。」

「!お前……」

「ナミが好きなのに、何で言わねぇんだ?」


何を突然言い出すんだ。コイツ……


「そ、それは……」

「嫌いなのか?」


んな訳ねぇだろ!
けどな、言っていい事と、悪い事がある。
そして、言っていい時と、悪い時もある。
………気持ちが変わらなきゃ、何時かとは。
変わる?
10年近く変わらなかったんだ…今更、変わんねよな。
俺も、ナミも………


「……嫌いな訳ねぇだろ。」

「俺は、前に言ったぞ!ナミが好きだって。」


そんな話、ナミからも聞いてねぇ。


「なっ!………何時だ?」

「?……忘れた。それに、何時も言ってるし。」

「まさか?ビビと暮らしてからか!」

「うん、今日も言ったぞ。」

「お前っ……ビビは?」

「ビビ?ビビもナミが好きだって言ってたぞ。」

「そういう意味じゃねぇ。それより…………ナミは?」

「ナミはな、俺達二人とも大好きだって。すっげー、嬉しそうに言ってた。」


ナミ………。


「お前、アイツの気持ち知ってんだろっ!知ってて、何でそんな事……アイツがどんな想いすると思ってんだよっ!」

「知らねぇ。」

「何だとっ!」

「俺はナミじゃねぇから、分かんねー!ゾロは、分かんのか?ナミじゃねぇのに。」


分かんねぇ、わかんねぇけど……


「…………糞っ!分かんねぇよ。けどな、アイツがどんな気分になるかくらい、察しは付く。アイツは…」

「俺が好きなんだろ?俺もだ!ナミが一緒に死んでくれって言えば、死ねるぞ。」


そんなに、大切に思ってんなら、何でっ!


「!……だったらなんで、ビビと一緒になんだよっ。」

「だって、ビビは死んだら嫌だから、俺が守るんだ。ビビが死にそうな時は、俺が代わりになるんだ。だから、一緒に居ないと、マズいだろ?」


ビビの為なら、命投げ出すって…
それくらい、ビビを幸せにしたいって…


「バカヤロウ……それ、知ってんのか?ナミは。」

「うん、ナミもビビも。」

ゾロはルフィに掴みかかる。
憤りと怒りと羨望と…あらゆる思いが、ゾロの中で渦巻いて、体が勝手に動き出していた。

「テメェー、なんて事…」


なんて事ナミに聞かせやがるっ!
アイツがその言葉、どう受け止めたと…
その時のナミの衝撃を思うと……
ナミ、ナミ、ナミ……


「何怒ってんだ?ナミ、大笑いしてたのに…」


殴り付けようと上げた拳が止まる。

「大笑い……だと?」

「あぁ、『アンタらしいわっ』って、大爆笑された。そんなに、変なのか?なあ、ゾロ、俺らしいって、何だ?」

「……知るかっ!」


大笑いって、大爆笑って、何だ?

苦笑ならまだ分かる…

もう、平気なのか?

否、そうじゃない。

あの手は未だ、俺に延びて来るじゃねぇか。

平気な振りしてるだけだ…

けど、それが本当なら、もう隣に居る必要はねぇんだろうな。


掴んだ手を外し、ルフィからゆっくり離れ、「すまねぇ」とゾロは呟いた。

「なんだよぉ〜ゾロ。何怒って……………あっ!」


コイツはまた、ロクでも無い事思い付きやがったな。


「俺、ゾロと一緒に死んでやるぞっ。」

「要らねー!……俺の為に誰も死んだりして欲しくねぇ。当たり前だろ!死ぬとか、簡単に口にすんじゃねぇよ、アホ!」

「なんだよっ!好きって、言わなかったから、スネてんだろっ?」

「ちげーよ!…ったく。俺は、ただ………ナミが笑ったんなら、別にそれでいいって、そう思っただけだ!」

「ゾロには、笑わないのか?」


笑う……口許はな。でも、あの茶褐色の瞳には、薄い紗が掛ってて、俺が一番見たい無垢の笑顔じゃねぇ。
俺には、その顔を作ってやる力は無い。
それが作れるのは……


「そんな事ねぇが…」

「ゾロが好きって言わねぇからじゃね?」

「あ?……そりゃ、関係ねぇよっ。」

「そっかぁー?好きって言ったら笑うぞ!」


そんな、簡単なモンじゃないんだ……アイツの痛みは。


「ウケる為に、んな事言えるか!」

「でも、好きなら言わないと駄目だ!そうしないと、伝わらねぇ。」


伝わらないか……伝えちゃなんねぇ。
俺の想いは、今のアイツには………重い。



「好きとかじゃねぇから……それより、もっと……大切なんだよっ!だから、言う必要がねぇ。それだけだ。」


「ふうーん。」


分かってねーな。


「好きって言や、笑うのに。」


俺が言うと、折角立ち直りかけたナミが、辛くなるんだよ。


「笑って欲しいんだろ?」


アイツが笑う時が、隣に居られなくなる時なんだ。


「ナミ、笑うのになぁー。」


そうか、笑うのか……。



「お前らの結婚式で、笑ってたら……俺は、それで十分だ。」



ルフィ、俺もお前とおんなじだ。アイツが幸せになるなら、どんな犠牲も厭わない。

ただ、方法が違うだけだ。

お前は、自分の手でビビを。
俺は、見守る事でナミを。

互いに幸せにしたいと思ってんだ。

……アイツが心からお前達を祝福出来る様になったら、俺は……



「「ただいまっ!」」


その後続くきゃあきゃあと言う黄色い声に、二人が帰って来たのだと解ったゾロは、ルフィに釘を刺す。


「サッキまでの話は、他言無用だ。いいな!」

「なんでだよっ!別に悪い話じゃねぇだろ?ナミに……」

「必要と判断したら、俺が自分の口で話す。ただ、それは今じゃない。…………必ず。」





アパートに戻ったゾロは、今日のナミの様子を思い浮かべた。
確にルフィが言った様に、彼女は笑っていた。
ルフィの行動に、ビビの話に……。
ただ、あの二人が寄り添う度に、隣のゾロに手を伸ばしてきた。
以前程の力では無いが、そっと縋る様に……瞳に紗を掛けたまま。


まだなのか?ナミ、俺はもう堪えられない。
触れ合える距離で、本心で触れられない事に……。
もう、これ以上。


灯りの無い室内で、携帯電話の光が明滅する。
息を整え、ゾロは話し始めた。




←1へ  3へ→


(2006.04.28)

Copyright(C)CAO,All rights reserved.


戻る
BBSへ